一粒のチョコを、あなたに
- 二 人 の 想 い 外伝 -
このところ、鈴原トウジは元気がなかった。
教室で自分の席についているときも、ぼんやりとあらぬ方を見ているし、
話しかけてもその返事はあいまいで、心ここにあらずという雰囲気だった。
「どうしちゃったんだろ、トウジ。 ケンスケ、何か知ってる?」
心当たりのないシンジは、ケンスケに尋ねる。
「おれが知るわけないだろ。 トウジの奴、何も言わないんだから。
この前、校長室に呼び出されてから、ずっとああだもんな。」
「妹さんのことが、関係しているのかな。」
「たぶん、そうかもな。
だけど、あいつが話してくれないかぎり、おれたちはどうしようもないじゃないか。」
シンジとケンスケがその様に話し合っている一方で、トウジのことを心配している者が
もうひとりいた。
「鈴原…。」
ヒカリはそうつぶやいて、ため息をつく。
「元気出しなさいよ、ヒカリ。」
見かねてアスカが、声をかけた。
「うん、でも…。」
「お弁当、うまく渡せなかったの?」
「うん。せっかく持ってきたのに、鈴原ったら屋上に行ってしまって。」
そこで、『綾波さんと話をしていたみたい』という言葉を、ヒカリは飲み込んだ。
「やっぱりだめなんだ、私なんか…。」
そう言うと、ヒカリは俯いてしまう。
「あんたがしっかりしなくて、どうすんのよ。」
「でも、鈴原は何も言ってくれないし。」
「それはヒカリが、委員長としての公務とかにかこつけるからでしょ。
ああいうタイプは、変にかまえてもダメよ。
もっとストレートに行かないと。
そう意味では、『お弁当』というのは即物的でいいアイデアだったんだけど…。」
そこでアスカは少し考え、
「やっぱり『お弁当』は、タイミングを逸するとつぶしが効かないからだめかもね。
ここは明後日のバレンタインのチョコに賭けるしかないわね。」
「わたし、そういうのはちょっと…。 それに、明後日は日曜日じゃない。」
「だからこそ、よ。 月曜日じゃ遅いし、効果がないわ。
鈴原んちに行って、その場で手渡すのよ。」
「そんな…。」
「いい?ヒカリ。 こんな時代だから、明日は何があるかわからないわ。
あんた、鈴原が好きなんでしょう。
だったら、伝えられるときに伝えないと、後悔することになるわよ。
わかる?」
ヒカリは少しためらっていたが、やがてしっかりと頷いた。
放課後になった。
ヒカリは、アスカの助言を受け入れて、明後日の日曜日にトウジに渡すための
チョコレートを買いに行くという。
アスカは、笑みを浮かべて頷くと、言った。
「がんばって♪」
「うん。ありがとう、アスカ。」
気持ちの切り替えができたのか、ヒカリはいそいそと帰っていった。
「さてと…。」
アスカはヒカリが帰った後、ひとつ伸びをしてつぶやく様に言った。
「もうひとり、いるんだよね。不器用なのが。」
レイは、ひとりで下駄箱のところで、靴に履き替えようとしていた。
「あら、レイ。 もう帰るの?」
不意に声をかけられた。
振り返ると、アスカだった。
「どう、レイ。 シンジとは、うまくいってるの。」
「問題ないわ。」
「それにしては、シンジを置いてひとりで帰るところみたいだけど。」
「碇君は、相田君と話があるみたいだし、邪魔しては悪いと思うから。」
「そういう問題かなぁ。」
「………。」
レイが黙っているので、アスカは続けた。
「あんた、シンジのことが好きだと言ったわよね。」
「…そうかも知れない、とは言ったわ。」
応えながらレイは、
『おまえが心配しとんのはシンジや。』
昼休みにトウジが、レイに対して言った言葉を思い出していた。
「受身でいては、あいつとの仲は進展しないわよ。
けっこうあいつ、奥手だしね。
このあいだの使徒が来る前に、シンジがあんたを誘ったみたいだけど、
あんなことは、めったにないと思ったほうがいいわ。」
「なにが、言いたいの。」
「たまには、あんたからシンジをデートに誘ったらどうかってね。」
「わたしが?」
「たぶん、あいつ、断ったりしないわよ。
いえ、すっごく喜ぶでしょうね。その前にちょっと驚くかもしれないけど。」
「………。」
「ちょうど明後日はバレンタインだし、いっそのことデートのついでにチョコでも
渡せばどう?」
「考えてみるわ。」
「そうね、よく考えることね。
でも、もたもたしてると、他のだれかが先にシンジにチョコ渡しちゃうかもよ。
あたしを含めてね。」
アスカは意味ありげに笑みを浮かべると、それじゃ、あたしは用があるからと、
言い残して去っていった。
「あの…。」
レイは声をかけようとしたが、アスカは聞こえなかったのか、振り向きもしなかった。
レイはしばし、視線を落として何事か考えていたが、やがて、決心したかの様に
顔を上げた。
シンジがケンスケとともに下校しようと、校舎を出てきたのは、それからしばらく
してからだった。
そこに、レイがいた。
両手で鞄を提げて、ひとりでぽつんと立っていた。
その様子は、シンジを待っていたようだった。
「綾波?」
「碇君、ちょっと話があるけど、いいかしら。」
「え…?」
シンジは少し面食らった。
「じゃあ、碇。 おれはちょっと寄り道するところがあるから、先に帰るわ。」
気を利かせたのか、ケンスケはそう言う。
「あ……、うん。」
シンジが何か言う前に、ケンスケは片手を上げて去っていった。
シンジは、レイとともにその場に残された。
「話って何?」
「…歩きながら話しましょう。」
そう言うとレイは、ゆっくりと歩き始めた。
シンジは、レイの隣に並ぶ。
並んで歩きながら、レイの言葉を待った。
レイはなかなか、口を開こうとしなかった。
それでもシンジは、辛抱強く待った。
待つこと自体は、嫌ではなかった。
むしろ、レイとともに静かな時間を共有することを、心地よく感じた。
『アスカと違って、綾波の雰囲気って、なんだかほっとするんだよな。
どうしてなのかな。』
そんなことを、シンジはぼんやりと考えていた。
「今度の日曜日だけど…。」
レイが、やっと口を開いた。
「何処かに連れていってくれないかしら。」
「え…?」
シンジは一瞬、レイが何を言っているのか、わからなかった。
「今度、って明後日のことだよね?」
「ええ。」
「何処かっていうと?」
「どこでもいいわ。碇君にまかせる。
できれば、このあいだ碇君といっしょに、ケーキを食べたようなところ…。」
そのときになってやっと、シンジはレイがデートに誘って欲しいと、
言っているのだと理解した。
『あのときの、パーラーか…。』
シンジが初めてアスカのシンクロ率を抜いたとき、アスカが一緒に帰ろうとしないので、
シンジはネルフからの帰り道がレイと一緒になった。
そのとき、シンジにしては珍しく、レイをパーラーに誘った。
『あの翌日、使徒が現われて…。
そういえばあれから今まで、綾波と二人だけになることなんてなかったっけ。』
レイは結構、あの店が気に入っていたのだと、シンジは思った。
その後、今までレイを誘わなかったことで、悪いことをしたなと思った。
同時に、レイの方から誘ってくれたことを、とても嬉しく思った。
「う、うれしいよ、綾波。 あの店でよければ、また行こう。」
『…なんで、こんなときにどもっちゃうんだよ!』
シンジは急に恥ずかしくなり、顔が赤くなった。
だが、ここで言うべきことを言っておかなくてはと、勇気をふり絞った。
「でも、できたらその前に、映画を見に行かない?
綾波に、時間があれば、だけど。」
「ええ、いいわ。」
応えるレイの顔も、少し赤い。
そのことで、シンジはレイも勇気を出して誘ってくれていたのだとわかった。
「それじゃ、迎えに行くよ。えっと…1時で、いいかな?」
「ええ。」
『やった!』
シンジは、思わず笑みを浮かべる。
心做しか、レイも微笑んでいるように見えた。
もうすぐ、二人の帰路は別々になる。
間もなく、さよならを言わなければならない。
名残惜しさを感じながら、シンジは今、久方ぶりの幸福感を噛みしめていた。
翌々日の、日曜日。
二月十四日の昼過ぎ_。
昼食もそこそこにして、シンジは出かけることにとした。
いつものTシャツから、ポロシャツに着替えて、自分の部屋を出た。
「あら、お出かけ?」
向かいの部屋の扉が開き、アスカが顔を出して尋ねてきた。
「あ、うん。ちょっとね。」
「ふうん。まあ、いってらっしゃい。」
何処へ行くのか尋ねられたらどう答えようとシンジは思ったが、
それ以上追求せずに、アスカは引っ込んだ。
シンジは少しほっとした。
まだ寝ているミサトを起こさないように、そっとマンションを出た。
「行ったか…。」
アスカは勉強机に頬杖をついて、つぶやく様に言った。
「とりあえず、第一段階はクリアね。
あとは、あの二人しだい…。
あーあ、でも、あたしったら何やってんだろ。」
アスカは立ち上がった。
「おもしろくない! やっぱり、加持さんへのチョコ、買いに行こう。」
その後しばらくして、ミサトが起き出してきたときには、家にはだれもいなかった。
シンジは、家を出て5分もしないうちに、トウジと出くわした。
「あれ、トウジ。」
「シンジやないか! 丁度よかったわ。」
「なに?」
「おまえに聞きたいことがあってな。」
「ぼくに、聞きたいこと?」
「あのな、おまえがエヴァに最初に乗ったとき、どんな感じやった?」
「どんな感じって言われても。」
シンジが返事に困っていると、
「このまえ、赤木って人が学校に来てな。
わしにエヴァのパイロットにならへんかって言うんや。」
「………。」
「ひき受けたら、妹をネルフの医療施設に転院させてくれるゆうてな。
今より、ずっとええ治療が受けられるそうや。
それで、わし、引き受けてしもうたんや。」
「そうだったんだ。」
「あしたが、その最初の搭乗実験の日なんや。
たいしたこと、あらへんと思っとったけど、その日が間近に迫ると、
急に不安になってきたんや。」
そう言うとトウジは、震える手をシンジの方に伸ばしてきた。
シンジの両肩を、抱くようにする。
トウジの震えが、シンジにまで伝わってきた。
「シンジ、わし、こわいんや。 わしは、どうしたらええんや。」
「トウジ…。」
大丈夫だよ、トウジだったらきっと大丈夫だよ。
そう言いながら、シンジはトウジの背中を抱くが、トウジの震えは止まらなかった。
道行く人々が、二人を奇異な目で見ていく。
「あの、トウジ…。」
シンジは、なんとかトウジを落ち着かせなくては、と思った。
トウジを近くの公園に連れて行き、落ち着かせるのに夕方近くまでかかった。
エヴァの中は、比較的安全であること、
スタッフが万全のバックアップをしてくれること、
それらを、シンジは辛抱強くトウジに言って聞かせた。
「シンジ、すまんかったな。
おまえのこと、何も知らんのに殴ったりして。」
シンジの話を聞いて、ようやく安心したトウジが言った。
「いいんだよ。もう、そんなことは。」
公園のベンチに腰掛けて話し込む二人は、少し離れた道路をレイが、
ミサトのマンションに向って歩いていることに気付かない。
「もう、大丈夫や、シンジ。
なんや、心が軽うなったわ。心配かけてすまんかったな。」
「そう? ぼくで役に立てることなら、何でも言ってよ。
同じエヴァのパイロットなんだからさ。」
「おおきに。
そうやな、これでわしも、シンジたちと同じ仲間になったんや。
これからも、よろしゅう頼むわ。」
トウジはもう一度礼を言うと、別れを告げて帰っていった。
後に残ったシンジは、ほっと一息ついた。
そして、その直後、大事なことを忘れていたことに気付いた。
「あ、綾波!」
大急ぎでレイのアパートに向う。
だが、当然ながら、レイの部屋は留守になっていた。
「シンジ君? いないわ。」
その頃、レイはミサトのマンションを尋ねていた。
「アスカも、いないのよ。
二人で、買物にでも行ってるんじゃないかしら。
もち、シンちゃんが荷物持ちなんでしょうけど。」
ミサトにそう言われ、
「そうですか…。わかりました。」
レイは帰っていった。
トウジは、自宅の近くまで戻ってきたところで、そこに佇むヒカリの姿を見た。
「委員長?」
「あ、鈴原…。」
ヒカリの顔に、笑みが浮かんだ。
トウジのことを、かなり待っていたらしい。
「どないしたんや、こんなところで。」
トウジがけげんそうな顔をして言うと、
「こ、これを渡そうと思って。」
そう言ってヒカリは、両手を真っ直ぐに伸ばして綺麗な紙包みをトウジに差し出す。
渡すときの言葉は、何か考えていたらしいが、さんざん待ったあげく、
トウジを目の前にすると、すっかり忘れてしまったらしい。
「これは?」
トウジは手にとってそれを見た。
そのときに、初めてそれが、バレンタインのチョコレートであると知った。
「これを、わしに? そのために、わざわざ、わしを待っとってくれたんか!」
「うん…。」
「おおきに! 有難く、受け取らせてもらうで。」
「鈴原…。」
ヒカリは、頬を染めた。
「なあ、委員長。
わしはあしたから、しばらく用事で留守にするんや。」
トウジは、しみじみとした口調で言った。
「え、そうなの?」
「せやから今日、これを貰ったことは、ホンマに嬉しい。
わしら、いつも顔を合わせるとケンカばっかりしとったけど、
それは委員長が、わしのことを少しは気にかけてくれとったからなんやな。」
「………。」
「帰ってきたら、連絡するわ。
そしたら、今度からはもう少し、仲良うしような。」
「うん!」
ヒカリは、泣き笑いの表情を浮かべて頷いた。
アスカは、そんな二人の様子を、物陰から見ていた。
ここに来たのは、ほんの偶然からだった。
加持に渡すチョコを買いに出かけた帰り道に、ヒカリの姿をみかけ、
声をかけようと近づきかけたところへ、別方向からトウジが歩いてくるのが見えた、
ただそれだけだった。
「よっかたわね、ヒカリ、想いを伝えられて。」
そうつぶやくと、アスカはその場をそっと離れた。
「うらやましいな…。」
歩きながら、アスカは思わずそうつぶやいた。
手に提げた、紙袋を見る。
そこにはこれから加持に贈る筈のチョコが入っていた。
「あたしも、これを加持さんに…。」
言いかけて、アスカはかぶりを振った。
加持はミサトのものだと、先日悟ったばかりではないか。
本当に、自分は加持のことが好きなのか?
好きだと思っていたのは、淋しさを紛らわすための、ただの幻想ではなかったのか。
「あたしは…。
あたしが、本当に好きなのは…。」
そう、こんな時代だからこそ、自分に正直に生きなければならないと、アスカは思った。
シンジは、ミサトのマンションに帰る道を、とぼとぼと歩いていた。
念のために、レイと行く筈だったパーラーを先程のぞいてみたが、やはりそこには
レイの姿はなかった。
「綾波…。怒ってるだろうな。」
力なく、そうつぶやく。
ため息をつこうとしていたところへ、角を曲がってきたアスカと鉢合わせしそうになった。
「あら? シンジ!」
アスカは意外そうに言った。
「『用事』はもう、終わったの?」
「あ、うん。まあ…。」
「なんか、元気ないわねぇ。」
(レイとのデート、うまくいかなかったのかしら)
「そうだ、ちょうどよかった。 これ、あげるわ!」
アスカは持っていた紙袋を、シンジに差し出した。
「? これは!!」
受取った紙袋の中を、不審そうに覗いたシンジは、その中にチョコの包みが
あることに気付いた。
「言っとくけど、『義理』だからね、『義理』!
あんたが、元気なさそうだったから、あげるんだから。それに…。」
アスカは、シンジから顔をそむける様にして早口でまくし立てていたが、
そこで初めてシンジをまっすぐに見た。
「あんたの本命は、別にいる筈だから、ね。」
「え…?」
シンジが何か言う前に、アスカは駆け出していた。
『これでいいのよ、これで…。』
自宅のマンションに向って走りながら、アスカは胸のうちで何度もそう繰り返していた。
レイはそのとき、公園のベンチにぼんやりと腰を下ろしていた。
さきほどまで、シンジとトウジがいた公園である。
アスカが公園の外の道を駆け抜けていくのを、見るとも無しに見ていた。
『碇君といっしょに出かけたのではなかったんだ。』
何故か、ほっとしながら、そう思った。
『だけど、そうだとすると、碇君はどこへ行ったのかしら。』
シンジは、約束を守らないタイプの人間ではない。
なにか、事件に巻き込まれたのではないかと、少し心配になった。
だが、どんな場合でもチルドレンが外出する際には、ガードが付いている。
よっぽどのことがなければ、シンジが拉致されたり事故にあったりすることは
ない筈であった。
なにか、急用ができたのに違いない。
そう思うことにした。
それでもやはり、淋しかった。
そのとき、レイはふと思った。
もし、急用ができて、約束の時間にシンジが来れなかったとして、
その用事が終わったら、シンジはどうするだろう。
大急ぎで、レイのアパートに向うのではないのか。
あるいは、約束を破った自己嫌悪に苛まれながら、自宅に戻るのではないか。
少なくとも、今ここでこうしているべきではなかった。
自分のアパートでシンジを待ち続けるか、
ミサトのマンションでシンジの帰宅を待っていなければいけなかったのだ。
レイはベンチから立ち上がった。
アパートに戻り、シンジが訪ねてくるのを待とうと思った。
レイが公園を出ようとしたとき_。
「綾波!」
呼び声に振り向くと、息を切らせながら駆け寄ってくるシンジの姿が見えた。
「碇君…。」
シンジはレイの前まで来ると、
「綾波、ごめん!!」
それだけ言うと、前屈みになって膝頭を両手でつかみ、荒い息をついた。
「本当に、ごめん。」
やや、息が整ってくると、シンジはもう一度言った。
「約束を破るつもりは、なかったんだ。
途中で、トウジに会って…あいつが、あんまり落ち込んでいたもんだから…。」
「そうだったの。」
「ごめん、映画の時間、終わっちゃったね。」
「…いいの。 鈴原君が苦しんでいたこと、わかるし。」
「綾波は、トウジのこと、知ってたの?」
「ええ。」
「そうだったんだ…。
そうだ、今からだと、パーラーだけになっちゃうけど、よかったら行かない?」
「いいわ。
でも、その前に、もう少しここで休んでいきましょう。
碇君、疲れてるでしょ。」
「ありがとう。
そうだね、そうするよ。」
二人は、公園のベンチに腰掛けた。
夕方の優しい風が、シンジとレイの顔を撫でていく。
「気持ちいい、風だね。」
「そうね。」
「………。」
「………。」
「………。」
「そうだわ、チョコレートがあるけど、碇君、食べる?」
「え? あ、うん。 いただくよ。」
レイから渡されたのは、一粒のアーモンドチョコレートだった。
箱に入ったものではなく、チョコをくるむ銀紙を、さらにセロファンが包んでいる。
バレンタイン用に、きれいに包装されたものではなかった。
あきらかに、バラ売りされているものである。
「ありがとう。」
受け取りながら、シンジは一瞬、けげんな顔をしてしまった。
「どうかしたの?」
「あ、いやその…。綾波、ひとつ、聞いていい?」
「なにかしら。」
「このチョコ、どこで買ったの?」
「昨日、『カド屋』で。」
「カド屋って、学校の前の、あの駄菓子屋さん?」
正確にいうと、菓子パン屋さんである。
かなり古いたたずまいであり、いくらかの駄菓子も売っているので、シンジが駄菓子屋と
思うのも無理はないが。
「ええ。学校が休みだから、店が開いているかどうか心配だったけど、
クラブ活動がある土曜日は営業していると言っていたわ。」
「わざわざ、カド屋まで買いに行ってくれたんだ。」
「他に、そういう店を知らないもの。
それにたしか、惣流さんが今日はチョコレートを渡す日だというようなことを、
言っていたから。」
「そうだったんだ…。」
(アスカのやつ、綾波にバレンタインデーのことを教えるなら、もうちょっとちゃんと
教えてあげればよかったのに。
やっぱりこういうことは、ぼくが教えなきゃいけないのかな。)
そう思うシンジの手には、さきほどアスカがくれた『義理チョコ』の紙袋がある。
だが、シンジはわざわざその中身をレイに見せるつもりは毛頭なかった。
「どうかしたの。」
「ううん、なんでもない。 いただくね♪」
シンジはアーモンドチョコの包装を解いて、口に放り込んだ。
ほんのりとした甘みが、口いっぱいに広がる。
「うん、美味しいよ、綾波。」
「よかったわ。 まだあるから、もっと食べて。」
「ありがとう。
…だけど、今日は本当にごめんね。綾波には本当に悪いことをしたよ。」
「碇君は、さっきから謝ってばかりね。」
「だってさ…。」
シンジが何かいいかけようとしたが、レイはゆっくりとかぶりを振った。
「わたしは、嬉しかったもの。
碇君と一昨日の放課後、いっしょに歩けたこと。
わたしを何処かへ、連れてってくれると約束してくれたこと。
わたしを探し、そして見つけたら、息を切らせて走ってきてくれたこと。
…それだけで、わたしは嬉しいの。」
「綾波…。」
シンジは、言葉が出なかった。
夕陽に照らされたそのレイの顔には今、たしかな笑みが浮かんでいた。
完