内 な る ”声” T
- 笑みとともに… -
「あたし一人で、何もできなかった…。」
アスカは、ベッドでうつ伏せになりながら、唇をかみしめていた。
その日、アスカにとっては二度目の対使徒戦があった。
衛星軌道上から落下して来る使徒を、いち早くその落下地点を予測し、受け止め、殲滅
する。
作戦とも言えない作戦だったが、その主導的な役割を担うのは、自分の筈だった。
”えこひいき”も、”七光り”も、せいぜいがんばって、自分のサポートをしてくれれば、それ
でいい
…そう考えていた。
だが、まず、使徒の落下予測地点が、大きく外れた。
迅速にそれに対応したのが、あのバカ、”七光り”だった。
信じられない機転とスピードで落下地点に到達し、使徒を受け止めて見せた。
「フィールド全開!!」
”七光り”の雄叫びが聞えたとき、アスカは先を越されたという妬みとともに、少しばかりそいつ
に頼もしさを感じてしまった。
アスカが続いてそこに到着したときには、使徒に両腕を貫かれながらも、受け止めた姿
勢を崩
さずにそれに耐えていた。
「よくやったわ、七光り。後は、あたしが!」
せめて、使徒の殲滅はあたしが…。
だが、使徒のコアを狙ったプログナイフでの攻撃は、ことごとく外れた。
「アスカ、早く!」
七光りが目に涙を浮かべながら、苦しそうに叫んだ。
「わかってるわよ!」
だが使徒のコアはぐるぐる廻って一か所に留まらず、狙いをつけることができない。
『くっ、どうすればいいっていうのよ!』
焦りと、あってはならない諦めが、アスカの心に生じようとしていた。
『あきらめないで!』
誰かが、そう言うのが聞こえた。
そしてそのとき、高速で回転移動する使徒のコアが、ぴたりと止まった。
「今よ!」
”えこひいき”の零号機が、使徒のコアを攫んでいた。
その両手が焼かれ、煙を噴き上げている。
なんとか、そのコアにプログナイフを突き入れ、使徒を斃すことができた。
「七光りと、えこひいきがいなければ、使徒を斃すことができなかった。」
そうつぶやくと、アスカはベッドの上で寝返りをうった。
眠れない…。
『使徒なんか、あたし一人で充分よ!』
出撃前のブリーフィングで、大見えを切ったのが悔やまれる。
『そう?
でもね、私はあなたたち三人が力を合わせ、チームとして結果を出すことに期待して
いるのよ。』
ミサトの言葉に、
『まあ、いいわ。そこの、えこひいきと七光り!』
『な、なに。』
『………。』
『せいぜい、あたしの足をひっぱらない様、気をつけることね。』
そう言っておきながら、あの二人がいなければ、今頃生きてはいなかった。
眠れないなどというのは、贅沢な悩みだった。
「かっこ悪いな、あたしって…。」
『そんなこと、ないわよ。』
自分のつぶやきとは、別の声が聞こえて、アスカは目を見開いた。
跳ね起きて、周りを見廻す。
誰もいなかった。
いる筈がないのだ。
「空耳か…。」
そう口にして、再び横になる。
たまに、こういうことがある。
生みの親のことを知らない自分は、選ばれた精子と卵子を掛け合わせた、試験管ベイビ
ーだと
聞いている。
生まれたときから、「仕組まれた子供」なのだ。
遺伝子操作による影響かどうかは知らないが、なにかしら、自分の中にはもうひとつの
人格が
ある様な気がする。
「ひとりでやれるって信じてきたのに。」
ため息をつくようにして、アスカは再びつぶやいた。
他人と協力し合わないと、できないことだってあるんだ。
そのことを、初めて知った。
そして今まで孤高を貫いてきたことが、なんだかせつなく感じられた。
「あたしは、淋しいのか? まさか、ね。」
自分の言葉に、ふっと苦笑しそうになる。
『無理しなくていいのよ、自分に素直になりなさい。』
また、内なる声が聞こえた。
そうか、と思った。
これがあたしの、本心なんだ。
ひとりよがりで、かっこつけたって、苦しいだけなんだ。
でも、どうしたらいいんだろう。
どうしたら、このせつなさが、癒されるのだろう。
『その答えは、知っている筈よ。』
そう、知っている…。
アスカは起き上がり、引き戸を開けた。
部屋のベッドで眠っていたシンジは、自分の背後に誰かが横たわる気配で目覚めた。
「こっち向かないで!」
振り返ろうとしたところを、その声で制止された。
「七光り、ちょっとだけ、ここにいさせて。」
「うん…。」
翌朝。
誰に対しても、平等に朝は来る。
一日の始まり。
そのための、通勤あるいは通学。
電車に乗り、雑踏を歩き、出会った友人と挨拶を交わす。
ここ、第3新東京も使徒の脅威が去れば、どこにでもある様な都会の生活が廻り始め
るのだ
った。
その昼。
「えぇ〜っ! お弁当忘れてたのぉ!!」
「だって、朝、宿題やってたから、作るひまなかったんだよ。」
「なによこのあたしに、飢え死にしろっていうの!」
アスカとシンジのやりとりを、ケンスケとともにあきれた顔で見ていたトウジが、つ
ぶやく様に
言った。
「なんや、また夫婦ゲンカかいな。」
「「違う(わ)よ!」」
思いっきり否定する二人であったが、その息はぴったり合っていた。
そして、夜。
冷蔵庫の中の食材を確認しながら、何やら献立表のようなメモ書きをシンジが作成し
ている。
それを見て、アスカは言った。
「明日は、お弁当、作ってくれるんだ。」
「まあね、準備だけはしておこうと思って。」
「感心、感心。バカシンジにしては、やるじゃない。」
「バカだけ余分だよ。」
昨夜の一件のあと、アスカは『七光り』から『バカシンジ』に呼び方を変えている。
そのかわり、シンジにもアスカと呼ぶことを許していた。
「じゃあ、あたし、先に寝るわね。お休み。」
「ああ。お休み、アスカ。」
アスカと呼ばれることに、なぜか些細な喜びを感じてしまう。
これまで、同じ年頃の相手に、そのような親しみを込めた呼び方をされたことがなか
った。
それは、アスカ自身が孤高に身を置いているがために、彼女を取り巻く者が一歩退い
てし
まうからなのだが。
少なくともシンジは、根っこの部分でアスカに遠慮することはない様だ。
内罰的な態度を見せることはあっても、言い返すときは言い返す。
『そうか、あたしを対等に見てくれているんだ。』
自分の部屋でパジャマに着替えながら、今更ながらそのことに気付いた。
今夜は一人でも眠れそうだ。
そう思いながら、アスカは無意識に笑みを浮かべていた。
次の日の昼休み。
シンジから渡された弁当箱をあけていると、学級委員長のヒカリが、声をかけてきた。
「式波さん、いっしょにお弁当食べない?」
「いいけど、お弁当は分けてあげないわよ。」
「うふふ。(お弁当をたかりに来たとでも思ったのかしら)」
ヒカリは笑って、自分の弁当の包みをアスカに見せた。
「でも、美味しそうね。そのお弁当。」
アスカの弁当の中身を見て、ヒカリは言った。
「あげないって言ってるでしょ。」
「そうじゃないのよ。式波さん、お料理上手だな、と思って。
わたしのお弁当が恥ずかしくなっちゃう。」
「あ、あたしが作ったんじゃないわよ。バカシンジよ!」
「へえ、そうなんだ。いいなあ。」
二人は弁当を食べ始めた。
『本当に、美味しい。』
アスカはそう思った。
冷めたら、多少味は落ちるはずなのに、絶妙な味のバランスが保たれている。
初対面のときの印象は”冴えないやつ”だったのに、前回の使徒戦のあとから、アス
カはシ
ンジのことを、少しずつ見直していた。
いや、今や気になって仕方がない存在になりつつある。
そのシンジが、レイの机に歩み寄っているのが見えた。
「はい、綾波。」
「なに?」
「お弁当。よかったら、どうぞ。いつもお昼ごはん、食べていないみたいだから」
「あ、ありがとう。」
レイが頬を染めて、それを受け取っていた。
「むうう…。」
その光景を見て、アスカは低く唸った。
たしか、今朝、シンジは弁当を4つ作っていた。
アスカとシンジの分は判っていたから、あとの2つはてっきり鈴原と相田の分かな
と思って
いた。
そうではなかったのだ。
”えこひいき”の分と、おそらくはミサトの分だったのだ。
『女に対しては、誰にでもやさしい奴なんだ。』
そう思うと、なんだか悔しかった。
アスカは、箸を置いた。
「そのお弁当、食べてもいいわよ。」
横目でヒカリを見ながら、そう言った。
その夜。
昼間のシンジとレイのことが気になって、アスカは眠れなかった。
「なんなのよ、もう!」
ぶつぶつとつぶやきながら、アスカはベッドから身を起こした。
「バカシンジが”えこひいき”のことをどう思おうと、関係ないじゃない!」
机の上に置いていた携帯ゲーム機を手に取り、電源を入れる。
しばらくの間、ゲームに熱中していたが、やがてそのゲームの内容があらたなストレ
スを
生みだしてきた。
アスカがプレイしているのは、とある戦闘シミュレーションゲームだった。
赤い自機で、9体の白い敵を制限時間内に倒すというものだ。
ノーマルモードではなんとかクリアできる様になったものだが、エクストラモードで
プレイす
ると、いつもやられてしまう。
どういうわけか、倒した敵が復活してしまい、制限時間を迎えてしまうのだ。
「なんなのよ、もう!!」
再びそうつぶやくと、ゲーム機を放り出して、ベッドの上に仰向けに寝転がった。
『心を開かないと、エヴァは動かないわよ。』
不意に、心の内に、その声が聞こえた。
神経を逆なでされた様な気がした。
「あんた、だれよ!」
今まで、気のせいだということにして無視してきたが、今日はそいつと対決してやろ
うと思
った。
「だれよ、あんた! 出てきなさいよ!」
目を閉じたまま、精神を集中する様にして言った。
内なる声の存在を認めることは、ある意味、自分が病んでいることを認めることにな
るか
も知れない。だから、これまでは極力無視してきた。
もともと、めったにあることではなかった。
だが、この2、3日あまりにも頻繁に起きる。
虫の居所が悪いということもあって、このままで済ます気はなかった。
『…あたしの存在を認めた上で、そう言ってるの?』
はじめて、内なる声がアスカの問いかけに答えた。
「やっぱり、いたんだ。」
不思議と、気味悪いとは思わなかった。むしろ、応答があったことにほっとした。
「で、だれよ、あんた。」
再度、アスカは尋ねる。
『…たいした精神力ね。さすがは、あたし。』
「なに、わけわかんないこと言ってるのよ。あたしは、あたしでしょうが!」
『あんたが”あたし”なのではなくて、”あたし”があんたなのよ、本来は。』
「なによ、それ。ますますわかんないわ。」
『じゃあ聞くけど、あんたは誰?』
「式波・アスカ・ラングレーよ!」
『あたしは、惣流・アスカ・ラングレー』
「なに、それ? あたしのニセモノ?」
『言ってもわからないと思うけど、あたしが本物なのよ。』
「はあ?」
『式波というのは、つまりは式神なのよ。』
「”しきがみ”?」
『…今のは、聞かなかったことにしていいわ。
ともかく、あたしはあんたに、忠告しに来たの。
あんたには、あたしと同じ道を歩んでほしくないから。』
「要するに、あんたは未来か過去の”あたし”とでも言いたいわけ?」
『厳密に言うと違うけど、その方がわかりやすければ、そうとって構わないわ。』
アスカは、ふうっとため息をついた。
「わかったわよ。それで、未来の”あたし”は、何を忠告したいの。」
『ひとことで言うと、”心を閉ざさないで”ということ。』
「心を閉ざしているっていうの。この、あたしが?」
『あたしも、以前、あんたと同じことを言っていたわ。』
「…そうなの?」
『心を開くことで、他人との関わり方が変わる。
それがひいては、未来をも変えてしまうことになるわ。』
「たったそれだけのことで? 信じられない!」
『今から、二通りの未来を見せるわ。
これからのあんた次第で、そのどちらにもなる。
もちろん、他の展開もあるでしょうけど、あたしの言ったことを思い出して、
よく考えて。』
「え? ちょ、ちょっと…。」
アスカは、急に目の前が真っ暗になるのを感じた。
「レイ! 機体を捨てて逃げて!」
ミサトの絶叫が聞こえた。
−−なに、これ?
”えこひいき”が使徒と戦っている?
あんた、何しようとしているの?
まさか、そんな…!
やめなさいよ。
え? ええっ!? ちょ、ちょっと、そんな!
爆発音とともに、視界がまばゆい光で覆われ、そして何も見えなくなった。
−−うそでしょ。何かのまちがいよね、今の。
「行きなさい、シンジ君!」
再び、ミサトの叫びが聞えた。
「誰かの為じゃない! 貴方自身の願いのために!!」
−−なに、今度はバカシンジなの?
今度は、初号機が使徒と戦っている?
いや、初号機だったものだ。何か、おどろおどろしいものに変わろうとしている。
ちょっと、あんた、やばいんじゃないの!
「綾波、どこだ!」
シンジが叫びながら、使徒のコアの中から、何かを引きずり出そうとしている。
「来いっ!!」
普段のシンジからは信じられない怒声を耳にしたとたん、アスカは意識を失った。
翌朝。
目覚まし時計の音で、アスカは目覚めた。
「うーーん…。あれ、あたし、ゲームの途中で寝ちゃったのかしら。」
いつもなら、目覚ましのアラームが鳴る前に目覚めるのに、今朝は夜具も掛けずに
ベッド
の上にいた。
何か、夢を見たような気がしたが、よく思い出せない。
学校に行ったら、今日はレイが欠席していた。
「綾波、どうしちゃったんだろうね。」
シンジが、心配そうに言った。
「あたしが、知るわけないじゃない。」
次の日の朝は、レイが登校してきた。
「おはよう。」
抑揚のない声でそう言うと、教室に入ってきた。
それだけのことで、皆はあっけにとられた。
あのレイが、自分から挨拶するなんてことは、これまでなかったことだった。
「あ、綾波。もう、体はいいの?」
病欠だと思い込んでいたシンジが、心配そうにレイの傍まで行って声をかけた。
「平気。」
こともなげに、レイは言う。
実のところ病欠ではなく、ダミーシステムの実験で休んでいたのだ。
「どうしたの、その手。」
レイの手の何箇所かに、絆創膏が巻いてあるのを見てシンジが言った。
「赤木博士に巻いてもらったの。」
「どうかしたの、手?」
「まだ、秘密。もう少し上達したら、話すわ。」
そう言うレイの顔は、どこかしら微笑んでいるようにも見えた。
『なによ、ふん!』
アスカはそのやりとりを、いかにも面白くないといった顔で見ていた。
「なにさ、バカシンジのやつ、えこひいきのことばかり気にかけちゃって!」
家に帰っても、アスカは面白くなかった。
シンジは、トウジやケンスケたちと、何やら寄り道(買い食い)しているようで、家
にはだ
れもいない。
「あーあ、ひまだなぁ。」
そうつぶやくとアスカは、両手を頭の後ろに組んで、ベッドに仰向けに寝転がった。
「ゲームも飽きちゃったし、何かすることないかなぁ。」
現実を見ずに済むゲームも、昨日あたりから行き詰っており、興味が湧かなくなって
きて
いる。
「そうだ、料理でもしてみよう!」
ふと、それに思い至った。
こっそり練習して、あたしでも多少の料理くらいできることを、バカシンジに見せつ
けてや
ることができたら−−。
『すごいや、アスカ。こんな才能もあったんだね!』
そう言わせることができるだろう。
「よし!」
アスカはベッドから起き上がった。
「そうと決まったら、早速練習よ!
そうねぇ、最初は、あいつがえこひいきに『おいしい!』と言わせた味噌汁がいいわね。」
台所に立ち、慣れない手つきでネギを切るところから始める。
どうも、形や大きさが揃わない。
リズムが悪いのかと、力を抜いてトントントンっとすばやく包丁を動かしてみる。
「あ、いったぁ。」
うっかり、指を切ってしまった。
「うまくいかないものねぇ。」
指に絆創膏を巻き、再開する。
なんとか、それらしきものを作ることができた。
味見をして、
「うーん、バカシンジの場合、もう少し薄味だったかなぁ。」
…それ以前に、出汁をとっていないところが問題だと思うのだが…。
アスカの「料理実習」は、とつぜんのミサトの帰宅で中断することになった。
荷物を取りにいったん家に戻ったとのことだが、その現場を見られてしまったのだ。
その上で、レイが計画している食事会のことを聞いた。
アスカにも招待状が来てるわよと、白い封筒を渡された。
「あいつも、料理の練習してたんだ…。」
アスカは、レイの手に巻かれた、いくつもの絆創膏を思い出していた。
翌日の午後、アスカたちチルドレンは、ネルフ本部に召集された。
いっとき、『使徒の襲来か?』と思ったが、そうではなかった。
アメリカの第2支部が、忽然と消滅したということだった。
4号機の起動実験中に、何らかの事故が起きたらしい。
その上で、エヴァ2号機が凍結されることに決まったと聞かされた。
「えぇーっ! どうしてあたしの2号機が?」
アスカたちの目の前で、2号機が凍結槽の中に沈められていく。
「アスカも知ってるでしょ。一国のエヴァの数が、国際条約で3体までに制限されているって
ことを。」
ミサトは気の毒そうに言った。
「アメリカから急遽、こちらに3号機が送られてくることになったのよ。」
「そんなの、引き受けなきゃいいじゃない。」
「そうもいかないのよ。
エヴァの運用と安全管理に関するノウハウは、ここ、日本本部が最も進んでいる。
第2支部の施設とともに、数千人の人命を失った彼らが3号機を危険視し、なんとしてで
もこちらに押し付けようとしてくるのを、拒否することは並大抵のことではできないのよ。」
なおも、アスカは食い下がる。
「じゃあ、どうして制式配備された2号機が凍結されるのよ。
プロトタイプの零号機や、テストタイプの初号機を凍結するのが筋ってもんでしょうが!」
「…実績と、所有権の問題ね。」
「実績? 実績ならあたしの2号機だって!」
「そう。零号機との比較なら、遜色はないわ。
でも、殲滅した使徒の数からいって、初号機は別格なのよ。
その初号機と互換性がある点で、零号機も存続することになったの。
それに2号機はまだ、ユーロ支部の持ち物ということになっている。
アスカ、”あなたの2号機”じゃないのよ。
これは、ユーロ支部が決定したことでもあるの。」
「あたししか…。2号機を動かせるのは、あたししか、いないのに…。」
アスカは、唇を噛んで俯いた。
気を利かせたつもりなのか、いつのまにかシンジとレイの姿は見えなくなっていた。
ネルフのとあるエレベータ。
その前で一人、アスカは物思いに沈んでいた。
『あたしの乗れるエヴァが、なくなってしまった…。』
エヴァがあるから、自分がある。
たった一体でも、そこらの軍隊にはひけをはとらないし、戦局をまかせられるだけの
階級も
与えられている。
空軍でいうところの、エースパイロットに匹敵するのだ。
そんな自分から、エヴァを取り上げられたら。
…なにも、残らないではないか。
暗澹たる気持ちでいるところへ、目の前のエレベータのドアが開いた。
先客がいた。
今、もっとも顔を合わせたくないうちの一人が。
自分と違い、エヴァのパイロットを続けることになった”えこひいき”が。
顔を合わせた以上、逃げるわけにはいかない。
アスカは、まなじりを決すると、二歩でエレベータに乗り込んだ。
「……………。」
「……………。」
お互いに何も言葉を発さぬまま、エレベータは降下していく。
『早く、出て行ってくれないかな。』
と、アスカは思う。
レイが出ていかないなら、自分が先に降りることにしよう、そう思ったとき、
不意にレイが
口を開いた。
「あなたには、エヴァに乗らないしあわせもあるわ。」
そう、レイは言う。
アスカのイライラは、一気に沸点に達した。
「なによ、あたしがエヴァに乗れなくなったのが、そんなに嬉しい?」
「………。」
「はんっ!
あたしもやきがまわったわね。人形みたいなあんたに同情されるなんてね!」
「わたしは、人形じゃない。」
「うるさいっ。あんた、碇司令が死ねといったら死ぬんでしょう!」
「ええ、そうよ。」
「やっぱり、人形じゃない!」
アスカは、レイを張り倒そうと手を振り上げた。
だが、ひっぱたかれる寸前のところで、レイはその手を受け止めた。
「くっ!」
アスカは反対側の手でひっぱたこうとしたが、それも受けとめられた。
『こいつ、あたしの動きを読んでる?』
レイの華奢な体つきと、ふだんの物腰からは想像がつかなかった。
動きを読むというよりは、これから起きることを予め知っているかのようだった。
その手をふりほどこうとして、アスカは気付いた。
レイの手が、絆創膏だらけであることに。
自分も包丁の扱いに慣れていないため、幾つかの絆創膏が巻かれているが、レイに
はその
倍以上のものがあった。
軽い驚きとともに、アスカは力が抜けるのを感じた。
『かなわないな』と思う。
シンジのために、そんなになるまで料理の練習をしているのだ。
『たしかに、人形じゃない。この子、変わりつつあるんだ。』
だれが変えたのか、それは明白だった。
エレベータがアスカの目的の階で止まったとき、アスカはドアを開いたままレイに
尋ねた。
「えこひいき、ひとつ、教えて。」
「なに?」
「あんた、あのバカのこと、どう思っているの。」
「バカ?」
「バカといえば、バカシンジに決まってるでしょ!」
「…わからない。」
「はあ?」
「でも、碇君といると、なんだかぽかぽかするの。
碇君にも、ぽかぽかしてもらいたい。
わたしといるときだけでなく、碇司令とも、ぽかぽかしてほしい。それだけ。」
「…そう、わかったわ。ありがと。」
そう言い残すと、アスカはエレベータを出た。
大股で、足早に通路を歩きながら、アスカはつぶやく。
「まったく、バッカじゃないの!」
面白くなかった。
「なにが、”ぽかぽか”よ!
…それって、”好き”ってことじゃん!!」
2号機を失い、”バカシンジ”もあきらめざるを得ない。
少なくとも、その想いの強さにおいては、”えこひいき”の方が上だ。
常に勝ち続けるのが自分の信条だった筈だが、何かの歯車が狂い始めている。
アスカは、何をする気も起きず、自宅の部屋の中でごろごろしていた。
「何も、見たくない。
このまま眠りについて、二度と目覚めなかったら、どんなに楽だろう。」
そう思ったところで、愕然となった。
「それって、心を閉ざしているってことじゃないの?」
なにか、それって、まずい様な気がする。
どうしてまずいのか、よくわからないが。
何かを思い出そうとしているところへ、携帯のメール着信音が鳴った。
「なに、これ? パイロットへの同報送信?」
訝しそうな顔をして、メールの本文を読む。
「3号機の起動実験の日程変更って…。
あの、えこひいきが設定した、”食事会”の日じゃないの!
『パイロットは選定中だが、各自、召集に応じられる様、予定しておくこと』
ですって?
冗談じゃないわよ。バカシンジだって、えこひいきだって、指名がかかったら食事会はお
流れじゃないの!」
アスカは逡巡しなかった。
すぐさま、ミサトに連絡をとろうと、携帯の番号をプッシュしていた。
数日後。
松代の実験場で、アスカはテスト用のプラグスーツに着替えていた。
「これで、いいのよね。」
鏡を見ながら、だれに対してでもなく、そうつぶやく。
鏡の中の自分が、満足そうに頷くのが見えた。
間もなく、3号機の起動実験が始まる。
アスカは地上とエントリープラグの乗降口を結ぶ、専用のケーブルカーに乗り込む。
そして、守秘回線でミサトの携帯に電話をかけた。
「どうしたの、アスカ。」
「なんだか、実験前にミサトと少し話をしておきたいと思って。」
「そう?起動実験に名乗り出てくれたこと、改めてお礼を言うわ。ありがとう。」
「礼はいいわ。あたしは自分が乗れるエヴァがあれば、それでよかったんだから。
もともと、他人との馴れ合いは好きじゃなかったし、任務さえこなせば、ネルフでは将来
も安泰だしね。
…でもね、最近、他人と関わり合うのもいいなって思うこともあったんだ。
あたしには、似合わないけどね。」
「そんな事ないわよ、アスカは優しいから」
「こんな気持ち、初めて。心の扉を少し開いてみただけなのに。
ほんの少しでも、他人を気にかけるって気持ちいいことなのね。知らなかった。」
「アスカ。この世界には、あなたの知らない幸せで満ち溢れているのよ。
楽しみなさい。」
「うん…そうね、ありがとう。ミサト。」
ちょうど、エントリープラグの乗降口に着いた。
アスカは3号機に乗り込み、テストの開始を待つ。
「そういえば、”心を開くことで、他人との関わり方が変わる”とだれかが言っていなかっ
たっけ。」
アスカはそう思った。
「それって、こういうことでよかったのよね?」
問いかけに、答える者はいない。
だが、アスカには正しい選択をしたという、自信があった。
松代に来る途中で、アスカの携帯にレイから電話がかかってきたことを思い出す。
「………ありがとう。」
たったひとことだった。
それでも、あいつらしいと、アスカの口元に笑みが浮かんだ。
「そっか…。あたし、笑えるんだ。」
今更ながら、そのことに気付いた自分がまた、可笑しかった。
小さな光が、目の前に灯るのをアスカは感じた。
つづく