地下クラブ
「ロールプレイ?」
会って開口一番、先生の口から出たその言葉にあたしは聞き返していた。
「こないだ聞かせてもらったよね、自分の中に何人かの違う自分がいるって、それを生かせる恰好のゲームだと思うんだ」
「ゲーム、ですか」
「そう、ロール、つまり役柄だね、決められた役柄を演じて短いストーリーを流すっていう遊びなんだけれど、じつはぼくの知り合いでそういうのにちょっと詳しい人が居てね、彼に訊いてみたらそれをやってみたらどうだ、ってことになったんだよ」
「それってもしかして危ない方面の話しですか?」
先生は苦そうに目を細め、仕方ない、といった表情で手を扇いだ。
あたしたちはまたあのホテルのロビーで会っていた。ここなら聖霊からも遠いし、他の生徒たちに見つかってしまうということもない。
正直なところ、まだあたしは躊躇っている。何を?一歩を踏み出すことを。現状が動くのを怖がっている。このままあの家に身を寄せ続け、しかし、そうやって何年も時が過ぎていったところで何かがあるのか?なにかを手に入れられるのか、得られるものがあるのか、あたしのためになるのか。
そう考えたとき、あたしはたとえ自分の身を傷つける結果になったとしても先生の言葉に従って、導いてほしいと思い始めていた。
「ぶっちゃけてしまえばね、たしかにその彼っていうのも堅気ではない、そのスジの人間だよ、だけどぼくとしてはできるかぎり君を守ってやりたいと思う、だからそのプレイの相手もぼくだけに限定するつもりだし、彼の側としてもあくまでぼくと君が契約した、という形をとることにするつもりでいるんだ」
「筋だけは通す、ってことですか」
「まあね、なにかとしがらみの多い世界だし、そう理解してもらえると助かる」
「先生が私にお金を渡す正当な理由を作ると」
「そう思ってくれていいよ」
あれから詳しく事情を知りたいと言われたのであたしはメールにできるかぎりのことを書き、そしてここに来てからもそれを補足する形で話しをした。母さんの仕事のこと、昔やっていた仕事のこと、両親が離婚したことそして再婚しようとしていること、家のローンの残り、今の母さんがいかに金にずさんかということ、そして私自身のこと、小学校時代から友達が居なく無口だったので今の性格になったということ。ケイたちとの遊びについては言おうかどうか迷ったが結局言わないことにした。言えば心配されるだろうし、なによりもよからぬことをしているという後ろめたい気持ちがあったからだ。
だがあたしがこれからやろうとしていることさえも、それがいかがわしいことでないという保証はどこにもない。生活指導で配られるプリントにはいまさら飽き飽きとした内容が連ねられているが、あたしがこれから先生とやろうとしていることはまさにそういうことなのだ。
彼に会ってみるかい、と先生が言ったのであたしは肯定の返事をした。
外に出て、ホテルの地下駐車場にとめてある先生の車へ向かう。
「フェラーリ、F355ですか、ベルリネッタ」
「ほう、よく知ってるね」
「テレビゲームで見ただけですよ」
「ははそうか、まあフェラーリというイメージはともかくとして、実際のものはこんなもんだよ、意外とこじんまりとしたものだろう、音もうるさいしね、少なくとも隣に女の子を乗せるような車ではないよ」
指先がチリチリと震え、あたしは自分がとても聖なるものに触れようとしているという感覚を覚えていた。これがブランドの力というものなのか。真紅のスポーツカーもここではただの一般人だ。
同じ赤でも、ルビーの色とは違う気がする。血の赤だ。血の色をした車だ。
シートのすぐ背後にエンジンが配置されている。車内に響く騒音は当然とてつもなく、あたしも先生も自然と声量を大きくする。
「ちなみにこれ、幾らしたんですか?」
「値段かい?いろいろいじったからね、あちこちメンテもしたし、ホイールもマフラーも、ライトも換えたし羽根も付けたし、そうだねざっと2500万ってところかな」
「現金で?」
「ああ」
「さすがですね、著名なカメラマンともなるとこれだけのものを買えるんですか」
「まあ、ぼくとしてはやっぱり名前が売れたらそれなりのものをコロがさないとっていうのもあったけれど、そうだね同業の知り合い連中なんかだとメルセデスは当然として、モデナ、ジャガー、アストンマーチンも聞いたことがあるね」
「そういう世界なんですね」
先生はすこし黙り、右手をハンドルから離して頬をかいた。そのわずかなしぐさにあたしは先生の感情の迷いを読み取る。
「これからって時に悪いかもしれないけれど、やっぱりこういうのって社交辞令だと思うんだよ、ただ金額の桁が違うだけでね」
「わかります」
「たとえばぼくが仕事をひとつ片付けてスタッフのみんなと飲みに行ったとしよう、そこでぼくが奢ると言えばそれだけで何十万というお金がひと晩のうちに消えることになるんだ、ぼくたちが行くような店というのはそれだけの値段のものを置いているからね、だけどこれが一般家庭、普通に勤め人をやっているような人だとひと月分の給料にも相当するだろう、それを一日単位で遣ってしまうんだよ、それくらいに動く金額というのが大きいんだ、それがつまり世界が違うってことなんだ」
踏み込んで来い、と。
望みを叶えたいのなら踏み込んで来い、オレたちが居るのは違う世界なんだ、お前はそんな甘い気持ちでこの話しを受けたんじゃないだろう、そう先生の表情は言っている。
世の中はすべて取引でできている。もし仮に先生が同情からあたしにお金を渡したとしても、それが先生にとってははした金に過ぎないとしても、そこには何の意味も価値もついてこない、それっきりのことだ。あたしはあたしのためにそして先生のためにできることがある、できることがあるのなら迷わずそれをやり遂げ、そうしたうえで初めてその正当な対価として報酬を受け取れ。
フェラーリの甲高いエンジン音に包まれながら思案する。
やがて車は新歌舞伎町に入り、ある裏路地で停まった。
「さてここからちょっと歩いてもらうよ、この辺は今でもこんなふうに雑然とした町並みがあるんだ、ぼくも若いころはこういうところで育ったんだよ」
「20年代の雰囲気、って感じですね」
西暦2000年のセカンドインパクトに始まり、人類は立て続けに二度のカタストロフを経験することになる。人類史上初めてといっていい巨大天体衝突事件だ。2016年、日本の関東・東海地方一帯を吹き飛ばしたサードインパクトを経て、その後数年間は復興へ向けての薄暗い時代が続いた。やがて人類がかつての文明の輝きを取り戻し、そしてそのエネルギーがいちばん激しく燃え盛っていた時期が2020年代、あたしが生まれたかどうかの頃、あたしたちの親世代が青春を送っていた時代だ。そして今はかつての熱に浮かされたような時期を通り過ぎ、ゆるやかな終息に向かっている。それが2030年代末の現代だ。
そんな中でも、ここは旧きよき時代とでも言えばいいか、そんな感じの印象、小さい頃に旧型の丸いテレビに映っていた静かな落ち着いた雰囲気の映画や懐かしのドラマ、そんな感じの空気をここの町は持っている。
雑居ビルの裏手から、地下へ降りるコンクリートの階段がある。その先はビルの地下階をそのままホールとしたひとつのクラブになっていた。大音量のダンスミュージックが流され、着飾った若者たちが思い思いの仲間たちと遊びを楽しんでいる。あたしはそんな雑然とした人々の中に紛れ込んでしまった自分がものすごく場違いに思えて、さっきグランドパレスのロビーにいたときには気にも留めなかったのに、今はこの聖霊の白いセーラー服がとても居心地を悪く感じさせた。こんな場所にはもっとラフな服装で来たいと思う。
やがて相田先生が手を上げると、それに応えるようにして人ごみの向こうからひとりの男が現れた。
「やあジュンヤくん、久しぶり」
男はホワイトメッシュを入れて軽く散らした短めの銀髪で、年の頃は先生と同じくらいだろうが、ほっそりとした端整な顔立ちをしている。二十代だと言っても通じるだろう。白いカッターシャツにプラチナのアクセサリーを纏い、ぱっと見の印象ではいわゆる不良系のオヤジ、といった感じだ。
彼はあたしと先生を交互に見ると、背の低いあたしを見下ろすようにして言った。
「そいつが噂の子か」
「ああ、ここ数年では間違いなく一番の逸材だよ、オレが保証する」
「ふん、まあ、どのみち社長に話し通してみねえことにはなんともいえねえけどな」
「大丈夫、伊吹社長ならきっと分かってくれるはずさ」
先生はオレが保証する、と言った。
それはあたしを認めてくれていることと同時に、あたしを今までいた世界から違う世界へといざなっていることを意味する。
今まで先生はあたしと話すとき、自分のことをぼくと称していた。だがこの男、ジュンヤさん、彼と話したときに初めて、初めてあたしの前でオレという一人称を使った。それはすなわち自分が身を置く立場、立ち位置の違いを表している。
「ところで今日は一人なのか、珍しいな。部下たちはどうしたんだ?」
「オレにだってたまには一人でゆっくりしたい夜はあるのさ」
そう言ってジュンヤさんは視線をステージへ投げた。人々の揺れ動く頭の向こうに見えるステージ上では数人の女性バンドが演奏している。彼女たちの衣装はいわゆるゴスロリ系で、ヴォーカルの女は睫と唇を強調した派手な化粧をしている。
「ははあ、なるほど、そういえば今日はヒロミちゃんのライヴだったんだね、そうかそれでひとりでこっそり観に来たというわけか」
「うるせえな、ほっとけ」
苦笑し、頭をかく。それは力を抜いて砕けた雰囲気で話しをしようとしている、つまりあたしの緊張を解こうとしているのだ。
「ロールプレイのこともひととおり説明したよ、とりあえずその方向で話しを進めてくれないかな」
「ああいいぜ、オレとしてもこの手のは今まで手薄だったからな、最近はいい女の子もいねえし、人材不足だったんだよな、だけどまあ、お前が金出してくれるっつうんだったらオレとしても悪い話しじゃねえ、だから今回は専属契約って形で、いちおう籍はうちの名簿に入れとくが管理はオレが直接やる、だからお前らは好きなようにやればいいし、好きなようにできるってわけだ」
ジュンヤさんは上着のポケットからラッキーストライクを取り出して火をつけ、煙を吐きながら言った。先生にも勧めたが先生は断っていた。ジュンヤさんのつけているコロンの香りも混じって、軽い甘みのある煙があたしたちをゆったりと包み込んでいる。
「先生、さっき言っていた社長ってのは?」
「なんだケンスケ、先生なんて呼ばせてんのか?あやしい下心とかねえだろうな」
からかわないでくれよ、先生はそう言って唇の端をゆがめた。ジュンヤさんは悪戯っぽい表情であたしを見ている、知ってるか、こいつは昔から女に目がないんだよ。
肩を叩きあう二人は昔からの友人、旧い幼馴染、そんなふうに見える。あたしにそんな人がいただろうか。あるいはケイたちと、大人になったらそうなれるのだろうか。かすかな寂しさをあたしは自分の本当の気持ちなのかと疑う。
「伊吹社長ってのはここのクラブのオーナーでね、ここら一帯じゃいちばん名の知れた実業家、この町の実力者だよ。ぼくたちにとっては先輩、いや親分みたいな感じでね、昔から世話になっているのさ」
「彼女にも挨拶しとかねえとな」
「彼女?女の方なんですか」
「ああ、つってももう婆さんだけどな」
「それはないだろう、社長はまだまだいけるさ、確か今年で47だっただろ?まだじゅうぶん若いと言えるさ。ジュンヤくん、君がこの子くらいの歳の頃から彼女はこの町で活躍してきたんだよ、第2東京、新歌舞伎町の伊吹マヤといえばオレたちの業界では知らない者はモグリってくらいだぜ」
その若さでこれだけのグループを創り上げたんだから、彼女の手腕には感服するしかないよ、先生は最後にそう付け加えた。
「ともかくロールプレイのほうだ、設定はケンスケ、お前に任せる。上がったらオレんとこにもってこい、ホテルの手配はしておくから」
「わかった、よろしく頼むよ」
お互いに話しを切り上げようとしたとき、突然人ごみをかきわけて少女の声が割り込んできた。あたしとジュンヤさんは同時にその声のした方を見る。
「鳴海さん、さがしましたよぉ」
「なんだマナちゃん、来てたのか?社長にも言われてるだろ、ガキがこんなとこに出入りしちゃいけねえってよ」
「鳴海さんこそ、今日はどうしたんですか、こないだヒロミさんからここでライヴやるって話し聞いたんで、ひとりで来てたのかと思ったら、私と歳変わんないくらいの女の子連れちゃって」
「そんなんじゃねえって、こいつぁオレの知り合いが特別に頼んだ子なんだ、お前みたいな商売女じゃねえんだよ」
騒がしく話す二人の会話の中にあたしは聞き覚えのある名前を見つける。
「あの、マナちゃんって、もしかして霧島マナさんですか?」
「そうだけど?」
「ああー、あの、覚えてます?マーガレットに投稿した」
「ん、ああ?あなたがそうだったの?」
「なんだ、知り合いかよ?」
「ええちょっとした縁で、メル友だったんですけれど」
あたしがそう答えるとマナはジュンヤさんの腕を取って寄りかかりながらこの子は私の友達ですから、なおさら手出しちゃだめですよ、社長に言っちゃいますからね、そう愉快そうに話していた。あたしはそんな二人の姿を半ば呆けながら眺める。
社長にあんまり告げ口しねえでくれよ、最近は条例もうるせえからオレたちも商売しにくくなってるっつうのに、それにオレはロリコンじゃねえからな、こいつと違ってな、だからお前らはストライクゾーン外だ、ジュンヤさんは親指で先生を指し示す。先生も処置無しといった表情で肩を落とし、白いスーツを褐色に汚れたコンクリート打ちっ放しの壁にもたれた。
マナは露出度の高い薄手のワンピース姿で、いかにもこういった場所に慣れてそうな雰囲気を醸し出している。あたしの中のメグミがそう教えてくれた。
「いつからこちらに?」
「ああ敬語使わなくていいよ、同い年なんだし、いつもどおりでいいよ」
「ええ、うんそうですね、そうだねマナさん、いえ、マナ、あなたはたしか鹿児島の阿久根だって聞いてたけど、どうして第2東京に?旅行か何か?」
あたしが訊くとマナは頭の後ろに手をやって首をかしげ、苦そうに言った。
「ううんそれはちょっとワケアリでね、じつは小6ん時からもうこっちには来てたのよ、メールでは隠してたんだけどね、それで社長、ああ、伊吹社長っていってね、私が世話になってる人なんだけど」
「伊吹さんのことなら今さっき話してたよ」
「あ、そうなんだ、じゃあ話しは早いね、私は今実家出てこっち来て社長に身の回りの面倒見てもらってるんだけど、ちょっと向こうでいろいろあってね、その辺は今度社長と会ったときに言おうと思うんだ、あ、社長と会う予定ってあったっけ?」
あたしは先生に目配せする。
「うんそうだね、いちおうこういうことをするからっていうのは社長に話しを通しておかないといけないだろうし、そのときはぼくと君と、ついでにマナちゃんもいっしょに来てもらおうか、それがちょうどいいしね」
先生の言葉を聞くとマナは踊るようにステップを踏みながらあたしのほうを振り向いて言った。
「そっか、わかった、それじゃいつがいいかな?」
「私は次の土曜夜で、できれば」
「おう、それじゃあ社長にはオレから言っとくからそんときにまたここで待ち合わせな、オレも一応顔は出すぜ」
ジュンヤさんがそう言うとマナは唇を尖らせて、じゃれつく子供のようにジュンヤさんのシャツの袖を引っ張った。あたしと先生は微笑みながらそんな二人を見る。
「もう鳴海さんったら、私ももう慣れてきたし、ひとりで大丈夫ですって」
「馬鹿言うな、だいたいまだ半年かそこらだろうが?付き合った人数だってたかが知れてる、片手の指で足りるくらいだろ?それじゃあまだまだ甘いぜ、オレの知ってる中では30人くらいとやって10人くらいポリに引っ張らせたやつが居るからな、そいつは高校生なんだが、まあそいつを目指せとは言わないが要はコツだよ、要領よく立ち回ることが大事なんだ、場慣れとかそういう問題じゃない、たとえひとりだけでもうまく絞れればそれでいいんだから、オレも普段はあんまりこういうこと一人一人に言ったりしねえんだけどよ、お前は社長からも特別に目を掛けられてるからな、ともかくあんまり背伸びしすぎねえこった」
地下クラブからの帰り道、あたしはまた先生の車で送ってもらっていた。都会のビルの下を走り回るフェラーリの姿というのはたぶんに画になると思う。先生はドアのふちに肘をついて片手運転で、あたしはしばらく黙っていたけれどやがてぽつりと漏らした。先生はまだ肘をついたまま、こっちを見る。
「あのさっき会った男の人、鳴海ジュンヤさんって、彼何してる人なんですか?ただのヤクザってわけじゃあないんでしょう」
言ってしまって、自分の口から出た言葉に愕然となる。あたしは自分がこれからなにをしようとしているのかわかっているのか?自分が今どんな状態に置かれているかわかっているのか?さっき会ったマナでさえも、彼、ジュンヤさんの手にかかればその身を沈められることなど造作もないはずだ、それなのに彼女がまだ浮いていられるのはひとえにその身のこなし、立ち回り、要領のよさによるものだ。あたしに同じことができるか?正直なところ、自信があるかといわれれば答えに詰まる。それが弱さだ。自分の力のなさだ。マナはそれをわかっていて、ジュンヤさんとうまく付き合っているのだろう。だからあたしも同じように、先生とうまく付き合っていければいいと思う。
相田先生にはうちの経済事情のことを大まかに話し、少なくともあたしの聖霊学習院における学費とそれから生活費を用意してもらうということで話しがまとまっている。そのための資金源として、先ほど言ったロールプレイをジュンヤさんに斡旋してもらうことになったのだ。あたしはそのお金でこれから暮らしていくことになる。
「ジュンヤくんはぼくのいっこ下でね、大学で一緒だったんだ、その頃からの付き合いだよ。ぼくの旧友が彼と仲がよくてね、そのつながりでぼくとも知り合ったってわけさ」
「先生っていくつでしたっけ?」
「37だよ、それでね、まあジュンヤくんも子供の頃から君と同じように複雑な家庭の事情があって、独り立ちできる仕事を探そうってなったときにちょうどサードインパクトがあったわけだ、それでそっちの方面に進んだんだよ、そうだね大学の頃からもうそっち方面の仕事はやっていたね。スカウトって知ってるかい」
「芸能人とかの?」
「うん、そういう表の仕事じゃないんだ、分かるかい?はっきり言えば風俗業界、ソープやヘルス、あるいはAVなんかの仕事に女の子を紹介する仕事なんだ、ジュンヤくんがやっているのはその元締めみたいな感じで、この第2東京でも新歌舞伎町を中心に渋谷や新宿に何社か、傘下にしているスカウト会社があるんだよ、要するに彼らのケツモチをやっているわけだね、さっき会ったマナちゃんのように直接面倒をみている子も何人か居る、そして伊吹社長はジュンヤくんの組も含めていくつもの企業を所有しそして運営しているんだ、だから社長はこの町のみんなの大ボス的人物なんだよ」
「あたしの母さんももしかしたら、間接的に、世話になってたのかもしれませんね」
先生は答えず、黙ってかすかに頷いた。
「お金のほうはぼくから直接、先払いって形で渡しておくよ、授業料の締め切りはいつなんだい?」
「翌月5日です」
「そうかわかった、それじゃあとりあえず前もって3か月分を渡しておこう、グローブボックスに封筒が入っているからちょっと取ってくれるかな」
「はい」
あたしは先生の言うとおりにフェラーリの内装に手を掛け、操作する。初めて触れる本革の手触りだった。家の近くまで送ってもらい、着いてから受け取った封筒は厚みがはっきり分かるほどであたしは生まれて初めてこれだけ大量の現金を手にしたのだと少なくない興奮と、しかしどこかで嘲るような冷静さが入り混じって不思議な顔をしたまま、先生におやすみなさいと挨拶して別れた。
そして約束の土曜日の夜がやってきて、あたしは電車を乗り継いで新宿駅西口に降り立っていた。今日は先生には送ってもらわず、あの地下クラブでみんなと直接待ち合わせることになっている。あたしも今夜は学校の制服ではなく、小学校のころからのお気に入りのデニムジャケットを羽織っている。
踊っている若者たちの視線を浴びるのが嫌で、あたしは壁際を張り付くようにして歩きながらこの間ジュンヤさんたちと話した場所を探していた。
コンクリートの壁にはところどころが破けたポスターが張られていて、よく見るとそれがインディーズバンドのイベント告知ポスターだと分かった。いつごろから張られていたのだろうか、何度も剥がしては張りを重ねた糊の跡が壁にこびりついている。
茶色いモンキーヘアの男があたしに声を掛けようとして、彼女らしい紫のアイシャドウを付けた女に腕を掴まれている。
あたしは自然とジャケットの合わせ目を手で握り胸を押さえる。
やがて人ごみの向こうにやや開けた空間が見えてきて、そこに見たことのある白のスーツと銀髪の姿を見つけてあたしは思わず駆け足になって彼らのもとに歩み寄っていた。
「早かったね」
「先生こそ」
「社長たちもそろそろ来ると思うよ」
伊吹社長、というのはどんな人間なのだろうか。母さんよりも4つ年上なだけだが、それでこの町のほぼすべてを仕切れるくらい強大な権力を持った人物、というのはよほどのカリスマとそして実力があるのだろうと思う。
手を振りながらマナが現れた。今日は黒のキャミソールだ。彼女の背後に、これまた先生に似た見目麗しい背の高い女がいる。羽織っているコートはミンクだろうか、高級な匂いがここからでもわかる。彼女はあたしたちの姿を認めるとにっこりと微笑んで見せた。真ん中分けのショートヘアは軽くティーブラウンに染め、耳朶には真珠のイヤリングがきらめいている。
ジュンヤさんがまず進み出ておつかれさまです、と挨拶している。あたしも彼にならい軽くお辞儀をした。
「こんばんわ、あなたがマナちゃんのお友達ね?」
「はい」
「今回ぼくと個人的にお付き合いさせていただくことになりまして、いちおう社長にご報告をと」
先生もやや言葉を引き締めて言う。伊吹社長はそんな先生に対してもやわらかに笑みかけ、さすがに口元や目じりには皺が見えるが素人のあたしから見ても分かるくらいに、人生経験を積んできた大人の雰囲気を滲み出させていた。
「ええジュンヤ君から聞いているわ、なんでも家庭に問題があるとかで、家を出られるんですって?じつはマナちゃんもそうなのよ、彼女は小学校5年を終わってその足でこの第2東京まで出てきて、ひとりで稼いで生きてたのね、それを私が拾ったってわけなの。だから本当、私にとっては娘みたいなものなのよ、私は結婚していないからね、仕事ばかりだったし、だけどマナちゃんのように元気にあふれた子供というのは見ていてとても幸せになれるのよ、だからできるだけ助けてあげようと思ってるのね」
どこかでグラスとグラスの触れる硬い音がして、あたしは自分が酒の中に浮かべられた氷になったのではないかと思った。あたしは自分の力ではなにもできずただ重力と表面張力によって流されるだけだ、しかし、酒がコップに触れているそのときにだけ表面張力は発揮され液面をゆがめる、あるいはそれがあたしと先生の関係なのではないかと思っていた。あたしはあたしひとりではなにもできないが、先生といれば写真を撮ってもらうことができる、先生はあたしが居ればあたしの写真を撮ることができる。
それがすなわちあたしと先生の関係を表現する要素だと思う。
伊吹社長はマナのことについてあたしに説明した。彼女の家は父親が無職で生活が苦しく、半ば夜逃げのような形で単身九州を旅立ちこの第2東京にやってきたのだという。そして、当然学校に通うこともできずに夜の街に身を潜め通りすがりの男たちを慰めながら幾許かの金を手にして口を糊してきたというのだ。それが11歳のときからだというのだから恐れ入る。もしあたしが彼女と同じ境遇に立たされたなら、いくらもなしに野垂れ死んでいただろう。抱えた借金の額もあたしの家と同じくらいだったようだが彼女の家は何よりも収入の手立てがなく、母親はといえばうちと違って特段稼ぎのいい仕事もなくましてや援助をしてくれるような彼氏も居なく、たったひとりでがんばっていたのだそうだ。しかしそこまではいい、その母親も始終マナに父親の悪口を言っていて、夫婦喧嘩も絶えることなく、父親も引きこもりでろくに家事もやらず寝て暮らしていたのだという。
そんな家庭に見切りをつけ、11歳のマナはたった独りで家を出た。
なけなしのお金でなんとか第2東京までたどり着き、彼女の容姿は背丈はあたしよりも若干低いくらいだがその顔つきは髪型も含めてなんとなく大人っぽく、年齢を偽って男を誘うことができたらしい、そこでホームレスのような暮らしをしていたときに新歌舞伎町でジュンヤさんに見初められ、彼の紹介で伊吹社長に面倒を見てもらう代わりに男相手の仕事を続けることができた、というのだ。
それからおよそ半年あまり、今の彼女はひとりで十分に客を取れるようになり、伊吹社長にケツモチをしてもらいながら夜の街で生きているのだという。学校には通っていないらしい。どのみち、家を出たときに戸籍も曖昧になってしまったので何かの届けを出すにしても手続きが面倒になってしまうということらしい。
「そうそう、それでジュンヤ君、あなたに頼めないかと思ってたのよ、マナちゃんの名前で戸籍を作ることはできるでしょう?」
「社長の頼みっていうんなら、まあオレとしても断る理由はないですがね」
「たしかあなたは聖霊に通ってるんだったわね?」
伊吹社長があたしに訊いたのであたしははい、と答えてからジュンヤさんとマナを交互に見た。マナは手首に巻いた2つのブレスレットを揺らし、かすかに触れ合ってプラスチックの音が騒音の中を潜り抜けて聞こえてくる。
「ならちょうどいいわ、マナちゃん、あなたもこの子といっしょに聖霊に通うことにしたらどうかしら、転入届ならジュンヤ君が戸籍を作ってくれればすぐに手続きできるし」
「はい、そうさせてもらいます」
「ああでも、聖霊って結構お金かかりますよ、私もそれで先生に助けてもらうことになってますし」
「心配要らないわよ、マナちゃんはもうそれくらいは自分で稼げるようになってるから、ねえジュンヤ君?」
「そっすね」
マナは手を後ろに組んで照れ笑いをする。そのしぐさ、表情、言葉、それらすべてが男から金を巻き上げるために用意されているのかと思うとあたしもいずれは彼女のようになってしまうのだろうかと期待とも焦燥ともつかない不思議な感覚がわきあがってくる。
「あたしと同い年でもう娼婦のようなことやってるんですね」
「のような、っていうよりはまんまそんな感じだけどな、だけどまあ見ての通り彼女はまだ子供だし、客の需要ってのも普通の大人の風俗嬢とは異なってくる、たいていは中年のオヤジが娘相手にするような、それか若けえ兄ちゃんが妹相手にするような、そんなところだ、まあ中には真性のロリコンみたいなやつもいるが、そういうのは事と次第によってはオレたちがきっちり締め上げてやるってところだな、彼女のような子供たちはオレたちにとっても大事な商売相手だからな」
ジュンヤさんの言葉にあたしはなにも言わずに頷く。そうだ。建前がどうあれ、あたしは先生にサービスを提供しその対価としてお金を受け取っている。これは立派な商売だ。先生はあたしがこの世に存在しそして自分の手元にいる事を望んでいる、あたしはそれに応え先生とともにいる。これだけでも先生にとっては十分すぎるくらいのサービスだ、だからあたしが家の借金のことを先生に相談したときも好意的に話しに乗ってくれたのだし、これからやろうとしているプレイの事に関してもできるかぎりあたしを守ってくれようとしている。
「お前の母親も同じような感じじゃなかったのか?」
「いえ、うちはそんなにきついものじゃなかったですよ、普通に公立の高校出て18から勤めてたみたいです、まあ普通ですね」
今、あたしの周りの人間たちはあたしを中心に大きく動こうとしているのだ。先生はあたしのために金策を考えてくれているし、そのことでジュンヤさんや伊吹社長もそれぞれの段取りをしている、そしてあたしはマナに出会い、彼女はあたしに出会ったことであたしと同じ学校に通おうとしている、そして同じようにジュンヤさんも伊吹社長もそのための段取りをしている。
「ともかくわかったわ、そういうことなら私もきっちり面倒見てあげる、相田君、あなたも彼女のことは大切にするのよ」
あたしは伊吹社長の笑顔に不思議な既視感を覚えていた。ずっと前にも彼女の表情を見た事があるような気がする。それはどこなのだろうか。彼女と会ったのは今夜が初めてのはずだ、世界にはそっくりな人間が7人は居るというが、そんな感じでたまたま彼女によく似た顔の人間を見た事があっただけなのだろうか。
家に帰ってから、あたしは普段よりずっと遅くまで起きていた事に気づいて薬を飲むとすぐベッドに入った。リビングでまたこの間の書類を読んでいた母さんに出くわしたがあたしはなにも言わずに低脂肪牛乳の紙パックを取り出すとコップに注いで飲み、コップを流しで洗って片付けてからまた二階の自分の部屋へ向かう階段を早足で上がった。
その夜、生き物は夢には出てこなかった。代わりにどこか寒々としたコンクリートの地下施設にいる夢を見た。壁には白ペンキで数字が書かれ、端の方からペンキが垂れてそのまま固まっている。あたしはそこにじっと一人で立ち、その壁の向こう側にあのオレンジ色の液体が満たされているのではないかと思っていた。やがて壁が透明になっていくように薄れて消え、あたしはまたあのオレンジ色の液体の中にいた。生き物の姿は見えない。ただ、代わりに声だけが聞こえた。人間の話す言葉ではない気がした。人間の発音できる音ではない、かといって動物の鳴き声でもない、不思議な音。あるいは天使の声とでもいうのだろうか。ただ、会いたい、という想いだけがじわじわと心にしみこんできた。
会いたい。誰に会いたい。その誰かを探すのはあたしの役目だ。生き物はあたしの力を超えた夢を見せてくれるが、しかしあたしの身体から離れて行動する事はできない。持ちつ持たれつなのだ。
一週間後の土曜夜、あたしは先生の自宅を訪れていた。それは品川の首都高速道路沿いの高層マンションで、部屋のベランダからは月夜に輝く新箱根湾がよく見えている。
先生は仕事が終わってからスタジオの休憩所で考えたというロールプレイの登場人物設定をワープロで印刷してあたしに見せてくれた。先生は本業と同じくアイドルを撮るカメラマンで、あたしはそんな彼と仕事仲間以上恋人未満、という16歳の少女だった。彼女の名前はアヤネといった。彼女は望まれざる子供、母親が夫ではなくその父親に強姦されて生まれた子供で幼少期の虐待によりセックス依存症になっていて、モデルとして撮影される事に堪えがたい快感を浴びながらもそれでは満足できずにカメラマンの男を誘う、という筋立てだった。
「デッドオアアライブですか?こっちは父親じゃなく兄ですけどね」
「よくわかったね」
「これでもテレビゲームにはちょっと詳しいんですよ」
あたしは書き連ねられた彼女、アヤネの身の上を読み込みながら、こんな設定を、すなわち妄想を頭の中にしまいこんでおけるなんて男というのはなんて都合のよい生き物だろう、と思っていたがそれもあたしが生き物に夢を見せられることと比べれば大差はないのだと自分を納得させる。身体は正直だ。
先生が差し出したバンダナを頭に巻いた瞬間、あたしは自分の中ではっきりと生き物が動き出すのを感じ取っていた。それは夢とかいう漠然とした感覚ではなく、本当に身体の中にあたしではない別の生き物が居るかのように、腹の筋肉が不規則に脈動し、あたしはそれを気取られまいと思ったが身体はあたしの意に反して前かがみになり、あたしは先生をゆっくりと見上げる。
あたしは唇をすぼめ、口笛のように息を鳴らす。
「先生は私の唇をいちばん魅力的だって言ってくれるんだ、だから何枚も唇のアップの写真を撮るんだよ、いつも濡れてきらめいていてね、この甘い唇で何人もの男を咥えこむんだよ」
ブランデーのボトルを手にしたままのガウン姿の先生はぎょっとした表情であたしを見て、それでも眼鏡を指先で直してからマロングラッセがあるけど食べるかい、と言った。
「これはアヤネの癖なんだね、だから私にもこの癖がうつるよ、どうしてかっていうといつも吸うのが好きになってるからね、わかってる、男の精を吸うんだよ」
自分の発する言葉が自分のものではない。口調も変わってしまった。
あたしはそんな自分をどこか離れたところからじっと見下ろしている。
先生とあたしとのロールプレイはこの瞬間に始まったのだ。
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