大理石
私は先生が差し出したマロングラッセをまず一粒かじった。ゆっくりと、栗の粒が割れる音が歯を通して聞こえるように、そのかすかな音、私の口の中の音、私の唇が砂糖漬けの栗を舐める音がこの静かな部屋に重すぎるほどの存在感を持って響き渡る。甘みに舌がしびれ、しかしそれを感じ取っているのはあたしではない。
私と先生はこのマンションの一室で向かい合っている。私は身体を起こすとソファに座った。それが当たり前の動作であるというような感覚を覚える。先生も同じように歩きはじめ、カウンターで仕切られたダイニングの向こう側へ行った。それはお互いの距離を測るように、離れたりくっついたり、そうやって適切な距離を探っている。この部屋での一歩、一挙手一投足にすべて、あるひとつの距離という要素が関連付けられている。私たちはその距離を測りながら、お互いの心の扉を開け閉めして言葉を送り出し、あるいは受け取り、しぐさを見たりあるいは注意をそむけたり、そうやって私たちの二人の行動というものが生まれているのだ。
先生は冷蔵庫横のガラス棚を開け、中に並べられたいくつものグラスの中から下ぶくれの形をした大きなブランデーグラスを取り出して配膳台の上に置き、琥珀色の液体をボトルから2センチほど注いだ。棚の中のグラスはどれもが丁寧に磨きこまれていて砂の輝きを放っていた。それに酒を注ぐということは、よく磨きあげられた女に身体を触れることと似ている、と私は思っていた。どんなに綺麗に磨かれたものであっても使えば消耗してしまう。こびりついたアルコールや糖分をすべて洗い落とすには相当の手間がかかるだろう、しかしそれだけの手間をかける価値がこれらのグラスにはあるのだ。棚の奥の方にはMという文字が彫りこまれたマイセン・クリスタルのワイングラスが孤高の輝きを持って佇んでいる。
柄杓のような形をしたボトルがゆっくりと傾き、そしてまた元に戻る。液体はそれに従ってボトルからグラスに移る。先生の右手薬指がかすかにふるえ、同時にブランデーの流れが一瞬揺らぐ。しずくがボトルの先端から零れ落ちて、敷いてあったクロスを濡らす。私はそれら一連の動作をじっと目を凝らして見ていた。
私の視線には性的な、しかし静かな興奮が含まれている。だから先生は今とても強い緊張状態におかれている。
私に見つめられながら先生はボトルをクロスの上に置くとスクリューキャップを閉めなおした。カッカッ、という金属のこすれる音と気泡の縮む音が天井に反射して床に染み渡るのが光の波を目に見るように感じ取れる。心の揺らぎは光の波だ。ちょうど水中から太陽を見上げたように、ゆらゆらと揺れる光の炎心がこの部屋の中心に燃え盛っていて、あたしと先生はそれを見つめ、それを挟んで向かい合いながらこうして互いに存在を認め合っている。
注視をブランデーグラスからはずし、視線を宙に泳がせる。とたん、私と先生の間に満ちていた緊張が一気に解放されて私たちはその心の距離をぐっと縮める。先生が黙って差し出したグラスを私は受け取り、ほんの一滴だけ、唇につけた。それでじゅうぶんだ。度数の強い蒸留酒は私の唇をどこまでも艶かしく濡らす。そんな私を先生は黙ったまま見つめ、私はこれがとても強い緊張感によって意思までもがゆがめられた結果なのだと思っていた。先生は今、自分が見たことのない私の姿を目にしている。私も同様に、今まで先生の前で見せたことのない振る舞いをしている。先生は自分の頭の中で考えた女の姿を私に演じるよう命じたが、今こうして現実にその姿を見せ付けられて、自分もその女の姿とセットになっているのだと気づいた、自分をもが自分の作り上げたシナリオの当事者なのだと思い知らされた、だからこうして無言のまま、私にブランデーを勧めてきたのだ。
高層ビルの周囲を吹き荒れる風を感じる。頑丈な作りのビルは外の風の振動や音などは室内には微塵も入り込ませないが、それでも私は感じ取っていた。それは先生も同じなようだった。ガウンの腰紐を緩め、わずかに肌を露出させる。それは駆け引きだ。自分をどこまでさらけ出せるか、どこまでさらけ出すことが必要なのか、見せていいのはどこまでなのか、見せてはいけないのはどこからなのか。それらをやり直しのきかないギャンブルに委ね、私に見せている。
テーブルの上に置かれた栗の粒が部屋の照明できらめいている。先生はしばらくじっと立ったままでいて、私がやがて視線を窓の外に向けるとそれを追うようにして蛍光灯のスイッチを切った。スイッチの切れるプラスチックのカチン、という音が空気を鋭く揺らす。放電管の残光が緑色に私たちを包み込み、ややあってから先生はもう一度スイッチを押して常夜灯をつけた。オレンジ色の部屋の外には薄青色の夜景が見えている。
目に残った光の余韻が私の心をじりじりと焼いていく、目から神経を通って脳に光が伝わり、それが私の中のどこかへ駆け出したいという衝動を急き立てている。そう、これが依存症なんだ。小さい頃からずっとそうだった。不義の子供は遺伝子に異常を残し、それが私の人間としての大切な何かをごっそりと抜け落ちさせていた。いつも頭の中はわけのわからないもやもやで埋め尽くされていて、それがガラスに罅が入るように割れ、私の心を内側から傷つける。そんなどうしようもない衝動をどうやって解消するとなったとき、私は誰彼構わず苛立ちをぶつけ、そして自分の身体を大切にするとかそういう感情など欠片も持たずに誰彼構わず抱かれ、そうやって自分を鎮めてきた。その場はそれで収まる。だがいずれまた頭の中のもやもやは湧き上がってきて、そうなるたびに自分が壊れていくのが分かって、同じことを繰り返している自分がどうしようもない、人間として欠陥品なのだという認識が頭の中にこびりついて離れなくなっていた。生まれからして望まれてはいなかったのだ。私の母はアヤメという名だった。私の姉を産んだばかりの母はある夜、義父に寝込みを襲われ、犯された。そうして身ごもったのが私なのだ。私と姉は異父姉妹なのだ。だから私は小さい頃から隔離されて育てられた。周りの大人は好き勝手に私を掌に弄び、その自覚があるのかないのかは知ったことではないが自分たちがこの子のためにがんばっているという勝手な思い込みで私を思いのままに作り変えようとしていた。私はそんな大人たちに反抗した。するとまた別の大人がやってきて知った風な顔で私に寝言のような、聖書にでも載ってるような青臭い説教を吐いていた。頼りにできる大人など居るはずもない。自分のことは自分でなんとかするしかない。私が暴れるたびに、何処からか知らない大人たちがやってきて知った風な顔で私を諭そうとする。私はそれがたまらなく不愉快だった。私は私のやり方でやっていくのだ。だから私は姉を憎んでいた。一時は母さえも憎らしく思ったことがあった。だから、だから私は私が危険な意識を内包していることをきっと誰よりも恐れていたのだと思う。私が先生に惹かれていったのもそのためなのだ。今まで生きていた狭い世界を抜け出して、初めて外の世界の人間に触れた。それが先生との出会いだった。私は先生に出会ったのだ。
手を持ち上げ、頬に指先を走らせる。あたしはその動作によってあたし自身の意識を確かめようとしている。私はあたしを意識から追いやり、この数分の間あたしの身体を奪っていた。
二重人格?違う。あたしはあたしの意識をはっきりと持っていた。ただ今の間だけは、あたしは私に身体を貸していたのだ。生き物は自分の身体を持っていない、あたしの夢の中にしか存在できない。だからこうして身体を貸すことで生き物の姿を自分の外に、他人に分かる形で見せ付けることができる。人物を演じるということは、あたしが見ている夢、他人には見ることのできない心の中の出来事を知らせることのできるひとつの方法なのだ。そして先生はあたしにその方法を教えてくれたのだ。
「わかった」
なに?
「もうわかったよ、とりあえず今はここまでにしよう」
そうですか、
ここでようやくあたしは自分の意識がはっきりとしたものに落ち着いていくのを感じ取り、高揚していた気持ちが落ち着いていくのを感じていた。常夜灯に照らされた先生の額に汗が浮いているのが見えて、しかしあたしは汗ひとつかいていない自分に気づいて正直なところ驚いていた。自分にこんな力があったのか、それとも生き物がそうさせたのか、演技をしたい人物を見せられた瞬間にあたしは自分の中に何かが取り込まれていくのを感じていた、合わせ鏡で無限に増えた自分を見るように、ともかくあたしは自分が今ひとりの大人をある種の圧倒的な力によってねじ伏せたのだということを認識しなければならないと思っていた。
今は言葉も自分のものになった、あたしの口から出る声と言葉はあたし自身のものだとわかる。
「どうでした?」
先生は手の甲で額の汗を拭い、本当に感服したというような大きなため息を吐いてソファに深く腰を沈めるとあたしの方を向いて言った。
「いや本当に、君は天才だと思うよ、ぼくもカメラマンの端くれとしてね、役者さんとこんなふうに心理的駆け引きをすることは多々あるんだよ、しかし役者といってもピンキリでね、中にはこんなのがどうしてっていうような、胸の大きさだけで選ばれてきたようなやつがぼくのカメラのレンズに写ることもあるんだ、そんな子たちは話しをしてても誰もが似たようなファッションとか食べ物とか名前だけのブランドの話ししかしない、だけど君は違うんだ、その場にいるだけで、有無を言わさない存在感っていうのかな、ともかくぼくをこれだけ緊張させたのは少なくともここ数年では君だけだよ」
先生も仕事があるのですぐにとはいかない、2週間くらい後を目処にしてくれと言われてあたしはそれに従いこの夜は家に戻った。その間に先生はジュンヤさんにロールプレイの設定を伝え、場所と道具の手配を済ませてもらっている。
後ほどあたしからもジュンヤさんに電話した。先生の考えた設定のことを言うと彼はすこし逡巡するような間を取ってから苦笑いを漏らし、やがて語りかけるように言った。
「なるほどな、やつらしい趣味だぜ、だけどお前が言ったように元ネタはあの格闘ゲームなんだけど、兄じゃなくて親父ってのはオレの旧い知り合いからだな、中学ん時に知り合った恩田コトブキって野郎なんだが、やつがそうだったんだよ。やつは高校のうちからひとりで族旗揚げして今じゃ組にまで成長させた大した野郎だ、なんだがそいつの親父ってのがまたひでえ外道でな、芸者の女を口説いて娘を産ませて、しかもその実の娘にまで自分の子種仕込んで孕ませたんだよ、いいか60過ぎたジジイになってからだぞ、んで産まれたのがそいつってわけだ、だからかしらねえがやつはガキん頃からすげえ老け顔でな、理由を聞いてなるほどって思ったりもしたもんだが、まあそのことをケンスケには以前に話して聞かせてやったことがあるから、そのことを覚えていたんじゃねえかな」
「昔からそういう環境だったんですね」
「まあそんなところだな、オレの学生時代の友達、幼馴染には在日もいたしハーフもクォーターもいた、オレがガキん頃に住んでたのは御殿場なんだが、あそこはサードインパクトで吹っ飛ぶ前は戦自や国連軍の基地がたくさんあったんだ、だから外国人も大勢いたんだ、日本の中でもあそこだけはニューヨークかロサンゼルスみたいに雑多な人種が混ぜ込まれた町だったんだよ、基地の町だな、オレはそういうところで育ったんだ、だからガキん頃から本当にいろんな人間を見て育ってきたんだよ」
ジュンヤさんとその仲間たちはサードインパクトの被害を逃れた後、第2東京に移り住みそれぞれの道を歩んできたのだそうだ。子供の頃の友達ともいつしか離れ離れになってしまい、仕事の上での係わり合いなどはあるがもはや幼い日々の思い出ははるか遠くへ去っていき、心のアルバムの中にだけこっそりしまっておく、といった感じのようだ。
マナやあたしのような子供たちはジュンヤさんにとっても昔の自分たちを思い出させるものらしく、比較的寛容に接している。そんな彼と掃除の時間に階段の踊り場でステンドグラスの壁に寄りかかりながら携帯で話していると、他の班だったレイコが箒を片手にやってきてなにサボってるの、彼氏と電話?昼間からお盛んね、とにやけた笑みを向けてきた。あたしはそんなんじゃないって、ちょっと家の用事があって、と返した。
そうかあんたんちって親いつも家に居ないもんね、あんたひとりで切り盛りしてるんでしょ、とレイコはひとりで勝手に納得してくれたようだった。
またいつか家で遊ばない、と言われたがあたしはすこし考えてからもうちょっと待って、と答えた。今は先生とのロールプレイが最優先される用事だ。先生は仕事があるから休みの日を変えるわけにはいかない、だからその日だけは最優先で確保しておかなければならない。いずれ、また土曜の夜になるだろうとはジュンヤさんから聞いている。
「あれ、レイコ香水変えた?」
漂う香りが普段と違うことに気づいて、あたしは壁から身体を起こして言う。
「気づいた?これモコがもって来てくれたのよ、ディオールよ、いいでしょ」
「また万引き?あんまり調子乗ってるといつかしょっ引かれるよ」
「だいじょぶよ、あいつ丸っこいからポケットに隠してたってバレやしないんだから、もともと膨れってるから、それよりケイこないだウィルからハッパ買ってたじゃん、あれあたしたちにも分けてくんないのかな、どうせひとりで使いきれる量じゃないのに」
「あれ、あれケイが勝手に持ってっただけだって、葉っぱだけだと思ったら蕾までごっそりやられたってあいつ嘆いてたよ、樹脂で手べたべたになったでしょうに、あれ匂い付くととれないのよ、ばれたらそれこそ万引きどころの騒ぎじゃないでしょ」
「あいつんちは親ももともとそっち系だったから別に家でやるぶんには大丈夫なんじゃない、若い頃はそれこそエスとか普通だったんでしょ?それにあいつんちの周りはただでさえ臭いからちょっと匂った程度じゃばれないって、警察もわざわざあんなところ見回りたくもないでしょうし」
レイコは首を振って、背中まで垂らした軽いくせっ毛のポニーテールがそれを追うように左右に揺れる。あたしは小さい頃からずっとショートで通している、伸ばそうと思ったことはない。あたしの髪質は細めのストレートだから、伸ばせばザドアーイントゥサマーの山岸マユミさんのようになることだろう。
あれからマナとは何度か会って話しをし、今の彼女は伊吹社長に用意してもらったマンションにひとりで住んでいるそうだ、ただそこから聖霊に通うとなると遠すぎるので寮に入るつもりだと言っていた。聖霊は名門校らしく首都圏各地から生徒を集めていたので彼らが実家を離れて生活するための寮は完備されている。それでも最近、ここ数年は生徒数の減少が経営に響き、とうとう去年からは共学化して男子生徒も受け入れることになったのだ。女子寮はもともと建てられていた豪華なレンガ造りの建物だが、男子寮のほうは現在のところは簡素なプレハブ造りだ。いずれちゃんとしたものを建てる、とは聞いているが何年先になるかは知らない。
マナはとくに音楽関係の話題に詳しく、また自分でも作曲などを嗜むらしくSC−88という旧式のシンセサイザーを所有していた。秋葉原のジャンク屋で見つけてきたというセカンドインパクト前のヴィンテージもので、キーボードやデジタルギター、各種エフェクター、それから作曲ソフトをインストールしたノートパソコンを組み合わせることでちょっとしたスタジオ設備を作れるという。見せてもらっていないが、自分の部屋にはそのシステムを構築してあるそうだ。いずれそれらも寮の部屋に持ってくるから、大がかりな引越しになるねと楽しそうに話していた。
家に帰ってから、せっかくだからと貸してもらったUltra_VioletというユニットのCDをプレイステーションに入れて再生し、テレビにイヤホンを繋いで聴く。このUltra_Violetは女性二人組みのユニットでリードヴォーカルがTOKIKO、ギターとバッキングヴォーカルがMAHIRO、というそうだ。二人は義姉妹で、MAHIROの兄で彼女らのマネージャーをしているカズキという男がTOKIKOの妻だそうだ。TOKIKOさんはまだ弱冠20歳でしかし既婚者だが、それでも人気は高く、また独特の硬派な性格から女性人気もかなりのものがあるらしい。
曲のジャンルとしてはハードロック、パンクロックでTOKIKOさんの歌声は派手なエレキギターの音にも負けることのない芯の強い声だった。MAHIROさんは対照的に可愛さを含んだ声で、それらがミックスされてこのUVというユニットの形を完成させている。
TOKIKOさんは強い、とあたしは彼女の歌声を聴きながら思っていた。それは単に声質とか歌い方とか歌詞のフレーズとかいったものではなく、こういう声を出せる人は本当に心が強いのだという感覚、本当に心が強い人間が歌うとこういう声になる、といったことをとても率直に表現しているものだ。自分にこんな声が出せるか、と思うとそれが憧れの感情に変わっていくのがわかる。それはとても素直な感情で、いつしか彼女の歌を聴いている自分がものすごく澄んだ心になっているのが感じ取れていた。いつもあたしの頭の中に渦巻いていたもやもやも薄れて、本当に浮世のしがらみを忘れられているような気がしていた。曲そのものは派手なロックであるにもかかわらず、だ。それでもどこか、このUVの歌う曲にはどこか、明るさの中にも針のような痛みが含まれていると思う。一見はっちゃけているように見えても、その影には何かの絶望や未来への不安、幸せが崩れ去ることへの恐怖、そんな要素が含まれている。
携帯で検索してみてある意味納得できた。このUVはザドアーイントゥサマーと同じくCMRB所属のユニットで、作詞、作曲にはコモレビ、CMRB代表にしてホクマ・グルーヴ・ターミナル、CGTの重鎮のひとりであるビッグプロデューサー、COCONOが直接携わっているというのだ。COCONOさんの書く曲というのはどれもそうだ。生きようとする元気と、傷つき苦しむ痛み、その相反する要素がひとつの曲の中に同居している。得意とするダンスミュージックでも、ただノリがいいというだけとは違う、そう、洋楽のように、ユーロビートのように、激しいテンポの中にも感傷的な要素を多く含んだメロディーが流れているといった感じで他の多くのアーティストたちが書くダンスミュージックとは一線を画している。
MAHIROさんは栗色のやわらかそうなロングヘアで、TOKIKOさんは逆に硬質な黒髪のおかっぱだった。首まわりの形がすこし違うが、あたしの髪型に似ているなと携帯の画面を見ながら思っていた。
UVのあるファンサイトを見ている最中にメールが着信して、ブラウザを切り替えますか?というダイアログが表示された。あたしはサブディスプレイで発信者名を確認してからOKのボタンを押し、メールの中身を見る。
相田先生とのメール交換もほぼ毎日のペースになり、お互いに近況などを語り合うようになった。先生は撮影の仕事で海外に出かけることも多く、最近はあたしと出会ったばかりの頃のように暇は取れなくなっているらしい。それでも、こうしてあたしとメールを送りあうことで毎日の生活のエネルギーになると、先生はそう言ってくれた。
先生と出会ってからもう1ヶ月あまりが経とうとしている。
6月の最初の土曜日の夜をロールプレイの日にすると決まった。先生は映画のスチール写真の撮影で北海道から帰ってくるその足でホテルに来るらしく、あたしはすこし休憩をいれたらどうですかと言ったが先生はなに、君と会うことがじゅうぶんに休憩になるさと笑いながら電話口で言っていた。
その前日の金曜日付けで、マナは正式に聖霊学習院中等部に編入されることになった。クラスはあたしと同じC組で、朝のホームルームで真新しい純白のセーラー服に身を包み霧島マナです、よろしくお願いしますと元気に挨拶していた。席順は相変わらず五十音順のままなのでマナの席はモコの後ろになった。
最初の休み時間、さっそくみんなにマナを紹介する。
「へえ、マナだっけ、あんたがこいつのメル友だったってわけね、正直意外だね、たしか鹿児島だったんでしょ?第2東京まで出てくるのって遠かったんじゃない」
ケイは椅子に足を組んで座りながら、立ったまま話しをしているマナを見上げる。
「うん家の都合で、こっちに引っ越すことになったの、それで前々から聖霊の話しは聞いてたから、これは私もチャンスだなって思って入ることにしたんだ」
「ふふん、まあ昔の話しとはいえここも仮にも名門だからね、聖霊出って肩書きがつけばいろいろと将来のためにもなるでしょ」
「山城さんもそれが狙いだったり?」
「さん付けはいらないよ、普通にしな、あと下の名前でいいから」
後ろの方でモコが邪魔だ、どけとヒデアキに言われていてモコは重い身体を揺らして椅子を跳ね除け、あんだようるせえな、と言い合っている。
ユウキはだるそうに机に突っ伏してたまにあくびをしながらケイの方を見ている。
「でもなんか、マナ、あんたって大人っぽい感じするよね、目つきのせいかな?落ち着いた感じっていうか、経験踏んでそうっていうか」
自分の席を追われてきたモコが駆け寄りながら言う。明らかに値踏みするような目でマナを見たモコに対し、マナは愛想笑いを返している。自分がもうどういう目で見られているのかはわかっているのだろうから。あたしはケイたちのことは直接メールに書いたりはしなかったけれど、それでも普段の話題や話しぶりからあたしたちがどういうことをしているのかはマナだってわかっているはずだ。
「目のことは言わない約束でしょ」
「なによあんたのことじゃないって、マナは垂れ目っぽいのが大人の雰囲気出してるって、そういう話しじゃない」
自分で言うのもあれだがあたしの目つきは悪いほうだ。赤ん坊の頃に弱視があって、それを矯正するためにアイパッチをつけていた時期があったのだがその頃に片目しか使えなかったおかげで変に睨みつけるというか、はっきり言えばつり目になっている。昔はそう言われると無性に腹が立ってぶち切れて喧嘩したものだが今はケイたちもそのことは分かったので言わないでいる。
「よく言われるんだよ、私ってそんなに老けて見えるかなあ?」
あたしとしては髪型が昔のアイドルみたいなのが大きい、とも思う。
マナは普段あたしとメールで話すときや、この間伊吹社長の地下クラブでジュンヤさんと話したときとは違う、ぐっと感情を抑えた姿勢で話している。それは今日が転校初日でまだみんなと会ったばかりだから、遠慮しているということだ。
「ほらカズヤっているじゃない、あのスポーツ刈りのやつなんだけどさ、あいつがすごい女好きなのよ、こいつのこともさんざん遊んでおいてさ、そのくせあたしやレイコにも平気でちょっかいかけてくるのよ、誰彼かまわずって感じでね、だからあんたも気をつけといた方がいいよ」
「そうなんだあ、さすが都会の子は進んでるのかなあ」
笑いあいながらも、マナとケイの間には微妙な駆け引きが働いている。マナもあえて見せているのだろう、自分が男を相手にしていると、そんな雰囲気をしぐさに見せている。それは話すときの指先の動きだったり視線だったり、さまざまだが、そしてケイもそれを見てあえて挑発するような話題を振っている。マナはそんな話しにもうろたえることなく平気で答えを返している。
放課後、また先生に電話した。
先生は空港のロビーで待っているようで、ときおり背後に発着を知らせるアナウンスの声が聞こえてくる。
「そうか、やはりそうだと思うよ、目っていうのは人間の感情をいちばんよく表す部分だからね、マナちゃんもさすがにそのあたりの使い方はわかっていると思うよ」
いよいよ明日ですね、
「不安かい?」
そういうわけではないんですが、やはり緊張しますね、
「しかし君も弱視があったとは驚きだね、実はぼくもそうだったんだよ、ぼくの場合は斜視と遠視も入っていたから余計に大変だったね、それで今でも眼鏡は必需品なのさ」
先生もだったんですか?
「ああ、ぼくは小さい頃からカメラが好きでよくいじって遊んでいたんだけど、そのときにレンズを覗いていて照準線が見えないことがあってそれで気づいたんだ、すぐに治療して視力はある程度戻ったんだけれど、いかんせん発覚した時期が遅かったからね、君は大丈夫だったのかい?」
「ええ、あたしの場合は父さんが早めに気づきまして、ええその頃はまだ父さんは家に居ました、母さんが働いていたもので父さんはずっと家にいることが多かったですね、あたしの世話もほとんどやってくれました」
やや間が空いた。それは時間にしてほんの一秒にも満たないごくわずかな間だが、同時に限りない感情の交錯が入り乱れる時間でもある。
現役だった頃の母さんの稼ぎは相当なものだったらしく、それに比べれば普通の労働者である父さんの収入など吹けば飛ぶようなものだ。それであたしが生まれてからは仕事もあけて主夫のようなことをしていたようだ。そこに父さんがどんな感情を抱いていたのかは知る由もないが、どちらにしろそうなって早々に離婚してしまったということは母さんによほどの不始末があったのだろう、現に今あたしもそれで家を何とか出られないものかと画策している。みんなと遊んで朝日を見ることもあるが、それでもいったんは家に戻っている。こうやって思い出していると本当に、家出でもしてしまいたい気分になる。
「でもまあお互いこうして今は生活に支障がないところまで治ったんだし、よしとしようじゃないか」
そうですね、
先生はあたしの緊張をほぐそうとして言ってくれた。あたしもこうして、少しずつ自分のことを先生に話していっている。それは薄皮を一枚ずつはがしていくように、心を覆っている殻を溶かしていくということだ。他人に自分のことを伝えるというのは簡単なようでいてなかなかうまくいかないものだが、今のあたしは先生に導かれてその綱渡りを危なげながらもなんとかこなしている。
先生と話し終えた後レイコに呼ばれて何事かと思うとあたしはケイとユウキに両腕をつかまれて特別教室棟の女子トイレに連れ込まれた。カズヤとヒデアキも後ろについて、それからレイコがマナの手を引いていっしょに入ってくる。
みんなが見ている前であたしはケイにトイレの床に蹴倒され、まずスカートを引っ張られて脱がされた。
ユウキがまだかよ、とじれったそうに言いながらズボンの股間を盛り上げている。
ケイはちょっと待ってな、と言ってポケットからピンクローターを取り出してスイッチを入れた。それはあたしがケイにあげたものだ。レイコもマナもなにも言わずに無表情でただじっとあたしを見ている。あたしは起き上がろうとするとケイに腹を踏みつけられて再び倒される。
「こいつがどんな女か見せてやるわ」
ケイはあたしの左足から脱がせた靴下を丸めてあたしの口に突っ込んだ。ヒデアキがあたしの頭を両手で押さえ込み、ユウキがあたしの両足を開いて股間をあらわにし、なんだもう染み付いてんじゃねえかよ、と下品に笑いながらズボンのベルトを外しはじめる。
あたしは口に詰め込まれた靴下が苦しくてピンクローターがあそこに当てられたのがわかったが誰がやったのかはわからなかった。涙は出ない。痛い、と言おうとしても声も出ない。ただ、二人の女が並んで立ってあたしを見下ろしているのがわかった。その二人にはなんの感情もない、だけど、それなのにあたしは何万人の観衆の中で犯されているという錯覚に陥っていた。カズヤとユウキとヒデアキに代わる代わるに下腹をありったけ掘り返されザーメンを注ぎ込まれた後、あたしの顔と胸にも熱いものが振りかけられた。ケイが舐めろ、と命じたのであたしは震える指で頬から垂れ落ちてきた白いものをすくい取ると口に運んだ。
「いい?こいつはこんな淫乱女なのよ、こいつのおかげであたしたちも楽しませてもらってるしね、男子連中もこいつに慰めてもらってるのよ、知ってる?こいつの母親は毎日こういうことして、男どもに跪いて面汚しながら金もらってたのよ、わかる?だからマナ、あんたもこういう女になりたくなかったら日ごろの行いには気をつけることね」
ケイはマナがどんな仕事をしているのかわかって言っているのだろうか?
みんながマナの背を押して帰ってしまった後、あたしはひとりでトイレットペーパーで股間を拭き手洗いで制服の胸を洗っていた。携帯を開き、リダイヤル履歴を開くといちばん上に先生の番号がある。電話をしようかと思ったがやめておいた。この時間だともう飛行機に乗ってしまっている。今から先生は北海道へ旅立つのだ。明日の夜、また飛行機に乗って第2東京に戻ってきて、そのときにようやくあたしは先生に会える。
カーソルをひとつ下へ移動させ、ジュンヤさんの番号を選ぶ。コールすると5回目で出た。背後には雑踏の音が聞こえる。今は外回りだろうか。
あたしはなにを言おうか迷ったが、意を決した。
「本番ってアリなんですか?」
「それは、やつ次第だな、だが覚悟だけはしといたほうがいいぜ」
今さら怖気づいたんじゃねえだろうな、と言われたのであたしは違います、とはっきり答えようとしたが声は弱々しいものしか出なかった。ようやく涙があふれてきた。涙声で違います、と答えて、こぼれた涙の雫が携帯のスピーカーの穴に入り込むのが見えた。
ジュンヤさんはしょうがねえなあと言ってあたしに今から新宿駅西口で待ち合わせをしようと言ってくれた。あたしはそれに従って服を整えるとすぐさま学校を出て駅に向かった。電車に揺られながらあたしは自分の感情が今までにないほどに薄く希薄になっていくのを感じていた。電車の揺れに従って乗客たちがひとつの大きな波を作って揺れる。でも、あたしはその波には飲み込まれない。
新宿に着いて、あたしはジュンヤさんにお願いして高層ビルの陰の路地裏でひっそりと営業しているラブホテルに入れてもらった。お互いに服は脱がない。今はそういう目的で来たのではない。
これで勘弁しろよ、と言ってジュンヤさんはあたしを胸に抱いた。決して体格が大きくはない、むしろ男としては華奢な部類にはいるであろうジュンヤさんの身体はしかし13歳のあたしを包み込むにはじゅうぶん過ぎるほどに強さがあった。あたしはとうとう声を上げて、ひとしきり泣いた。なぜ悲しかったのか自分でもわからない、ただ、誰かに肌を合わせていたいという感覚が今まででもっとも強く生まれていた。
ホテルを出て別れるとき、ジュンヤさんはみやげだと言ってあたしに珊瑚が埋め込まれたシルバーのイヤカフスをふたつくれた。あたしはそれを耳につけて、おかっぱの髪の中にちょうどうっすらと浮き出る形になると確かめてもらった。
帰りの電車は学生の姿が少なくなっていて、そのときあたしは初めて窓の外を見てもう夕暮れ時になっているのだと気づいた。仕事帰りのサラリーマンたちに囲まれながらあたしは電車に乗っている。誰かがあたしの太ももに手を触れたがなにも反応しない。
家に帰ったとき、日は既に暮れて辺りは暗くなっていた。
翌日の夜、あたしは指定されたホテルに聖霊の制服を着て向かっていた。
ホテルのロビー中央には大理石でできた滝壺の形をしたオブジェが鎮座していて、あたしは先生を待ちながらじっとそれの上を透明な水が流れ落ちていく様子をソファに座りながら見ていた。フロントの向こうにいる3人のホテルマンのうちの女がひとり、あたしの方を一度ちらりと見たがそれ以降は気に留めることもなく仕事を続けている。
水が岩の上を滑り落ちて水面にぶつかると白い泡が立って、しかしそれはあっという間にはじけて消えてしまう。しかしあとからあとから水は降ってきて、泡が消えてしまうことはない。
人の流れは水の流れに似ている。低いところへ、より多くのものが集まるところへ自然に寄り集まり、溶け合い温度差をなくしながらそして汚れていく。
先生が来るちょうど直前に、生き物の声があたしの頭の中に響いてあたしは私になっていた。生き物は声をあたしに聞かせてくれるが、お互いに対話したりということはできない。言葉は常に一方通行だ。あたしは先生から見せてもらったアヤネの写真を思い出す。顔立ちは可愛いが、目つきの鋭さは本物だ。
私は自分の本能を分かっていた。
今夜は先生を誘う。もう撮影だけじゃ飽き足らない。そのカメラで私の淫らな姿を写してほしい。それとも、そんなのはオレの性分じゃないと断られるだろうか?それでもいい。私は先生がほしいのだ。
私が大人の男に抱かれた回数は数知れない、だけど、今夜のそれだけは私にとってあたしにとって特別なものなのだ、私はセックスをしていないと精神に異常をきたしてしまう病気なのだ、現に今はこうして感情が不安定になっている。あたしは抱かれたいと思っている。私は抱かれたいと思っている。それは人間としてごく当たり前の本能のはずなのに、その発露のしかたが異常だから病気にされてしまうのだ。そんなことは私にとってはどうでもいい。私はただ、あたしはただ、身体と心を慰めてくれる相手がほしいだけなのだ。私はあたしの記憶を探る。昨日、みんなに痛めつけられたから、そのことを言って優しくしてもらおう。そうすれば男なんて案外あっさりと転ぶものだ。先生のエスコートで部屋に案内される間私はずっとそんなことを考えていた。
先生が私に与えたのは人格だけだ。
だが、ストーリーは私自身の意思でつくることができる。
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