カメラマンの男
家の近くのコンビニで購入した使い捨てカメラのレンズにはかすかに誰かの指紋がついていて、あたしは制服の袖口でレンズを拭った。
外に出て、道行く車にレンズを向けてみる。ファインダーは望遠レンズも何もついていないただの覗き窓で、そのわずか1センチ四方にも満たない長方形の枠から景色を見るとそれはとても狭い世界に見えた。
一度シャッターを押したあと、手動でフィルムを巻き、目盛りの数字が25に変わったのを確かめてから今度はフラッシュのスイッチを入れてもう一度同じ角度、同じものを撮る。時間にしてほんの数十秒、しかしこのわずかな時間の間にもめまぐるしく景色は移り変わっている。さっきまでいた車は信号が変わってはるか先へ走り去っていってしまい、さっきはいなかった人が今は犬を連れて歩いている。
あたしはため息をつき、充電ボタンを強く押し続けながら使い捨てカメラをそばにあった郵便ポストに叩きつけた。フラッシュが誤作動を起こして閃光をあたりにまきちらす。その光に気づいた者というのはどれくらいいるのだろう?道行く車のドライバーが、今あそこのコンビニで何か光ったような、それくらいだろうか?それともただ単に太陽の光が何か金属に反射してきらめいただけだと、そのように思うだろうか。
あれから先生とは何度かメールのやりとりをした。先生の仕事は毎日夜遅くまでかかるようで、あたしが自分の部屋で携帯を枕元に置きながら眠りに落ちて朝目覚めるとメールが着信している、といった具合だった。あたしはそれに対し、いつも昼休みに返信を送っている。3回目のメールで、近く先生の撮った新しい写真集が出ると教えてもらったのであたしは発売日当日にまたあの本屋に行って新刊のコーナーを探した。大判の写真集には表紙にモデルの女の顔と肩のアップが印刷されていて、いっしょに並べられていた他の本の中でもひときわ存在感をあたしに主張していた。いや、もし先生からこの話しを聞いていなければあたしも気にも留めなかっただろう。知っていたから、先生を知っていたから自然と先生に関連したものに注意が引かれるのだ。
ところがある日、休み時間中にいきなりメールが着信した。たまたまオフの日だったのだろうが、あたしはすこし驚いて携帯を取り出すとそれが相田先生からのメールだとわかったので軽く肩を落として携帯を畳んだ。
たまたま話していたモコが誰から?と訊く。あたしは別になんでもない、ただの広告メールだと答えた。
あたしたちの他にも付き合ってるやついるの、ケイがリュウの席を横取りして足を組んで座り言う。
さすがに先生とメールの付き合いをしていることは言えない。言ったらとんでもないことになりそうだ。あたしたちは年齢不相応な遊びをしているとはいえ所詮は中学生、子供だ。それが先生のような立派な仕事を持っている大人と交際をしているというのはおおっぴらに言えたことではない。それにモコには既に相田先生のことを聞いてしまっているから、さらにあたしが先生と付き合っているとばれればあの時訊いてきたのはそのことだったの、と追求されるのは目に見えている。
「昔さ、漫画雑誌の読者コーナーにちょっと投稿してたことあって、そん時の縁よ」
ケイは口元に手を当てて笑っている。ポケットから彼女愛用のショートホープを取り出そうとして、教室で喫うのはまずいぜ、とユウキがケイの手を押さえる。レイコがあらあら、すっかり仲良くなっちゃってるのねとせせら笑う。
「へえ意外ね、あんた少女漫画なんて読まないと思ってたのに」
「たまたまだよ、あたしだってふだんは立ち読みで済ますし買わないけど、たまたま目に付いた投稿があってね、それからよ」
「どこの子?」
「鹿児島」
そりゃまた遠いなあ、とカズヤが言った。
「女だよな」
「当たり前でしょ」
モコの座っている椅子は彼女の体重で軋んでいるように見える。カズヤ、あんたもこいつのこと好きなんでしょ、みんなわかってるんだからね、早いとこ付き合っちゃいなよ、そう言ってモコはブラウスの襟を扇いだ。
リュウは窓際の壁に寄りかかって他の男子たちと話している。
西日が差し込んで、黒板消しにこびりついたチョークの粉が輝いている。
学校を引けてから改めてメールの内容を確認すると、それはいつか日取りを決めて会えないかということだった。話したいことがあると。あたしはその文面に疑念を隠せなかった。会いたいとはどういうことだろうか。直接話したいことがあるのだろうか。何か言いたいことがあるのならメールでも書けるし、誰かに盗み聞きされるということもない、しかし先生はあたしに自分の目の前に来るよう要求していた。なにかをされるのだろうか、という疑いがないわけでもない。
もうなるようになれ、という半ばやけくそな気持ちであたしはOKの返信を送った。
もしあたしが先生と付き合ったことで今のこの生活が大きく変わっていくのなら、それはむしろ望むところであるといえる。あの母さんの元から出て行けるのなら、ひとりで暮らすことができるのなら、束縛を逃れられるのなら──
考えて、あたしはそれが母さんと結局なにも変わりはしないということにうすうす感づいていた。
先生は言っていた、あたしには立派なモデルになれるだけの素質があるという。それは容姿のことなのか、目が大きいとか肌がきれいだとかスタイルがいいとかそういうことなのか、それとももっと別の何かだろうか。
もし先生の言葉に従いあたしがそういう仕事をやれるのなら、それはあたしが独り立ちできるための足がかりとなる。
しかし、あたしはどうしても仕事をしている自分というものを想像できなかった。あたしのからだに群がる男たち、というイメージしかわかなかった。それはあたしが子供であるからと同時に、普段からそういう荒んだ生活を送っていたからだと思う。
たとえばこないだあたしはカズヤとユウキの身体を慰めてやったが、世の中にはそれで金をとる商売というのが成り立っているのだ。母さんがやっていたことだ。モコは言っていた、蛙の子は蛙だと。それならあたしもそうなのか、あたしも結局母さんの呪縛から逃れられないのか。
誰かに縋れるのなら、縋って生きていけるのなら。
それはずるくて卑怯なことかもしれない、だけど考え方を変えてみれば他者を陥れ、蹴落として生きていくこととなんら変わりはない。利用価値があるのなら利用すればいい、価値がなくなったのなら捨てて他を探せばいい。
それはごく当たり前の世の中の姿だ。それがただ単に合法であるか違法であるかの違いだけだ。
先生になら、打ち明けてもいいかもしれない。
そう思っていた。
わざわざ会って話したいということは先生にとっても重要な話しなのだろう、だからあたしも相談したいことがあると、そう思ったあたしはさっきの返信に付け加えてもう一度メールを送った。実は私も先生にお話ししたいことがあります。次の木曜日、午後7時以降なら都内どこでも大丈夫です……。
それに対し、相田先生からは九段下のホテルグランドパレスのロビーで会おう、と返事が来た。
約束の夜、あたしは聖霊学習院中等部の制服である純白のセーラー服を着てそのホテルを訪れていた。ライトグレーのスカートに、襟の部分に細い二重線のストライプが入るのみのすべて白色でデザインされたセーラー服は聖霊学習院の校風である清楚さをあらわすシンボルとなっている。
学校制服の少女がこんな時間にひとりでホテルを訪れる、それはなんのために?
高級なホテルの雰囲気にあたしは自分が溶け込んでいくような気がして、そのとき初めてこの学校のステータスといったものが分かった。
名門校の生徒はそれなりの名門の世界で生きるのだと。
宿泊客の応対をしているフロントマンを遠目に眺めながら軽く吹き出す。あたしはこれから密会をするのだ。誰にも話すことのできない秘められた話しだ。少なくともあたしはそのつもりでいる。
相田先生は既に来て待っていた。さすがに公園で会ったときのミリタリージャケットではなく、アイボリーのやわらかな印象のスーツに山吹色のネクタイを締めている。
お互いにこんばんわ、と挨拶をし席について向かい合う。毛皮のソファはあたしの細い身体をゆったりと包み込んでいる。
先生は丸眼鏡を人差し指で軽く上げるとおもむろに話し始めた。
「突然呼び出してすまなかったね、用件ってのはこないだ話した、写真のモデルのことについてなんだ」
「私はモデルとかアイドルとかには興味はありませんよ」
「わかってる、ぼくも君が嫌だというなら無理にとは言わない、本題はここからなんだ、ぼくはこの間、君の中にいるもう一人の君、とかそういったことを言ったと思うんだ、覚えているかい?実は、これは君が聞いたら気を悪くするかもしれないけど、ぼくがどうして君を目に留めたのかと考えたときにだね、君は架空の人物を演じる力というのがすごく優れていると思ったんだ、たとえば君は普段は自分のことを無愛想だとか言っていたけれど、それも演じている、そういう自分、そうありたい自分を演じているんじゃないかとぼくは思っていたんだ、ぼくも仕事柄プロの女優さんをよく見るんだけれど、その中でも特に天才といわれる種類の人間だね、そういう人間たちと君との間に共通する感覚があると思ったんだよ」
「演じている、ですか?この私が?」
「うん、それはなにも舞台の上とかドラマの中とかに限らない、普段の日常生活を送る上でも当たり前のように行っていることなんだ、わかるかい?たとえば君が学校で友達と話すとき、どれくらい自分の素を出すものかな?まったくすべてさらけ出してしまうというわけにはいかないだろう、ある程度は周りに合わせて、そうだね周囲の人間との係わり合いの中でバランスをとって人間関係を円滑にするために時には自分を引っ込めたり、そういうことを無意識のうちにやっていると思うんだ、ぼくが言いたいのはそのことなんだ、君はそういう普段の生活の中での人格を複数持っている、そんな気がしたんだよ」
まさにその通りだ、とあたしは観念にも近い感情を抱いていた。やはり相田先生にはすべて見通されていたんだ、あたし如きが敵う相手ではない。
あたしの今の性格は本当にあたし本来のものであるのだろうか?疑問が突如としてわきおこる。小学校時代は父親が居なく母親が風俗嬢だったという理由でいじめを受けた。それに対抗するためにあたしは自分を装い、荒っぽい言動をすることで周囲を威圧し、自然に反撃できるようにしていた。教師たちはそんなあたしに対して、あなたが変わらなければ何も変わらないのよ、と諭すような口調で言った。何を寝ぼけたことを言っている、あたしを変えさせたのは他でもないお前たちだ。それなら本来のあたしというのはどんな人間なのだろうか?保育園ではおとなしめでいつもひとりで遊んでいたと思う。それは小学校に上がっても変わらず、だから自然と仲間はずれになり、あとは言わずもがな。どこまで遡ればいい?あたしという人格が作られたのはいつのことなのだ、その答えに辿り着くにはどこに目を向ければいい。そうなったとき、先生が指摘したようにあたしが架空の人格を演じているという言葉がまさにその答えを言い当てているのだと思う。
たとえば普段学校でケイたちと話すとき、モコに言われたようにあたしは衒いのない率直な言動をしていると思う。それは相田先生とあの公園で話したときも同じだったが、しかし、ユウキたちと交わっていたときは淫乱でしょうがない女の姿になっていた。それが求められるものであると分かっているから、あたしはそうありたい自分を演じている、そうすることによって自分本来の人格を騙し、擬似的なものであるはずの感情を本物として受け取ることができる。
あたしはそんな自分をチカと名づけることにした。チカは色情狂の女子高校生で、セックスを楽しみたいためにさまざまな男をとっかえひっかえ付き合っている。チカはあたしの頭の中で声を響かせ、あたしに語りかける。
愛が肉体の触れ合いなら、私はそれでかまわない。なぜなら身体が満足すれば心も満たされるから。身体を触れ合わせている間、心も同じように触れ合わせていることができればそれは立派に愛と呼べる。身体を触れても心を拒絶するなら、それはただのやられ損でしかない。たとえ虚構だと分かっていても、心を傾けることで得られる感情があるのならそれは立派に愛と呼べるものなのよ。
家の中、誰もいない家の中であたしはひとりそんな気分に浸ることがよくあった。たとえばカオリはブラックコーヒーが好きで、あたしは彼女になりきってドリップで淹れたブラックコーヒーの香りを楽しみながら飲んでいる。
そんなふうに自分の中にいくつもの人格を──ここでは趣味とか言葉の受け答えとかそういった要素の集合体だ──同居させ、必要に応じて入れ替えて人に接する。それが社会生活を営む上での処世術だと、あたしはずっとそう思っていた。小さい頃はそれがただ漠然とした概念で、言葉にはできなかったが今はこうして言葉にできる、そして人に伝えることができる。だからあたしは自分のこの気持ちを先生に伝えたいと思う。
「先生の言うとおりだと思います」
あたしは一息ついてつばを飲み、呼吸を整える。
「人格を複数持っている、ということでしたが、これは実は私が先日メールでお伝えしたことなのですが私の見る夢のことです、それはとても不思議な夢なんですが、私はその中で私と同じ姿をした何人もの人間に出会うのです、今まで出てきたのは3人で、私は彼女たちにそれぞれカオリ、メグミ、チカ、と名前をつけたんです。彼女たちはもちろん今の私の性格とは異なる性格を持っています、彼女たちは私の見る夢の中でそれぞれに私の意思によるものではない行動をし、それを私に見せ付けてくるのです」
「興味深いね」
「ええ、これが一度や二度ならただの珍しい夢、で片付けられると思いますが私は小さい頃からずっとこういう夢を見てきたんです、もちろん普通の夢を見ることもありますが、ほとんど、そうほとんど毎晩ですね、毎晩に近いくらいの頻度でこの夢を見るのです、ですから今夜先生にそのことをお話ししたいと思ったのです」
相田先生はソファの上で足を組み替えた。密度の濃い、スポンジかポリエステルの綿かそれとも羽毛か分からないけれどもソファに詰め込まれている中身が彼の足の動きに従ってゆっくりとその形を変える。
「なるほど、いやぼくも職業柄、いろんな精神を持った人に出会うんだけどね、そう、君みたいに軽い多重人格みたいな症状を、ああこの言い方はうまくないかな、ともかく君によく似た精神を持った人は見たことがあるよ」
「多重人格というのとは違う気がします、もしそうなら私は意識を乗っ取られて自分のやったことを記憶できていないということがありうるかと思いますが、そういったことは今まではありません、あくまで夢の中にだけ登場して、あるいはじっと考え込んでいたりするときに不意に頭の中に声が響く、といった具合です」
「これはぼくが撮ったある若いモデルさんなんだけどね、彼女は自分の体内に虫、そう寄生虫のようなものがいると感じるというんだ、それは血管の中でざわめくように動いて、その寄生虫が騒いでいる間は人格が変わってしまったように、ものごとに対する自分の感情が変化していくのを感じ取れるというんだ、それでぼくは専門家を当たって彼女のことを聞いてみたんだね、それは腸内寄生虫妄想という一種の病気、いやこれはその専門家が言った言葉なんだけどね、ともかくそういう症状があるらしいんだ、まあ写真家としてはそういうふうにひとりの人間の精神というか、人格というか、それが変化する瞬間を捉えるというのは貴重な機会だと思ってね、彼女のことはたくさん撮らせてもらったんだ、プロモーション・ビデオも一本作ったね、その彼女のように、自分の中に複数の人格が同居しているといった感覚が君にも同じようにあるんじゃないかと思ったんだ」
「寄生虫、そうですねその表現がいちばんしっくり来ると思います、先ほども言いましたが夢の中に出てくるのは私と同じ姿をした少女なのですが、彼女たちは人間ではありません、自分の体の一部を細長いサナダムシのような形に変えて、夢の中の私に入り込むことができるのです、そうしたときに私は彼女たちの声を聞くのです」
「なるほど」
「ところで、その若いモデルさんというのは歳はいくつなのですか?」
先生は思い出すように視線を空中に泳がせる。あたしもそれを追う。
「そうだねえ、ぼくが撮ったときはまだ10代だったと思う、今はもう20を越えたかな、たしか2017年生まれだと言っていたから、そうだね今は21歳だね」
「その方は今もモデルをされているんですか?」
「うん、主にファッション誌で活躍しているようだよ」
どこまで話していいものか、あたしは今さらのように勘定していた。マナたちのこと、あたしの他にも多くいる同じ夢を見る同年代の子供たち、それはあたしたちの年代に限らず大人たちの中にもいるのだ。
「不思議な夢を見るという人たちは私の知り合いにも何人か居ます、正確にはこの夢をきっかけに知り合った仲間たちなのですが、彼らはみな私と同じ年代の子供たちで、しかし今先生が話されたようなモデルさん、彼女のように私と異なる年代の人間にも同じ感覚を持った人間が居るというのは驚きです」
「君の他にも居るのかい?それはおなじように自分と同じ姿をした人間が出てくるのかな?」
「いいえ、他の子たちですとさまざまで、ある人は世界の終末のような光景を見るというのです、他には私と同じように夢の中で語りかけられたりですが、人間ではなく人魂のような精神体だけだったり、おぼろげなもののようです、おそらく私が私たちの中ではいちばんはっきり感じられるのではないでしょうか」
「そうか、やはりぼくもそうだと思っていたんだよ、君は稀有な存在であるといえる、君はまさしく天才と言っていい種類の人間だよ。それが望んで身についたものであろうと望まざるものであろうと、君は明らかに他の人間とは違う何かを持っているだろう、それはとても大切なことだとぼくは思うんだよ、ぼくもカメラで食ってる人間として、君のような人間に出会えたことはとても幸運なことだと思っている、カメラマンとして君に出会えたことはぼくの生涯最高の幸運だと思っているよ」
「そこまで言っていただけると、悪い気はしませんが正直すこし恥ずかしいですね」
「だからなおさらだね、君をこのまま埋もれさせておくのはもったいないと思うんだ、どんな形でもかまわない、君の姿を残しておきたいとぼくは思うんだよ」
「いくらおだてても駄目ですよ」
あたしがそう言うと先生は苦そうな笑みを浮かべて手を挙げ、額を撫でた。フロアの温白色の照明が額の脂を光らせている。
突然携帯が震えだした。マナーモードにしていたので着信音は流れなかったが、バイブレータの不快な振動音が辺りの空気を揺らす。携帯を取り出して確認してみるとメールの着信ではなく電話の着信で、母さんからだった。珍しいこともあるものだ、と思いながらしばしディスプレイの発信者名を眺めたあと、先生に断って電話に出る。
「今どこに居るの?九段下?あんまり遠くまで出歩いちゃだめよ、あなたはまだ中学一年生なんだからね、それで家のことなんだけど、じつは母さん再婚するかもしれないの、今いいひととお付き合いさせていただいててね、彼まだ若いんだけど、自分で事業興すってがんばってるのよ、それでその縁で群馬のリゾートホテルから求人が来てるのよ、ほら母さんベッドメイクとかのお仕事はひととおりできるでしょう?だから応募しようかと思ってるんだけど、ともかくね、今あたらしいお仕事探そうと思ってるのよ、やっぱりパートのお給料は安いしね、リゾートホテルのお仕事は正社員だから待遇もいいのよ、正直なところね、今うちの家計もあんまり楽とはいえないのよ、住宅ローンもまだ22年残ってるしね、お父さんの借金肩代わりした分もまだ残ってるし、裁判所の調停も待たないといけないのよ、だからあなたもあまり無駄遣いしないでね、お小遣いもあげられなくて悪いとは思ってるけどでも仕方の無いことだからね、だから我慢してね」
そこまで聞いてもうあたしは聞くに堪えなくなって意識をシャットアウトした。母さんの声は歳をとってかすれてきていて、それが余計に不快感を煽る。
仕事を探すのはいい、働く意思があるのならそれはそれでじゅうぶんだ。しかし問題はその先だ、父さんの借金といってその実は母さん自身の浪費のツケを父さんに押し付けただけだろうと、だから離婚したんじゃないのかと、こんなあばずれの面倒なんか見てられないと、だから父さんは家を出ていったんじゃないかと今の電話を聞いてあたしは思っていた。そんな女と今さら再婚なんてどんな物好きなんだ。母さんはたしか今年で43だ。そんな年取った女が若い男と交わるのかと想像すると吐き気がする。この間家に連れ込んできていたのがその男だろうか。再婚自体はともかく、その相手が若者だというのが気になる。事業を興すなんて、常識的に考えれば胡散臭いことこの上ない。実際に事業を成功させてからならともかくその途上で結婚するということは運転資金だとかなんとか言い訳をつけられて金を搾り取られるのは目に見えている。
小遣いを貰っていないことなんて些細なことだ。それなのにいちいち悪いわねとエクスキューズを入れてくるのはあざとすぎるとあたしは苛立ちが募っていくのを感じていた。貰っていない小遣いの代わりにはこないだのような外国人たちとのパーティーで小銭を稼いでいる。そういえば母さんの声を聞いたのはずいぶん久しぶりな気がするが、それでもこんな不快感しか与えられないというのはもはや家族という形が本当に形だけになってしまった証ではないのかと思う。
それから5分ほど母さんは途切れることなく話し続け、自分でもよく耐えられたものだと思ったが最後に今からすぐ帰って来い、と言われたのであたしは先生にそれを伝えなければならなかった。
「すみません、母からの電話で」
「うん大丈夫だよ、時間も遅いしね、さすがにぼくにも人並みの良心はあるから、君のような子供を夜遅くに連れまわすようなことはできないよ」
「いえ、こちらこそお時間をとらせてしまってすみませんでした」
あたしは先生ともっと話していたい、とより強く思っていた。こうして会ってすこし話しをしただけなのに、とても心が浮ついている。先生と話すことで、先生に自分の見る夢のことを話したことで、心のうちを打ち明けたことで、幾分か、いやかなり気持ちが楽になったと思う。今までずっと心に抱えていた秘密を初めて人に打ち明けた。それはあたしの人生の中で初めての経験だ。初めてのことなのだ、だからそれに付随する感覚というのはとても新鮮で、魅力的なのだと思う。
初めてのことだ。
家に戻るまでの電車に揺られながら、あたしは携帯で霧島さんへメールを打った。あるきっかけで知り合った人から聞いたんだけど、あたしたちの他にも大人のヒトでも同じような夢を見る人は居るらしい、と。
電車の中はちょうど通勤時間と重なったこともあり席はすべて埋まっていて何人かの乗客は立ってつり革につかまっている。学生もいるが、とくに帰宅途中のサラリーマンの姿が目に付く。そんな中に紛れ込んだ少女、人々はそんなあたしのことなど気に留めないふりをしている。あたしはドアの横に背をもたれて寄りかかり、背後を守る。あたしの周辺に居るサラリーマンと思しきスーツ姿の中年男が4人、そのうち3人は頭の毛が薄くなっている。それに比べれば先生などまだまだ若い方だろう。
彼らがどこへ帰るのかなどに興味はわかない。
都心を離れて聖霊学習院の近くまで来ると、とたんに人通りは途絶えあたりは静かになる。このあたりは学園都市といってもいいくらいで、会社のオフィスビルも商店もなく夜になればぱったりと人の姿がなくなる。
そうして、窓からかすかに明かりが漏れる住宅街にようやくたどり着いたとき、先生と別れてからちょうど一時間が過ぎようとしていた。
母さんはあたしがリビングに入るとテーブルにつくように促した。テーブルの上にはいつものようにねずみ色の魔法瓶が載っているほか、大判の茶色い封筒と何枚かの書類があった。
「それで、その今付き合ってる人って、ほんとのとこどうなの?ちゃんと面倒見る気はあるわけ?」
「それはもちろんよ、彼新帝都大を出てね、イギリスで経営を学んでるのよ、それでホテルを一軒任されることになったの」
いつもそうだが、母さんはあたしに話すときはやけに丁寧語で、水商売の癖が抜けないのかもしれないけれど、それが余計に他人行儀を感じさせる。
「これがそう?」
「ええ、さっき言ったホテルの求人パンフレットね、来週面接に行ってくるから、最終的な決定はそのときになるんだけれど」
「受かりそうなの?」
「ええもう、適性試験みたいなのはあるんだけれど、もう電話ではお話ししてあるのよ、向こうさんのほうでも経験者は優遇するってことだったから、たぶん大丈夫だと思うわ」
「たぶんじゃ駄目でしょ、お金に関わることでしょ」
頬杖をつき、テーブルに放り出されたその書類に目を通す。見た限りではそれほど新しいホテルでもなく、規模もそれほど大きくないので大企業などと比べればやや所帯じみた環境なのだろうと思う。
「大丈夫よ、それはそうとして、あなたはどうするつもりなの?聖霊のことよ、正直な話しね、授業料も4月分しか納められていないのよ、だから彼にその辺のこと話して、なんとか助けてくれないかっては考えてはいるんだけれどね」
「もうそういうこと言える仲なわけ?」
「せっかく聖霊に入ったんだものね、名門なんだし、わたしとしてもできるならちゃんと卒業させてあげたいのよ」
そこで二人同時にコーヒーカップを口に運び、湯気が空中でうねりながらあたしたちの間を流れる。
「わたしもこれから彼といろいろ話したり打ち合わせたりしなきゃならないことあるし、家も空けがちになっちゃうと思うの、だからほんとうに悪いわね」
「どうせ今までも時間合うことあんまりなかったんだし、変わりないでしょ」
「でもやっぱり母さんとしてはちょっと心配なのよ、あなたまだ13でしょう?ひとりで家に置いておくのもどうかと思ってね」
「心配しなくても平気よ、このあたりは別にそんな物騒ってわけでもないし」
「ごめんなさいね、家事なんかもぜんぶ任せっきりにしちゃって、わたしがお仕事忙しいから」
「いいよ別に、どうせ大人になったら自分でやらなきゃならないんだから、そのための勉強だって思えば」
話しを切り上げ、部屋に戻ってからすぐ先生にメールを打った。たぶん興奮した勢いのままだったと思う。じつは近いうちにひとり暮らしをすることになるかもしれません、うちの家計が厳しくて、借金もたまっていて学校の授業料も滞納しているそうです、母さんは再婚すると言っていますがその人もかなり若い男で正直、どうなるのか心配です。
落ち着いて考えれば、何もわざわざ自分の家の生活状況を打ち明けるまでもなかったのかもしれない、いきなりこんなことを言われても返事に困るだろうし、どうして言ってしまったんだろうと思ったがもう取り返しのつかないことなのでベッドから起き上がるといつも寝る前に飲むと決めているトライディオールの新しいシートを破って赤褐色の小さな錠剤を呑んだ。こればかりは母さんの仕事のネットワークが役に立っている。渦を巻いている28個の矢印の列を眺めながら、薬箱の右手前に並べて差し込まれているタンポンの箱の残りを数える。遊び薬は二重底の下に隠してある。母さんにはたぶんまだ見つかっていないと思う、見つけられたとしてもサプリメントだと言って白を切るつもりだ。だが母さんももしかしたら若い頃仕事で使ったことがあるかもしれない、それともあまり昔のことだから当時の商品やブランドなども残っていないか、最近のものは分からないか。
20分くらいしてから返信が来た。ちょっと大変な話しみたいだからすぐにはお返事できないけれど、覚えておく、ということだった。
あたしはまた後戻りのできない一歩を踏み出してしまった、と思っていた。先生はあたしが言ったことを忘れないだろうし、なにか手立てを打とうとするだろう、あるいはもう一度会って話しをするかもしれないし、話しだけかもしれないけれど、それでもあたしはなにかを期待する自分を否定できずにいた。
もしあたしが自活の手立てを見つけてこの家を出られるとなれば、今度こそあたしは何をしようが自由だ。ヤリ友だっていくらでも呼べるし、朝まで遊んでも平気だし、薬だって気兼ねなく使える。
もちろん、先生と付き合うことに障害もなくなる。今夜のようにいきなり家に呼び戻されたりといったこともなくなる。
あたしは先生に何を求めているのだろうか?自分のことを理解してくれる人、あるがままの自分を理解してくれる人。先生は言っていた、あたしに出会えたのは生涯最高の幸運だと、それはあたしが先生に見せた姿そのままをそう言っているということだ。
あのカメラマンの男があたしに何を見ていたのか、そしてそのカメラのレンズを通してあたしの何を写そうとしているのか、あたしはそれを知りたいと思う。
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