「希望」と「願い」 _序_
- 受け止められない事実 -
「よく、ここに来れたわね。」
リツコは顔を伏せたまま、つぶやく様に言った。
薄暗く、調度も何もない狭い一室である。
リツコは、ベッドに腰掛けたまま俯き、両手の指を膝の上で組み合わせている。
「………。」
レイは無言で佇んだまま、次の言葉を待った。
「まあ、場所さえ判れば、その気になったあなたには、こんな独房の施錠など、意味を
なさないのでしょうけど。
…それで、ここまでたどりついた上で、私に聞きたいことというのは、何かしら。」
「なぜ、あの様なことをしたのですか。」
水槽の中のレイの素体たちを、シンジとミサトの前で破壊したことである。
「…あの人への、復讐よ。」
しばしの沈黙の後、リツコはそう応えた。
「碇司令への?」
「ええ、そうよ。」
「碇君には、関係のないことだわ。」
レイは、まっすぐにリツコを見据えて言った。
口調こそ、いつもと同じ静かな物言いだが、その目には小さな怒りの光が灯っているのが
見て取れた。
「碇君? レイ、あなた、まさか記憶が…。」
「ええ。碇君とのこれまでのこと、全て思い出しました。」
「そんな…! 人格は完全にリセットされた筈なのに。」
「司令への復讐に、碇君は関係ない筈です。なぜ、碇君に見せたんですか。」
「そう。
3人目になってもやはり、あの人の人形ではいられないということね。」
「どういうことですか。」
「………。」
それっきり、リツコは押し黙った。
レイが応えを促しても、リツコが口を開くことはなかった。
…また、来ます。
そう言い残してレイが立ち去ってから二時間後、次にリツコの元を訪れたのは
ゲンドウだった。
「何故、ダミーシステムを破壊した?」
「あなたに抱かれても、嬉しくなくなったから。
わたしのからだを好きにしたらどうです? あのときみたいに。」
「君には、失望した。」
そう言うゲンドウに、
「失望? 最初から期待も望みも持たなかったくせに!」
リツコは激昂した。
「わたしには、何も! 何も!! 何も!!!」
怨嗟の叫びの後に、すすり泣きが続く。
「わたしも、かあさんも、尽くすだけ尽くさせて、用が済んだらぼろ布の様に
捨てたくせに!」
ゲンドウが立ち去った後も、リツコの嗚咽は続いた。
「歌はいいねえ。」
シンジは、夕暮れ時の芦ノ湖畔で、一人の少年と出会っていた。
「リリンが生んだ文化の極みだよ。
そうは思わないかい、碇シンジ君。」
「君は…?」
「ぼくは、カヲル。渚カヲル。君と同じ、仕組まれた子供さ。」
「エヴァのパイロットなの。」
「そういうことになるね。
今日、『フィフス』として配属されることになっている。」
「そうなんだ。」
「よろしく頼むよ。」
そう言うと、カヲルは人懐っこい笑みをうかべた。
「こ、こちらこそよろしく。渚君。」
顔をあからめ、どぎまぎしてシンジは言う。
「カヲルでいいよ。ところで、これからネルフに案内してくれないかな。
この辺は、不案内でね。」
「うん、いいよ。あ、それから、ぼくもシンジでいいから。」
「あなた、誰?」
割って入った声に、二人は振り向いた。
レイが、ゆっくりと近づいてくるところだった。
その顔にはっきりと、カヲルに対する警戒の色を浮かべている。
「綾波…。」
つぶやくシンジの顔が、わずかに引きつった。
「碇君に、近づかないで。」
レイは、まっすぐにカヲルを見据えて言った。
「へぇ、君は…。」
「やはり、あなたは…! 碇君、逃げて。彼は敵よ。」
「敵って…。」
言いかけて、シンジは息を呑んだ。
レイが学生鞄から、拳銃を取り出すのを見たのだった。
再び、リツコが幽閉されている独房_。
「先輩!」
「マヤ…。」
伊吹マヤは、目の前の光景(独房にリツコがいること)が信じられないというふうに、
かぶりを振った。
「どうして…。どうしてなんです、先輩!
先輩が、あんなことをするなんて…。」
「そう、あなたは知ってしまったのね、マヤ。」
「ダミーシステムの真相は、薄々感づいてました。
でも、一番の責任者である筈の先輩が、どうしてあんなことを!」
「所詮は、『男と女の問題』なのよ。
ダミーシステムの開発に着手したのも。
そして、それを破壊したのも。」
「そんな、先輩らしくないです!」
リツコは弱々しく微笑むと、かぶりを振った。
「これが、本当のわたしなのよ。」
「………。」
「でも、シンジ君には悪いことをしたわ。そして、レイにも…。
レイはすでに、完成された人格をもっているわ。
そして、彼女にそれを与えたのは、たぶんシンジ君ね。
レイがあの人の人形のままならば、それでもよかった。
ダミープラントの破壊は、あの人の罪業をシンジ君に見せつけるだけの筈だった。
でも、実際には必要以上に、二人を傷付けただけだったわ。
あの人には、何も思い知らせていないというのに!」
感情が昂ぶったのか、リツコは俯くと肩を震わせた。
「先輩…。
あの人って誰ですか。男と女の問題って…。
「もう、隠すこともないわね。碇司令よ。」
俯いたまま、リツコは自嘲するかの様に笑みを浮かべて言った。
「そんな!」
「隠していて悪かったわね、マヤ。
でもね、もうなんでもないのよ。あの人には愛想が尽きた。
いえ、憎んでも憎みきれない…。」
そう言うと、リツコは唇をかみしめ、しばし沈黙した。
「マヤ、あなたに頼みがあるの。」
リツコは、意を決したように顔を上げた。
「何でも言ってください!」
マヤは、頷いて言った。
「綾波! やめてよ、綾波!」
シンジが叫ぶ。
しかしレイは、カヲルに銃を向けたまま尋ねた。
「何が、目的なの。」
「君は、ぼくと同じだね、綾波レイ。」
カヲルは、笑みを浮かべて言った。
「それなのに何故、今まで事を為さなかったんだい。
チャンスは、いくらでもあったろうに。」
「質問しているのは、わたしよ。」
レイは腕を伸ばし、あらためて手にした銃でカヲルを狙った。
「その姿で、ここに現れたのは…。」
言いかけたレイの、その腕を抱え込む様にして、シンジは制した。
「やめてよ、綾波! こんなの、おかしいよ。」
「どいて、碇君。 この人は…。」
「さっきから、何を言ってるんだよ。
いきなり、人に銃を向けたりしてさ。
それに、敵ってなんだよ。
もし、本当に敵なら、『ガード』の人たちが、放っておくわけないじゃないか。」
レイは初めて、当惑した様にシンジを見た。
シンジがどうして、カヲルを庇おうとするのか、理解できなかった。
使徒なのに!
巧妙にブラッドパターンを偽装し、MAGIに感知させないでいるが、レイには判った。
カヲルが、レイのことを見抜いた様に。
銃口の向く先が、カヲルから外れたことで、シンジはわずかに力を抜いた。
「綾波とカヲル君が、どんな知り合いなのか、ぼくは知らない。
でも、仲が悪いといっても、それは君たちだけの問題だろ。」
「違うの、碇君。 彼は…」
「違わないよ! もう、いやなんだ。 人が死んだり、傷ついたりするのを見るのは!
綾波は、ぼくたちと違うから平気かも知れないけど。」
「わ、わたし…。」
レイの手から、銃が落ちた。
全身から力が抜け、くず折れて地に膝をついた。
『綾波は、ぼくたちと違うから…。』
シンジからその言葉を聞いたことが、レイにはショックだった。
やはり、ダミープラントでレイの素体たちが崩壊するのを見たシンジは、レイのことを
その様な目で見ているのだ。
レイのあまりの落胆ぶりにシンジは驚いた。
少し気の毒に思ったが、当面のカヲルの身の危険がなくなったことで、仕方ないと思った。
「ありがとう、シンジ君。」
カヲルが笑みを浮かべ、近づいてきた。
「助かったよ。
さ、日も暮れかかっている。本部へ急ごう。」
「あ、うん…。」
そう言いながらシンジは、地にへたり込んでいるレイを心配そうに見た。
「大丈夫だよ、彼女は。
すぐに元気になるよ。そして、またぼくに噛み付いてくるんだ。」
「綾波と、カヲル君の間で、何があったの。」
「昔、ちょっとね。
ぼくにとっては些細なことだけど、彼女にとっては重大な行き違いがあったのさ。」
「誤解は、早く解いた方がいいよ。」
「そうだね。ふふ、やさしいね、シンジ君は。ぼくたちは、いい友達になれそうだね。」
二人が立ち去る中、レイは未だ、茫然としていた。
『綾波は、ぼくたちと違うから…。』
その言葉が、レイの上に重くのしかかっていた。
夕闇が迫る頃、ようやくレイは、傍らに落ちている銃に気づいた。
銃を拾い、のろのろと立ち上がる。
そして、つぶやいた。
「碇君を、守らないと…。」
再びレイは、リツコの元を訪れた。
「いらっしゃい。」
今度は、小さな笑みを浮かべてリツコは招いた。
「監視はしているのでしょうけど、こうも頻繁に来客を許すということは、わたしを
晒し者にしようという意図でもあるのかしらね。」
「ここのセキュリティ自体には、問題はないと思います。
ここに来れるのは、それだけの技術か能力のある者だけの筈ですが。」
レイは、低い声で応えた。
「あら、元気がないわね。どうしたの。」
「碇君に、近づこうとしている少年がいます。
みずからをフィフスと名乗り、仕組まれた子供だとも…。」
「そう。」
「でも、わたしには判ります。彼は…。」
「恐らくは、最後のシ者ね。」
「ええ。わたしは、どうしたら碇君を守れるのでしょうか。」
「あなた、シンジ君から嫌われるか、それに近いことがあったの?」
「ええ。」
「そう…わたしの、せいね。」
「今は、そんなことはいいんです。フィフスが碇君と接触したのは、何か狙いが
あるのだと思います。どうすれば碇君を守れるか、教えてほしいのです。」
「しばらくは、あなたからシンジ君には近づかない方がいいわ。
シンジ君のことは、わたしがなんとかするから。」
「でも、それでは…。」
「そのかわり、フィフスの動向に注意しなさい。
フィフスがシンジ君に近づくのは、何かの布石でしょう。
それよりも、彼が一人で行動しているときの方が…。」
「危険性は高い、ということですね。」
「そうよ。」
「判りました。
なるべく、碇君の前には姿を見せずに、フィフスの動向を監視することにします。
ありがとうございました、赤木博士。」
「レイ。あなたにとっては、つらい選択ね。」
「いえ…。では、失礼します。」
「あ、レイ。」
リツコが何か言いかける前に、レイは一礼すると部屋を出て行った。
リツコはしばらく、閉ざされた扉を見ていたが、やがてため息をつくとつぶやいた。
「赤木博士か…。昔からレイは、わたしをそう呼んではいたけど。
当面は、謝らせてももらえそうにないわね…。」
シンジはすっかり、カヲルに傾倒していった。
その高いシンクロ率に感服し、食事も、入浴も、就寝さえも、カヲルとともに行う
様になった。
「好意に値する。」
カヲルも、シンジのことをそう言った。
意味を尋ねると、
「『好き』ってことさ。」
臆面もなくそう言われて、シンジは赤面した。
レイはそんな二人を、シンジの視野に入らないことに気を配りながら、遠くから
見守っていた。
シンジは、そうとは知らず、レイが再びカヲルに敵意を向けてこないことに安心し
きっていた。
そんなある日_。
カヲルは、珍しく一人で所用で出かけると言い出した。
シンジはついて行きたかったが、それはカヲルに断られた。
カヲルは昼には戻るということであり、シンジは午前中にシンクロテストの呼び出しが
かかったが、それも2時間ほどで終わったため、しばらくは手持ち無沙汰となった。
「ちょっといいかしら。」
シンジが自販機コーナーで一人でジュースを飲んでいると、マヤが声をかけてきた。
「あ、はい…。」
さっきのテストの結果で、何か気になることでもあったのだろうか。
そう思っていると、マヤはシンジの傍に腰を下ろした。
「最近、レイちゃんとあまり話をしていないようだけど、喧嘩でもしたの?」
「綾波と?」
意外な話題に、シンジは言葉を失った。
『あまりどころか、顔も合わせていない…。』
マヤはシンジに顔を寄せると、小声で聞いてきた。
「レイちゃんのこと、避けていない?」
「避けるだなんて…。綾波の方が、ぼくと顔を合わせようとしないんですよ。」
言いながら、シンジは思った。
『そういえば、カヲル君と出会ったあの日から、綾波はぼくの前に姿を見せない。
ぼくが綾波に、きついことを言ったから?
でも、それがなかったとしても、ぼくも綾波を避けようとしていたかも知れない。』
「いいえ、シンジ君はレイを避けているわ。心のどこかで。」
マヤは、きっぱりと言った。しかもレイちゃんではなく、レイと呼ぶ。
「…そうかも知れません。」
「彼女の出自を知ったから?」
再び小声で、マヤは言う。
「え…!!」
シンジは一瞬絶句し、
「知ってたんですか。」
「ええ。」
マヤは、意外なほどに明るく肯定した。
「シンジ君、レイのことが怖い?」
「…わかりません。」
言いながらシンジは、うそだ、と思った。
『本当は、綾波のことが、少し怖い。
カヲル君と出会ったあと、綾波が現れたときに、そう思ったんだ。』
「シンジ君がダミープラントで見たものと、今のレイと、同じだと思う?」
「…わかりません。」
「別のものよ。」
はっきりと、マヤは言う。
「綾波レイとしての、魂が入っているもの。
ダミーは、あくまでも、ダミー。
でも、人の心が入ったものは、間違いなく人よ。出自には関係なく。」
「そう、なんですか。」
「覚えてないの? レイちゃんが、身を挺してシンジ君を守ったことを。」
「………。」
覚えている。
前回の使徒戦で、自爆を選んだことを。
明らかに、シンジを守るためだった。
「今のレイちゃんは、あのときと同じよ。」
「でも、零号機を捨ててまで、ぼくを守ってくれたことを、『覚えていない』と
言ってました。」
「今では覚えているわ。記憶の引継ぎに時間がかかっただけ。
あなたを守ろうとしているのは、あのときも今も、同じ筈よ。」
「じゃあ、カヲル君に銃を向けたのも、ぼくを守ろうとしたから?」
「そうだと思うわ。」
「わからない…。カヲル君は絶対、悪い人には思えない。
でも、昔、カヲル君と綾波との間で何かがあって、今の綾波がそれを覚えているから、
カヲル君を敵視しているみたいだし…。」
「レイちゃんがそんなことを言ったの?」
「いえ、カヲル君が…。」
「それは変だわ。二人は面識がない筈よ。」
「カヲル君がうそを言っていると?」
「断言はできないけど…。
ともかく、今はまだ、結論を出す必要はないわ。
でも、せめて、レイちゃんには、人として接してあげて。」
「わかりました。綾波とはもう一度、話をしてみます。」
「ええ、お願いね。」
その、一時間ほど前_。
カヲルは、芦ノ湖畔に一人佇んでいた。
宙を見上げ、ときおり何事かつぶやいているのが見てとれた。
「…わかっていますよ。
そのために、ぼくは今、ここにいるわけですから。」
最後に、カヲルはそう言った。
ずっと、だれかと話をしていた様に見受けられた。
そのカヲルを、ミサトは第3新東京市を見下ろすパークエリアから、双眼鏡を使って
監視していた。
「だめだわ、ここからじゃ、唇の動きが見えない。」
双眼鏡を下ろして、ミサトはぼやく。
「それにしても、こんな朝っぱらから独り言を言うために散歩とは、危ない奴ね。」
カヲルを監視していた者は、他にもいた。
ミサトは知らなかったが、横手の小高い丘の上から、ミサトとは別の角度で、レイが
険しい表情でカオルの一挙一動を観察していた。
レイは両手をおろしたまま、そのこぶしをしっかりと握り締めていた。
やがて、つぶやく様に言った。
「彼らの、具象化された希望の実現…。そんなこと、させない…。」
そして唇を噛みしめ、さらに両のこぶしを固く握り締めた。
そんな二人を知ってか知らずか、カヲルは微笑んで言った。
「すべては、リリンの流れのままに。」
再び、ネルフの自販機コーナー。
シンジとマヤは、突然鳴り響いた警報に驚いた。
「これは?! いったい、どうしたんですか?」
「判らないわ。ともかく、発令所へ行きましょう。」
シンジとマヤが発令所に駆けつけると、ちょうどミサトが荒い息をつきながら、
日向に状況を尋ねているところだった。
彼女もたった今、発令所に到着した様だった。
「エヴァ弐号機が起動? そんなバカな!」
ミサトが叫ぶ様に言う。
「アスカは?」
「303病室です!」
青葉が応じる。
「確認済みです。」
モニタに、目を開いたまま呆けている病室のアスカが表示された。
アスカは、エヴァを動かせなくなったことと、加持の死を知ったショックが重なって、
放浪の末、人事不省となっているところを保護されてここに収容されている。
「じゃあ、一体だれが?」
さらに、日向が叫ぶ。
「セントラルドグマにA.T.フィールドの発生を確認!」
「弐号機?」
「いえ、パターン青! 間違いありません、使徒です!」
「何ですって!」
「映像、出ます。」
メインスクリーンに表示されたのは、ドグマを降下していく弐号機とカヲルの姿だった。
「使徒? あの少年が!」
「カヲル君!!」
シンジは叫ぶと、目の前の光景が信じられないというふうに、かぶりを振った。
シンジは、初号機での追撃を命じられた。
「うそだ!うそだ!うそだ! カヲル君が、使徒だったなんて、そんなのうそだ!」
「事実よ、受け止めなさい。 出撃、いいわね。」
「裏切ったな! 僕の気持ちを、よくも裏切ったな!」
怒りに身を震わせて、シンジはカヲルと弐号機を追った。
レイは今、本部施設の一角で、むき出しになったメインシャフトを見下ろしていた。
カヲルが弐号機を使って、ドグマを降下する際に隔壁を破壊したため、ところどころで
この様に、フロアとメインシャフトが繋がってしまっている箇所がある。
ここから飛び込めば、カヲルを追うことができる_。
ただし、そのためには生身の体でA.T.フィールドを展開し、落下速度を相殺する必要
があった。
A.T.フィールドは、物理的な力から我が身を守るものである。
「重力」にもそれは有効な筈であり、現にそれをカヲルはやってのけている。
レイには自信がなかったが、やるしかないと思った。
シンジが、カヲルを追っていったのは知っている。
初号機対弐号機であれば、シンジは十分戦えるであろうが、最後にはカヲルとの直接対決
となる。
繊細なシンジが、簡単にそれを全うできるとは思えなかった。
「碇君…。」
レイは目を閉じて、落下への恐怖心を抑えこんだ。
やるしかない_。
レイは目を見開き、底知れぬターミナルドグマをめざして、シャフトの中に飛び込んだ。
カヲルは、シンジの足止めに弐号機を利用した。
弐号機とシンジの初号機は、互角の戦いを繰り広げたが、最後にはシンジはその戦いを
制した。
ターミナルドグマのリリスを目前にして、シンジはカヲルに追いついた。
「違う…。これは、リリス…。」
そこにあるのがアダムであると思い込んでいたカヲルは、茫然としているところを
シンジの初号機に捕らえられていた。
「カヲル君、何故なんだ!」
荒い息をつきながら、シンジはたずねた。
「君も判っているだろう。ぼくが、使徒だからさ。」
「でも、その姿は!」
「君は聞いたことがないのかい、使徒は知恵をつけ始めていると。
アダムの元にたどりつくのに、最も適した姿が、ヒトの姿だったのさ。」
「ぼくを、騙していたんだね!」
「騙されたのは、お互い様さ。巧妙に波動を変えてあるけど、これはリリスだ。
ぼくたちが追い求めている、アダムじゃない。」
「何のことを言ってるんだ。」
「君が知らないこと、また知る必要もないことさ。
でも、たとえリリスであっても、サードインパクトを起こすことはできる。」
「そんなことは、させないわ。」
別の声が、ターミナルドグマのその空間に反響した。
カヲルは天井を見上げた。
カヲルと初号機を見下ろす、レイの姿がそこにあった。
シンジも、それに気づいた。
「綾波!」
「リリスが『人間』として選んだのが、群体としてのヒトよ。
リリスと契約を結べなかった単体生命のあなたたちは、この星で生きる資格がないわ。」
「何を言ってるんだ、君もぼくと同じだろう?
ぼくより先にその姿を手に入れていながら、どうして君は今まで行動を起こさな…。」
そこで、カヲルは何かに気づいた様に、目を見開いた。
「まさか…そんな、君が…。 リリス?いや、その化身か…。
そうか、そうだったのか。」
「カヲル君、一体、何を言ってるんだ。」
「ふふ、シンジ君。 やはり、生き残るべきなのは、君たちの様だ。」
カヲルは、レイから初号機に視線を戻して言った。
「リリスの子である、君たちヒトが、うらやましいよ。
そして、リリスの化身に選ばれた君が。
だけど、今ならぼくも、ヒトとして死ねる。」
「カヲル君、君が何を言ってるのか、判らないよ!」
「遺言だよ、さあ、ぼくを消してくれ。」
「だめだ、ぼくにはできないよ。」
「言ったろう。今なら君の手で、ヒトの姿のまま、死ぬことができる。
ぼくの、せめてもの願いだ。
君がやらないなら、綾波さんがぼくを滅ぼすだろう。
彼女に、そんなことをさせたいのかい。」
「碇君…。」
「綾波…。」
シンジはレイを見上げた。レイも、シンジを見つめている。
「…判った。」
シンジは目をかたくつぶり、インダクションレバーを力を込めて握った。
初号機の足元のLCLに何かが落下し、水しぶきが上がった。
「碇君…。ありがとう…。」
レイはそう言ったが、シンジは俯いたまま肩を震わせ、それには応えなかった。
その後、シンジはレイとともに、ターミナルドグマを後にした。
初号機は右手でワイヤーリフトを握り、左手の掌の上に横すわりしたレイを乗せた。
レイはその掌の上で、上昇時の風を身に受けて制服と髪をなびかせている。
二人とも、ずっと押し黙ったままだった。
リフトを握った初号機の右手からは、ときおり赤いものが滴り落ちていた。
使徒殲滅の報に、発令所では歓声が上がった。
だが、シンジは素直に喜ぶ気にはなれなかった。
「お疲れ様。」
帰還後、ミサトもねぎらいの言葉をかけてくれたが、シンジの表情は浮かなかった。
「どうしたの。」
「ミサトさん…。本当に生き残るべきなのは、ぼくたちでしょうか。」
「目的を達する前に、死を選んだのは彼なのでしょう?」
「ええ…。」
「生き残るのは、生きる意志を持った者だけよ。
彼は死を選んだ。
生きる意志を破棄して、見せかけだけの希望にすがったのよ。」
「………。」
ミサトは、いったん間を置き、やがて断定する様に言った。
「シンジ君は、悪くないわ。」
「……冷たいね、ミサトさん。」
その日、ネルフではフィフスチルドレンに関する履歴はすべて抹消され、第17使徒殲滅の
記録だけが残った。
本部内のカヲルの居室も、保全と分析のために閉鎖された。
シンジは、ミサトのマンションに戻る様、言い渡された。
だが、シンジはミサトのもとに戻る気には、どうしてもなれなかった。
その夜_。
ベッドで眠りにつこうとしていたレイは、施錠していない玄関のドアが開く音で目覚めた。
「だれ?」
起き上がり、不審に思って寝室から廊下に出る。
薄暗い玄関口に佇んでいるのは、疲労と孤独に憔悴しきったシンジだった。
「碇君…。」
「ごめん、綾波。 今夜、泊めてくれないかな。」
…もしも、願いひとつだけ、かなうなら、
君のそばで、眠らせて…
続く