厳冬の渡り鶴
乾いた初雪が舞う12月の夜、珍しくジュンヤさんから電話が来た。
ジュンヤさんはあたしに近況はどうかと訊き、それからやや話しにくそうにして、じつは仕事を一件受けてもらいたい、と言った。
普段あたしたちはそれぞれ自分の裁量で交際相手を選んでいる。それが相手を指定されるというのはどういうことなのだろうか。どこかであたしの噂を聞きつけた男が伝手をたどってジュンヤさんに申し込んだのだろうか。
「伊吹社長の旧い知り合いでな、どうしても断れねえんだ」
要約すると、相田先生とやっていたようなロールプレイをもう一度やってほしい、というのだ。いつだったか会った運び屋をやっている韓国人の小男が言っていたように、一部の政治家や官僚、大企業の長といった超上流階級の人間は特殊な趣味性癖を持ち、そして極秘にそれを行う特別なコールガールも存在するのだそうだ。今回の件はあたしにそれに片足を突っ込めということだ。当然、疑問は返す。
「その相手はなんていう人で、どんな仕事をやっている人なんですか?」
「名前はここでは言えねえ、この話しは外部に漏らすわけにはいかないんだ。だから話すのは改めて、人の目につかない場所がいい」
「それなら、ジュンヤさんのほうが詳しいでしょう、どこかのホテルのロビーがちょうどいいんじゃないですか」
2日後の夜、あたしはジュンヤさんに指定された雑居ビルの非常階段を登っていた。学校の制服は着ていない。今夜のためにわざわざ買いそろえたあたしの身体のサイズに合う黒のスーツを着ている。OLさんでもあたしと変わらないくらいの体格の人もいるから、さいわいにしてサイズは店頭に並んでいたぶんの中から選ぶことができた。着慣れないスーツに身を包みながらあたしはコンクリートむき出しの階段を登る。さすがにこんな場所に学校の制服で来るわけにはいかない。スーツを着ていれば、それは仕事をしている大人に見えるから問題ない。あたしが実際に大人に見えるかどうかはともかくとして、少なくとも体裁だけは取り繕わないといけないのは確かだろう。やがて登りきった先にある意外に簡素なつくりのドアには漆塗りのプレートが掛けられてあって金メッキの文字で神音天道會爆麗党と彫りこまれている。あたしはドアをノックした。
やがて出てきた男は二人いてどちらもあたしより頭ふたつ分は背が高くひとりは髪をポマードで固めたオールバックにしていてもうひとりは色を抜いて金髪に染めたパンチパーマにしていた。それぞれ縦縞と横縞のスーツを着ている。ネクタイピンは金色で、つけているピアスとイヤリングもネックレスもすべてが純金製らしく重い光沢のある輝きを放っている。オールバックの男は角ばった細いフレームのサングラスをしていて左の眉に傷跡があった。パンチパーマのほうは首筋に刺青が見え隠れしている。彼らがしゃべるとその口の奥から金歯がきらめいて見える。それらすべてが、彼らが本物のスジモノなのだということを物語っている。
パンチパーマの男が会長からお話しは伺っておりますと言って頭を下げた。それでもあたしよりずっと目線は高い。あたしはお邪魔させていただきます、と答えて部屋に上がった。驚くほど簡素な事務所で、中央に応接用と思しきテーブルと毛皮のソファが二つあるだけでよく任侠映画で見るような額縁とか掛け軸とか日本刀とか画皿とか高級な焼き物なんかの姿はどこを見回しても欠片も見当たらない。男二人に案内されてあたしは奥のドアをくぐった。
「こんばんわ」
革椅子に座っていたジュンヤさんが顔を起こす。向かいには伊吹社長もいる。
「あ、伊吹社長も来てたんですか」
「社長がいなけりゃお前も納得しないと思ってな」
ジュンヤさんはそう言って悪戯っぽい笑みを浮かべた。あたしも愛想笑いを返し、社長の隣に腰を下ろす。高級そうなカットが彫られたガラステーブルを挟んであたしたちは向かい合う。あたしを案内した二人の男はそれでは失礼しますと言って部屋を出ていった。しばし、沈黙がこの会長室に漂う。
「簡潔にいけばロールプレイを頼まれたってことなんだ」
角瓶からグラスにシングルモルトを注ぎながら、ジュンヤさんはそう切り出した。
「いつだか言ってたな、昔の想い人を重ねられることがよくあるって?まさにそれにぴったりなんだよ、お前そっくりの人に想いを寄せていたっていうんだ、その人は」
「そうですか」
伊吹社長がピアニッシモに火をつけてひと息ふかす。薄味の煙を浴びながらあたしはそのあたしそっくりの人というのがどんな女なのだろうと思案をめぐらせていた。
「名前を言っていいかしら?」
「ええ」
ジュンヤさんに確認してから伊吹社長はあたしのほうを見て言った。
「冬月コウゾウさんといってね、私が昔勤めていた国連の機関での上司だったのよ」
「元国連職員、と」
「今は京都でもぐりの医者をやっているそうよ」
「京都まで行くんですか?」
「交通費と衣服は出すよ」
グラスの中で氷がぶつかるとがった音が響き、それに混じってジュンヤさんの言葉が聞こえてくる。
「設定の話しになるんだが、その冬月さんは国連に入る前は京都大学の教授をやっていたんだ。今回お前にやってもらうのはそこの学生だ、冬月教授に自分の書いた論文を見初めてもらって、それから交際が始まる、そんな感じだ」
「大学生ですか?それにしては私はちょっと背が小さすぎるような気がしますが」
「そんなのは大したことじゃねえよ、気分の問題だ」
あっけらかんとした口調でジュンヤさんは革椅子に背をもたれる。
冬月さん、冬月教授、冬月先生、どの呼び名がいちばんしっくりくるかとあたしは考えて冬月先生と呼ぶことにした。伊吹社長の話しによれば実際親しい学生たちからはそう呼ばれていたらしい。
冬月先生は学者としての実績もじゅうぶんにあり講義も上手だったが人付き合いに関しては奥手で腹を割って話せるような友人も居なく五十代に入るまでずっと独身だったのだそうだ。それで興味を引かれる論文を書いた女学生に会って柄にもなく惚れてしまったのだという。それがセカンドインパクト直前のころの話しだ。しかしここで冬月先生は人生の転機ともいえる事件に遭遇する。同じ京都大学に所属する六分儀ゲンドウという男が傷害事件を起こし、その身元引受人に冬月先生を指名したのだ。先生はその話しを受け、その男、六分儀ゲンドウと運命的な出会いを果たす。六分儀ゲンドウは冬月先生が見初めた女学生と恋人関係にあり、その伝手で冬月先生のことを知ったのだと、当時は彼にそう語った。
やがて2000年のセカンドインパクトを経て、その原因解明を名目とした南極調査隊に京都大学からもチームが参加することになり、冬月先生も六分儀ゲンドウとともに南極行きの調査船に乗り組んでいた。
実はすでにこの時、六分儀ゲンドウはゼーレと呼ばれる秘密結社に関わりがあった。件の女学生の実家がゼーレの中枢に近く、六分儀ゲンドウはそれを狙って彼女に近づいたというのが京都大学内でのもっぱらの噂だった。
ゼーレ、という名の秘密結社は2038年の現在でも書店に並ぶオカルト科学本を当たってみればその名を目にすることはできる。フリーメイソン、KKKなどと似たような宗教的な秘密結社で、しかしその規模は全世界に及び実質この世界を裏から操っているといっても過言ではない。実質的に世界を支配している国際ユダヤ資本との結びつきも強く、議長である最高指導者キール・ローレンツは現代でもまだ開発の途上にあるサイボーグ技術を用いてすでに140年近く生きている。2015年に第3新東京市を舞台に行われた使徒戦役にはこのゼーレの暗躍があったといわれている。しかし、2016年に起こったサードインパクトによって第3新東京市は跡形もなく吹き飛んでしまったため現在となってはその真実を確かめる術はない。
2002年、国連によるセカンドインパクト調査隊が南極へ向け出発した時すでに六分儀ゲンドウと冬月先生の想う彼女は結婚しており、子供も生まれていて六分儀ゲンドウは碇ゲンドウと名前を変えていた。
やがて碇ゲンドウは箱根第3新東京市に設立された人工進化研究所の所長となり、南極で発見された使徒と呼ばれる謎の生命体の研究を進めていった。一方、冬月先生は京都大学教授時代の経験を生かしもぐりの医者として表舞台から退き暮らしていた。
しかし2003年、セカンドインパクトの正体を大質量隕石の落下と発表した国連に対して冬月先生は疑問を抱き、改めて碇ゲンドウにその真偽を問いただす。それに対し碇ゲンドウは真実を見せてやる、と冬月先生を箱根の地下で発見された巨大な地下空間、ジオフロントへと案内した。そこで造られていたのは使徒を元に生み出された人工の巨人、エヴァンゲリオン零号機。碇ゲンドウは冬月先生にこう言った。俺と一緒に人類の新たな歴史を作らないかと。
冬月先生はそのまま人工進化研究所に入所し、以後碇ゲンドウとともに人類補完計画と呼ばれるシナリオの実現へ向け邁進していく。しかしそれも2016年のサードインパクトですべてが無に帰し、冬月先生はまたもぐりの医者に戻って京都でひっそりと、悠々自適の生活を送っているそうだ。
伊吹社長はあたしに大まかな流れを説明し、これは一般に知られている歴史とは違う点もあるから絶対秘密にしておいてと念を押した。あたしももちろんそれくらいのことはわかるのではいと素直に答える。たとえばセカンド、サードの両インパクトは隕石の激突によるものだとされているが実際は使徒と呼ばれる謎の巨大生命体によって引き起こされたものなのだ。彼らは人類の科学をはるかに超えた身体能力を備え、それに対抗するために人類は使徒を模した構造の人造人間、エヴァンゲリオンを建造し使徒の侵攻を迎え撃つ。これが2015年の第3新東京市を舞台に繰り広げられた使徒戦役の正体だ。元第3新東京市民や、近隣の都市の住民などならその現場を目撃した人々もいる。たとえばラミエルと呼ばれる砲台型の使徒との戦闘では日本じゅうの電力を一箇所に集めて砲撃するという荒業をやっているし、浅間山で発見された使徒サンダルフォンに対しては捕獲作戦発動のため日本経済の凍結を実施しているし、侵食型の使徒バルディエルとの戦闘では第3新東京市から離れた野辺山を戦場としている。これらのすべてを隕石の落下だけで片付けるのは到底不可能に近いだろう。しかし、今となってはこれら使徒戦役もはるか昔の話しになってしまい、当時を覚えている人間の数も確実に減ってきている。誰も語りたがらないであろう歴史はやがて、自然に消え去る運命なのだ。
伊吹社長が話しをひと段落させたときにはすでにジュンヤさんのグラスは残りが1センチほどになり、灰皿に詰め込まれた吸殻も山をつくっていた。
「おじいさんなんですよね」
伊吹社長がうなずき、ジュンヤさんが腕を組んで革椅子に背をもたれたまま言う。
「だな、もう80は過ぎてるか?だからっていうのもあれだが立つモノももうおぼつかねえんだけどよ、まあどのみちヤルにしても相手がいねえからな」
「薬なら用意できますが」
「やめとけ、あのじいさんはそんなのは使いたがらねえだろうよ」
そう言ったときにジュンヤさんの携帯が鳴った。スキマスイッチの着メロに乗せて携帯のイルミネーションが光っている。ジュンヤさんは発信者名を見てこんな時間にどうしたんだろうという顔をして電話に出た。
「オレだ、どうした?ああ、時間は大丈夫だ、トキマサに言って迎えはやる、金?それは一緒に持たせてやる、それより何シートもらったんだ?わかった、何もう医者が怪しみはじめてる?そりゃ気にしすぎだ、精神科医ってのは薬の調合にしか興味がねえんだから、それにお前んとこのはもうよぼよぼのボケたじじいだろ?大丈夫だともかく、ああわかってる金だな金、そんなにうるさく言うな、詳しいことはトキマサに訊け」
大声で慌しく話して、ジュンヤさんはため息をつきながら携帯を閉じた。
「アヤちゃんから?」
「そうっす、薬の仕入れを頼んでるんですけどね、まあ小遣い程度にしかならないもんなんであれなんすけど、リタリン出してくれる医者って武蔵野じゃあの子の通ってるとこぐらいですもんね、そういえば福生の方はどうなんだ?」
伊吹社長と話していたところからいきなりあたしに訊いてきたのでとっさにドミニクのことを思い出す。あれから基地でもたっぷり絞られたと言っていてしばらく外出禁止になったとメールが送られてきた。国連軍基地ではこの手のトラブルは隠すのが普通らしい。
「知り合いにアメリカ軍の衛生兵がいますが、彼ならヘロインあたりは簡単に持ってこれるんじゃないんですかね」
「そうか、まあどっちみち国連軍にはオレとしても関わりたくねえからな、話し半分でいい、しかしさすがに向こうは違うな」
「場所が場所ですから」
薬の話しはこれくらいにして、あたしたちは再びその冬月先生とのロールプレイについての打ち合わせに戻る。
「何か必要なものはあるか?彼女の簡単なプロフィールや経歴なんかならこっちに資料があるが」
「写真を一枚いただけますか?それだけあればじゅうぶんです」
「写真か、難しいな」
「なにか問題でも?」
ジュンヤさんは難しそうな顔をして後ろの資料棚に目をやり、いったん革椅子から立ち上がってファイルを一冊取り出すと再び座った。ぱらぱらとめくりながら、写真ってのがこれがまた無えんだよ、と呟くように言う。
「さっきも言ったが碇ゲンドウだな、そいつのカミさんなんだけど、その彼女は2004年に人工進化研究所で行われた実験中の事故で亡くなっている。当時はそれでかなりマスコミが騒いだんだが、ほどなくして個人的な写真とかそういうのは全部その碇ゲンドウが処分してしまったんだ、もちろん大学のホームページからも削除された。もう30年以上も昔の話しだから当時の新聞記事のデータなんかも残ってねえし、それにその事故があってからほどなくして同姓同名のAV女優とネットアイドルがデビューしたんだよ、だからウェブに検索かけても出てくるのはそっちの画像ばかりなんだ、だから捜すってなるとちと手間だな」
「どうかしら、簡単な経歴だけでも覚えておいたほうがいいんじゃない?在学中に書いた論文とか、参加した研究の成果とか、その辺のことも聞かれるでしょうし」
「そういうことじゃないんですよ」
あたしは伊吹社長の話しをさえぎった。
「まず演じるっていう感覚自体が普通の人間の考えるそれとは違うんです。たとえばそうですね、あそこに飾ってある女の子の写真、彼女の写真に写し取られた表情とか目の色とかそういうのを見るんです、するとその人の感情の構造とかが自分の意識の中に入ってくるように感じるのです、あの女の子の場合だったら、ほらお兄ちゃんったらまた喧嘩してきて、バンソコ貼らないとダメだよとか、そんな感じで演じたい人物が何を考えているのかっていうのが自分の意識の一部として取り込まれるんです、つまり自然な受け答えをしているだけであたしを見た人間はあたしの中にその演じてもらいたい人物像を見ることができるのです、相田先生でも他のお客でもそれは同様です」
ほらお兄ちゃんったらまた喧嘩してきて、バンソコ貼らないとダメだよ、
あたしの一連の言葉の流れの中でそこだけが口調も声色もまるで天地をひっくり返すように入れ変わってしまい、伊吹社長はすこし違和感を覚えたような顔をしていたがジュンヤさんは明らかに驚きと焦りの表情を浮かべていた。それは今まであたしの前では見せたことがなかった表情だ。常に大人として、ヤクザとして、男として自分が相手よりも強いのだということを誇示しようとしてきた彼の表情とは明らかに異なっている。あたしは大人に対してさえもこれだけの力を発揮できるのだ。それは生き物が教えてくれたもので、与えてくれた力だ。生き物はあたしの見る淫夢の中であたしを真似て、あたしの姿があたしの意思ではない行動をしている様を見せ付けてくる。それを幼い頃からずっと見せられ続けてきたおかげで、あたしはあたかもゲーム機のスロットに差し込むロムカセットを入れ替えるように、人格を入れ替えて人物を演じることができるようになっていったのだ。相田先生はそれを見抜き、あたしにモデルにならないかと誘いかけ、しかし自分ではあたしを扱いきれないとあきらめてあたしから離れていった。あたしを本当に迎え撃ち、あたしのこの心の構造を理解し受け止めてくれる人間が果たしてこの世にいるのだろうか、そしてあたしは生きているうちにそんな人間に出会えるのだろうか。
「すげえな、まるであいつが目の前に帰ってきたかと思ったぜ」
ジュンヤさんは腕で額の汗を拭いながら言った。なんでもあの写真の女の子はジュンヤさんの義妹で、あの写真は彼女が中学生だったころのものだそうだ。ジュンヤさんの家は再婚家庭でジュンヤさんが父親の、そして義妹が母親のそれぞれの連れ子だった。ジュンヤさんがこの組を先代から引き継いで以降は家族とはさっぱり連絡は無沙汰にしているらしい。お互いの感情も考えてということだ。身内にヤクザがいるというのは世間的に考えてもあまり気分のいい話しではない。義妹はジュンヤさんに対して兄妹以上の感情をほのかに抱いていたようだが、それも今となっては叶うことはない。ジュンヤさんはそんな感傷を打ち消すようにラッキーストライクに火をつけ、煙を吐き出す。
「しかしよくオレが喧嘩ばかりしてたってわかったな」
「わかったっていうわけでもないんですよ、ただあの写真を見てあの目はなにかを心配している目だってのはわかったんで、それでジュンヤさんに対してだったらこう言うだろうっていうのを、考えたり予想したりとかじゃなく自然に思い浮かんできてしゃべったんです、さっきは」
「オレらじゃ到底手の届かない領域みたいだな」
「あたしでも手は届いてないと思いますよ、自分の心なのに自分ではわからない部分があるんですから」
とりあえずジュンヤさんにはなんとかスナップ写真でも探してもらうということで話しをつけてもらった。京都大学時代に同じ研究室だった学生たちなどの身元は捜すことができるから、彼らを通じて入手できるだろうとジュンヤさんは言っていた。その彼らにしてみてもいきなりヤクザに押しかけられたらさぞかしびびるだろうと思ったがそれこそあたしの知ったことではない。
やがて約束の日、あたしは新幹線の駅までジュンヤさんに送ってもらい、列車が出発するまでの待ち時間を駅のカフェで潰しながら最終打ち合わせを行っていた。写真もきちんと入手できたようであたしはおそらく使い捨てカメラで撮ったであろう京都の森を背景にしたその女の写真を受け取っていた。生物学科らしく白衣を羽織っていて、その下はやわらかなピンクのブラウスだ。髪はショートの茶髪、やや頬にかかる軽い内跳ねのくせ毛がアクセントを添え、全体的には穏やかな、大人の雰囲気を漂わせている。あたしは写真を受け取るとポケットにしまう。鞄にはジュンヤさんが用意したあたしに合わせたサイズの白衣が詰め込まれている。
京都はすでに肌寒く、琵琶湖の水面は風で細波がたっている。
あたしが冬月先生の診療所を訪れると彼は書きものをしていた手を止めてゆっくりとこちらを見上げてきた。あたしは白衣を羽織り、タイトスカートに腰の張りが浮き出るような姿勢をして立っている。冬月先生の診療所は琵琶湖を運行していた客船を払い下げたもので桟橋の先に係留されたままの状態で診療所として使われている。船のわずかな傾きが私の白衣の裾を揺らす。扉から吹き込む湖の風が私の香りを冬月先生に届ける。
ユイ君、来てくれたんだねと言って彼は立ち上がろうとする。
恍惚の表情を浮かべ、しかしその瞳は私を見ているようで私の向こう側にいる誰かに向けられている。
冬月先生の足取りがあまりにもおぼつかなかったので私は彼のもとに駆け寄ると肩を支えて立たせてやった。冬月先生はすまないねユイ君わたしも最近すっかり運動していないものでねずっと机に座って論文を書いてばかりだから身体がなまってしまったのだよと言った。歳のせいだ、とは言わない。今の冬月先生は京都大学時代の壮年期を思い出し、自分がその頃に戻った錯覚に身を委ねて遊んでいるのだ。
「大丈夫ですか、冬月先生?」
「心配をかけてすまないね、わざわざ呼び出しておいて、ところで用件は何だったかな」
「先週私が提出しましたレポートのことについてです」
そうだったね、と言って冬月先生は机の上のコーヒーカップに口をつけた。
「読んでいただけましたか?」
「ああ、読ませてもらったよ」
冬月先生は歳はとってはいるが腰も曲がってはいなく髪も禿げたりなどはしていない。顔やのどの皺がなければもう20年は歳を若く見られることも出来るだろう。
これらの思考も今の私の意識の中では雑念でしかない。私は冬月先生に自分の書いた論文についての批評を受けに来たのだ。冬月先生はあらためて椅子に座りなおすと書類の束を持ち、一枚目、二枚目とめくってから私を見上げて言った。
「二、三疑問が残るがなかなかに面白い着眼点だと思うよ、近年まれに見る刺激的なレポートだよ、碇くん」
「ありがとうございます」
私は京都大学の形而上生物学科冬月研究室に籍を置く大学生だ。今回私が書いたレポートというのは生物の肉体と精神体との関連性における分子間力の考察、というもので3ヶ月かけて草案をまとめ1ヶ月寝る間を削って書き上げたもので市販のレポート用紙で149枚になった。
生物を構成する要素のなかに、肉体の他に目で見ることの出来ない精神体の存在を前提として事象を捉えるのが形而上生物学の基本だ。
私はそこで、精神体にはある種の分子間力が働きこれが単体ではただの蛋白質に過ぎない肉体が自我を持ち生命として存在できるという仮説を軸にしてこの論文を書いた。観察のための資料として私は福井県勝山市の福井県立恐竜博物館に行き丸3日をかけて博物館に展示されているすべての化石を見て回った。人類が生まれるよりもはるか6000万年前に絶滅したこれら巨大爬虫類には現代の人類に通ずる未知の力がある。私には先見の明があった。かつてこれだけの巨大生物が存在しえたのなら、現代にも巨大生物が存在できない理由は無い。私は特に恐竜の脳の化石を丹念に見て回った。一説では恐竜ははるかに高い知能を持ち、いわば類人猿に近いような種も存在したという。同様に、人類が他の生物と違って高い知能を持ちそれが魂といわれるまでに昇華していったのはひとえに未知のある力が働いていたのだと私は考えている。それについて述べたのが今回の論文だ。ヒトが他の生物と違い、魂、心を持つのはこの分子間力があらゆる生命の中でもっとも強く発現しているからだ。私はその分子間力に特別にA.T.フィールドという名前を与えた。アブソリュート・テラー・フィールド、絶対恐怖領域という意味のこの名前は、人類が進化の過程で何をもっともその原動力にしてきたかということを考えた時にそれが恐怖であるということから名づけたものだ。たとえば石器時代には凶暴な肉食動物から身を守るために火が必要だった。氷河期には寒さをしのぐための服が必要だった。そして飢えの危機に瀕した時、栽培の出来る植物を食べることを覚えた。人類はそうやって進化してきたのだ。やがて文明の曙光が差してからも、人は基本的に他者への恐怖によって動き歴史を創りだしていった。領土争い、侵略戦争、植民地支配、王朝の独裁、クーデター、それらすべての根底に流れるものとは自分以外の人間に対する恐怖なのだ。それが個人を個人たらしめ、コミュニティを作りそれが寄り集まってひとつの大きな力になる。それが普遍的な意味でのA.T.フィールドだ。そして狭義のA.T.フィールドとは、太古の恐竜や世界各地に目撃例が相次ぐ謎の巨大生物、そして現在南極大陸の地下深くにその存在が噂されているというまったく未知の生態系を現世に存在たらしめている力だ。巨大生物は自分の体重を支えるだけでも大変な苦労をする。その体重を肉体だけでは支えきれなくなったとき、そのときがA.T.フィールドの出番だ。精神体にはたらく分子間力は精神体とリンクしている肉体の形態をも変えうる力がある。神の使い、使徒。この巨大生物がこの世に存在できるのはひとえにA.T.フィールドがあるからだ。そして人類もだ。人類がそれぞれの個人として、一個体としてはあまりに膨大すぎる情報量の精神体を抱えながら生きていられるのもA.T.フィールドがあるからなのだ。
冬月先生はやわらかな微笑をたたえ、じっと私を見ている。それは本当に、私とこの場にこうして居られるだけで幸せなのだという感情によるものだ。
「君はこの先どうするつもりかね?就職か?それともこの研究室に入るかね」
「まだ、そこまでは考えてません」
未来の記憶がひらめく。私は愛する伴侶とともに、湖沿いの公園でわが子を散歩に連れていっている。そこには冬月先生も来ることが出来る。
「それに、第3の選択もあるんじゃありません?」
「え?」
「家庭に入ろうかとも思っているんです。いい人がいればの話しですけど」
脳裏に浮かぶ未来の記憶に私は笑みを浮かべる。私は幸せな家庭を築くことが出来るだろう、きっと。そのためにはこの記憶に従えばいいのだ。冬月先生はそんな私を呆けたように見つめ、学者としての顔と女としての顔を合わせ鏡のように交互に見せた私にただじっと見とれている。
冬月先生はちょっと外を歩かないかね、と言って散策に私を連れ出した。
冬の京都は広葉樹が茶色い歯を風に揺らし、寒々としながらもどこか静かな落ち着いた雰囲気を醸し出している。
「あの男に私を紹介したのは君だね」
六分儀ゲンドウのことだ。私は彼と交際している。彼が奥手な性格なので表立って友人たちに紹介したりなどはしていないが噂話程度には広まっている。
「すみません、ご迷惑でした?」
「いや、おもしろい男であることは認めるよ、すすんで会いたいとは思わないがね。しかし君があの男と並んで歩くとは想像もつかんね」
私たちは立ち止まる。
「何故だ?」
冬月先生はゆっくりと振り向き、私の瞳を覗き込むようにして訊いた。
「いったい何故、君があんな男と」
冬月先生は私の肩に向かって手を伸ばす。しかし、震える手は私のところまで届かない。私は先生の手をとり、やわらかく握り返してやる。
「冬月先生」
この男も同じだ。男はみな寂しがり屋なのだ。それは六分儀ゲンドウも同じだ。彼は自分の目的のために私を必要としている。そして私はそれに応えようと思っているし、応えられるだけの力と材料を持っている。独りでは寂しいから、共に同じ目的に向かう仲間を求めるし、失った仲間を取り戻そうとする。だけど、今の私にとっては冬月先生よりも六分儀ゲンドウのほうが大切なのだ。彼の志を理解できるのは私しかいない。彼が大学の仲間たちからも疎まれているのは私も知っている。だから、だからこそ私がそばにいてやらなければいけないのだ。
「あの人はとても寂しがりやで、可愛い人なんですよ。ただみんなが知らないだけなんです」
冬月先生はやがて、自分から、ゆっくりと繋いだ手を離した。
診療所に戻り、私は病床のベッドをひとつ借りて一泊することになった。日が沈み、波の音だけが静かに繰り返している。冬月先生はスタンドライトをつけてまだ書きものを続けている。いったい何を書いているのだろう。
やがてペンを置く音がして、冬月先生はゆっくりと私のベッドのかたわらに歩み寄ってきた。
「鳴海くんが私に教えてくれたのだ」
私はベッドに横たわり、布団をかぶったまま答える。
「何をです?」
「君がご友人方に裏切られ、傷つけられ辱められたということを」
京都大学では私も六分儀ゲンドウと同じように親しい友人はもういない。みんな、私の背後に居るものの存在をうすうす感づいているから、そして自分の研究に邁進する私を見てこの人にはついていけないと思ったから、彼らはやがて私から離れていった。最後に残ったのが六分儀ゲンドウ、彼なのだ。
私はベッドから起き上がると、冬月先生を見上げ、やがてゆっくりと寝巻きのボタンを外し始めた。窓の隙間から吹き込む夜風が肌を撫でていく。
「寒いですね」
冬月先生はなにかを逡巡するような表情を見せたあと、ゆっくりと跪き、そして私の胸に頬を合わせた。それは女王にかしずく下僕のように、この聖なるものを愛することで自分がいかに矮小な存在なのかということを確かめると同時にその矮小な自分の悲しさに酔うことなのだ。私は優しく、優しく先生を抱きすくめる。
しばらくそうしていたあと、先生は机の引き出しをあけて一枚のディスクを取り出して見せた。ジャケットには私の写真が印刷され、綾波澪と書かれている。写真家相田剣介が撮影したプライベートフィルム、少女と男との危うげな心の交感だ。
このDVDの中身はただの写真集だが、冬月先生にとってはアダルトビデオにも相当するものだろう。ジュンヤさんがなんのために冬月先生にこれの存在を知らせたのか、想いを寄せる女がこんなものに出演させられていたと知って激しい嫉妬に駆られる、それを楽しむためだ。そういえば碇ユイの事故死からほどなくして同姓同名のAVが出回ったとジュンヤさんは言っていた。当然冬月先生もそれを目にしただろう。このDVDにはなにもタイトルが書かれていないが、さしずめ『美人科学者の乱れた私生活!流出ハメ撮り生写真!』などといった具合に先生には見えていることだろう。
「ユイ君」
冬月先生の目じりにかすかに濡れたものを感じ取る。それが私の胸に零れ落ち、滑り落ちていく。
「なんと言葉をかけたらいいのかわからないのだ、私は女性と付き合えるような器ではないのかな、君のこともだ、君があんな目に遭わされてきたというのに私は君を助けてやることができないのだ」
「そんなことありませんよ」
「しかし、ユイ君」
「産みます」
私を見上げる冬月先生の目ははっきりと見開かれ、唇はかすかに震えている。もはやまともに表情を作ることの出来ない年老いたその顔はしかしはっきりと、私に向けた本当の愛情を映し出している。
冬月先生の表情の向こう側に私は未来の記憶を見る。私はわが子を乳母車に乗せ、湖沿いの公園を歩いている。セカンドインパクトによって季節が失われ、常夏の国となった日本は荒廃しきっているが、こんなふうに自然が残っているところは変わらず穏やかな表情を保っているのだ。
セカンドインパクトの後に生きていくのか、この子は、この地獄に、優しげな男の声が聞こえる。
私は答える。
いいえ、生きて行こうと思えばどこだって天国になるわ、だって生きているんですもの、幸せになるチャンスはどこにだってあるわ、
男は私を見て、私にしか見せたことのない穏やかな優しさに満ちた微笑を浮かべる。
そうか、そうだな──
この女だ。ずっと私の中に巣食っていた、この女が私にあの夢を見せていたのだ。幼いころから、いや生まれたときからずっと私の中に居て、私に語りかけていたのだ。
「産みます。たとえどんな生まれであろうと、生きてさえいれば必ず幸せになれます。生きてさえいれば、自分の意思が在れば幸せを探すことはできます」
「ユイ君……」
もう一度、私たちはしっかりと抱きしめあった。
翌日私は京都市内のホテルにもう一泊した後、朝一番の新幹線で第2東京に戻ってきていた。私の懐には500万円の現金が残された。そのうち200万ずつを伊吹社長とジュンヤさんにそれぞれ渡し、残ったぶんは自分の口座にそのまま預けた。
私は渡り鶴だ。第2東京から京都へ、街から街へと渡りながらそして男を渡り歩いていく鶴なのだ。鶴の恩返しのように、私は正体を知られてしまってはもはやその男とともに居ることは出来ない。だから私も、もう二度と京都へ行くことはないだろうし冬月先生とも会うことはないだろう。もし街ですれ違ったとしても、お互いを認識することは出来ないのだ。だから冬月先生は私に破格の報酬を渡したのだ。彼の人生の中でおそらくもっとも穏やかでしかし充実していた時期だったのだろう。あの女科学者、碇ユイと過ごした数年間は。それなら私は何なのだろうか?彼の想い出を再生する、ただのビデオテープにしか過ぎないのだろうか。そうかもしれない。それでもいい。それでこそ女だ。私はずっと、ずっと、死ぬまでそれを続ける。死ぬまで毎年、渡りを続ける。それがこの厳しい冬を生きる渡り鶴の姿なのだ。
鶴の愛情は深いという。一夫一婦を堅く守り、どちらかが死ぬまでともに生き続ける。私もそんな鶴になろう。永遠の命を手にして、愛する者とともに永遠に生き続けよう。そしてその証をこの世界に残してやろう。それが私の野望だ。
そうすればもう、誰も私を犯したりなどは、出来ないだろう。
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