彼が、望むもの
- p r e s e n t -
「もう、いいのね?」
ユイはシンジの頬を撫でて言った。
どこか、閉ざされた空間を思わせるところに、シンジとユイはいた。
「幸せがどこにあるのか・・・まだわからない。
だけど、生まれてきてどうだったのかは、これからも考え続ける。」
「そう・・・。」
「でも、母さんは・・・。母さんは、どうするの。」
「エヴァとともに生きていくわ。
たったひとりでも、エヴァとともになら、無限に生きていける。
それが、人の生きた証を、永遠に残せるならば。」
「・・・さよなら、母さん。」
そしてユイは、次第にシンジから遠ざかっていき、やがて消えた。
そこで、目が覚めた。
やわらかい光が、カーテンの隙間から差し込んでいる。
『このところ、いつも同じ夢を見るな。』
シンジは起き上がると、ぼんやりとそう考えた。
母さんのことは、もうあのとき、心の整理をした筈なのに。
なんで最近、こんな夢ばかり見るんだろう。
「そうだ、今日から衣替えだった。 こうしている場合じゃない!」
シンジは、急いで着替えにかかった。
今日は、6月1日。
第一中学でも、今日から制服は夏服に替わる。
「うーん、なんとなく、この方がしっくりくるなぁ。
というか、学生服って、なんか肩が凝るというか、堅苦しいんだよね。」
などとひとりごとを言いながら、シンジは着替えをすませる。
Tシャツの上から、半袖の開襟シャツを着るのは、久し振りだった。
そして朝食の用意をしてから、ミサト、レイ、アスカを起こす。
さんざん急がせて、朝食がやっと終わる頃、
ピーン、ポーン・・・。
玄関のチャイムが鳴った。
「あ、マナだ!」
このところ、いつもマナが迎えに来る。
少し以前は、マナとは通学路の途中で待ち合わせていたこともあったのだが、
一人で待たされるよりはいいと思ったのか、最近マナは少し早めに家を出て、
シンジたちを迎えに来るようになっていた。
「ごめん、ミサトさん。
食器洗い、お願いできるかな。」
シンジは立ち上がると、言った。
「うーん、しょうがないわね。
今日のところはやっておいてあげるから、いってらっしゃい。」
その日によって、ミサトが食器洗いをやってくれることもあれば、
学校から帰ってくるまで、台所の洗い桶に入ったままということもある。
今日はミサトの出勤が遅いのか、食器は洗ってもらえるようだ。
「じゃあ、お願いしますね。」
「あ、そうそう、シンちゃん。」
「はい?」
「今日は放課後、ネルフに寄ってね。」
「実験ですか。」
「そう。少し、データを取るだけらしいから。」
「わかりました。」
ミサトとそういうやりとりをしていると、
「シンジ、何してるのよ。行くわよ!」
アスカの怒鳴り声が聞こえる。
「今、行くよー。」
そう答えると、かばんを手にとった。
「まったく、出発が遅くなっているのは、だれのせいだと思ってるんだよ・・・。」
だれにも聞かれないように、口の中でぶつぶつ言いなから。
玄関を開けると、マナが待っていた。
「おはよう!」
マナが、元気よく挨拶する。
「おはよう、毎朝ご苦労さんね。」
「おはよう・・・。」
玄関口に近いアスカとレイが、先に挨拶を返す。
「おはよう・・・待たせちゃったね。」
シンジがそう言うと、マナは
「ううん、平気。じゃ、行きましょうか。」
四人は、学校に向けて歩き出した。
「いっくら家が近いとはいえ、遠回りになるというのに毎日毎日、
よくあきもせず迎えに来るわね。」
早速アスカが、毒づきにかかる。
「ひどぉい!
別に、アスカさんを迎えにきてるわけじゃ・・・。」
マナが何か言いかけるが、
「迎えにきてもらって、そんな言い方はないよ、アスカ!
たまには、ぼくたちが迎えに行ってもいいんだよ。」
シンジが強い口調でたしなめた。
「冗談じゃないわよ、なんであたしが!!
行くんなら、あんた一人で行きなさいね。」
アスカは勢いでそう言ってしまう。
もちろん、本心ではない。
シンジが本気にして、マナと二人で登校するようになったらどうしようと、
少し後悔した。
しかし、アスカを追いつめたのは、意外にもレイだった。
「そう・・・。じゃあアスカは、私と二人で登校するのね。」
「げ!」
一瞬固まって、アスカは立ち止まる。
「やめやめ! やっぱりシンジはレイと二人で、霧島さんを迎えに行きなさいね。」
大きく手を振って、わめく様にアスカは言う。
・・・よっぽどレイと二人きりになるのが嫌そうだ。間が持たないと思ったのだろうか。
それに、レイをシンジにつければ、マナもシンジにそれほどべたべたできまい。
「それでいいの?」
再び、レイが言う。
「私と碇君が、今より早起きして霧島さんを迎えにいくとなると、
アスカは葛城三佐と二人でマンションに残ることになるわ。」
「それがどうかしたの。(あんたと二人きりでいるより、よっぽどマシよ!)」
「演奏会のために『早朝練習』していたときと違って、今のあなたが
ひとりで起きられるとは、到底思えない。
かといって、葛城三佐があなたより早く起きて起こしにきてくれるわけがない。
下手をすると、二人で昼まで寝ているかも知れないわね。
少なくとも、遅刻は免れないわ。」
「うう・・・。」
アスカは、反論できなかった。
「わかったわよ、あたしが悪うございました!」
マナとシンジがくすくす笑っている。
「笑うなぁ!!」
アスカの怒声が、早朝の街角に響き渡った。
放課後、シンジはミサトに言われたとおり、ネルフ本部を一人で訪れた。
ネルフの役割は、かってのそれではない。
サードインパクトでゼーレが消滅し、今は純粋に国連の下部組織である。
エヴァは初号機のみが残っているが、使徒との戦いを担うものではなくなっている。
戦略自衛隊も穏健派を除いてその大半が消滅しているため、今や国防の要は
S2機関を搭載し、ATフィールドを張れる「無敵のエヴァ」であった。
ただし、あくまでも所属は「国連」である。
日本政府は、勝手にそれを使用することはできない。
ただ、そこにあるというだけで極東地域の秩序を保たせる、「抑止力」としての存在だった。
現在のネルフの表向きの役割は、サードインパクト後の混乱を静める上での
行政機関的なものであり、インパクト以前から継続しているものはエヴァの
維持管理くらいであった。
そんな中で、シンジは定期的に初号機との起動テストにネルフを訪れていた。
使用することはなくても、いつでも使用できるということが重要だと聞いていた。
だが最近、シンジは起動テストの目的はそれだけではない様な気がしていた。
テストに呼ばれる頻度が、増えてきているのだった。
「来たか。」
「とうさん・・・。」
その日、プラグスーツに着替えて起動実験室に行くと、
そこにゲンドウの姿があった。
「どうしたの、めずらしいね。」
「いや・・・ちょっとな。」
「今日は、そんなに重要なテストなの?」
ゲンドウが、最初から起動実験室にいるのは、シンジにとっては初めてである。
これまではせいぜい、テストの終わり頃に『どんな具合だ』と顔を出すだけだった。
「そういうわけではない。気にせずテストを受けろ。
もし、私のことが気になって支障があるなら、私は出ていくが。」
「いや、いいよ。」
気にならないわけではないが、差し障りがあるほどではないので、
シンジはそう言い、そのままテストを受けた。
シンクロ率そ測定結果は74.2%だった。
最近の測定結果と比べれば、可もなく不可もなくというところだろうか。
測定を終えて起動実験室に戻ると、ゲンドウはまだそこにいた。
「ごくろうだったな。変わったことはなかったか。」
「別に。いつもと一緒だよ。」
「そうか。少し早いが、一緒に食事でもどうだ。」
「うーん・・・夕食作らなきゃいけないし、いいよ。
ジュースくらいだったらいいけど。」
「それでいい。少し付き合ってくれ。」
「うん。」
ゲンドウについて、ネルフの食堂に行くことになった。
ネルフの食堂のテーブルで、シンジとゲンドウは向かい合って座っている。
『父さん、少し老けたな。』
と、シンジは思う。
髪に白いものが目立つようになった。
サードインパクトのとき補完計画発動のための依代(よりしろ)となったシンジは、
再会したユイとゲンドウがどの様な会話をしたか、断片的に覚えている。
ゲンドウはユイに再会するために、補完計画を利用しようとした。
だが、ゲンドウが得たものは、再会の喜びではなく、悔悟だった。
『済まなかったな、シンジ。』
最後にそう口にして、ゲンドウは初号機に喰われてしまった。
今ゲンドウが復活してここにいるのは、シンジがそれを望んだ為である。
ゲンドウとも、わかりあえるのではないか、シンジはそう思ったのだった。
再生されたこの世界では、ゲンドウは押しつけがましいところがなくなり、
その性格はやや丸くなったように思う。
だが、それでもゲンドウは、シンジに一緒に暮らそうとは言わなかった。
『最近、何故かぼくのことを気にかけてくれているみたいだけど、
それならどうして、もっと話をしてくれないんだろう。
ぼくに何か、遠慮でもしているんだろうか。』
シンジがグレープジュースを飲みながら、ぼんやりとそんなことを考えていると、
「シンジ・・・。」
不意に、ゲンドウが口を開いた。
「少し、聞きたいことがあるが、いいか。」
「あ、うん。いいよ。」
「第14使徒戦で、おまえがエヴァに取り込まれたときのことだ。」
「うん。」
シンジはジュースをテーブルの上に置いて、次の言葉を待った。
「・・・おまえが、戻ってくるとき、何があった。」
ややあって、ゲンドウは尋ねた。
『そうか。』
と、シンジは思う。
『父さんは、まだ母さんのことを、あきらめていないんだね。』
ゲンドウは、再びユイをサルベージすることを考えている様だった。
だから、起動テストと称して初号機のデータ取りを繰り返し、
さらにシンジにサルベージされたときのことを尋ねるのだろう。
「エヴァの中で、母さんに会った・・・会ったと思う。」
「うむ、それで?」
「それまで、ぼくは『使徒と戦うために、帰らなきゃいけない』
と思いながら、どうしても帰りたくなかった。
『もう、じゅうぶんだろ、ほっといてよ。』という気持ちの方が強かった。
そのとき、母さんの声がしたんだ、姿は覚えてないけど。
『行くも残るも、あなたの好きにしていいのよ。
でも、どこにいようと、私はいつもあなたを見ている。
聞こえない? あなたを呼ぶ声が。』
そう、言っていた。
そしたら、聞こえたんだ、ミサトさんの声が。
『シンジ君を、返してよう!』って。」
「それで、戻ってきたというわけか。」
「うん。」
「そうか・・・。」
ゲンドウは、少し考え込むようにした。
「でもね、父さん。」
「なんだ?」
「同じように、母さんをサルベージしようとしても、無駄だと思うよ。」
「・・・どうして、そう考える?」
「母さんは、碑(いしぶみ)になろうとしているんだよ。
エヴァの中に残ることによって、人の生きた証をエヴァとともに、
永遠に残すんだって。」
「ユイ自身が、そう言ったのか。」
「そうだよ。サードインパクトのさなか、ぼくと別れる前にね。」
「シンジは、それでいいのか。」
「え?」
「おまえ自身は、それでいいのかと、言っている。」
「だって・・・仕方ないじゃないか!
母さんが、そう決めたんだもの。
母さん自身が、選んだ道なんだから。」
「おまえの、母なんだぞ。人類の、ではなく。
子供は、母親に甘える権利がある。
母親は、それに応える義務がある。
・・・私にそれを言う資格はないが、私はそう思っている。」
「そうかも知れないけど、・・・そうかも知れないけど・・・
母さんは、考えがあって、エヴァとともに生きることを選んだんだ!
ぼくには、それを止めることなんて、できないよ。」
そう言いうと、シンジは唇を噛んで俯いた。
そしてそのまま、何かに耐えるように、こぶしを握り締めて沈黙する。
ゲンドウは、そんなシンジをじっと見つめていた。
やがて、
「そうか・・・。」
ため息をつく様に、そう言った。
その晩__。
シンジは、寝付けなかった。
昼間の、ゲンドウとの会話が、どうしても思い出されてしまうのだった。
『子供は、母親に甘える権利がある。おまえは、それでいいのか。』
ゲンドウは、そう言っていた。
__ぼくは、もう子供じゃない。
そう思ってみたが、それが強がりでしかないことは、自分が一番よく知っている。
『昔は、母さんの記憶も曖昧で、淋しいと思うことはあっても、
会いたいと、切に思うことはなかった。
使徒と戦うようになってからは、エヴァの中でなんどか母さんの存在を感じた。
でも、その姿まではわからなかった。
母さんと、はっきり向かい合ったのは、補完計画発動のときだった。
そしてそのとき、母さんがどんな人だったか、初めてわかった。
だけど、その後は、母さんのことを考える余裕がなかった。
思い出そうにも、いろんなことがありすぎた。
最近になってからだ。
本当の意味で、心に余裕ができてきたのは。
サードインパクト後に戻ってきた季節はようやく一巡し、また夏がやってくる。
長年、体に馴染んでいた、あの夏が。
世間も落ち着いてきており、よく知っている季節が到来しようとしているから、
余裕ができてきたのだろうと思う。
そして、余裕ができたからこそ、母さんのことを無意識に思い出すのだろう。
最近よく、母さんの夢を見るのは、そのためだと思う。』
__ぼくは、会いたいんだろうか、母さんに。
シンジは、自問する。
『・・・わからない。
たぶん、会いたいのだろうとは、思う。
先日のマナの誕生日パーティで、マナのご両親が健在なのを見て、
うらやましいと思ったのはたしかだ。
でも、ぼくは、母さんに会って、どうしたいのだろう・・・。』
ようやく、シンジは眠気を感じてきた。
だが、うとうととしかけたとき、頭の片隅でとんでもない考えが湧いた。
『かってぼくは、父さんがぼくを捨てたと思いこんでいたけど、
実は、ぼくを捨てたのは、母さんの方だったんじゃないだろうか。』
それならば、『エヴァとともに生きていく』ことを選択したことも、納得がいく。
『嘘だ!
そんなはずはない。
第12使徒戦で、初号機ごとディラックの海に取り込まれたとき、
死にかけていたぼくを助けてくれたのは、母さんだったよね。
第14使徒戦のあと、初号機に取り込まれたときもそうだ。
いつも、ぼくのことを見てくれていると、言っていた。
でも、それが、ぼくを戦いの場に送り出すことだけが目的だとしたら・・・。
違う! 母さんは、そんな人じゃない。
違うよね、母さん・・・。』
「違うと言ってよ、母さん・・・。」
シンジは、寝言のようにそうつぶやくと、寝入ってしまった。
そのシンジの寝室に、足音もなく入り込んで来た人影があった。
シンジは、夢うつつの状態でそれに気付いた。
『誰?・・・』
その気配には、覚えがあった。
『誰なの。綾波? 母さん?』
人影はシンジの枕元で、何も言わずにじっとシンジを見つめているようだった。
『誰?・・・』
そう思いながら、シンジは本当に眠ってしまった。
人影は尚もしばらく、シンジを見つめ続けていたが、
やがてシンジに覆い被さるように身をかがめると、ささやくように言った。
「あなたは、何を願うの?」
翌朝__。
その日も、マナはミサトのマンションに、シンジたちを迎えに来た。
アスカを先頭に、シンジとマナが並んで歩き、その後にレイが続く。
最近よくある登校スタイルだった。
「ねぇ、シンジ。」
学校への道すがら、マナはシンジに尋ねる。
「うん? なに。」
「ずばり、聞くよ。 誕生日プレゼントは、何がいい?」
アスカは思わず振り返った。
「えっ! あんた、もうすぐ誕生日だったの?」
言ってしまってから、『しまった!』と思った。
そうだった、たしか6月6日だった・・・すっかり忘れていた。
「駄目ねぇ、アスカさん。」
マナはにこりと笑って言った。
「身近な男の子の、誕生日くらい知っておかなきゃ。」
「知ってたわよ!」
アスカは憤慨した。
「ただ、ちょっと忘れていただけじゃない。」
「・・・同じことだわ、碇君にとてみれば。」
レイが、ぽつりと言う。
アスカにしてみれば、マナよりもレイのその物言いの方がこたえた。
『ぐうう。昨日といい、今日といい・・・。レイ、覚えてなさいよ!』
「ふん!ばかシンジの誕生日なんか、あたしにとっては何の価値もないから、
いいのよ。」
「へえ、そうなの。」
マナはアスカの強がりを聞き流しながら、
「で、シンジはプレゼントは何がいいの?」
再度シンジに尋ねる。
アスカは、関心がなさそうなふりをしながら、
シンジの返事を聞き漏らすまいと、耳をすませていた。
「・・・いいよ、プレゼントなんか。」
ぼそりと、シンジは答えた。
「「あら?」」
拍子抜けして、ちょっとこけそうになるマナ(とアスカ)。
「どうしてぇ? シンジの誕生日じゃない。
この前(マナの誕生日)のお返しも兼ねて、
シンジの欲しいものをあげたいんだから、考えてよ。」
「でも、本当にほしいものがないんだ。」
「・・・なんか、元気ないね、シンジ。」
「そうかな。」
「ねぇ、何か悩み事でもあるんじゃない?」
「そんなことないよ。ただ少し、寝不足なだけだよ。」
「そうかなぁ、なんだか・・・。」
マナが何か言おうとするところへ、
「ばっかじゃないの、あんた。」
アスカが割って入った。
「こいつがときどき暗いのは、昔からよ。そんなことも知らなかったの。」
「ばかとは、何よ!」
マナはアスカをキッと睨みつけた。
「何よ!!」
開き直るアスカ。
「ちょっと、二人ともやめてよ。」
あわてて、シンジは間に入る。
その対応の早さは、ついさっきまでふさぎこんでいたとは思えない。
「朝っぱらから、喧嘩はやめようよ。それに、今のはアスカがよくないよ。」
アスカが先に、ふっと表情を緩めた。
「・・・そうね、ばかと言ったのは、悪かったわ。
でも、これでわかったでしょう。
シンジがふさぎこむのは、いっときのものよ。
いちいち気にしていたら、身がもたないわよ。」
そう言うとアスカは、シンジたちに背を向けて先に歩き出した。
「アスカさん・・・。」
マナも表情を緩めて、アスカの背を見送る。
「行こう。」
シンジが、マナに声をかけた。
「アスカの、いうとおりだよ。
ぼくはけっこう根暗だから、ときどき考え込むことがあるけど、
すぐに気が変わるから、マナは気にしなくていいよ。
プレゼントのことは、考えておくよ。」
「うん。」
シンジとマナは、アスカを追って歩き始めた。
レイは、そんなシンジを黙って見ていたが、やがて二人について歩き出す。
アスカは、先頭を歩きながら、『あーあ。なんか、やだなぁ。』
と思っていた。
『なんかあたし、先輩づらして霧島さんにシンジのこと、譲ったみたいじゃない。』
ゲンドウは、初号機を見上げていた。
誰の姿も見えない、初号機のケージに彼はいた。
「もう、いいのではないか、ユイ。」
ゲンドウは、そうつぶやいていた。
「補完は、なされた。
私の望む形ではなく、ゼーレが目指した姿でもなく、
いっときとはいえ、神に等しき力を得た、シンジ自身の手によって。
この上、おまえは何を見守ろうというのだ。
戻ってきては、くれまいか。
私のためではなく、私たちの息子、シンジの為に・・・。」
初号機は沈黙したまま、冷たく光を反射していた。
「・・・応えては、くれぬのか。」
ゲンドウは、力なく言った。
そんなゲンドウの姿を、物陰から伺っている者がいた。
やがて、目を伏せて、ため息を漏らす。
赤木リツコであった。
二時間後、ゲンドウはその広大な執務室にいた。
そこへ、インターフォンがリツコの来訪を告げる。
「お話したいことが・・・。」
ためらいがちな、彼女の言葉に、
「入りたまえ。」
ゲンドウは入室を許可する。
20分後、
「可能なのか!」
ゲンドウは、やや昂ぶった声で言う。
「ええ。
シンジ君のサルベージが成功したときの、全データを解析した結果です。」
「赤木君・・・。」
「ですが、実施にあたっては、私のほうから条件があります。」
「言ってみたまえ。」
ゲンドウの言葉に、リツコは目を伏せて答える。
「今夜、一晩だけでいいのです・・・。」
「今夜?」
「お側に・・・。」
「・・・・・・。」
「・・・・・・。」
リツコは顔を上げ、縋る様な目でゲンドウを見た。
「・・・わかった。」
「ありがとうございます。」
「すまんな、赤木君。」
「いえ、それでは、これで失礼します。後ほど、また。」
「ああ。」
リツコは、一礼すると退出した。
残されたゲンドウは、顔の前で手を組み、目を閉じた。
そして長い間、何事か想いふけっていた。
やがて、つぶやく様に言った。
「ユイ・・・。すまない・・・。」
その夜、ひと気の絶えたネルフ本部の廊下を、ゲンドウの居室に向かって
歩いていくリツコの姿があった。
シンジは再び、ユイの夢を見ていた。
幼い頃の自分がユイに、得意そうに両手を差し出して紅い玉を見せていた。
「もう、いいの?」
ユイの問いに、シンジは満足そうに頷く。
「そう、よかったわね。」
そう言うと、ユイの姿は次第に遠ざかってゆく。
『ちょ、ちょっと待ってよ、母さん!』
手を伸ばし、シンジは呼び止めようとした。
それでもユイは、シンジの方を向いて微笑んだまま、どんどん遠ざかっていく。
幼いシンジにとって、それは信じられないことだった。
思わず手を伸ばしたまま、ユイを追い始める。
『待ってよ、母さん! ぼくは、満足しているわけじゃないんだ。
やっぱり、そばにいてほしいんだ。
母さん!!』
叫びながら、追うシンジ。
だが、ユイの姿はさらに遠ざかっていき、やがて闇の中に融けるように消えた。
シンジは、その場に力なく膝をついた。
両手を地につき、うなだれた。
『どうして・・・。』
あふれた涙が、ぽたぽたと地に落ちた。
夢はそこで終わった。
シンジは、目覚めようとしていた。
だが、シンジは遠くで声が聞こえたような気がした。
聞き取れないほどの声で、しかし確かにこう言っていた。
『・・・そう、わかったわ。』
翌日、6月3日の朝__。
「いよいよ、3日後ね。シンちゃん。」
朝食の最中に、ミサトが楽しそうにシンジに話しかけた。
「えっと・・・誕生日のことですか。」
「そうよん。去年はまだ、アスカはいなかったし、レイの住居も別だったから、
こじんまりとしかやらなかったけど、今年は盛大に行くわよ。」
「パーティですか。そんなのいいですよ、やらなくても。」
「なーに言ってんのよ。年に1回の祝い事よ。
楽しくパーッとやらなくて、どうすんのよ。」
「ミサトは、飲める口実がほしいだけなんじゃないの?」
それまで、黙ってスクランブルエッグを食べていたアスカが、
上目遣いにミサトを見て言った。
「失礼ねぇ!
こう見えても、どんな料理を作るか、いろいろ考えているんだから。」
場が、凍りついた。
「・・・まさか、冗談よね。」
「やめてくださいよ。去年の誕生日、ぼくはそれで3日寝込んだんだから。」
アスカとシンジが、蒼い顔をして言う。
「あは、あははははは・・・、冗談よ、冗談。」
ミサトは両手をふって言う。
「よかった。」
「ほんとにもう・・・。しゃれになりませんよ。」
二人は、ほっとした。
ミサトは、笑ってごまかしながら、心の中で涙していた。
『なにも、そんなに私の料理を、毛嫌いしなくてもいいじゃない。』
そんな中、レイはもくもくとトーストを齧っていた。
やがてまた、マナが迎えにきた。
昨日と同じように、四人で連れ立って学校に向かう。
「どう、考えてくれた? プレゼントのこと。」
マナがシンジに尋ねる。
「うーん、やっぱり、音楽関係のものがいいかな。
でも、具体的に何がほしいとかは、ないんだけど。」
「そうだよね。具体的なことは、わたしたちが考えなきゃいけないよね。」
マナがそう言うと、
「『わたしたち』?
ひょっとして、その中にあたしも入っているの。」
先頭を歩いていたアスカが、聞き捨てならないと振り返って言った。
『わたしたち』というからには、お金を出し合って値のはるものを買おうとでも
いうのかと思ったからだった。
「別に、共同で何かを買おうというわけではないのよ、アスカさん。」
マナが応える。
「まぁ、それもいいんだけどね。」
レイが、それに対して口をはさむ。
「アスカは、そんな気はないと思うわ。
なんでも、自分ひとりで、しかも一番でないと気がすまないタイプだから。
バレンタインのときも、そうだったし。」
「抜け駆けしたの?」
マナが意外そうに言った。
「抜け駆けというのかどうか、知らないけど、朝一番で碇君にチョコレートを
渡していたわ。」
「へぇ、要注意人物なんだ。」
「う、うるさいわね!」
アスカは開きなおることにした。
「なんだっていいじゃない。
各自で考えて工夫してこその、プレゼントでしょうが。」
「そうよね。
シンジ、お誕生会は期待していいわよ。
アスカさんも、きっといいプレゼントを考えてくれるわ。」
「当然!」
アスカは胸を張って応えた。
「ありがとう。楽しみにしてるよ。」
シンジは、笑顔をみせて言った。
そうは言いながら、すぐにシンジは物思いに沈んでいた。
『だけど、ぼくは・・・。ぼくが、一番ほしいものは・・・。』
そこまで考えて、気付かれぬようにかぶりを振った。
『いや、そんなこと、望んじゃいけない。
母さんが決めたことだし、アスカやレイにも悪いよ。』
「どうしたの?」
マナが、シンジの表情が曇ったことに気付いて声をかける。
「なんでもないよ。さ、急がないと遅刻するよ。」
そう言うとシンジは、歩みを速めた。
ネルフ本部__。
ゲンドウとリツコによって、マヤを初めとする主だった技術部の面々と、
冬月が呼び出されていた。
「本当にやる気か。」
冬月が尋ねる。
「ああ。」
ゲンドウは、忙しく準備に走りまわっているスタッフを身ながら、短く答える。
「成功の見込みはあるのか。」
「問題ない。シンジのときの成功例を解析した結果だ。」
「それにしても、唐突だな。」
「サルベージ計画自体は、既に99.9%完成しているものだった。
発信信号さえ、確実にコアに届く方法さえ判明すれば、すぐに実施できる。」
そこへ、リツコが現われて、ゲンドウに告げる。
「ゲート・システムの準備ができました。 こちらに、お越し下さい。」
「ああ、すまない。」
ゲンドウと冬月は、リツコについて、初号機のアンビリカブル・ブリッジに向かう。
そこには、むき出しにされた初号機のコアから伸びた無数のケーブルで繋がれた、
金属製の肘掛け椅子と、コンソールが設置されていた。
「まさか、碇。おまえがこれに・・・?」
冬月の言葉に、
「ああ、ユイを呼び戻すためのものだ。」
「危険じゃないのか。
チルドレンでもないものが、エヴァと精神接続を行うと、精神汚染を受けるぞ。
下手をすると、おまえまでエヴァに取り込まれかねんのでは・・・。」
「心配は、いらん。」
ゲンドウは肘掛け椅子に座ると、リツコからこれもケーブル付きのヘルメットを
受け取った。
「これは、精神接続をすると言っても、一方通行のものだ。
エヴァからのフィードバックは、一切ない。
これは、葛城三佐がシンジを呼び戻したときのように、
私の意志をコアの中にいるユイに届けるだけのものだ。」
そう言うと、ゲンドウはそのケーブル付きのヘルメットを頭に被った。
「そうなのか。」
冬月が問い、リツコが頷く。
「赤木君、始めてくれ。」
「はい。」
ゲンドウの言葉を受けて、リツコはコンソール脇のマイクに口を寄せる。
「聞こえる? マヤ。サルベージを始めるわよ。」
『了解。自我境界パルスを接続します。』
「サルベージ、スタート!」
そして、リツコはコンソールに向かって、一連の操作を始めた。
ゲンドウは、目を閉じて念じ続けた。
「今一度言うぞ、ユイ。人類の補完は、なされた。
人はまだまだ、完全体ではないが、
シンジ自身の手によって、再生する機会を得た。
私や、ゼーレが思い描く補完ではなく、シンジが求めたものは、
ありふれた日常の中でこそ達成できる平和だった。
もう、いいだろう、ユイ。
シンジのために、戻ってきてやってはくれまいか。
『人が生きた証』は、エヴァに残らずとも、語り継いでゆけるのではないか。
人として生きることこそが、生きる苦しみを乗り越えることこそが、
人が人として、生きた証となるのではないか。
私は、シンジに随分つらい思いをさせてきた。
それでも、ぎりぎりのところで、この世界を生み出す選択をしたシンジは、
本当によくやったと思う。
だが、おまえの意思を尊重して、一人で耐えているシンジが、
私には不憫でならぬ。
エヴァにあって、何度かシンジを守ってくれたおまえだから、私は言う。
今度は、現実の母親として、シンジの力になってやってくれ。
頼む・・・。
ユイ・・・。」
ゲンドウの閉じた目からは、いつしか涙が流れていた。
ふと、そのことに気付いたゲンドウは、手袋の甲でそっとそれを拭う。
そのときになって、ゲンドウは周囲が急に静かになっているのに気付いた。
時間が止まっているのではないかと錯覚しそうなほど、物音ひとつしなかった。
それは、一瞬のようにも、数分間続いているようにも、感じられた。
そして、唐突に、マヤが報告する声が聞こえた。
『プラグ内に、自我境界線の形成を確認!』
ゲンドウは、はっとして顔を上げた。
『実体化されます!』
思わずゲンドウは、傍らのコンソールでモニタを見ているリツコに目をやる。
「おめでとうございます、司令。 成功しましたよ。」
リツコは、微笑んで言った。
その微笑は、どこか淋しそうであった。
「やったな、碇!」
冬月は、小躍りせんばかりに、喜んで言った。
「すぐに、シンジ君にも、連絡を!」
「いや・・・。」
ゲンドウは、こみあげてくる喜びを、敢えて押さえつけるように低い声で言った。
「まだだ。ユイの意識が戻ることを、確認しなければならない。
それに、十年以上も実体を失っていたのだ。
その精神と肉体が、損なわれていないことを確認しなければならない。
全ては、それからだ。」
三日後の、6月6日__。
ミサトのマンションで、シンジの誕生日パーティが盛大に開かれた。
招待されたのは、マナはもちろんのこと、
前回マナの誕生日パーティに参加したカヲル、トウジ、ケンスケ、ヒカリ、
それになんと、マユミがケンスケにエスコートされて来ていた。
先日まで、気がすすまなさそうにしていたシンジであったが、
実際に仲間が大勢集ると、結構楽しそうにしている。
「ねえ、シンジ。呑もうよ。」
マナが、家から持ってきたワインを見せて言う。
「あ、マナ。 またそんなもの持ってきて!
だめだよ、ぼくは未成年の間は、呑まないんだから。」
「シンちゃ〜ん、かたいこと言わないの♪」
ミサトが笑いながら言う。
「それに、霧島さん。
うちに来るときはわざわざお酒なんか、持ってこなくていいのよ。
ここにあるものは、好きなだけ飲んでいいんだからね。」
「え、本当ですか、葛城さん♪♪」
「ミサトでいいわよ〜。 あなたとは、気が合いそうね。」
「うぇ〜っ!ウワバミ・コンビ結成? 最悪ぅ〜〜!!」
アスカが唇を尖らせて言う。
「ちょっと、アスカ! なによ、そのいいぐさは!!」
ミサトが喚き、笑い声が続く。
マンションのドアの外まで、パーティの歓声が洩れ聞こえていた。
そのドアの前に、一組の男女がやってきていた。
「もう、始まっているようだな。」
低い男の声が、そう言った。
「そのようですわね。」
応じるのは、大人の女性の声だ。
「いいか、入るぞ。」
「ええ、あなた。」
男は、インターフォンのボタンを押した。
そして、応答を待つ。
『シンジ、おまえが最も望むものを・・・。』
そう考えかけたところで、インターフォンから応答があった。
「はぁ〜い、どちらさまでしょうか♪」
ミサトの声だった。
「碇だが、私もお邪魔していいかな。」
「え! 司令? どうぞ、どうぞ。」
ミサトのあわてふためく様子が、手に取るようにわかる。
ばたばたと、玄関まで走ってくる光景まで見えるようである。
ゲンドウは苦笑しながら、傍らの女性を見やった。
それは、シンジにとって、最高の贈り物であった。
完