ルビー





 生理が来たわけでもないのにその日は朝から身体じゅうがだるくてあたしは学校を休もうかとも思ったけれども誰もいない家に独りで居るのも居た堪れなくて、結局いつもどおりの通学路をいつものように歩いていた。
 カーブミラーに映ったゆがんだ自分を眺めながら、あたしは昨夜またあの夢を見たことを思い出していた。内容は決まって、あたしと同じ姿をした少女があたしに向かって語りかけてくるといったもので話された内容は理解できなかったけれどもともかく印象に残っていたのはこの世には二人の自分が存在するということだった。

 葉っぱの葉脈か、理科の時間で習ったあのいびつな模様か、それともメロンの表皮のようなぶつぶつしたミミズ腫れのような筋を全身に浮かび上がらせてそいつはあたしを見つめている。
 わたしとひとつにならない?そんな声が聞こえた。
 目の前にいるのはあたしと同じ姿をした少女、あたしが見ている姿。毛先を揃えたおかっぱの黒髪、白い肌、切れ長の目、だけど、そうだ目だ、そいつの目だけがあたしと違っている。

 紅い瞳。

 夢の中で出会う自分は、ルビーのような紅い瞳をしていた。
 紅い瞳をしたあたしの姿をしたものは表情を柔らかにし、そっとあたしに手を差し伸べてきた。あたしはたぶん身体が引きつっていたと思うけれど何も抵抗できなくて、ただ彼女があたしの下腹部に手を伸ばすのをなすがままに見下ろしていた。
 それはとてもおぞましい感覚で彼女の細く白い右手があたしの腹の中にめり込んでいき指先が細長い虫、サナダムシ、そう寄生虫のような形に変わって腹部から全身への血管のすみずみまでに入り込んでいく感覚だった。
 快感とも苦悶ともつかない不思議な刺激が全身を駆け回る。普通にセックスしたときとは比べ物にならないくらいに激しい刺激があたしの全身を満たしていく。太股の付け根が蜜を噴いて濡れてるのが分かる。涙もたぶんこぼしていた。あたしは泣きながら、お願いだからやめてと言いたかったけれど夢の中で言葉なんて出なかった。あそこの肉をつねられる感覚が伝わってくる。誰かの笑い声が聞こえる。あたしは何もできずにただ犯されるだけだ、いや自分がそれを望んでいる。壊してほしいと望んでいる。
 紅い瞳をしたあたしはこれがあなたなのよ、とあたしの耳元でささやきかける。私の心をあなたにも分けてあげる。この気持ち、あなたにも分けてあげる。

 紅い瞳をした自分、いや自分じゃない、あたしの姿を真似ているだけなんだ。

 こうなることをどこかで望んでいた?そんな気がしていた。
 血の匂いがして、目の前が真っ赤になって、それらがみんな凝縮されて弾けたと思うとあたしはベッドの上から跳ね起きていた。

 荒い息をつきながら辺りを見回す。何も変わったことはない、あたしの部屋だ。カーテンの向こうは薄明るくなっていて、雨が降ったのだろうか、通り過ぎる車が水を撥ね飛ばす音が聞こえてきた。

 降った雨は歩道のあちこちに水たまりを作り、あたしはそれを避けながら歩いていく。

 学校に着いて教室に入るとレイコがスカートのポケットに手を突っ込んで立ち、ケイとモコが床にしゃがみこんであたしの机の周りに集まって待っていた。あたしはスクールバッグを机のフックに掛けると椅子に座り彼女たちを見回すようにして話しを始めた。
 やおら、レイコがこれ、忘れ物だよと言って青紫色をしたイボつきのバイブをあたしに差し出す。近くの席の連中などはまともに見せ付けられたりしているが、誰もが気がつかないふりをしている。あたしは黙ってそれを受け取った。
 ウィルったらわざわざうちにまでやってきてこれ返しに来たのよ、信じられる?あたしのどこがこんなモノ持ってるような女の子に見えるってのよねえ、青みがかったポニーテールを揺らしてレイコはあたしに笑みかける。

「なんか顔色悪いけど、寝不足?こないだのパーティーは盛り上がったからね、あんたジャクソンのぶっといの突っ込まれて何回もいってたでしょ、一昨日よ」

 そうかもしれない、とあたしは返した。

「道具集めるのはあんたがいちばん詳しいんだから、これからもがんばってもらわないとね、あんたがいなきゃ私たちも楽しめないから」

「わかってる」

 何よ素っ気無いね、あの日?ケイが薄笑いを浮かべながら言う。

 あたしはみんなの話しを聞き流しながら、最近物忘れが酷いというか、記憶が曖昧になりがちなことを考えていた。健忘症だろうか、それとも薬のせいだろうか。
 あの夢を見たのは昨夜だから、だから家にいた。一昨日はみんなと遊んで朝帰りになった、だから夢は見なかった。
 それら二つの夜を思い浮かべながら、あたしは自分の頭の中には記憶を管理する存在が複数いるのではないかと思っていた。だからどうしても思い出せない時間がある。これは二重人格だろうか、それとも夢の中に出てきたもうひとりのあたしがあたしの記憶を奪っているのではないか。

 スクールバッグのファスナーを開けて、さっきレイコから返してもらったバイブをしまう。男のあれを模した形の先端に教科書の紙が押しやられてゆがみ、あたしはそれがあそこのびらびらのように見えて吹き出し笑いをこらえた。

 やっぱり蛙の子は蛙だね、と唐突にモコが言った。

「なんのことよ?」

「あんたよ、今の手つきなんか見てたら余計じゃん、プレイの道具持ち歩くデリヘルみたいだよ、ちょっと見せてみなさいよ他にも何か隠してるんじゃないでしょうね」

 黄色い声を上げてあたしのスクールバッグをあさろうとするモコの手を、足を上げて踏んづけ制する。ケイがパンツ見えるよ、と今度は冷ややかに言った。

 うちのはそんなしょっぱいのじゃないよ、昔のことだけど一時は店でもトップ張ってたみたいだしね、月7桁は当たり前だったって聞いたことあるし、まあどっちにしろ昔のことだよ、

「それにしちゃあんまり金持ちに見えないけどね、あんたんち」

 レイコは腕組みをしている。

「遣いすぎだからでしょ、ホストクラブとかに通ってた頃の癖が未だに抜けないから今んなって苦労してるんじゃない、いい歳こいて」

「今度はウィルの家に呼ばれてるのよ、ドミニクからいいブツ引いてもらったって言ってたし」

「そうなんだ、それは楽しみだね」

 あたしは生返事を返す。第2東京郊外の福生市にある私立聖霊学習院から市街中心部を挟んだ向かい側にある横田基地国連軍ハウス、そこがあたしたちの遊び場だ。21世紀になって国連本部が日本に移転してから、この第2東京を守る国連軍横田基地は重要度を増し何度も基地設備を拡張している。街を歩く外国人の姿も多い。そんな中で、あたしたちのような少年少女が外国人と遊ぶのもごく自然な流れのことだ。

 一昨日はケイの家に集まった。基地に隣接した公営の安い団地で、裏手が大きなゴミ捨て場になっていて家の中まで金属とプラスチックの腐敗臭が入り込んできていたのを覚えている。彼女の家は共働きで、ヤンキー同士の学生結婚だったらしい。茶髪なのは天然だと言っていたが、そんな見てくれからわかるようにケイは小学校の頃から男勝りの荒っぽい性格だった。彼女の父親はサードインパクト直後の荒れた街で学生時代を過ごし、基地で働いていたナスターシャというスラブ系のストリッパーに入れ込んでいた。その彼女の伝手であたしたちもハウスに出入りできるようになったのだ。
 あたしが彼女の家に着いたときちょうど母親が夜勤に出かけるところで、あたしは軽くお辞儀をしてお邪魔します、と挨拶するとあらいらっしゃい、みんな集まってるわよとハスキー声で言われあたしは軽い戸惑いを覚えながらも遊び道具を詰め込んだリュックを手に持ちながら薄っぺらいドアを開けていた。そのときはさっきモコが言ったように大人のおもちゃをたくさん持ち歩いていたが、今は違う。
 ケイの家の窓からは基地の滑走路がよく見える。くせっ毛の金髪をしたウィルはパイロットでストラマという変わった翼の形をした戦闘機に乗っていて、俺はいつもああやって離陸していくんだ、空に上がる瞬間、地面を離れる瞬間ってのはすごく気持ちいいんだと言っていた。彼のあれは長かったけれどユウキたちのよりはやわらかくてあたしの中に出したあとに手で握ってぶらぶらさせながらあたしのあそこを叩いていた。

 あたしは最後に母さんと話したのはいつだっただろう、と思い返していた。父さんは、いない。あたしが小学校に入学したばかりの頃に離婚してしまったからだ。夜、身体を重ねながら覆い隠された棘のある口調で話し合っていた母さんと父さんの声を、小さい頃のあたしはベッドの上で毛布をかぶり眠っているふりをして聞いていた。
 母さんは毎日のように朝早くから仕事に出かけ、夜遅くに帰ってくる。あたしと時間が合うことはめったにない。しかしそれは働き者というわけでは決してなく、ただ単に外で遊んでいる時間が長いとそれだけのことだ。どうせ昨夜もどこかの物好きな男としけこんでいたのだろう、もう四十を過ぎたというのに、顔だけは昔からの仕事のおかげか若々しいけれど、それでもあたしから見ればもう狡賢い中年女でしかない。一度だけ、授業参観に来たときに若くて美人だね、と言われたことがあって本当の歳を言ったら面白いことになるかと思ったがそのときは結局言わないままで、それからは学校のPTAにも参加することなくあたしたちは離れ離れになったままだった。保護者向けのプリントをもらってきてもあたしはただそれをダイニングのテーブルの上に置いておくだけで実際に手渡しで見せたりはしなかった、母さんは本当に見ていたのかどうか分からないけれども、連絡事項やPTAの集まりの出欠をとることがあってもあたしは自分で欠席に丸をつけてそのまま知らないふりをして提出していた。
 だから本当に家では独りで、あたしは家族と暮らしているという実感がなかった。
 もうこの生活が当たり前のようになってしまって、いまさら変えようという気は起きない、それに変えたいとも思わない。あんな母親と毎日顔を合わせたくない、話しもしたくない、だからできればすぐにでも家を出ていきたい、そう思っていた。
 この聖霊学習院中学の入学式にも当然母さんは来ていなく、周りを見渡すと仮にも名門と呼ばれる私立校らしくいかにも金持ちの娘といった感じの子たちがこれまた高級そうな雰囲気のする親たちに連れられていて、あたしは居心地が悪くなって早くケイたちと合流しよう、と式が終わると足早に体育館を離れ校庭に向かっていた。

 ほんの1ヶ月前のことだ。

 この学校は去年から共学になっていて、3年生は女子だけだが1年生と2年生は少ないながらも男子がいる。周りが女子ばかりでそわそわしがちな初心な男子たちをあたしたちは囲い、あるいは最初からそれ目当てで入ってきたようなちょっと悪そうな感じの男たちを仲間に誘い、あたしたちは遊んでいる。レイコはあたしたちのグループでも比較的まじめな方だが、ケイとモコは昔からの不良コンビだ。ポニーテールのレイコは容姿も整っていて身体のスタイルを除けばそのまま青年漫画雑誌の表紙を飾ることもできそうだ、実際そういう子たちも3年生の中には居ると噂を耳にしたことがある。ケイは茶髪の天然パーマでいかにも前時代的なスケ番といった感じ、モコは顔が大きくて丸々とした体格をしている。あたしは黒髪のおかっぱ頭で身長がレイコの次に低く、自分で言うのもなんだが地味めな方だと思う。

 身体のだるさは昼休みになっても結局抜けなくて、購買で買った惣菜パンの食べ残しをモコに押し付けた後あたしは先生に言って早退した。先生はわざとらしいくらいに心配そうな顔をして保健室に行ってみてもらったらと言ったがあたしはそれを断って、失礼しますとだけ言って踵を返しスクールバッグを肩に担いだ。

 霧は昼を過ぎても晴れずどんよりと低い雲がこの第2東京を収めている松本盆地に垂れ込めていて、家に戻る気もしなかったのでどこかで時間を潰そうと、あたしは通い慣れた国道沿いの大きな本屋に足を向けていた。
 日中でも変わらず車は絶え間なく流れ続けていて、平日の昼間なのに学校以外の場所に制服姿の子供が居るのはおかしいと見咎められるかと思ったが人々は何も気に留めずに歩いていてあたしは自分が空気のような存在に思えてきて、歩きながら転がっていたコーヒーの空き缶を蹴っ飛ばした。

 また昨夜の夢を思い出す。
 夢の中に出てくるもう一人のあたしは人間じゃない何か、という直感が突如湧き出てきた。人間じゃないけれど、人間の姿を真似て、あたしの姿に成り代わってあたしの知らない何か、あたしが思い出したくない何かを見せ付けてくる。そう感じていた。

 これって病気なのかな。

 考えてみたけれど中学生の頭ではとても理解なんてできない、ただ自分が感じる事実だけがすべてだから。

 あの夢を見るようになったのはいつの頃からだっただろう、小さい頃は、ただぼんやりとしたイメージでちょっとだけ勘が鋭いとか、その程度だった。それが次第にはっきりしたものに変わっていって初めて自分の中に自分と同じ姿をしたものが現れるようになったのは初潮が来てからだったと思う。風呂場でシャワーを浴びて排水口に流れ込む血糊を見つめながら、あたしはそのとき初めて自分の中に自分の手の届かない、力の及ばない領域があるということに気づいたのだ。

 自分の心なのに、心の中のどこかに自分ではない別の誰か、何かが居るように感じる。そしてそれは自分に語りかけてきて、自分の知らない何かを教えてくれる。

 歩道から駐車場へと歩を進めたときに携帯が震え、メールの着信を知らせる。それは小学校5年生のときにある少女漫画雑誌の読者コーナーで知り合った霧島マナという子からだった。
 霧島さんは鹿児島の阿久根という町に住んでいて毎日海を見て暮らしているそうだ。彼女もあたしと同じように自分の中に生き物が存在するという感覚を持っていて、彼女の場合はその生き物が世界の終末のような光景を見せてくれるのだという、それもどんなSF映画やパニック映画よりも生々しい、現実の街が人間を超えた力によって破壊されていく様子なのだと。
 あたしは本屋で、そうその頃からこの本屋はこの町に建っていた、そこで見かけた雑誌の読者コーナーで彼女の投稿を見つけ、そしてすぐ自分も葉書を書いてその雑誌の編集部へ送っていた。携帯のメールも同時に送り、その日のうちに返事を貰いやがて編集部の人の仲介であたしは霧島さんと、それに同じように全国から寄せられた何人かのあたしたちと同じ夢を見るという同い年の子供たちと連絡をとることができたのだ。
 あたしは第2東京に住んでいて、霧島さんは鹿児島で、ほかの子たちも大阪だったり札幌だったり秋田だったり全国ばらばらで直接会うことはできなかったけれど、今でもこうしてたまに連絡は取り合っている。
 メールの内容は中学の生活にはもう慣れたかな、という話しで霧島さんは最近とくに夢の内容がはっきりしたものに変わってきて、廃墟となった都市の中に巨大な白い人型の物体が、周囲に見えた山の高さから考えて少なくとも2万メートル以上の身長を持つ巨大な人型がいるのが見えたという。あたしはそれに対し、自分と同じ姿をした紅い瞳の少女が自分を犯す夢をちょうど同じ昨夜に見た、と従業員通用口の鉄扉に背を持たれて携帯を操作しメールを返信した。

 本屋の中は本とCDとビデオとDVDとそれからゲームソフトがそれぞれ別々の大きなコーナーに分けられていて、あたしが入った入り口の前には漫画雑誌のコーナーがあってそこからさらに奥へまっすぐ進むと専門誌のコーナーがある。
 漫画雑誌は買わないけれど、テレビゲームは昔からよくやるたちだったのでゲーム雑誌は買っている。ファミ通と電撃プレイステーションが束になって棚に押し込まれ、その隣の子供向けの雑誌が並ぶ棚にはVジャンプが平積みされ、さらに奥のすこしマニアックな雑誌が並べられる棚にはログインとコンプティークが表紙に大きく描かれた美少女キャラクターを強調するように透明な仕切りの中に押し込まれている。
 その棚の中の雑誌を右側から一冊ずつを順番に取り出して立ち読みする。ロールプレイングゲームでも対戦格闘ゲームでも、ともかく少女キャラクターの出てくるタイトルを片っ端から探していき、一ページずつを左上から右下へと順番に目で追いながら彼女たちの瞳の色を確かめる。
 改めて見ると少女たちは本当にさまざまな瞳の色をしていて、緑だったりピンクだったり青だったりあるいは普通の日本人らしい黒か茶色だったり、そしてやはり赤い瞳をしたキャラクターもいてあたしはさっき夢の中で見た彼女との違いを見比べる。

 血のような紅い色、だったと思う。

 露出の高い服に飾られた胸の大きいその少女キャラクターをじっと眺めながら、もし彼女たちがあたしと同じ夢を見るとしたらどんなだろう、とゲームのストーリーを思い浮かべていた。

 ゲーム雑誌のキャラ紹介をゆっくりと読んでいく。ルビーのような、という表現には出会えなかったけれど、紅い瞳の見つめるものは、とか、そんなあおり文句が並んでいてあたしはやはり紅い瞳は神秘性を表すもので、だからあたしが夢の中で出会った自分が紅い瞳をしているのはどこかあたしの手の届かないところからやってきた誰かがあたしの中に巣食っている、いやあたしが生まれたときからずっとあたしの中に居て、今になって表に出てきたんだと、そう考えていた。
 あたしは期待が確信へと変わっていくのを感じていた。
 これはやはり運命だ、と。
 今までずっと見てきた夢のように、身体の中の生き物はあたしにさまざまな物事や出来事を見せてくれる、生き物とはそんな存在なんだ。

 チェックし終わった雑誌を棚に戻しながら、そういえば夕飯の仕込みをしなければいけないなと思ってあたしはどこのスーパーに買い物に出かけようかと考える。母さんは食事を作っておいてくれるなんて気の利いたことはしない、もちろん洗濯や風呂掃除なんかもだ、全部あたしがやっている。
 どうせ自分は外食してくるかコンビニの惣菜を買ってくるかそれだけだから、気にしてなんかいないのだろう。
 それとも男に奢ってもらうとか。相手も相手で大概にしろ、あんなババアのどこがいいんだ、あたしは小さく口に出して呟きながらポケットの中の鍵を確かめる。鍵は二人ともが持っているけれど、どうせこの時間に帰ってくることなんてないだろうから、リノリウムの床を蹴りながら吐き捨てる。
 そういえばこの時間だとイオンに行くと鉢合わせてしまうかもしれないな、と今母さんがパートで勤めているスーパーを思い浮かべる。仕方がない、ちょっと遠いけれどマックスバリューにしておこう。あたしの家がある辺りは10年くらい前に造成された土地で分譲住宅がたくさん売られていて、うちもその一軒だけれど、この家のローンもまだだいぶ残っているのにどうして離婚なんてしたんだろう。返せるあてがあるのだろうか、それとも慰謝料をふんだくったか、そもそも離婚の原因は何だったのだろうか、あんまり小さい頃の話しだったので思い出そうとしても分からない。ただひとつ言えるのは、今の母さんは大層に男癖が悪くて見栄っ張りで金銭感覚に雑だということだ。歳をとって仕事は引退したけれど、10代の頃から風俗産業にどっぷり浸かっていたような人間が今さら普通の仕事になじめるはずもない、だから苦労はしているんだろうがあたしにとっては他人事でしかなかった。しかし、あたしと母さんはどんなに関係が希薄になろうともそこには家族という断ち切ることのできない鎖があって縛られている。あたしの生活は母さんの稼ぎに依存しているが、あたしにできることはなにもない、家計に口を出すこともできないし実際がどうなっているのかも分からない。母さんは今までに何度も勤め先を変えていて、単に契約切れになったのかそれとも首になったのか自分で辞めたのか分からないけれども少なくともあたしが覚えている限りではこの1年で3回は職場を変えている。
 このままでは自分までとばっちりを喰らってしまう、それが焦りのひとつだったのかもしれない。あたしに何も悪いことはない、それなのに親がロクデナシだったというだけで子供まで不幸な思いをするのはそれは理不尽だと、それくらいのことは13歳のあたしにもわかる。いや、今になってようやくそれに気づいたのはギリギリだったかもしれない、手遅れになってからでは逃げ出すことさえも叶わない。といって、他にあたしにできることは何があるだろうかと考えたときにあたしは初めて自分の無力感とか虚無感といったものを実感したと思う。

 そう思ったとき、あたしは自分が見る夢が恐怖を運んでくるものではないのだと思い始めていた。たしかに正体は分からない、不気味なものではあるけれど、それはあたしの現世の苦しみとか俗世のしがらみとかそういったものからあたしを解放してくれる、そんな気がしていた。

 雑誌のコーナーを後にしたあたしは軽くCDのコーナーを見て回ることにした。

 芸能人の情報を扱う週刊誌も読まないし、読む漫画や音楽の趣味だってクラスの連中に合わせようとは思っていないし、それに自分の趣味がみんなの間で受けるとも思っていない。しいていえば洋楽、ダンス系が好みだ。

 その日は青葉シゲルさんの新曲が棚にたくさん並べられていて、ラミネート紙でランク1位、と書かれた紙箱がCDケースと同じサイズに切り分けられて棚に並べられていた。
 あたしはそれを手にとってパッケージの表と裏を交互に眺めた。2038年春全国ツアー、という広告が背表紙に書かれていて、裏側のいちばん下にプロジェクトT.T.G.とロゴマークが印刷されている。ランク2位は先週ここに来たときに4位だったザドアーイントゥサマーの夢の終わりという曲でヴォーカルの山岸マユミさんといえば艶やかなロングの黒髪が印象的だったけれど、このCDのジャケット写真では短くまとめ、青いショートボブのウィッグをつけている。そして何よりもあたしにそれを印象付けたのはその瞳だった。カラコンだろうけど、それはまさしくあたしが夢に見た自分と同じ、ルビーのような紅い瞳だったからだ。
 このユニット、ザドアーイントゥサマーが所属しているのはCMRBレーベルで、パッケージ裏のクレジットによればホクマ・グルーヴ・ターミナルから発売されている。財布の中身を確かめて、このCDを買うのにお金が足りないと気づいたあたしはその名前を忘れないように、今度は中古CDの棚を探していた。
 ザドアーイントゥサマーはデビューから既に10年以上がたった老舗のユニットで出ている曲の数も相当なものだ。そのジャケットのどれもが、マユミさんはロングストレートの黒髪というスタイルを変えていなく、たまたま、今回の新盤だけが特別だったようだ。
 あたしはもう一度ランキング別の新作の棚の前に戻り、貼り付けられたポスターをじっと見つめた。

 携帯の検索サイトを使い、CMRBとホクマ・グルーヴ・ターミナルについて調べる。
 CMRBはCOCONO氏率いるダンスミュージックの一大レーベルで、氏はジャパニーズ・ダンス界の立役者と云われる優男、だそうだ。携帯の小さな画面ではすこし分かりにくかったけれど、写真で見るCOCONO氏は長身痩躯という言葉がぴったり当てはまる渋い男で、髪はさっぱりと短く刈りそろえ、鋭い眼光がちょっと危なげな香りを漂わせていてあたしはああ、こういう人なら女にはもてるよね、と携帯を握りしめながら思っていた。

 何を言ってる、とややあってからあたしは自嘲気味な笑みをこぼした。

 あたしみたいな子供が大人の男に近づこうとすること自体が間違いなんだって。

 CMRBはダンス・ディスコ系が主力だがホクマ全体としてはJ−POPを広く手がけ、アルカディア・レコード、プロジェクトT.T.G.と並んで日本音楽業界の御三家といわれているらしい。

 もしかしたらCOCONOさんも、あたしと同じようにこの紅い瞳に何かを感じていて、それでマユミさんにその格好をさせたのではないか、そんな気がしていた。
 期待しすぎだろうか。
 あたしはただの一般市民で、COCONOさんはレコード会社の社長で、身分が違いすぎる。会う機会なんてまずないだろう。だけどあたしがあの漫画雑誌の編集部に投稿したように、メールを送ったように、何かきっかけとなりうる要素が用意されていれば接点を探すことはできる、そう信じていたい。
 今はまだ会えなくても、だ。
 いつか会えるときがくるかもしれない、そう思うだけでも違うだろう。それはクラスの連中がアイドルを見てはしゃぎ騒ぐのとは違って、これもきっと運命というやつなのだろう、運命とは離れた場所にいる別々の誰かの意思がある一点で重なったときそれを表す言葉なのだろうと思う、だからあたしは紅い瞳の自分を夢に見たし、今こうしてこの店に来て紅い瞳のポスターを見つけたのだと思う。

 あたしは携帯のカメラでCDのジャケットとポスターを撮った。

 それからスーパーでの買い物を済ませて家に帰るまで、帰ってからもあたしはじっとその写真を見つめながら、あのルビーの輝きを思い出そうとしていた。

 とても綺麗だった、宝石と呼ぶにふさわしい澄んだ輝きだった。
 そんな瞳の色をした人間がこの世にいるのだろうか、本当に生きてこの世にいるのだろうか、そう考えながら写真を見つめる。
 明らかに生身の人間ではない雰囲気を放っている、紅い瞳。

 だけどルビーはこの世に実在する宝石で、だから紅い瞳の人間もきっとどこかに実在している、だからあたしは夢に見ていたのだと思う。

 買ってきた豆腐と素で作った麻婆豆腐を食べて、食器を流しで洗って棚にしまってから自分の部屋で軽くひと眠りしていたらまたあの夢を見た。
 夢の中であたしはまた自分に犯され、しかし痛みではなくはっきりいえば快感を覚え始めていた。自分がされていることなのに、あたし自身はどこか離れた場所からあたしと同じ姿をしたものたちの交感を眺めている気分になった。そいつの名前はカオリといった。あたしはこのドラマの中でレズビアンのカップルを演じている。受けの側の名前はカオリで、攻めの側はメグミだ。あたしはそのどちらも演じることができる、生き物は、あたしと同じ姿をした紅い瞳の生き物はあたしにそう言っている。同じ夢の中であたしは今度は初めて、自分があたしと同じ姿をした黒い瞳の少女を犯す感覚を味わっていた。自分の手が少女の腹に触れると、そう、小学校の理科の時間でスライムを作ったときにその粘液の中に手を突っ込んだようにぬるりと手が少女の体内に入っていき、自分の指、5本の指がしっかりとついているにもかかわらず指先が細長い触手のような形に変わって少女の体内の細胞ひとつひとつまでを溶かし込んでいく感覚をものすごくリアルに感じていた。

 起きたときには既に外は暗くなっていて、あたしは風呂を洗って給湯器のスイッチを入れ浴槽に湯が満たされる20分ほどの時間をただ風呂長靴を履いてスポンジと洗剤を手に持ったままぼうっと突っ立って待っていた。
 そうして用意ができてからあらためて服を脱いで脱衣かごに入れ風呂の湯に浸かると、さっきの夢で見た不思議な感覚がすこしだけ擬似的に再現されたような気がした。あたしは何かの液体の中に浸かっていた、浸けられていた。それは水や湯ではなかったと思う、なにか得体の知れないものを溶かし込んだ不思議なオレンジ色の液体で、だから視界がオレンジ色をかぶせられていて現実感がなく、しかし触感やその他視覚以外の感覚がとてもリアルに感じられたのだと思う。

 いつもより長めに、一時間ほど温まった後風呂から上がってバスタオルで身体を拭き、脱衣所の洗面台の鏡の前に立って自分の裸の身体を眺める。小学校の頃は痩せていて背伸びをするとあばらが浮き出てきたが、思春期に入った今は肉がついてきてそんなこともなくなった。胸は真正面から見てもふくらんでいるのが分かるくらいになり、一昨日のパーティーで右の乳房だけをユウキにしつこく揉まれつづけたのを思い出してかすかなくすぐったさが戻ってきた。下半身に目をやれば、腰の成長はまだまだこれからで細い子供の骨盤だけど、あそこの毛はしっかりと生えてきていて薄く短い陰毛が割れ目を隠すように伸びている。そろそろ手入れをしなければならない年頃だろう、そういえばレディシェーバーを今日買い物に行ったときにスーパーの医薬品のコーナーで見かけたから今度品定めしておこう、と思い立った。

 服を着て、自分の部屋に戻る。この時間になっても母さんは帰ってこないがいつものことだ。だから朝起きてから寝るまで、普通の生活リズムの中では母さんが休みの日以外は家の中でも会うことはない。いや、休みの日でも家で寝る以外はどこかへ遊びに出かけていたから、結局同じことだ。たまに早起きしてしまった日は階下のダイニングでひとりで朝食をとっている音が聞こえてくることがあるが、いつもあたしが起き出すよりも30分は早く家を出てしまう。

 10時半過ぎになって、あたしがパジャマに着替えてベッドの中でうとうとしはじめた頃に玄関のドアが開く音がして母さんが帰ってきたのだとわかった。ただいまの挨拶もしに来ない、あたしもわざわざ起きておかえりを言いに行きもしない、お互いにそれは分かっている。

 すこし目が覚めてしまったのであたしは一度ベッドから出ると本棚から昔買ったゲーム雑誌を取り出して布団の中で読んだ。格闘ゲームの美少女キャラクターは青い髪をして紫のバンダナを額に巻き、紅い瞳をしていた。それはたしかに赤かったが、あたしが夢に見たルビーの輝きとはわずかに違っていた。

 一階の天井からあたしがいる二階の部屋の床を通してベッドに伝わってくる階下の音に聞き耳を立てると、母さんの他にもう一人の人間が居るのが聞き取れた。いい度胸だ、子供が居るというのに彼氏を家に連れ込むか。あたしは布団に入ったままゲーム雑誌をいきおいよく閉じ、床に放り投げた。バサッと紙の束の音がして雑誌が床に落ちる。この音が聞こえたところで母さんは気にも留めないだろうし、相手の男にもそう言うだろう。

 あたしはただ、今夜見る夢の中でもう一度あのルビーの輝きを思い出せないかということだけを考えていた。





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