帰らざる者、還らざる者
- 二人の想い 最終話 -
午前11時18分。
「くっ! なんて数なの!!」
上空を見上げて、アスカはつぶやいた。
場違いなほどに、抜ける様に青い空が見える。
その空を、ゆっくりと旋回する鳶の様な影が見えた。
それも、1つや2つではない。
幾つかのビルにその視界を塞がれているため、全数を把握することはできないが、
少なくとも、そいつらは6体以上はいた。
エヴァンゲリオン量産機_。
別名「エヴァシリーズ」と呼ばれるもの。
そいつらが、円を描いて旋回しながら、アスカたちの隙を窺っている。
アスカの弐号機は今、ビルの陰に身を潜めるように蹲り、マステマを構えて上空の敵の
1体に照準を合わせていた。
タタタタタン!
マステマの一連射が、旋回する量産機の1体に命中する。
白い羽毛を撒き散らすようにして、そいつは落下していった。
「シンジ、レイ。あとはまかせたわよ。」
そう言うとアスカは、次の標的に狙いを定めた。
視界の隅で、落下した量産機に向って走り寄っていく初号機と零号機の姿を認める。
その直後、次の標的がスコープの中央に入り、アスカは再び引鉄を引いた。
話は、その前日に溯る。
カヲルの殲滅後、ネルフはゼーレと真っ向から対立することとなっていた。
使徒を本部施設に潜入させた真意を問いただすゲンドウに対し、ゼーレは一切応じる
ことはなく、逆にエヴァ3機の無条件の引渡しを命じたのだった。
期限は24時間しか与えられなかった。
ゲンドウはもちろんそれを受け入れるつもりはなく、その短い時間を臨戦態勢の準備
に割いた。
翌朝の午前9時00分。
ネルフ側から、エヴァの引渡しの拒否を通告すると、その直後に全ての外部端末から、
MAGIへのハッキングを目指すデータ侵入が始まった。
ある程度それを予想していたゲンドウは、リツコに対応を命じる。
リツコは、Bダナン型防壁を展開することにより、MAGIへの侵入を防いだ。
そして、午前10時35分。
9体の量産機が、ゼーレにより投入された。
編隊を組む様にして、第3新東京に向ってくるのが確認された。
ジオフロントの天井部分のN2爆弾による爆撃は、さすがにされていない。
第3新東京が健在で、避難していない住民がまだ多数いるからである。
国籍不明、いや正体不明の敵…量産機にネルフが制圧されてから、戦自を出動させて
量産機を「追い払った」という形で撤退させ、救助という名目で本部を占拠する_。
それが、世論を敵に回さないためのゼーレの筋書きであった。
シンジたちはケイジに集められ、出撃を命じられた。
「ぼくたちが、何をしたって言うんだよ!」
シンジが、叫ぶように言う。
「あたしたちが、邪魔になった、てことでしょうね。」
アスカが、腕を組んで考え込んだ上で応じた。
「人類が【18番目の使徒】ならば、もう使徒は来ない。
でも、役目が終わったというだけなら、わざわざあんな使徒もどきを送り込んでくる
必要はないわ。」
シンジは、ゲンドウに向き直った。
「父さん、これはどういうことなの? あいつら、一体何をしようとしているの。」
「答える必要はない。生き延びたければ、目の前の敵を排除することだ。」
ケイジを見下ろす位置から、ゲンドウは言う。
「なんだよ、それ。
だいたい、とうさんが、何かしでかそうとしているから…。」
「碇君。」
レイが、それを遮った。
「まず、敵を迎え撃つわ。司令になにか問いただすのは、それから。」
「そうね。」
アスカも、それに同意する。
「…わかったよ。父さん、この戦いが終わったら、全てを話してもらうよ。」
「いいだろう。」
「行こう。」
「ええ。」
3人はエヴァに乗り込もうとした。
「レイは、ここに残れ。」
不意に、ゲンドウは言った。
「何故ですか。」
レイは振り返って尋ねる。 シンジとアスカも立ち止まり、その様子を見守った。
「おまえには、おまえの役割がある。
これから私と一緒に、ターミナルドグマに行くのだ。」
『レイの役割? 一体何が…?』
シンジとアスカは、顔を見合わせた。
「いいえ。」
レイは、きっぱりと言うと、首を横に振った。
「わたしは、碇君と一緒に行きます。」
「命令だ。」
「聞けません。」
「レイ!」
「………。」
「………。」
レイとゲンドウは、しばし睨み合うようにしていたが、やがて
「…わかった、行くがいい。」
ゲンドウが、折れた。
そして今、アスカは量産機の狙撃役を担っていた。
本来はこの狙撃手の役割は、レイが適任である。
だがアスカは、シンジに付いていくと言った、レイの気持ちを尊重しようとした。
撃ち落した量産機にとどめを刺すのは、シンジとレイにまかせることにしていた。
ツインタワーと呼ばれる、第3新東京で一番の高さを誇る二つの高層ビル。
その、二つのビルの間の狭間にアスカの弐号機はいた。
上空からは、よほど注意して見るか、タイミングが合わないと見つけにくいだろう。
同じことは、アスカにも言えた。
限られた視野の中でしか、旋回する量産機を捉えることができない。
だが、市内の各地から送られてくる映像と、射撃用のスコープの力を借りて、
アスカは次々と量産機を撃ち落していった。
『シンジ、レイのことは、あんたにまかせるわ。』
狙撃用スコープを通して上空を睨みつける様に見上げながら、アスカは思った。
『あたしは、あたしの道を行く。
やっぱりあたしは、戦い続けることの方が、向いているもの。
何かに縋ろうとか、守ってもらおうとか、そういうのはあたしらしくないもの。
…そうでしょ? 加持さん。』
最後に、思ってはいけないことを思ってしまった。
じわり、と涙が浮かんでくる。
『バカね。こんなときに、なに泣いているのよ。』
ぐいっと、こぶしで目を拭った。
『あたしは、一人でだって戦えるんだから!』
またひとつ、アスカは量産機を撃ち落していた。
何処から狙撃されたかもわからぬまま、その量産機は着弾のショックを受けて墜落した。
致命傷を受けたわけではない。
だから意識を取り戻すと同時に、すぐさま瓦礫を押しのけて起き上がろうとした。
そのとき、そいつは見た。
陽光を遮るように、宙に浮かんだ人型のシルエットを。
それが、自分に向って片足を伸ばすと同時に、ぐんぐん迫ってくることを。
シルエットに遮られていた太陽の光が再び見え、迫り来るその機体を照らした。
青い機体…それを知ると同時に、量産機は再び意識を失った。
零号機は、起き上がりかけた量産機の、その喉を踏み抜いていた。
「綾波、大丈夫?」
初号機が、駆け寄ってきた。
「ええ、大丈夫。」
レイが答えると同時に、タタタタタン! と、また銃声が響いた。
二人は上空を振り仰いだ。
1体の量産機がまた、羽毛を撒き散らして落ちてくるところだった。
「行こう。」
「ええ。」
初号機と零号機は、次の量産機の落下地点に向って走った。
『あと、3体か…。』
ここまではうまくいったと、シンジは思う。
『あいつら、エヴァというよりは、もっと生物に近いみたいだ。』
だから、有機的な翼で空を飛ぶかわりに、ビルの陰に隠れた弐号機を見つけるだけの、
視覚能力のサポート機能も持たない様だった。
『なまじ、翼があるもんだから、銃器も持たずに乗り込んできたのか。
それに数の上で優勢だったから、油断していた…。
ラッキーだったんだ。このまま、終わってくれればいいんだけど。』
シンジが、そう考えてふと、上空を見上げたときだった。
それまで旋回していた量産機の1体が、羽ばたいたままホバンリングしていた。
発令所でも、それに気付いた。
「碇…。」
冬月が、緊張した面持ちでゲンドウに話しかける。
「ああ、まずいな。
奴らめ、狙撃への警戒よりも、地表を動き回る初号機と零号機を標的に…。」
ゲンドウがそこまで言ったとき、その量産機が初号機に向って何かを投擲した。
「えっ!?」
シンジには一瞬、キラリッと光るものが見えた。
次の瞬間、初号機は首筋から地面に縫い止められる様に、何かに刺し抜かれていた。
「碇君!!」
零号機が、初号機の元に駆け寄る。
「何が、あったの!」
シンジからの応えはない。
「これは…ロンギヌスの槍!!」
そう、初号機を貫いたものは、量産機が投擲したロンギヌスの槍だった。
「シンジ!」
アスカの弐号機は、ツインタワーの狭間から飛び出し、初号機に向かって走った。
「馬鹿! 持ち場を離れるんじゃない!」
冬月が叫ぶが、
「何言ってんのよ、シンジがやられたのよ!」
アスカは耳を貸さなかった。
「碇君! アスカ、碇君が。」
「シンジ、応えなさいよ、シンジ!」
レイとアスカの呼びかけに応えず、初号機は沈黙したままだった。
その両眼も、光を失っている。
「パイロットの生存反応、ありません。」
発令所では、日向が緊張した面持ちで告げていた。
さらに、
「こ…これは!」
マヤが信じられない、といった表情でつぶやく。
「どうした?」
「た、斃した筈の、エヴァシリーズが…!」
初号機と零号機が止めを刺した筈の、6体の量産機がいつの間にか修復され、次々と
起き上がってきていた。
「S2機関か?!」
「そ、それにしても早い!」
これまで斃した使徒が数時間から数日かけて行っていた自己修復を、それらの量産機は
ものの数分で行っていた。
さらに上空からは、3体の量産機がそれぞれ、ふわりとビルの上に降り立つ。
沈黙した初号機と零号機、弐号機を、9体の量産機が取り囲んでいた。
「くっ!」
アスカはぎりっと歯をくいしばった。
『これで終わりだというの?
いいえ、ここで終わって、たまるもんですか!』
ビルの上から、量産機の1体が手にしたロンギヌスの槍を振りかぶった。
そして、投げる。
『や、やられる!』
アスカは、目をつぶりそうになった。
初号機と同じ運命が、自分も待ち受けているのかと思った。
だが、矢の様に疾走してきたそれは、自然法則に逆らうかの様にぴたりと停まった。
零号機が、半身を乗り出して、弐号機を庇っていた。
そして伸ばした片手の数メートル前で、展開されているATフィールドが、オレンジ色に
輝いている。
「レイ、あんた…。」
アスカが茫然とつぶやく。
その、ATフィールドを、ロンギヌスの槍はじわじわと侵し初めていた。
その切っ先が、まるでゴムの膜を突き破ろうかとしているかの様に、平面である筈の
フィールドをたわめている。
『だ、だめだわ!』
フィールドが突き破られる!
アスカがそう思うと同時に、案の定、ガラスが割れる様にフィールドが四散した。
今度こそ覚悟を決めたときに、信じられないことが起こった。
新たなATフィールドが忽然と現れ、槍の進行を停めていた。
二重のフィールドによってロンギヌスの槍は推力を失い、金属的な音をたててその場に
落下した。
アスカは思わず、零号機を振り返った。
零号機の全身から、陽炎の様なものが立ち昇り、周囲の空気を歪めている様に見えた。
錯覚かも知れない。
だがアスカはそこに、鬼気迫るものを感じた。
「碇君は、わたしが守る。」
レイは、静かに告げた。
「ばかな!一度消滅したATフィールドが、再び張られるなんて…」
青葉が、言葉を失う。
「一つ目は、零号機のATフィールド…。二つ目は、レイ自身が展開したものだわ。
さすがね、ロンギヌスの槍を無力化するには、たしかにそれしかない。
でも、そのためには…。」
リツコは、冷静に現状を分析していた。
「レイの現在のシンクロ率は?」
マヤに尋ねる。
「ひゃ、100%近くまで上がっています!」
マヤの回答に、震えが混じる。
「やはり、あのときと同じ…。」
リツコは、口の中で、そっとつぶやいた。
『リリン…。』
じりっと量産機の群れが、3機のエヴァの包囲網を縮める。
零号機は、地上に落ちていたロンギヌスの槍を拾って構えた。
槍は一瞬にして、ツインブレードへとその姿を変える。
レイには何の逡巡もない。
「へぇ。」
アスカは、純粋に感心していた。
『あたしにも、やれるかしら。』
自分も、マステマを構えた。
「やれるか、ではなく、やるしかないわね。
この前できたのだもの、やれる筈よ!」
覚悟を決めた。
弐号機の全身からも、陽炎の様なものが立ち昇る。
「弐号機も、シンクロ率が急上昇しています!」
マヤの報告にリツコは頷くと、通信用のマイクに口を寄せた。
「アスカ、レイ、聞こえる?
エヴァシリーズは全て、S2機関搭載型よ。
コアを破壊しないかぎり、何度でも自己修復して甦ってくるわ。
止めを刺すときは、必ずコアを破壊すること。 いいわね?」
「わかったわ!」
「了解。」
応答すると同時に、量産機の群れが襲ってきた。
量産機たちは、手にした武器をいずれも接近戦用のツインブレードに変えている。
レイは同じく、ツインブレードで応戦する。
武器は同じでも、技量は明らかに零号機の方が高い。
たちまち2体を切り伏せ、戦闘不能になった量産機のコアを突き破っていた。
一方アスカは、わずかながら苦戦していた。
技量はレイ以上であるが、手にしたマステマと量産機のツインブレードでは、その重量が
違う。まともに刃を合わせると、踏ん張りがきかなかった。
『力では敵わない。技で対抗しないと。』
後退しながらアスカは、身を捩って量産機の力押しをいなす。
噛みあっていた刃が外れて、量産機はつんのめった。
地面にツインブレードを突き刺して、そいつは辛うじて転倒を防いだ。
その腕を、弐号機のマステマが切り落とす。
量産機はのけぞり、大量の血潮が吹き上がった。
アスカは難なく、ツインブレードを手に入れていた。
それから先は、楽な展開だった。
瞬く間に、アスカは2体の量産機を屠り、レイもその間に1体を斃していた。
「あと、4体。」
アスカは、次なる相手の量産機に向き直った。
そのとき、
「碇君!!」
悲鳴に近い、レイの叫びが聞こえた。
見ると、2体の量産機が動けぬ初号機に近づいており、そのうちの1体が初号機の脇腹を
ロンギヌスの槍で刺し貫いていた。
にぃっと、そいつは口を歪めて笑った。
「こぉの、卑怯もんがぁっ!」
アスカは思わず、初号機に駆け寄ろうとした。
そこを、背後から襲われた。
相手に背を向け、全くの無防備だった。
アンビリカブルケーブルが、切断されていた。
「しまった!」
内部電源に切り替わり、稼動時間の残数のカウンタが目紛しく動き出した。
第2撃はかろうじて躱したものの、体勢を立て直す間も与えずに敵は攻撃してきた。
「いい加減に!!」
横薙ぎにツインブレードを振ると、量産機は飛び退った。
『こいつ、強い…。』
今までの量産機とは違う、とアスカは思った。
それとも_。
『学習しているのか?』
おそらくは、初めての実戦であろう量産機は、仲間がやられる姿を見て、戦い方を変えて
きたのかも知れない。
最初、上空を旋回していい様に撃ち落されていた量産機が、旋回をやめて初号機を狙った
ように。
量産機は、距離を置いて弐号機を見ている。
アスカがまた、隙を見せるときを待っているかのようであった。
『このままでは…。』
ちらりと初号機の方を見る。
零号機が、2体の量産機を相手になんとか互角に戦っているのが見えた。
レイは、シンジを守ろうと、必死で戦っているのだ。
内部電源の残量は、どんどん減ってきている。
このままではジリ貧だ。
アスカは、目の前の量産機との距離を一気に詰めるべく、跳躍しようとした。
弐号機が腰を落として、膝を曲げたそのとき_。
その膝を、何かが貫いた。
「うがぁぁぁぁっ!」
激痛に、アスカは絶叫した。
もう1体いた量産機が、ロンギヌスの槍を投擲したのだった。
零号機は、初号機の傍から量産機を追い払おうと、ツインブレードを必死で振り回して
いた。
2体の量産機もそれぞれツインブレードを振るうが、零号機の動作の方が速い。
100%近いシンクロ率が、最大の反応速度と正確な動きを与えているのだった。
量産機たちは圧倒されたかの様に、じりじりと後退する。
「逃がさないわ。」
零号機は、それを追う。
そのとき、量産機たちは示し合わせたように、2体同時に一気に飛び退った。
レイはそれに追い縋ろうと、飛び込む様に間合いを詰めた。
それを待ち構えるように、量産機の1体が横薙ぎにツインブレードを振るう。
『躱せない!』
そう判断したレイは、ツインブレードを右脇に立ててそれを受けた。
もう1体の量産機が、その隙を狙っていた。
僚機よりもさらに後方に下がっていたそいつは、ツインブレードをロンギヌスの槍に
変えて、そのチャンスを待っていた。
量産機が至近距離から、ロンギヌスの槍を投擲する。
レイはATフィールドを展開することも、躱すこともできなかった。
がら空きの腹部にそれは命中し、零号機は後方に吹っ飛んだ。
零号機を串刺しにしたまま、槍はその先のビルに突き刺ささる。
零号機もまた、縫い止められる様にしてその動きを停めていた。
「うぅぅぅっ!」
レイは、苦鳴をもらす。
『碇君は、わたしが守る。』
その決意が、叶えられないと悟った。
ドグマに同行せよというゲンドウの命令を無視し、シンジについて戦いに臨んだ。
そのシンジがロンギヌスの槍によって、自由を奪われている。
量産機からシンジを守るのは、自分の役目だと思っていた。
だがその自分もまた、自分の招いた油断から、ロンギヌスの槍の餌食となった。
シンジともども、止めを刺されるのは間違いないところであった。
ゲンドウに従っていれば、おそらくはリリスに還ることを命じられたであろう。
人の姿を捨てていれば、あるいはこのようなピンチに陥らなかったかも知れない。
でも_。
レイは「人」のまま、シンジとともに戦いたいと願った。
そのシンジを自分は今、守ることができないでいる。
自分の身はどうなってもいいから、せめてシンジには無事でいてほしかった。
『だれか、碇君を守って!』
心の底から、そう思う。
「碇君…。」
ひとこと、そうつぶやくとレイは気を失った。
シンジは、青い光のゆらぎを見ていた。
それは、炎のようでもあり、水面に映る月のようでもあった。
何か、現実でないような気がした。
首筋と、脇腹がずきずきと痛い。
だが、その痛みさえ、他人事のような違和感があった。
「シンジ…。」
何処かで聞いた声が、自分を呼んでいるのに気付いた。
「シンジ、起きなさい。」
母さん?
『シンジ、朝ですよ。起きなさい。』
だれかが自分を、揺り起こしている。
『うーん、もう少し…。』
シンジは、心地よいまどろみの中に逃げ込もうとした。
『だめですよ、シンジ。起きなさい。』
やさしい声が、たしなめるふうに言う。
『せっかく、いい夢を見ていたのに、もう少しいいじゃないか。』
「それも夢よ!」
突然、現実味を帯びた声がした。
「都合のいい夢に、惑わされてはだめ。」
シンジは、驚いた様に目を開いた。
青い光のゆらぎが、女性の顔_ユイに変わって自分を見つめていた。
「かあ…さん?」
ためらいがちに尋ねると、ユイはしっかりと頷いた。
「ここは…エヴァの中?」
「そうよ。正確に言うと、『コアの中』ね。」
「なぜ、ぼくはここにいるの。」
「わたしが、呼んだから。あなたに、伝えなければならないことがあって。」
「ぼくに伝えること?」
ユイは再び頷いた。
「そう、あなたはここで負けるわけにはいかない。
あの人は、『補完計画』の発動を目論んでいるけれども、それでは人類に未来がない。
人は、どのような境遇にあろうとも、人として生きてこそ、幸せになるチャンスを
持ち続けることができるもの。」
そうだ_。
ぼくは、綾波とアスカと一緒に、量産機と戦っていたんだ_。
「ぼくたちは、負けそうなの。」
「今の状態を見せるわ。」
シンジの頭の中に流れ込んだ映像。
それは、首を、腹部を、そして膝を、ロンギヌスの槍で刺し貫かれたエヴァたちの姿。
そのエヴァたちに、邪まな笑みを浮かべながら、今にも襲いかかろうとしている量産機。
無残で、絶望的な光景だった。
「うわあぁぁぁぁっ!」
シンジは、思わず絶叫していた。
悪夢は、一瞬で消えた。
はぁはぁと、シンジは荒い息をついた。
いっとき忘れていた、首筋と脇腹の痛みが甦る。
「助けて…助けてよ、母さん。」
ユイは、シンジの頬を、そっと撫でると言った。
「わたしにしてあげられることは、このくらいしかないの。」
痛みが、すっと引いていく。
「あとは、シンジ。 あなたの役割よ。」
「ぼくの? 無理だよ、そんなの。」
「『見たことも、聞いたここもない』から?
あなたたちチルドレンが、リリンの正統な末裔だとしても?」
「リリンって…。【18番目の使徒】のこと?」
「ええ。
使徒は、それぞれが、人類の別の可能性だった。
でも、最後に生き延びたのが、私たちだった。何故だかわかる?」
シンジは、かぶりを振った。
「他の使徒にはない、ある能力があったからよ。
他の使徒たちが持つ、優位性を完全に無力化する能力が。
だから、万物の長の座を争った競争を生き残ることができたの。」
「なんなの、それは。」
「思い出しなさい、シンジ。
あなたが気付かなければ、その能力は使えないわ。」
「わからないよ、そんなの!」
「もう一度、言うわ。
他の使徒にはあって、人類にはないもの。
でも、かっての人類は、それを無効にすることができた。
人類にそれを奪われた使徒は、結局生き延びることができなかった…。
ミサトさんのパソコンにあった情報で、あなたは知っている筈よ。」
「使徒にあって、人類にないもの…。
ATフィールド?
いや、それはただ、人類が使い方を忘れているだけだというし…。
あっ!!」
「気が付いた?」
「まさか、S2機関?」
「そう。エヴァシリーズも、S2機関で動いている。
あなたには、それを消滅させる力がある筈よ。」
「で、でも、この初号機にだって、S2機関があるんだよ。
もし、ぼくがその力を使ったら、初号機は…母さんはどうなるの?」
「大丈夫。初号機は、S2機関を後から取り込んだだけだから。
外部電源に切り替えれば、再起動することはできるわ。
だから、心配しないで。」
「…ぼくに、できるかな。」
「自分を、信じるのよ。いきなりの実戦で、あなたは使徒を斃したじゃない。」
「わかった、やってみるよ。」
「お願いね。あなたなら、できるわ。」
「なんだか、母さん…綾波みたいだ。なんとなく、雰囲気が。」
「そう? そうかも知れないわね。
今の私は、レイに呼び出されたようなものだもの。
いえ、この意識の何分の一かは、レイの意志そのものかも知れない。」
「どういうこと?」
「聞こえたのよ、レイの叫びが。『だれか、碇君を守って!』という声が。」
「綾波…。」
「レイは、あなたを守ろうと、せいいっぱい戦っていたわ。
今度は、あなたが彼女を守る番よ。」
「わかった。」
「行くのね、シンジ。」
「うん、行ってくるよ。
そうだ、母さんは、この戦いが終わったらどうするの。
ぼくたちのところに、戻ってきてくれるの?」
ユイは、少しつらそうにかぶりを振った。
「ごめんなさい、それはできないの。」
「どうして?」
「あの日、私はここに残ることを決めたの。…人の生きた証を、永遠に残すために。」
「母さん一人で? そんなの、淋しすぎるじゃないか。それに、ぼくだって…」
「あなたには、レイがいるわ。」
「綾波が?」
「彼女が唯一、心を開いた相手、それがあなたよ。あなたでなくて、誰が彼女を
守ってあげられて?」
「うん…。」
「わかったら、行きなさい。大丈夫、私はいつでも、あなたたちを見ているわ。」
「ありがとう。さようなら、母さん。」
シンジは、静かに目を開いた。
ロンギヌスの槍に、背後のビルごと串刺しにされた零号機の姿が見えた。
2体の量産機が、いやらしい笑みを浮かべてそれに歩み寄ろうとしている。
「綾波! やめろ、やめろぉぉぉぉ!!」
思わず、叫んでいた。
「フォォォォォォ〜ッ」
初号機も、咆哮しながら立ち上がっていた。
首筋を貫いたまま突き刺さっているロンギヌスの槍が、地面から抜ける。
その初号機の両眼が、爛と輝いた。
初号機を中心に、白い光の球体が現われた。
球体はぐんぐん大きくなる。
その下半分は地中に消え、半円球のドーム状のフィールドを構成した。
白いフィールドは、初号機をすっぽりと覆った。
同時に、初号機を貫いていた、忌々しいロンギヌスの槍が崩れ去る様に消える。
フィールドは、急速に拡大していった。
加速しながらその直径を増し、第3新東京の大半を覆い尽くすまでに至る。
零号機も、弐号機も、そして量産機たちも、その白く光るフィールドに包まれた。
ロンギヌスの槍が、ツインブレードが、次々とその形を維持できずに崩れ去っていく。
…そして、彼らから武器を奪った光るフィールドは、忽然と消えた。
量産機たちは、その元凶となった初号機を振り返った。
憎しみを込めて口許を歪め、初号機に向って一歩を踏み出した。
その一歩が、彼らの最後の進軍だった。
「グォォォオォォォッ!!」
胸を掻き毟る様にして、量産機たちは悶絶した。
呪詛の叫びを吐きながら、次々と活動を停止する。
絶体絶命と思われた戦いは、突如として終焉のときを迎えた。
初号機もまた、その眼がふっと暗くなり、その場にくずおれた。
「綾波!」
シンジはエジェクトされたエントリープラグからとび出ると、蹲ったまま動かない
零号機に向って走り出した。
「なんということだ!」
戦況を見守っていた、モノリスのひとつが、そうつぶやいた。
何処とも知れぬ、暗い密室である。
「忌むべき存在のエヴァ。またも、我らの妨げとなったか。」
別のモノリスが、そう言う。
暗闇の中でも、そこに書かれた『SEELE』の文字が赤く浮かび上がっている。
「今回は、あの男の裏切りもあった。」
「確かに。だが、ここ最近の適格者どもの動きには、腑に落ちないものがある。」
「奴ら、あらたなシナリオを描こうとしているのではないか。」
「切り札を失った今、何を言っても仕方がない。」
口々に言うモノリスたちを、『01』と書かれたモノリスが制した。
「奴らの反撃の前に、いったん地に潜るしかあるまい。」
「忌々しいことだが、機が熟するまでにまた、15年はかかるな。」
「仕方なかろう。 では、15年後に。」
「15年後に。」
モノリスの姿は、ひとつ、またひとつと消えてゆき、やがて真の暗闇となった。
「綾波!」
シンジは一言叫ぶと、零号機のエントリープラグのハッチをこじ開けた。
上体をプラグに入れて中を窺うと、レイがシートの上でぐったりとしているのが見えた。
その身体に手をかけて揺すりたいという衝動をこらえ、
「綾波、大丈夫!?」
もう一度、叫んだ。
レイは、ゆっくりと眼を開いた。
その眼が、焦点を結ぶ。
そこに、シンジの姿を認めた。
「碇君! …つっ!」
思わず、身を起こすと同時に、顔をしかめる。
「無理しちゃ駄目だよ。」
シンジは急いでレイを抱きとめると、ささやく様に言った。
「碇君、無事だったのね!!」
レイはシンジの首に手を回すと、身を震わせた。
「うん…。」
いつかとは違うレイの反応に、シンジはわずかにとまどった。
「…よかった。…嬉しい。」
レイの震えが、伝わってくる。
「嬉しいときは、普通は笑うもんだよ。」
シンジは、ふっと笑みを浮かべると、レイの髪をやさしく撫でた。
レイが落ち着くまでの間、シンジはずっとそうしていた。
その二人を、少し離れたところから、アスカが見ていた。
やがてアスカは、踵を返してその場を歩み去った。
わずかながらびっこをひいている。
前髪に隠れてその表情は見えなかったが、その口許にはわずかに笑みが浮かんでいた。
出迎える様に姿を現した、赤いジャケットを着たミサトがアスカに声をかけた。
「大丈夫?肩を貸すわよ。」
「いいのよ!」
アスカは、少し苛付いた口調で応えた。
「あんたたち保安諜報部の仕事は、まだ終わってないでしょ。
こんなところで、油を売っている暇はない筈よ。」
「まあ、そうなんだけどね。」
ミサトは、頭を掻くと言った。
「無理はしないで、ゆっくり休んでちょうだい。」
「ありがと。」
アスカは片手をあげると、またびっこをひきながら去っていった。
心の中で、こうつぶやいていた。
『やっぱり、無理してるように見えるのかな。』
「終わったな…。」
発令所では、冬月がつぶやく様にそう言った。
「ああ、予定外ではあるが、終わりには違いない。」
傍らのゲンドウが、椅子から立ち上がると言った。
「シンジには…いや、パイロットたちには、私の部屋に来る様に伝えてくれ。」
「全てを話すつもりか?」
「…約束だからな。全てが終わったのだ、もういいだろう。」
「よかったら、私から言っておくが。」
ゲンドウは、かぶりを振った。
「シンジとレイには、私の口から謝らなければならないだろう。」
『そういうことだな、ユイ。』
ゲンドウは、しみじみと思った。
『あの日、おまえはみずから進んでエヴァに残り、帰ってくることを拒んだ。
今日また、レイはリリスに還ることを拒み、シンジとともに生きることを選んだ。
サードインパクトは、起きなかった。
或いは、ただ、延期されただけなのかも知れない。
おまえは、人が人として生きることのみを願っていた。
想いが強ければ、行き場を失った人類にも、やり直すチャンスがあるということを、
身をもって証明しようとしたのか。』
ふっとゲンドウは、笑みを浮かべる。諦めと、希望の混じった笑みだった。
「困難な道かも知れない。だが、私はあの二人に賭けてみようと思う。」
ゲンドウの言葉に、
「そうだな。世界は我々ではなく、未来ある者に託すべきかも知れない。
…ユイ君に会えないのは、淋しいがな。」
冬月は頷いて言った。
「アスカ!」
ネルフ内の通路で、シンジの声が背後から聞こえた。
アスカが振り返ると、シンジがレイに肩を貸して、こちらに向ってくるところだった。
「レイを医務室に連れていくところ?」
アスカが尋ねる。
「だったら、救護班の連中にまかせておけばいいのに。」
「医務室に行くんじゃないよ。
アスカこそ、びっこをひいているのに、どうして救護班を呼ばないの。」
「このくらい、たいしたことないわよ。
前回、ターミナルドグマで受けた傷の方が、よっぽどこたえたわ。」
「で、どこへ行くの?」
「司令の部屋に決まってんじゃない。
あんた、戦闘前にそう約束してたじゃないの。
とっくに先に行ってるものだと思ってたわ。」
「ぼくたちも、これから行くところなんだ。」
「うそ! 負傷したレイを連れて? あんた、一体、何考えてんのよ!」
「わたしが、碇君に、そう頼んだのよ。」
レイが、口を挟んだ。
「碇司令が、わたしたちを呼んでる…そう、思ったから。
それに、わたしが受けた傷も、見た目ほどたいしたことはないもの。」
「ふうん、そうなんだ。」
「と、いうことでアスカ、一緒に行こう。」
「まあ、そういうことなら仕方ないわね。」
「じゃあ、ほら、アスカも腕を貸して。」
「えーっ!! あたしもあんたに、肩を借りるのぉ?」
「だって、アスカ、びっこひいてるじゃないか。」
「いやよ、そんな!」
「どうして?」
そう尋ねたのは、レイだった。
「だって、恥ずかしいし…。」
「ついこの前まで、そんなことは平気でしていたわ。」
「してないって!」
「恥ずかしがることはないわ。」
「レイもこう言ってるんだから、ほら、アスカ。」
「…だって、その、レイに悪いし…。」
「「何言ってるの、仲間だろ(でしょう)?」」
二人に同時にそう言われては、アスカは返す言葉がなかった。
「わ、わかったわよ。じゃあ、お願いね。」
アスカが腕を出し、シンジは肩を貸した。
アスカは、自分が顔を赤くしていることを気にしたが、二人は気付かないようだった。
「父さんは使徒を全て斃した後、エヴァを使って何をしようとしていたのかな。」
シンジは、ぽつりと言った。
「そんなの、わかるわけないじゃないの。
何があろうと、あたしたちは、自分の信じた道を行くだけよ!」
アスカが言うと、
「そうね。」
レイも頷いた。
シンジを中心に、三人はゆっくりと歩き始めた。
完