静寂





 その日の朝あたしはパソコンでニュースサイトを見ていると渋谷で女子高生のバラバラ死体が発見されたという見出しがトップに出ていて目を引かれた。あたしはそれを見て直感的に援助交際をやっていてしくじった馬鹿な女が殺されたのだろうと思った。あたしたちは新宿周辺を主な活動域にしているがジュンヤさんの話しによれば新宿と渋谷の勢力争いはとても凄まじいものがあるのだという。つい1ヶ月ほど前にも面倒見をやっているスカウト会社の揉め事を収めてやったのだと言っていた。ジュンヤさんは暇を見てはあたしやマナを誘って裏通りの屋台に連れて行ってくれた。
 オレがガキの頃によく通ってた屋台があるんだ、そこのもつ煮は旨かったな、やってたのはかなり歳のいった婆さんで今はもう死んじまったが、オレたちはよくその婆さんの屋台に集まって食ってたんだよ、定食のみそ汁をすすりながら懐かしそうにジュンヤさんは昔を思い出していた。高級な店で高級な酒を飲むのもいいが、こういう本当に心を満たしてくれる味ってのは形だけ飾っただけの店には決して無いもんだよ、屋台をやっているおじいさんもジュンヤさんの言葉にあたぼうよ、と答えている。

 階下から母さんの呼ぶ声が聞こえたのであたしはパソコンの電源を切るとリビングに降りていった。このパソコンは相田先生とのロールプレイで貰ったお金で買ったものであたしはパソコンに詳しくなかったので店員の若い男にいちばん性能のいいやつをくださいと頼んでそしたら店員が怪訝そうな顔をしたのでお金は持ってますよと膨れた財布をポケットから出したら納得したようだった。店員の男は首に大きなにきびが出来ていてあたしはそれが鮭の卵のように見えた。卵は皮膚の下で孵化してたくさんの幼生を吐き出す。どこかのSFパニック映画で見たような光景が脳裏をよぎった。にきびはたくさんあったがその店員はなかなかに親切でそのままでもお使いいただけますがメモリを増設することをお勧めします、と言われたのであたしは彼の勧めに従いメモリを標準の4倍まで増やした。これだけあればゲームも快適に動作します、と店員は笑顔で言っていたのであたしもそうですね、ファイナルファンタジーなんかもこれだけのスペックがあれば文句ないでしょうと愛想笑いを返した。値段はメモリの分も含めて25万円になってあたしはそれを現金で払った。会計をやった若い女は店員用の電器店のロゴが描かれたはっぴを着ていて突き出された紙幣の束に多少驚いたようだったが声はさすがに平静なまま一万円札の枚数を数えていてポイントカードをおつくりになりますかと訊かれたのであたしはお願いしますと答えた。金色の薄っぺらいカードにはポイントが2万5千ポイントたまっていてあたしはそのポイントでヘッドホンかイヤホンでも買おうかと思ったが手に持ったパソコンの箱が重かったのでこれ以上荷物を増やしたくなくて買うのはまたの機会にすることにした。パソコンはデスクトップ型ではなくノート型だ。ここの電器店はポイントの還元率が他の店よりも高いのだがパソコン用ソフトの品揃えがあまりよくなく、あたしは通りを二つはさんだ別の電器店でゲームソフトを買おうと思い立っていた。

 リビングに入るとテーブルについた母さんの向かい側に見知らぬ男が座っているのが目に入った。

「やあ、はじめまして」

 よろしく、とその男はあたしに向かって微笑みかけた。髭は剃ってはいるが濃く、剃り跡が黒いつぶつぶになって見えてあごからもみあげまで全体を覆っている。一見中堅サラリーマン風の男に見える。

「彼が今お付き合いさせていただいてる人なの、ほらあなたもご挨拶して」

「こ、こんにちわ」

「緊張しなくてもいいよ」

 男は鼻にかかった太い声をしていて脂と香水の混ざった体臭をしている。ウグイス色のサマーウールのスーツに身を包んでいるが、その臭いは隠し切れない。世俗にまみれた人間の臭いだ。あたしは母さんの隣の椅子に座り、あらためて彼と向かい合う。

「僕とキヨミさんにはお互いパートナーが必要だと思うんです」

 キヨミというのは母さんの名前だ。彼の名前はキヨトというらしい。一文字違いなだけというのがお互いに興味をもつきっかけになったのだそうだ。その場所がどこだったのかについてはあえて聞かない。どうせ名前もわからないような有象無象のバーかクラブかそこらだろう。

 彼の話しについては正直、覚えていない。というより理解できなかった。ただ彼は自分は絶対事業を成功させる自信があるからついてきてほしいということだった。事業というのは軽井沢すなわち観光地の再建で、そのために勉強して自分の足で各地を回りリサーチをしてきたのだという、しかしあたしはそれらの話しのひとつひとつに欠片の価値も見出せていなかった。母さんはうんうんと何度もうなずきながら聞き入っている。この男の話しのどこがそんなに信用できるのだろうか、確証はあるのだろうか。
 あたしはあるひとつのひらめきが頭の中を駆け抜けていったのを感じていた。それは女というものは基本的に独占欲が強くこの人はあたしがいなければだめなのだという感情を持てばそれは男への執着となりうるというもので母さんは年上で母さんから見れば彼はまだまだ若造といってもいいくらいだからまるで子供を見るように彼に対してある種の独占欲を働かせているのではないかと思う。ましてや風俗嬢として男を慰めることを生業にしていたからなおさらだ。この人はとてもがんばっているから、だからこの人を助けてあげればわたしは満足できるの、この人を助けてあげることがわたしの役目なの、生きがいなの、使命なの、そして最後にはこの人なしにはわたしは生きていけないというところまでいってしまう。母さんが今どの段階にいるのかはわからないが、ともかくもこの目の前の男はパートナーという言葉を使って母さんを自分の運命共同体に引きずり込もうとしている。そしてそれに同時にあたしが引きずられていってしまうということにも気づいているのか気づいていないのかわからないがこうして挨拶しているということは確信犯なのだろう。思い込みというものは恐ろしい。母さんも現に、彼と新しい家庭を築けばそれがあたしの幸せにもなると思い込んでいる。彼といっしょになることであたしに幸せを与えられると思っている。しかし、それが自分の力で手に入れてきたものなどでは絶対にありえないということに気づいていない。
 この間伊吹社長に言われたことだが、基本的に経営というものは何もないところから言葉と謀計だけで金をひねり出すものなのだ。商品はあくまでも商品でしかない。その商品を実際に作るのは生産者であり、消費者の元へ届けるのは販売者だが、経営者というのはその仲立ちをして金をもうけている人種なのだ。そこにあるのは交渉の技術と情報戦略とあとはひらめきとかそういう類の錬金術であって所詮は他人の労働を利用してもうけているだけに過ぎない。事業を興すと言っているこの男も同じことだ。新しいものはなにひとつ創りだすことなく、ただそこにあるホテルのガワと交通機関と景色と露天風呂とスキー場とテニスコートとみやげ物屋を使っていちばん金をもうけられるプランを作成するだけだ。それはたしかに仕事としては大変なことかもしれないが、やっていることはただありあわせの規格品を寄せ集めただけに過ぎないのだ。それはある意味では中世の錬金術と大差ないのかもしれない、どんな金属を混ぜ合わせても溶かし合わせても本物の金──通貨ではなく金属の金、元素記号Auの金だ──を造りだすことができないのと同じように、そうやって生まれた金も所詮は帳簿上のものであって現実に金を生み出すことなど出来ないのだ。そして世の中の企業の大半はこういうノウハウだけで資産を運用する投資家によって成り立っている。高校に行ってまで政治経済を習わなくとも、ちょっと人から聞いた話しだけでここまで説明できてしまう。それだけ人とのかかわりというものは、経験というものは重要なのだ。もしあたしが普通の勤め人の家庭に生まれて不良に走ることもなく普通の子供としての生活を送っていたなら、たかだか13歳でここまでの心理分析など到底出来るはずもなかっただろう。あたしは運命づけられていたのだ。母さんが風俗嬢だったから、そしてあたしが生まれてからも子供のことなど構うことなく仕事を続け男たちとの遊びにかまけていたから、あたしはこんな性格になりそして自然と同じような匂いのする仲間たちができた。その仲間たちのおかげであたしは年齢不相応な遊びにどっぷりとはまり、そして今となってはわかってはいながらも、自覚していながらも母親と同じ道へ向かって先の見えない暗闇へと突っ走っている。マナや伊吹社長やジュンヤさんはただあたしに道の歩き方を教えてくれただけに過ぎない。歩きだそうとしたのはあたしの意思なのだ。相田先生と付き合うことを選んだのも、繰り返すがあたしの意思なのだ。それをきっかけにしてあたしは母さんと同じ、男たちの欲望という海を泳いで渡る難破船になりつつある。しかし、木でできた船はどんなに波に揉まれても高波に押し潰されても、バラバラになることはあっても沈むことは決してありえない。なぜなら木が水に浮くのは自然の摂理だからだ。同じように、男たちの欲望をどれだけ身に浴びたとしても決して汚れることはありえない、それが女なのだ。だからあたしは自分の未来にあるひとつの姿を見出し、しかしそれが希望などでは断じてありえないとわかっていてもそれを求めて無邪気に、陽気に、明るく元気に生きていくのだ。それが女の生まれもった姿なのだ。

「あの、私友達と遊ぶ約束あるんで」

 そう言って席を立つと男はにっこりと微笑んでそうか行ってらっしゃい、気をつけてね、友達は大切にするんだよと言ってあたしはその顔を見るのも気持ち悪くなって俯いたまま足早にリビングを出た。彼の言葉がまるで日本語を覚えたての外国人のように聞こえて海外暮らしが長かったのは本当だろうと思ったが今はそんなことは問題ではない。

 ポーチを片手に外に出たあたしは友達と遊ぶ約束なんてひとつもしていないことに今さらながら後悔を覚えていた。携帯を取り出し、レイコに電話する。彼女は今家に居るようだ。今から遊びに行っていいかと訊くとゲーム持ってきてくれたらいいよというのであたしはいったん家の中に戻って自分の部屋から適当なゲームソフトを3本まとめてポーチに押し込むと再び飛び出すように家を出た。
 レイコの家に着くと義兄が出迎えてレイコなら部屋で待ってるぜと言った。レイコの義兄は専門学校生だと聞いた。相模さんと年の頃は同じくらいだと思う。見た格好だけならテレビの音楽番組や月9ドラマに出てくるような少年タレントみたいな顔立ちをしているが性格についてはあたしはよくわからない。子供と大人の境目にいる、青年、あたしがいちばん苦手なタイプだ。大人ほど物分りもよくないし、子供ほど純粋でもない。そのくせ口だけは達者だ。大人の男を相手にしてきた後だと余計にそう思う。あれから何日も経っているのにあたしの身体にはまだ不快感が残っているような気がしてあたしはレイコに香水はないのかと訊いた。

「こないだモコから貰ったってやつ、あれどこやったの?」

「もう全部使っちゃったよ」

「ケイんとこ行ってみようか?」

「なんかマナたちと遊ぶって言って学校に行ったよ」

「学校に?何して遊ぶんだろ」

「部活の冷やかしでもするんじゃないの」

「部活かあ、そういえば吹奏楽部は次は何があるのかな?」

「町内会での演奏があるからそれの練習してるみたいよ」

 コントローラのボタンを叩きながらの会話なので所々に間が入り、言葉も途中で途切れたりする。ゲームの中の少女忍者が相手のカンフー男を倒したところで画面に1P WINと表示されてあたしたちはそこでいったん休憩する。

「もう、あたしじゃあんたにはかなわないよ」

 レイコがりんごジュースを飲みながら言う。あたしはゲーム終了のコマンドを選んでタイトル画面に戻してからプレイステーションの電源を切った。

「それはそうとさ、あんたが吹奏楽部のこと気にするなんてどういう風の吹き回しよ?あんた音楽なんて興味ないと思ってたのに」

「別に、興味ないってわけじゃないよ、マナも音楽やってるし、それにリュウがフルート吹いて聴かせてくれたことがあってあたしもコンクール聴きに行ったから」

「それよ」

「それって?」

「リュウのやつ、絶対あんたのこと好きよ」

「まさか」

「わかるわよ、教室なんかでも後ろから見てるとまるわかりだよ、あいつ授業中いっつもあんたの方気にしてるもん」

「そうかなあ」

「そうに決まってるじゃない、マナから聞いたけどさ、あいつこないだの休みの日にあんたんちにひとりで押しかけたんだって?」

「部活の個人練習だって言ってたけど」

「それこそ口実じゃん、あんたとふたりっきりになれるチャンスだって思ったんじゃないの」

「そこまで積極的な男には見えないけどね」

「じゃあむっつりすけべってやつなのかしら?だってあいつさ、覚えてる?5月にウィルんとこで遊んだとき、他の男たちがあんたやケイとやってるときもずっとあたしの胸に寝そべったままだったのよ、あんたがユウキの上に乗っかったときだってそれ見ながらひとりで扱いてたくらいだし」

「それはみんなの輪に入る勇気がないからあんたに寄りかかってたって意味?」

「まあね」

「レイコはリュウのこと嫌いなの?」

「そんなでもないけど、ただあいつはどっか女々しいとこあるとは思う」

「女装なんかしたら似合いそうだけどね」

「やめてよ、気持ち悪い」

 部屋にいてもすることが無いのであたしたちは学校へ行くことにした。学校はまだ夏休み中だが補習や部活で学校に来ている生徒たちは多い。1年生のあたしたちは補習は義務ではないが、2年生になると進学へ向けて特別授業があるとケイはうざったそうに言っていた。あたしはポーチから日焼け止めクリームを出して腕と首まわりに塗る。レイコも同じように化粧台からクリームを出して身支度をしている。

 外に出ると夏の日差しがまぶしくてあたしは腕を額にかざした。空は真っ青に晴れ、山の向こうにつみ雲がむくむくと頭をもたげている。

 レイコの家は丘の中腹にあって学校のすぐそばだ。ケイの家は市中心部をすこし外れた基地に隣接した団地で、モコの家はあきる野に近い川沿いだ。あたしの家からだとレイコの家がもっとも近い。
 学校へ向かって歩くほんの十数分の間、あたしは相田先生にメールした。この間の撮影旅行はとても楽しかったです、綾波澪はとてもすばらしい少女だと思います、写真集の作業はどのへんまで進んだでしょうか?先生もお忙しいとは思いますが、お身体に気をつけて、お返事、待ってます。
 レイコがあたしの携帯の画面を気にしているようだったのであたしは他の話題を振ることにした。

「そういえばさ、うちの母さん再婚することになったんだ」

「マジ?」

 レイコが驚いたように顔を上げてこっちを見る。彼女の家も再婚家庭だ。

「日取りはいつって決まってないんだけどね、今朝相手の男がうちに挨拶しにきたのよ」

「どんな男よ?連れ子とかいるわけ?」

「いないみたい、だけど聞いてよ信じられる?そいつまだ二十代そこそこの若い男なのよ、それこそあんたの兄貴と変わんないくらいの、イギリスで留学だかなんだかしてきたみたいなんだけど、母さんもその伝手でリゾートホテルの仕事にありつけるとか言って喜んでるのよ」

 義兄と絡めて話すとレイコはとたんに感情を不安定にさせる。あの義兄も外面は優しい兄を演じているのかもしれないが家の中では何をやっているのかわかったものではない。血のつながりのない義妹を狙って、などと今どきエロゲーでも使い古されたネタを考えてみたりもするが当事者であるレイコにしてみればたまったものではないだろう。

「それってなにげにヤバくない?」

 ヤバいよ、だからあたしもなんとか逃げ出せないかって考えてるんだけどね、

「あー、今はやりのプチ家出ってやつ?」

 盛りは過ぎたでしょ、それにプチじゃなくて永久的に家出らんないかって思ってる、

「そんなに信用ならないの?」

 信用できるわけないじゃない、ふつうに会社勤めしてきちんと毎月の給料もらってるんならともかく、そいつ自分で事業興すって言ってるのよ?つまり自営業ってことよ、金が手に入るかどうかはほんとに自分の腕次第なの、だから下手すれば運転資金だけ持っていかれて終わりなんてことにもなりかねないのよ、あたしはそれが心配なのよ、母さんただでさえ金遣い荒いのに、家だって担保にして借金してるから売ることもできないし、ローンも残ってるしただでさえ借金しまくりなのにそんなんなったらあたしまでとばっちりくらうっての、あたしはひといきにしゃべり続けて開きっぱなしだった携帯を畳むのも忘れて画面には相田先生へ、メールを送信しましたの画面が表示されたままになっていてしゃべり終わってからようやくそれに気づいてOKボタンを押してメーラーを閉じる。

「ふうん、ベンチャーとかそういう類いなのかなあ」

「経営再建を任されたとか言ってたけどね」

 あたしはそこで伊吹社長にこの話しをしてみようかと思っていた。彼女も同じ経営者だし、手を広げている企業の数などからいっても彼とはキャリアが違いすぎるだろう。

 それから学校に行ってケイたちを捜したが見つけることはできなくて吹奏楽部の練習を見に音楽室に行ったらちょうど音あわせの最中だったので入ることもできなくてあたしたちはしばらく学校の中をぶらぶらしながら高等部棟と中等部棟のちょうど間にある聖堂に向かっていた。ここはミサや朝礼などの行事で使われる。中央の中庭には噴水に囲まれたマリア像が立っていて下を通る者たちを見下ろしている。

「働くことってなんだろうね」

「なによいきなり?」

「マナのことよ、あいつ小学校の頃から家が貧乏でかなり苦労してたみたいなの、だから労働とかに関しては価値観がなんか違うのよね、こっちに引っ越して保護者代理の人を別に頼んでもらって、それで聖霊に通えるようになったんだけど」

「そうなんだ」

 さすがにあたしたちがやっている夜の仕事については言えない。いくらあたしたちが不良とはいえそこまでやっているのはあたしとマナだけだ。他の女子でもやっているという話しを聞いたことはない。もっともそれは中等部の話しだけで高等部になるとどうだかわからない。

「さっきも言ったけどあたしんちもマナんちも借金すごいのよ、何千万ってね、それこそぜんぶ返済しきるのに何十年もかかるのよ、母さん通勤に車使ってるしそれのローンもあるでしょ、他にもカード何枚も持ってるし、仕事が仕事だから銀行の審査なんかも通るわけなくてね、サラ金も何社かから借りてるのよ、もうマジなに考えてんのって感じで」

「ケイならそんな借金踏み倒せって言うだろうね」

 彼女の両親についてはあたしたちもよく話しを聞いている。母親がケイを産んだ時に仕事を休んでいたら産休を申請していたにもかかわらず首にされてしまって、家賃を払えなくなって何ヶ月か滞納した挙句に今も払っていないのだそうだ。あそこは公営団地だが、督促にやってきた市の職員とも何度も大喧嘩をして追い返したりというのはざらだったようだ。首にした会社も大概だと思うがそこで後ろも顧みることなく真っ向から喧嘩にいけるケイの両親というのはここではすばらしいと思う。
 あたしは肩を震わせて笑い、笑い声が哄笑になって漏れた。

「なんかあんた性格変わった気がするよ」

「変わった?」

「前はほら、いやにツンツンしててとっつきにくいとこあったけど、今はっつうかここ最近はなんだか明るくなった気がするよ、人当たりもよくなって」

「そんなに変わったかなあ、自分ではあんまり変わってないと思うけど、それに最初の頃はまだ中学入りたてで新しいクラスだったから気張ってたのもあると思うよ」

「ううん今でも違うのわかるよ、あんた家のこと話すときとリュウのこと話すときとでなんか変わってる気がする」

「八方美人だって言いたいわけ?」

「そうじゃなくってね」

 なんて説明したらいいのかな、レイコはかぶりを振ってポニーテールが揺れた。今日は黄色い大きなリボンをしている。

「なんつうか装ってるって感じするのよ」

「どっちが?」

「家のこと話してるときのほうがね」

「ああー、それってやっぱり家出したいからって思ってるからかなあ」

 あたしはわざと腕を頭の後ろで組んで大げさに伸びをして見せた。装っているというのはまさにそのとおりだと思う、相田先生にも言われたことだ。ただレイコではそれをはっきりとしたイメージに捉えて言葉にすることができないのだろう。今あたしの基本的な性格は綾波澪がベースになっていると思う。あの撮影旅行を終えて帰ってきてからも綾波澪はずっとあたしの仲間になったままで、あたしはいつも彼女に語りかけている。彼女も他の仮想人格と同じように心の中で対話をするといったことはできないが、綾波澪を精神のスロットに差し込んでいる間だけはあたしは自分が余計な黒い感情のわだかまりから解放されている気がしていた。あたしにこんな感情そして人格を与えてくれた先生には本当に感謝しなければいけないと思う。だからこそ、お金を貰いっぱなしでいいのか、先生とはアヤネになっていた最初の2回以降はずっとセックスをしていないし、あたしの側から先生になにかを提供できていたとは思えない。ロールプレイだけで満足しているのだろうかとも思うが、それでもあたしの心には不安があった。先生はあたしのことをどう思っているのだろうか、お荷物だと思っているのだろうか、だけどそれならわざわざあたしをモデルに仕立て上げようなどとは思わなかったはずだ、あたしと先生だけではなく撮影、編集に携わるスタッフは大勢いるし先生の個人的な感情だけで彼らを動かすことなどはできないはずだ、だから先生はまだあたしに特別な感情を持っているのだろうと予想はできるが確信はできなくて、先生のメールの返事がとても待ち遠しかった。早く先生の言葉を聞きたい。もしそれがあたしにとって望まざるものであったとしても、あたしは先生の言葉を聞きたい。

 それから学校を出てまたいつものマクドナルドで昼食にした。あたしはまたMサイズを注文してレイコがほんとによく食べるね、それでよく太らないねと言ったのであたしは胃下垂気味だから、もともと食べても太らない体質だからと返した。レイコはそうなんだ、いいなあとうらやましそうにSサイズの小さなハンバーガーとストロベリーシェイクだけを食べている。

 家に帰るとまだあの男はリビングにいて母さんと話していた。
 あたしは黙って通り過ぎようとしたが母さんがあの男に向かって共同経営の仲間にしてくれないかと言っていたのが聞こえてこめかみの血管がピクリと動くのがわかったがあたしはまだこらえていて、しかしそれにあの男がぜひこちらからもお願いしたいよ、キヨミさんならきっといいホテルマンになれると媚びを売りまくったしかし太い声で答えたのを聞いてとうとう切れた。

「ちょっと、夢見んのも大概にして現実に目を向けたらどうなの」

 母さんとあの男、キヨトだったか、名前で呼ぶのも鬱陶しい、あの男がそろって驚いた顔をしてこちらを見る。それはただ突然話しかけられて驚いたのではなくここは子供のうろつく場所じゃないからお母さんのところに戻りなさいと幼児を諭す企業の窓口担当者のような顔だったのであたしはいっそう怒りがあらわになった。

「うちの借金いくらあると思ってんのよ、それもほったらかしてまだ始めてもいない事業の共同経営?寝言は寝て言えってのよ、何回その男と寝たのか知らないけど、さぞかし床上手だったんでしょうね、それで金持ちの男を捕まえて借金チャラにしてもらおうって、そんな虫のいい話しがあると思ってんの」

 言いながら、それがあたしと相田先生との関係にも当てはまるとあたしは気づいていてそれが余計に苛立ちを募らせる。そうだ。あたしも結局母さんと同じことをするしかないのだ。持って生まれたこの身体で男を惹き寄せ、その男が金持ちであることを期待して金をねだる。やっていることは結局変わらないのだ。

「ちょっとあなた──」

 椅子から立ち上がりそうになった母さんをあの男が制した。

「君、君の言いたいこともよくわかる、たしかに僕の事業が成功するという確証は誰にもすることができない、だけど僕は実績はあるんだ、イギリスでホテル経営を学んで何軒も立て直してきたし、その実績を買われて今回軽井沢に行くことになったんだ、僕はかならず君たち家族を幸せにしてみせる、それだけは信じてほしいんだ」

「おとぎ話は聞き飽きたのよ、シンデレラだって結局魔法が無けりゃ王子様に見初められることすらなかったんだから、その程度の女だってことなのよ、あんただってその身体のよれたババアにどんだけ惚れ込んだのか知らないけど結局その程度なのよ、そんな腐った女の性根も見抜けないんじゃ事業なんて夢のまた夢だっつってんのよ!」

 あたしがどれだけ声をがなりたてても母さんとあの男の表情は変わることなく、それがあたしは結局無力な子供なんだということを実感させてあたしは逃げ出すように家を飛び出していた。

 家の前にはあの男が乗ってきたらしいBMWがとまっている。あたしはその車のドアに思いっきり蹴りを入れるとそのまま駆け出した。鈍い音がしてドアは軽くへこんだ。あたしは走り出す。行き先はわからない。ただ今は走っていたかった。

 どれだけ走ったのだろう。日は傾き、つみ雲はかみなり雲になって空を覆いはじめている。いくらもしないうちに夕立が来るだろう。雨宿りする場所を探さないといけない。伊吹社長のクラブに行こうか?いや、今はとても踊れる気分じゃない。誰か通りすがりの男に声をかけようか?今のあたしの精神状態ではいいようにやられてしまって終わりだろう。あたしはいつしか聖霊学習院のある丘の前に来ていた。この並木道を上れば学校だ。そうだ、マナのところへ行こう。
 寮の部屋の前に立ち、呼び鈴を押すとマナが不思議そうな顔をして出てきた。こんな時間にどうしたの、と。

「悪いけど、今夜泊めてくんないかな」

「うん、いいけどなにがあったの?」

「家でちょっとね」

 そう言ってあたしは顔を俯けた。マナはそれ以上問うことをせずあたしを部屋に上げた。やがて雨が降り出して、屋根を叩く雨音が聞こえてきた。しかし、部屋には静寂が満ちている。雨音はあくまでも雨音であってそれ以上ではない。部屋は静寂で満たされている。たぶん、今頃あたしの家のリビングも静寂で満たされていることだろう。
 いや、あの家をもうあたしの家と呼ぶのでさえいやな気分だ。ベッドに寝転がりながら、机の上のパソコンに向かってデータの打ち込みをしているマナの背中を見つめると自分の感情がようやく落ち着いていくのがわかった。あたしが心を許せる友達というのはマナだけなのだ。マウスをクリックするかすかな音だけが、この部屋の静寂を眠らせずに目覚めさせている。

 部屋は静寂に満ちている。そして、あたしの心も静かな寂しさに満ちている。





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