ストレンジャー・イン・ザ・ナイト





 駅の構内放送がひっきりなしにかかっている。
 私はその男と福生駅のホームでたまたま目を留めあい、話しが合ってそのまま同じ列車に乗り合わせることになった。男は出張で名古屋に行く途中だった。

「もう7年になるかな」

 男はあごひげの剃り跡を撫で、窓の外に視線をやってから戻した。ホームは相変わらず人々があわただしく行き交っている。目に付くのは外回りのサラリーマンと、それから夜が仕事をする時間と思われる女たち、若い者もいれば年かさの者もいる、そんな人間たちのただの経費に過ぎないだけの時間と、ひとときの休息のための時間が交錯しながら流れている。

「よく私だってわかったね」

「そりゃあ、小さい頃からずっと世話をしていたからな」

「赤ん坊のころのことだから、大きくなったらわからないかと思っていたよ」

 男はスーツの上着を脱いで座席の背もたれに掛けた。ワイシャツの胸ポケットに手をやり、煙草を取り出そうとするが連結通路上の掲示板に表示された禁煙車だという文を見てやや気まずそうに手を戻す。

「目だよ」

「目?」

「お前は目が特徴的だったんだ、赤ん坊の頃からずっとな。だからわかったんだよ」

「よく言われるんだよ、あんた目つき悪いって、そんなにかなあ」

「いや、凛々しくていいと思うぞ俺は」

 お互いに苦笑する。やがて出発を告げるアナウンスがあり、数十秒ほどの間をおいて車両の床下に設置された十数基もの巨大なモーターが全力で数百トンもある鉄の塊とそれに積んだ人間たちの質量を動かし始める。回転数と荷電流の上昇していく高周波音にしばし耳を傾け、そしてまた話しを再開する。

「母さんの若い頃によく似てる」

 男はそう言ったが、私はそれに苦々しさを覚えてかすかに顔をしかめる。この男には私が母さんを嫌っている理由がまだ、わからない。だから教えてやらなければいけない。

「つうことは、私も歳食ったらあんなババアになるってことね」

 私は流れていく窓の外の街の景色を眺めながら、吐き捨てるともつかない言い放つともつかない微妙な加減でその言葉を放った。男は一瞬驚いたような表情を浮かべたがすぐにそれは愛想笑いに変わる。
 今さら愛想振りまく理由もないでしょ、もう愛想尽きたから出て行ったんでしょ、そう付け加える。
 レールの継ぎ目が車両をかすかに揺らす。
 男はしばらく苦そうにしていたがやがてポツリと話しだした。

「正直な、俺もついていけないって思ってたんだよ」

 男の話しはおおむね私が想像していたとおりだった。
 知り合った頃から、結婚した頃からすでにあのとおりだったらしい。若いころは見た目の可愛さだけに憧れてしまうもんだから中身まではわからなかったと言ったので私がじゃあ中身がよかったら離婚してなかったの、見た目が悪くても中身がよかったら結婚してたのと訊いたらさらに困ったような顔をしてどっちもどっちだよ、さじ加減だよ、あんまり酷いとそりゃ考えるけど、たいていの男は可愛い女の子と付き合いたいって思ってるだろうよ、いくらなんでもよっぽどの物好きでない限りは、あまりにも不細工な女を連れて歩きたくはないだろ、と小さく言っていた。

 列車は市街地を抜け、周りに田んぼや畑が目に付くようになる。はるか向こうには穂高連峰の山々が万年雪を頂いている。

 私は学校の制服のまま遠くまで来すぎてしまったことに気づいたが今さら列車は戻らないし、途中下車しようという気も起きなかった。このまま名古屋までまっすぐ行く。私たちのすぐ後ろの席にはたぶん町内の婦人会の旅行か何かだろう、中年のおばさんの団体がいてうるさく世間話しに花を咲かせている。

「俺がもうちょっと甲斐性あればな」

「今さら謝ることでもないでしょうに」

 菓子売りの女がカートを押して通り過ぎて行った。さっきのおばさんの団体のひとりが呼び止めて、じゃがりことうまい棒を買ってみんなに配っている。

「でもたしかに金銭感覚がおかしくなってたのは事実だよ、俺はろくな学歴もなかったし仕事の役に立つような資格とかも持ってなかったから、身体張った仕事しか出来なかったんだよな、それで工事現場のガードマンの仕事を日雇いでやって手取りが月15万とかそこらだったんだよ」

「身体張った仕事っていっても母さんも同じだよね」

「それなんだよ、男と女でこんなにまで違うのかって俺も愕然としたしな、俺が毎日ずっと立ちっぱなしでへとへとになって15万なのにあいつは毎日のように予約入っててそれで月150万だぜ、そりゃあ俺もさすがに気まずくなるよ、俺ひとりの稼ぎじゃひとり暮らしが精一杯だったしな、なんだかんだであいつにはかなり貢がせちまったよ」

「今はどうなの?」

 父さんと母さんでは父さんの方が年下だ。

「あれから鹿島建設に行ったんだよ、ガードマンやってたころの知り合いの伝手でなんとか頼み込んで入れてもらって、クレーンのオペレータの資格を取ったよ、それでなんとか人並みの収入は得られるようになったな、新箱根湾の埋め立てにも行ってたし」

 セカンドインパクトで海面が上昇したため、海岸部の都市は水没した土地を取り戻すための干拓工事が盛んだ。それはセカンドインパクトから40年近くが過ぎた今でも続いていて、たとえば新箱根湾は茨城埼玉方面と第2東京方面の両側から埋め立て地ができていって当初は真円に近かった新箱根湾は現在ではいびつなひょうたんか半円のような形になっている。おかげで現在の日本では建設業がもっとも景気がいいといわれている。

「結婚する前から同棲はしてたんだよ」

「そうなんだ」

「でもあいつは仕事が夜だろ、だからお互いの時間が合うこともなくってな、あいつもしょっちゅう客と延長だとか言って帰ってこないときもあったし、たとえば俺が仕事上がって家に電話しても出ないから携帯にかけてみたらこれから予約入ってるとか言うんだよ、そしたら俺もまあがんばれって言うしかないじゃないか、そんなんだから家に帰ってもひとりだし、俺もまだ若かったからな、浮気しようなんて思ったことも何度あったかしれない、だけどそんなときにあいつが妊娠しちまって」

「それで結婚して私を産んだの?」

 いいや、と言って父さんは首を横に振る。私はかすかに身体から血の気が引いていくのを感じていた。

「じつはだけどな、お前を産む前にあいつ一回おろしてるんだよ、しかも俺に黙ってな、わけを訊いても答えてくれなかったし、なんだかんだで1ヶ月近くは口利かなかったなそれがあってから、それで1ヶ月経ってからあいつは言ったんだよ、誰の子かわからないから産めないってな、妊娠させちまったからには俺が責任取らなきゃなんねえだろうなって思ってた矢先にそれだぜ、それで俺も頭にきて実家帰るって言ったらあいつもわたしも行くなんてすり寄ってきやがるんだよ、まあ実際のところは子供産んだら仕事が出来なくなると思ってたからなんだろうけどな、で俺も正直あいつの稼ぎに依存しちまってたこともあってそのままずるずると同棲生活は続けていったわけだ」

「その頃から金遣いは荒かったんだ」

「まあな、でもそれに見合った収入はあったし、ホストクラブなんかに行っていい感じになって朝帰りなんてされたら俺もその間にソープにでも行こうかって話しになるだろ」

「母さんはソープじゃなかったの?」

「あいつはSMクラブだったよ、だから客もマニアックなやつが多いし金持ちの割合も多いからな、俺らみたいな庶民には手の届かないところだったよ」

「そういえばそんなこと言ってた」

「自分から話したのか?」

「ぼかしてはいたけどね、わかるよ、私だってもう子供じゃないんだしね」

 母さんの仕事仲間でクミという若い娘がいたそうだが彼女は先輩に連れられて初めて行ったホストクラブでアフターに入ってからさんざん呑まされて酔い潰された挙句に輪姦されたという事件があったそうだ。その話しを聞いたときに父さんはさすがに危ないから止めろと言ったそうだけれども母さんはそんなの自己責任だの一言で片付け仕事は続けていた。一度はまると抜け出せなくなってしまうのかもしれない。そしてそれは私も同じだ。

「そうそう、母さん再婚することになったんだ」

「本当か」

「うんそれでね、なんか群馬のリゾートホテルで働けることになったから借金返していけるとか喜んでんのよ、でもその再婚相手ってのが自営業なのね、そのホテルの再建を任されたっていう、だから私は資金だけ搾り取られて終わりだと踏んでるんだけどね」

「もう仕事は辞めたんだな」

「さすがに歳だし身体もダメんなってきたのを自覚したんでしょ」

「でも酷いとこになると四十、五十のババアつれてくるデリヘルもあるぜ」

「それはそれでしょ」

 とても親子の会話とは思えない、だけどそれでいい。もう離婚したんだから、私と父さんはすでに親子ではない。ただの中年オヤジと少女、それだけだ。

「その話しの流れでぽつっと漏らしてたんだけどね、なんで離婚したんだって訊いたら男の人の気持ちも難しいものがあるだの言うのよ、もう馬鹿じゃないのって」

 ただの馬鹿でもないとは思う。馬鹿なだけの人間には、サービス業の一種であるはずの風俗嬢など務まるはずもない。だけど風俗嬢という人種を取り巻くさまざまな男たち、女たちの普段は抑圧されている道徳を逸脱した性癖、欲望の渦や精神の闇を見せられてそして自分もそれらをさらけ出してきて、そんな中で自分の心までもがゆがんでいったことに自分自身でも気づくことができなかったのだろう。風俗嬢として生きるということはどれだけ自分を剥き出しにできるかということなのだと、私は思っている。
 蝋燭やバイブやムチや浣腸などのスタンダードな道具を使うのはまだいいほうだ。中には爪で顔をかきむしってくれなんて言うやつもいる。私もそのためだけに爪を伸ばしたりした。クリスマス前のある日曜に取った客は私が付き合ってきた中ではいちばん若くてたぶん二十代だったと思うのだが彼はロープで首を吊るから死にそうになったらぎりぎりで支えてくれと私に頼んできた。私は彼の言うとおりにしたが少女の腕力では大人の男を支えきれるはずもなく彼は私が本当にぎりぎりでとっさに台所から持ってきた包丁でロープを切ってやると床に崩れ落ちて激しく咳き込みながら昼間に食べたチンジャオロースーと黄色い胃液を床に撒き散らしていた。脱糞と失禁もしていて私は彼の身体を洗うのを手伝ってやろうと思ったが彼はそんなことされたら余計惨めな気分になると言って激しく断ったので私はそのときようやく彼がもてない男でこうやって金で女を買うしか触れる機会がないのだと気づいたがそう気づいた瞬間に彼への哀れみが憎しみを内包した愛情に変わっていくのが感じ取れて、それなら本当に付き合ってあげてもいいよと言ったけれどマナからのめりこみすぎるのはダメだと窘められていたのでもちろん本気ではなかった。彼は大学時代からインターネットを使った株取引きで稼いでいたいわゆるデイトレーダーだったのだが、仕事の情報を集めるのも実際の仕事をするのもすべて在宅でできてしまうため外に出ることもなく半ば対人恐怖症のようになっていた。そんな彼がやっとの思いで声を掛けた女の子が私だった。たまたま彼の目に留まったのが私だったのだ。私たちはその点では運命に感謝しなければならないだろうしまた、同時に運命を呪わなければならないだろう。彼も私が本気でそう言っていたわけではないと気づいていたのだしだから私を断ったのだ。騙されていたなら私は今ごろ彼の部屋のベッドの上にいるだろう。そして、私の心は満たされることはない。心を満たすのはただひたすらな自己陶酔とその悲しみだ。マナは言っていた。本気になるってのはつまるところ自分を壊すことなんだと、相手と自分の心が一致しないのは当たり前だからそれに耐えるってのがすなわち人間関係なのだと。それに耐えることができるか?耐えられなければそれは本気にはなれないってこと、同時に心の痛みを和らげる方法でもある。逆に私は思う、本気でなければそれは相手をその程度だとしか見ていないということ、本気になるということはすなわち私が意識を完全にあの生き物に委ねてしまうように、女優が本当に役柄に没入するように意識の中から私という存在を消してしまうことなのだと思っている。そうしなければ相手にはちゃんと伝わってしまう。もちろんそれに騙される男は馬鹿だとは思うが、小学校時代からの悪友、中学校になってできたセックスフレンド、そして基地で知り合った外国人たち、彼らと付き合っていく中で生まれた私という人格がそうやってできているのだと思う。

 ウィルは横田基地からハワイは真珠湾基地の航空隊に転属となり、空母オーバー・ザ・レインボーに乗ってハワイまで行くという。ジャクソンも艦載機の整備士として、ドミニクも艦医としてそれぞれ乗り組みが決まった。さすがにあの事件が尾を引いて基地側としても放っておけないということになったらしい。特にドミニクは第2東京郊外の学生たちに薬を売っていたということもあり、彼を通じて入手していた薬がなくなるとシノギに関わるとジュンヤさんはすこし焦っているようだった。なんでまたそんなことになったんだと訊かれてケイたちとの訣別を伝えるとそうかあいつか山城のオヤッさんとこの姪っ子かと難しそうな顔をしていた。ジュンヤさんが面倒見をしているスカウト会社社長の山城ジンという男の姪にあたるのがケイなのだそうだ。親戚にそんな金持ちがいるのなら援助をしてもらってもいいのではないのかと思ったけれども彼女はそんな施しに甘んじるような人間ではない、それは今までの私に対する当たり方を見ればわかる。
 来週第2新横浜港を出航するから気が向いたら見送りに来てくれとウィルからメールが届いていた。オーバー・ザ・レインボーはセカンドインパクト以前から40年の長きにわたって就役している国連軍太平洋艦隊の旗艦で、セカンド・サードの両インパクトを生き延びまた使徒戦役でも活躍した武勲艦だ。馴染みの兵士たちがいなくなったのでロクサンヌはこれからちょっと寂しくなるねと言っていた。私としてはアリシアに会えなくなるウィルのほうが心配だ。彼はアメリカ人にしては内気で鬱傾向にあり、恋人で直属の上官でもあるアリシアのためにがんばるという意気込みでこれまでやってきたのだという。戦闘機パイロットになれたのだからよほどの努力があったのだろう。高校時代、鬱で苦しんでいた時にもずっとそばにいてくれて助けてくれた親友だというドミニクがいっしょなのでなんとか大丈夫ではないだろうか、ともかすかに期待する。アメリカはセカンドインパクトの被害をまともに受け、今や世界一の超大国の座を日本に譲り渡し復興途上国に片足を突っ込んでいるが、それでも残された軍事力だけはいまだに世界一の座は揺るがずもはやこの持て余し過ぎた軍備に頼るしか国家として立ち行く方法がないのだ。一度ひとりでウィルの部屋に行って寝た夜、彼は私に語ってくれた。俺は馬鹿で精神を病んじまって、人間として欠陥品の烙印を押されてたんだよ、アメリカは今とっても貧乏で俺みたいな出来損ないがまともに生活していける口がないんだ、だから働くには俺みたいな馬鹿には軍隊しかなかったんだよ、鬱病になってからな、どうしたら本物の男になれるんだろうって考えた時にアリシアが現れてくれたんだ、彼女のおかげで俺は生きていられるんだ、ドミニクもだ、兵学校でも同期だったしずっと親友なんだ、俺のことも理解してくれてるかけがえのない親友なんだ、私を抱いた熱が冷え切ってしまうまで、彼は裸でベッドに座り込み訥々と語り続けていた。
 そんなことを思い浮かべている間に会話はいつしか途切れ、私たちは黙ったまま電車のかすかな揺れに身を委ねていた。

 岐阜県を越え、列車は南へ向かって名古屋市に着いた。父さんはこれから名古屋支店に挨拶に行き、それからビジネスホテルに泊まるという。今回の仕事は伊勢湾に新たに建設される空港の工事だそうだ。大阪には関西国際空港があるがこれもセカンドインパクトによって打撃を受けたため今でも空港機能はかなり低下したままだ。

 列車から降りた私たちは人の波に紛れないように、私は父さんの腕をとる。

 父さんはやや恥ずかしそうに、お前も年頃なんだからあまりべたべたするなよと言っていたがじゃあパパって呼べばいいかと訊いたらそれは俺が恥ずかしい、と年甲斐もなく顔を赤くしていた。
 関西方面はどこもそうなのかもしれないが、第2東京に比べると人の歩きがより速い。まわりの人々の顔を見ても誰もが忙しそうに、自分はこれから行かなければならないところがあるのだからよけいなことをするな、見るな話しかけるなというような表情をしている。行かなければならないところがあるのは私たちもだが、それでも私は異邦に紛れ込んでしまった孤独な人間の気分を味わっていた。

「父さんはこっち方面はよく来るの?」

 先週一回来て一泊したけどこれからはしばらくこっちにいるよ、と父さんは答えた。私がいっしょに泊まっていいかと言うと父さんはいやお前も年頃だから、とかなんとか口ごもっていた。

「ずっと独り者だった?」

「いや、第2東京には嫁と息子二人を残してきてるよ」

「再婚したんだ、子供もいるってことはわりと早くに?」

 そんなだから、まあ、なんていうか、父さんはどもりながら言いにくそうに何かをしゃべろうとしている。内容は想像はつく。いくら自分の子供とはいえすでに縁を切った赤の他人の少女と泊まるなんて良心が許さないというのだろう。

「でも正直、いっしょに暮らすなら母さんより父さんの方がよかったと思ってる」

「貧乏だよ」

 それでもいい、あんな女が母親だなんて思うだけで吐き気がする、

 父さんはさすがに平静ではいられないようだったが、衆人環視の中だったのでぐっと拳を握り締めてこらえている。

 私はそのままホテルまでついていき、父さんは一人ぶんの部屋しかとってないから夜になって適当な時間になったら電話で呼ぶと言った。コールガールに化けてしまえばいいというのだ。私が実際やっているのもそういうことだ。不倫をしろというのか?いやそれ以前に近親相姦だ、それも面白いかもしれない。私はホテルのそばの喫茶店で時間を潰しながら電話待ちをし、店に所属して客を取るプロの女もこういった心境なのだろうかと思うとすこし嬉しくなって椅子の下で足を揺らしていたら若いウェイトレスがトレイを片付けながら私のほうを不審そうな目をして見ていたので私は足を揺らすのをやめてまだ湯気を立てているコーヒーを口に運んだ。プロの女たちは店に所属しているとはいっても最後の最後には自分で営業をして客を取らなければならないのだから個人事業主といっしょだ、だから強いのだと思う。

 やがて夜が更けて父さんから電話が来た。私がホテルに行くとフロントにいたすこし歳のいった禿げで眼鏡のホテルマンは私のことをイメクラの女だと勘違いしたようで黙って通してくれた。

 父さんは早くも寝巻きに着替えていた。風呂はと訊くともう済ませたと言った。私はベッドに腰を下ろし、制服のリボンを外してサイドテーブルに置く。

 お互いに何度かため息をつき、私はベッドから立ち上がって備え付けてあったインスタントの緑茶の封をあけて湯を注いだ。ふたつの湯飲みにわけて父さんに差し出す。父さんはありがとう、と言って緑茶を一口飲んだ。
 父さんの新しい妻は保母さんで子供は二人とも保育園だそうだ。仕事が育児といっしょになるのでちょうどいいのだろう。私はきっと幸せであろう父さんの新しい家庭に思いを馳せながら、私がもしそこに入っていけたらどうなるだろうかと考えていた。新しいお姉ちゃんだよと紹介されてもその子供も戸惑ってしまうだろうし、母親もいい顔はしないだろう。無理だ、と頭の中で想像を振り切る。

「眠らなくていいのか?」

「一晩くらいなら平気だよ」

 今夜じゅうにはホテルを出なければいけない。私が父さんといられる時間も残りわずかだ。どこかの24時間営業の店で時間を潰し、それから明日になってから帰ろう。終電に乗るにはもう時間が遅すぎる。
 私は父さんの姿をこうして改めて見てみて、幼いころの記憶からはだいぶかけ離れてしまったと思っていた。覚えていることも少ないし、私が物心ついたころにはすでに家にいなかったから、私が覚えている記憶もおぼろげなものでしかない。生き物は私に私の覚えていないさまざまな記憶を見せてくれるが、思い出したいことに限ってなかなか見せてくれない。いや、生き物にとっては私に見せたい記憶というのがまずあってそれだけを繰り返し見せているのだ、それ以外のことは余分なものでしかないし、また生き物にとっても範疇外のことなのだろう。

「覚えてる?小さいころ、私がよく夢を見たって言ったこと」

「なんの夢だったかな」

「私そっくりのヒトが出てきて、そしてエッチしてるってこと」

「あれか」

「あのころは私も小さかったから意味もわからなかったしうまく説明もできなかったけど今になったからわかるよ」

 私は制服の上着を脱いだ。あらわになった下着に父さんの思わずつばをごくりと飲む音が聞こえる。

「娘の裸見て立つわけ?」

「お前を本当に俺の娘と呼んでいいのか迷うよ」

「世話してくれたの父さんだけじゃん、母さんは父さんがいなくなってからもずっと仕事続けてたし、だから家ではずっとひとりだったんだよ、それで悪い友達もできちゃって、今じゃすっかり不良だよ」

 涙声になりそうになるのをこらえて父さんの胸に身体を預ける。父さんは最初はずっと固まっていたがやがて冷めた湯飲みを棚に置くとゆっくりと、私を抱きしめてくれた。
 小さい頃はこうやって抱っこしてやったが、今じゃさすがに大きすぎるな、そう言って父さんは私を抱き上げた。私はお姫様抱っこをさせられて緩んだ下着の隙間から乳首が見えている。

「本当に、母さんの若い頃に似てるよ」

 こらえきれずに涙が頬から零れ落ちる。

「親子ってのはほんと、嫌なとこばっかり似るもんだね」

「そんなに母さんのことが嫌いなのか?」

「嫌いだよ、あんな女の腹の中にいたのかと思うと、あんな女の股から生まれてきたのかと思うとぞっとする」

「帰りの電車賃は出してやるよ」

「大丈夫、それくらいのお金なら持ってるよ」

「母さんは小遣いをくれてるのか?」

「ううん、わかるでしょ?私も結局母さんと同じことするしかないのよ」

 父さんはそれ以上なにも言わずに私をベッドに寝かせた。私は毛布を丸めて抱きしめ、すすり泣いた。父さんは部屋を出て行った。たぶん飲み物か何かを買ってくるのだろう。私はその間、本当に独りきりになってしまう。

 翌日第2東京に戻ってきてからマナの部屋に行ったがマナは出かけていた。合鍵を作ってもらったので寮の部屋には私も自由に行き来できる。基本はマナが預かる形だ。今日は土曜日だということを思い出し、私はきっとまた誰かとデートしているのだろうと考えていつも使っているスクールバッグだけを持って部屋を後にした。家に戻ろうという気も起きない。母さんはもう私が帰ってこようとこまいと気にしないのだろう。第一母さん自身も家に帰ってきているかどうか怪しい。あの男との逢瀬をしているのだろうかと思うと途端に苛立ちが募る。なんとかそれをねじ伏せ、どこへ行こうかと考えたときにはもう日は落ちて小雨が降っていた。
 私はいつも行きつけのファミリーマートに行くことにした。私の家と聖霊学習院とのちょうど中間に位置している。

 私がコンビニの駐車場に並んだ車たちを一瞥してから店内に入ると、外から明らかに普通の車とは違う排気音が聞こえてきた。見ると、一台の青いオープンカーが駐車場に入ってくるところだった。幌はかけているがマナから教えてもらったレースゲームで見たことがあるので車種はわかる。ホンダS2000だ。販売台数が極端に少なくてそれでも新車販売が続けられているのはこのSシリーズがホンダにとって伝統的な車種であると同時にモデル存続を望む熱烈なユーザーの声が大きいのだという。
 雑誌の棚にはCanCamの5月号が出ていたので買おうかと思ったけれどもおなかが減っていたので今日はお菓子だけを買ってあとでまた立ち読みしに来ようと思ってドリンク棚の前を通って酒類の棚の前まで歩いていった。
 そこでさっきのS2000に乗ってきた男が店内に入ってきた。男は背が高く体格はほっそりとしているが骨格はしっかりしているように見える。男はあごと頬に無精ひげを生やし、目は冷たい輝きを持っていてこの人は精神的にかなり疲労がたまっているのだろうと私は思った。あの濡れた子犬のような、年齢的には犬より狼かもしれないが、目つきは私と同じように生まれ持ったものだろうが、それでも瞳の色には疲労のあとが見え隠れしている。
 棚に並べられた酒の瓶を眺めながらどのワインがおいしいのだろうかと赤ワインを探しているとその男がまっすぐ私のほうに向かって歩いてきて話しかけてきた。

「こんばんわ、学校帰りかい?」

 私はその男がなぜ私に目を留めて話しかけてきたのかが一瞬わからなくなって半歩後退った。それでも無意識に、男を誘う瞳を見せてしまう。彼に出会えたのは幸運なのよ、だから逃しちゃダメ。頭の中にまた生き物の声が響く。

「おじさん、何か用?」

 男のほうから誘ってくれるのなら私としても願ったりだ。この男は見てくれは不良中年っぽいが金持ちだろう。金持ちの人間、すなわち一般人とは違う特別な条件を持った人間というものはなにかこう、普通の人間にはないオーラを持っているものだ。そしてこの男は少なくとも外見からはわからない、匂いでだけ感じ取れる資質があると思う。それはたとえば乗っている車がS2000だということからもわかるように、この男は自分が金持ちであるということを主張していない。S2000の新車価格などは国産車としてはごく普通だし、その普通の国産車にあえてこだわって乗っていますというような雰囲気を漂わせているこの男は本物だと思う。
 生き物はさっきからしきりにこの男を誘えとざわめきたてている。

 男が数秒待っても何も答えなかったので私は生き物の声を振り切ろうと踵を返し、菓子パン類が並べられている棚へ向かった。私は嬉しくてたまらなかった。求めていた男に出会えた。私の中の生き物が、綾波澪がそう言っている。
 私はエクレアとバームクーヘンとイチゴ牛乳を棚から取ってレジへ持っていった。店の外に出ると男は缶チューハイとチーズと剃刀を持ってレジに並んでいた。私は駐車場に停められたS2000の傍らに立ちあの男を待つ。エンジンはかけっぱなしで、カーステレオからは聴いたことのない洋楽が流れている。曲調からするとユーロビートだろうか?マナがこの手の音楽が大好きなので私も自然と耳に残っている。

「お酒とおつまみ、これから帰って一人寂しく呑むってわけ?」

 車に戻ってきた男に笑みかける。こうやって反応を確かめることで当たりか外れかを見極めるのだ。

「寂しくはないさ、ひとりなのはたしかだけどね」

 男は助手席にレジ袋を放り出し、極端に感情をフラットにさせた声で答えた。この声は出せと言われて出せるものではない。本当に、心がフラットになっているときにしか出ない声だ。この男はやはり当たりだ。
 肩から提げていたバッグの中でポータブルMDが揺れ、バッグが車のボディに当たって衣擦れの音がした。

「その歳で独り者?」

「いや嫁も娘も居るよ、だけど別居してくれるように頼んだんだ、僕は今病気をしていてね。療養するにはひとりの方が楽なのさ」

「ふーん。娘さんももしかして私と同じくらい」

「いや、小学生だ。今年10歳になるよ。そういう君はいくつなんだい?見たとこ中学生くらいだけど」

「当たり、14歳だよ」

 そう言って私が男のほうへ向き直ると、彼はやや気圧されたような姿勢をしてハンドルに手を掛けていた。私の顔はサイドミラー越しに見ている。直視はしていない。顔を向け合わずに話しをしている。

「それ、いい曲だね」

 私はさっきから繰り返し同じ曲を流し続けているカーステレオを指差した。

「ああ、いい曲だと僕も思うよ。でもかなり昔の曲だよ、君は知らなかったんじゃないのかい?」

 まあね、この手のって普段聴かないし、いっつもお店行ってランキング入りしてるやつの中から選ぶからこだわりなんて無いしね、

「1996年リリースだからセカンドインパクト以前だね、君はもちろん僕もまだ生まれてない頃だ」

 へえ、

「まあ昔の話さ、今は仕事になっちゃったから、もう興味も無い、ああ仕事っていうのはプロデュースのことだね、バンドやアーティストを売り出してツアーなんかを主催したりするんだ」

 興味も無いのに仕事してるわけ?

「ほとんどはね、今はもうこういうのって需要は無いも同じだよ。だけどいつまでたっても未だに好きなものってのはあるのさ」

 いつまでたっても未だに好き。男は自分で言った言葉に少なからず驚いているようだった。この男も相田先生や冬月先生と同じだ。私の中に、私ではない誰かの姿を重ねて見ている。
 私がこの歌の詞はなんて意味なのと訊くと男はそうだなあと考え込んで、夜の中にいる見知らぬ誰か、ってくらいの意味かなと言葉を宙に泳がせた。恋人をどこか違う世界からやってきた人間のように距離感を覚えて、それでも想いは変わらないから、お互いに楽しみあえればいいのさ、そんな感じだと。私はそれが生き物のことを表しているのではないかと思っていた。どこか違う世界からやってきた私と同じ姿をした私ではない存在が私の中にいる。だけど私の心がそれで変わってしまうことはないから、共存していく道を探せばいい。それが人物を演じるということであり、男相手の商売をすることなのだと思う。

「夜の中に…『ストレンジャー・イン・ザ・ナイト』ってわけ」

「当たり」

 男がさっきの私の口調を真似たので私は可笑しくなってひとしきり笑った。

 私たちも楽しみあえればいいのにね、

「遠慮しておくよ」

 すこしの間を置いて男は言った。
 私はちょっと気が早すぎたかと思ったが男の表情を見て、これは妻に何か言われてきた後なのだろうと感付いた。ひとり暮らしをするのもいいけど浮気なんかしちゃだめよ、そんな感じかもしれない。

「そうだ、名前をまだ聞いてなかったね」

 男は軽くアクセルをあおり、ギアをリバースへ入れた。もう行くよ、話はここまでだという合図。私はS2000のボディから離れ、再び微笑む。

「ユイ。一条ユイよ」

「一条さんか。僕はシンジ、碇シンジだよ」

 碇さんはゆっくりとハンドルを回して車を操り、通りの流れに乗って道の向こうに消えていった。雨に濡れたテールランプが光の群れの中に混じって見えなくなってしまうまで私はずっと彼の余韻を探し続けていた。

 私はマナに電話した。

「ねえ、コモレビのCOCONOさんって、本名なんていうんだっけ?」

「COCONOさん?碇シンジでしょ、伊吹社長の馴染みだって聞いてるじゃない」

 夜に隠れた未知の誰か、ストレンジャー・イン・ザ・ナイト。私はまだ彼の素顔を知らない。そして、知りたいと思っている。
 コモレビのCOCONO、アルカディア・レコードのマイ、プロジェクトT.T.G.のユキ。日本音楽業界の御三家といわれる三人だ。私はそのうちのひとりに近づいた。これだけははっきりと認識しておかなければいけないことだと思う。これから私の運命が大きく変わっていく、そのきっかけを作ったのだと。遊びの世界でならどんな人間とも知り合える。手の届かない世界だと思っていた芸能界にだって入っていける。それは相田先生が証明してくれた。
 通りを走る車たちが水しぶきを上げながら次々と流れていく。やがて信号が変わって車の流れが止まると、その間だけ水しぶきはやんで空気は湿り気を吐き出すのだ。私はその繰り返しの中に見知らぬ誰かが隠れているのではないかと思っている。水というのは不思議なものだ。水無しでは人間は生きていけないのに、水の中に沈められたら人間はおぼれて死んでしまう。私が夢に見たあのオレンジ色の水は違う。あの中ではちゃんと息もできるし生きていられる。あのオレンジ色の水こそが生命の根本なのだ。
 次に眠りに落ちる時まで、私はあのオレンジ色の水の中に戻ることはできない。もしまたあの夢を見たら、生き物はきっと私にとって碇さんがいかなる存在であるのか、いかなる存在になりうるのかを教えてくれると思う。

「碇さんは今は何か活動をしてるのかな」

「今はねえ、コモレビもちょっとひと休みって感じでリリースも落ち着いてるし、どうなのかな、まあ普通に曲作りとかはしてるんじゃない」

「もし碇さんに会えたらどうする?」

「なんでそんなこと訊くの?とりあえずサインかな」

「マナの書いた曲聴いてもらったりとかは」

「プロの前に出せるほどの出来じゃないよ」

 COCONOさんは以前、音楽雑誌のインタビューで名前のおかげでよく女性に間違われると言っていた。書く曲の繊細さもあいまってファンの人気は根強いものがあるのだという。彼の瞳の奥底にはあの銀髪で紅目の少女の面影がある。綾波レイ、中学時代のクラスメイトだったと相田先生は言っていた。
 私はまだ、その少女の声を手に入れていない。





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