レ イ の 決 意
 
- 碇君が、呼んでる・・・ -
 

「レイ! 機体を捨てて逃げてっ。」
葛城三佐が叫んでいる。

「だめ・・・。
わたしがいなくなったら、ATフィールドが消えてしまう。」
わたしは、なんとか立ち上がり、シートの方に向き直る。
シートカバーを外し、目的のものに、手をかけた。

「だから・・・だめ・・・。」
一気に押し込む。

ヒュイイイイイイイ・・・。
装置が正常に作動する音に安堵して、わたしはシートに倒れこむ。

「・・・レイ、死ぬ気・・・?」
葛城三佐の声。

「綾波、綾波!
  何をしているんだ、どうして逃げないんだ!」
これは、碇君の声。

シートに、もたれかかる様にして、わたしは座り直した。
「ありが、とう。みんな・・・。」

一瞬、起動実験の事故のときにわたしを助けてくれた、碇司令の顔が浮かぶ。
わたしの無事を確認して、微笑んだときの顔だ。
それが、ヤシマ作戦のときに涙を浮かべて微笑んでいた碇君の顔に変わる。

「ごめんなさい、こんなとき、どういう顔をすればいいかわからないの。」
そう尋ねたわたしに、
「笑えば、いいと思うよ。」
そう応えた碇君の顔だ。

涙が、また流れた。

「碇君!!」

わたしは、思わず叫び、右手を伸ばして立ち上がる。
零号機も、同じ様に立ち上がり、虚空に手を伸ばしている。
それが光に包まれ、一瞬の間、わたしの姿かたちになる。

「・・・コアが、潰れます! 臨界点突破!!」
それが、わたしが耳にした、最後の言葉だった__。




「ミサトさん。出ないんだ、涙が。」
シンジは、つぶやく様に言った。
レイが、使徒を道連れに自爆した翌日のことだった。

シンジは、自室のベッドの上に、呆然と座り込んでいる。
傍らにはイヤホンが外されたS−DATが、聞く者もない曲をむなしく流し続けている。

ミサトが、部屋にこもったまま出てこないシンジを心配し、慰めの言葉をかけようと
シンジの部屋を訪れたときの、シンジの第一声がそれだった。

「ヤシマ作戦のとき、綾波が無事だとわかったときは、涙が止まらなかったのに。
 綾波が本当にいなくなったのに、悲しいはずなのに、どうして涙が出ないんだろう。」

シンジは、レイの自爆を目の当たりにしながら、未だにその事実を受け入れられないでいた。
その亡骸を、見たわけではないからかも知れない。

『おはよう。』
あの、抑揚のない声で、当たり前の様に学校の教室に現れるような気がしていた。

レイは無事よ、シンジはミサトから、その一言を聞きたかったのかも知れない。
だが、ミサトはシンジの手に自分の手を重ね、別の言葉を言った。

「シンジ君・・・。今の私にしてあげられることは、このくらいしか・・・。」

「やめてよ!」
その手をはねのけて、シンジは叫ぶ。
ミサトに向けられたシンジの背中が、拒絶を物語っていた。

「やめてよ、ミサトさん。」
「・・・ごめんなさい。」




目が覚めると、そこは病室だった。
白い蛍光灯の光が、まぶしかった。
片手で、それを遮ろうとする。

「生きてる・・・。」
わたしは、声に出してつぶやいた。

でも、なにかが違う。
第14使徒にN2爆弾を抱えて特攻したときも、病室でわたしは意識を取り戻した。
だけど、あのときとは、決定的になにかが違う。

まず、記憶が断片的に欠けている。

第16使徒に侵食されて、何かを守ろうとして、エヴァとともに自爆という手段を選んだ。
そこまでは、覚えている。

だが、何を守ろうとしたのか・・・それが思い出せない。
なにか、懐かしいものが記憶の片隅にあるのだが、それが何なのか、わからない。

そして、エヴァともども自爆したのなら、わたしが病室にいるからには、
なんらかの傷を、体に負っていなければおかしい。

それを裏付けるもの・・・『痛み』が、なかった。

この違和感は、どこからくるのだろう。
わたしは、記憶を探った。

まず、わたしが守ろうとしたもの、懐かしさを感じさせるもの、
それをもう一度思い出そうとした。
・・・やはり、だめだった。
なんだか、それは人のような気がする。
わたしに対して、微笑んでいるような気がする。
でも、そこから先は、逆光の人影のように、おぼろげな輪郭しか見えなかった。

わたしはあきらめて、わたし自身のことを考えることにした。
綾波レイ、十四歳。
エヴァンゲリオン零号機・・・プロトタイプの、パイロット。
そこまでは、思い出せた。

任務は・・・『使徒』の殲滅。
第5使徒以後の、いくつかの使途の殲滅に、関わった。

だが、殲滅してきた筈の、大半の使徒が、思い出せない。
わたしとともに、使途と戦ってきた人たちもいたはずだが、それも思い出せない。

忘れてしまうほどの、ショックを受けたのだろうか。
思い出したくないような、つらいことでもあったのだろうか。
・・・そうではないようだ。
なにも、不安に感じるようなことはない。
だとすると、この記憶の欠如はなぜなんだろう。

焦ることはない、ゆっくり思い出せばいい。
わたしは自分にそういい聞かせ、少し眠ることにした。


__夢を見ていた。

「レイ! 機体を捨てて逃げてっ。」
叫んでいる人がいる。
この人のこと、思い出した。
そう、葛城三佐。たしか、作戦部長だった。

『痛いでしょう。ほら、心が痛いでしょう。』
第16使徒がまた、なにか言っている。

「痛い・・・いえ、淋しいのね。」
『淋しい? わからないわ。』
「ひとりでいるのが嫌なんでしょう、それを淋しいというの。」
『それは、あなたの心よ。』

使徒との会話が、思い出される。

淋しい・・・そうか、わたしは淋しいのか。
そう、このとき初めて、わたしは泣いたのだった。


目が、さめた。
ベッドの上で、起き上がる。

包帯の巻かれた腕にそっと触ってみた。
予想どおり、痛みはない。

やはり、そうなのね・・・。

記憶をいくぶん取り戻したと同時に、わたしは悟っていた。
先刻感じた、違和感の理由を。
この記憶は、わたし自身のものではないということを。

・・・おそらく、わたしは、『3人目』なのだろう。

移植された記憶なのだ。
だから、定着までに時間がかかる。
いずれは、全てを思い出すことになるのだろう。

そして今、わたしは知った。
二人目の綾波レイが、死んだことを。




早朝の、ミサトのマンション__。

「なんですって!?」
電話を受けたミサトが、驚愕で立ち上がりかけた。

「シンジ君!!」
ミサトは、まだ寝ているシンジの部屋に向かって叫んだ。

「レイが、生きていたそうよ!!」




「綾波!」
わたしが病院の廊下に立って外を眺めていると、不意に大声で呼ばれた。

見ると、わたしと同年齢くらいの少年が、息を切らせて駆け寄ってくるところだった。

「よかった、綾波が無事で。」
ややあって、少し息を整えた少年が言う。

このひとは、誰だろう。
わたしは、記憶の中を探った。
わからない・・・でも、なにかひどく懐かしい気がする。

「ありがとう、助けてくれて。」
少年が、言う。

「何が?」

「何がって・・・零号機を捨ててまで、助けてくれたんじゃないか、綾波が。」
「そう、あなたを助けたの。」

「うん、憶えてないの?」
「いえ、知らないの。
 たぶん、わたしは、3人目だと思うから。」

わたしがそう答えると、その少年は怪訝そうな顔をしていた。




わたしは、その日のうちに退院を命ぜられた。
集合団地の、自分の部屋に戻った。

鏡の前に立ち、腕や顔に巻かれた包帯を外してみる。
やはり、どこもケガなどしていないようだ。

『なぜ・・・?』
答えは、わかっていた。

第16使徒の殲滅と引替えに、命を捨てた『2人目』になりかわって、
今日からわたしが綾波レイとなるのだ。


明日からは、ネルフ本部に出頭して、いくつかのテストを再開させなければならない。
伊吹二尉という人から、そう聞いていた。
記憶の、かなりの部分が戻りつつある。
明朝には、綾波レイとしての、最低限のことは思い出していることだろう。

ふと、チェストの上に置かれた眼鏡に気付いた。
碇司令が『2人目』を、零号機の暴走で射出されたエントリープラグから救い出したとき、こわれたものを彼女が貰い受けたのだった。

言ってみればこれは、綾波レイにとっての、碇司令との絆の象徴だった。

だが、わたしは知っている。
碇司令は、一度としてこの部屋を、訪れたことがないことを。
本当には、愛されていないことを。

今、わたしのことを本当に気にかけてくれるのは、ただ一人。
それは、碇君・・・彼の息子だった。

そう、わたしは思い出した。
病院にただ一人、わたしを見舞いに来てくれた、あの少年__。
彼が、碇君だ。

わたしが自爆してまで守ろうとしたのは、彼だったのだ。

碇君はわたしに、紅茶を入れてくれたこともある。
部屋を、掃除してくれたこともある。

恥ずかしかったけれども、感謝の言葉を初めて言ったのは、碇君に対してだった。

わたしは、チェストの上の眼鏡を手にとった。
今のわたしには、もう必要のないものだ。

手に力を込め、それを握りつぶそうとした。
きししっ と、眼鏡がたわんだ。

・・・できなかった。
涙が、ぽたぽたと手にした眼鏡にふりかかる。

「どうして?」
わたしは、とまどっていた。




再び、ミサトのマンション__。
夕暮れ時である。

シンジは、自室のベッドの上で仰向けになり、天井を見上げていた。
今朝のレイとの会話を思い出し、戸惑っていた。

『よかった、綾波が無事で。』
心からそう思い、口にした言葉にレイは返事をしなかった。

最近の彼女であれば、
『そう、ありがとう。』
そのくらいのことは、言ったはずだ。

ヤシマ作戦後のレイは、口数こそ少ないものの、シンジが語りかけると、
それなりに受け答えはするようになっていた。
最近では、ときには頬を染めるようなしぐさも見せるようになった。

それが、今朝のレイの態度は、あまりによそよそしかった。

・・・まるで、初めて会った頃の、綾波のようだ。
シンジは、そう思った。

『たぶん、わたしは、3人目だと思うから。』
その言葉も、妙にひっかかった。

綾波が3人目?
どういうことだろう。
だって、3人目はぼくじゃないか。
綾波は、ファーストチルドレンなのに、どうしてそういうことを言うんだろう。

シンジは、わけがわからなくなった。

そのとき、シンジの携帯電話が鳴った。

「はい、もしもし。」

「そのまま聞いて。
 あなたのガードを解いたわ。今なら外に出られるわよ。」
「リツコさん?」

赤木リツコからの、呼び出しであった。




シンジは、ミサトとともに、薄暗いダミープラントにいた。
そこに二人を招いたのは、リツコである。

「真実を見せてあげるわ。」

リツコはそう言うと、手にしたPDAを操作した。
四方の壁に、明かりが灯る。

そしてそこに現われた水槽と、オレンジ色の光に照らされた沢山の人影。

「綾波、レイ?」
シンジの声に反応して、少女たちは一斉にシンジの方を向いた。

「うわっ」
シンジは思わず、一歩あとずさる。

「まさか、エヴァのダミープラグは・・・!」

ミサトの問いかけに、リツコはうなづく。
「そう、ダミーシステムのコアとなる部分。その生産工場よ。」

「これが・・・?」
「ここにあるのはダミー。そしてレイのためのただのパーツにすぎないわ。」
そして、リツコはミサトに、エヴァとダミーシステムについての説明を始めた。

しかし、シンジは聞いていなかった。
聞いてなど、いられなかった。
目の前の現実が、ショックだった。

「だから、こわすの。憎いから。」
そのリツコの言葉だけが、耳に残った。

その直後、水槽の中の液体が、赤く変色した。
崩れ落ちていく、レイの素体たち。

無に還ることを喜ぶかのような、レイたちの笑い声がひびく。

シンジは、頭を抱えて蹲った。
絶叫しそうになるのを、懸命にこらえていた。




翌朝__。

シンジは、ミサトに起こされた。

さすがに、夕べは寝付けなかった。
シンジに向かって一斉に振り向くレイたちの姿と、笑いながら崩れていく様が、
脳裏から離れなかった。

ようやく、眠れたのは明け方になってからだった。
眠ったと思ったら、ミサトにゆり動かされた。

「昨日の今日で、悪いんだけど・・・。」
ミサトは言った。
「11時から、第1回のシンクロテストがあるの。行ける?」

「ええ。」
シンジは、起き上がりながら答えた。

「アスカは?」
「今日も、洞木さんのところにお泊りよ。まだ、帰ってきていないわ。
 午前中のシンクロテストは、シンジ君だけよ。」

「ぼくだけ?」
「どのみち、アスカはもう、テストすることはないだろうし、
 二、三日中には後任のフィフスチルドレンが来ることになっているわ。」

「そう・・・なんだ。」
アスカはどうなるんだろう、とシンジはぼんやりと考えた。

「午後からは・・・。」 
ミサトが、続ける。
「レイのテストを、行うことになっているわ。」

「綾波の?
 二人、いっしょじゃないんですね。」

「ええ・・・。
 あんなことがあったから、リツコは懲罰房に入ることになったわ。
 当分、戻ってこれないでしょう。 
 今後のテストは、伊吹二尉が中心になって行うことになっているの。
 技術3課から応援が来るまでは、人手が足りないから一人ずつのテストになるわ。」

「わかりました。」
シンジは、ほっとしていた。

『綾波には、会えない。会う勇気がない。
 テストが別々ということは、会わずに済むかも知れない。』
そう思っていた。

「それから、わかっているとは思うけれど・・・。昨日の件は、他言無用よ。」
「わかってますよ。」
シンジはそう言うと、微笑んでみせた。

この子、暗い目をしてるわね。・・・無理もないけど。
ミサトはシンジに対してうなずきながら、そう思った。




ネルフ本部に少し早めに着いたわたしは、赤木博士の姿を探した。
だが、見つからなかった。

午後からのシンクロテストを受ける前に、赤木博士に注射をうってもらう筈だった。
これは、『2人目』のときから欠かさずに続けていることであり、
3人目となった今も、必要なことだった。
そうしないと、わたしはその肉体を維持できない、そう聞いていた。

赤木博士の居所を、たまたま廊下で出会った青葉二尉に尋ねると、
彼は困ったような顔をしていたが、
「いずれ、正式な通知があるとは思うけど、どうやら懲罰房にいるらしい。」
と、教えてくれた。

何かはわからないが、重大な背任行為があったらしいとも。

「出てこられるのは、いつ頃でしょうか。」
わたしが尋ねると、

「さあ、背任行為というからには、相当先になるんじゃないかな。」

それは困る、と思った。
週に一度は注射を受けないとわたしは、わたしの体を維持できなくなる。
そのことを知っているのは、赤木博士と碇司令だけ。
そして、実際に注射する薬剤のことを知っているのは、赤木博士だけだった。

わたしの様子をみて、青葉二尉は言った。

「なにか困ったことがあるのなら、伊吹二尉に相談してみたらどうだい。
 あと一時間くらいで、シンジ君のテストも終わるだろうから。」
「ええ、そうします。」

青葉二尉とはそこで別れ、わたしはダミープラントに向かった。

伊吹二尉も、薬剤のことは知らないだろう。
いつも赤木博士は、わたしに注射をうつときは、ダミープラントの隣の処置室を
使っていたので、薬剤もその近くにあるのではないかと思った。

碇司令に頼んでも、赤木博士の釈放は望みが薄いことは、わかっていた。
いざというときに備えて、わたしは薬剤の所在だけでも確認しておこうと思ったのだ。




セントラルドグマを降り、ダミープラントに近づいたとき、異変に気付いた。
いつもは厳重に施錠されている、ダミープラントの入り口が少し開いている。
まるで、もうそこには利用価値がないかのように。

なにか、あったのだろうか
わたしは、扉を開けて中に入ってみた。

あきらかに、いつもと様子が違う。
わたしは、照明のスイッチを入れてみて、慄然とした。

ダミープラントの素体が、ことごとく破壊されていた!
わたしと同じ、綾波レイの入れ物が、ばらばらに分解されていた。

もうこれでは、『わたしが死んだときのかわり』はいない。
彼女たちにも、綾波レイになるチャンスはあったはずなのに。

「ひどい・・・。」
わたしは声に出してそうつぶやいた。

誰がこんなことをしたかは、はっきりしている。
碇司令でないことは確かだし、そうなるとあと一人しかいない。

赤木博士だ。
彼女が、『綾波レイ』の抹殺を謀ったのだ。
素体はもちろんのこと、わたし自身もその対象のようだ。
投獄は、覚悟の上での行為であったのだろうから。
そしてそれは、わたしの肉体を維持管理する者がいなくなるということだった。

一応、処置室まわりを探してみたが、わたしが探しにきた薬剤は見つからなかった。
わたしは、絶望を感じたまま、帰り道のリフトに乗った。




わたしのテストの時間が近づいている。
このまま、テストを受けにいくしかないだろう。

それが済んでから、わたしは碇司令に、わたしのこと、わたしの肉体の維持について、
どうするつもりなのか尋ねに行こうと思った。

『なぜ、そうするの? 聞いてどうするの。』
わたしの内なる声が、わたし自身に問いかけてくる。

怖いの・・・。それが、わたしの答えだった。

『怖い? あなたは、無に還ることを望んでいたのでは、なかったの。』

無に還ることが、怖いわけではない。
このまま、確かめるすべもないまま、消えていきたくないだけ。

『確かめる? 何を。』

2人目の、綾波レイの気持ち。そしてたぶん、わたしの気持ち。それに・・・。

『それに?』

2人目が身を挺して守った碇君の、わたし「綾波レイ」に対する気持ちを。

『知りたいのね。』

そう、知りたい。
彼が、どう思っているかを。
わたしが、消えてしまうまでに、そのことを知っておきたい。

『先にそれを確かめればいいのではないかしら、本人に直接に。』

そう・・・そうよね。
わたしはまず、碇君に会おうと思った。




わたしは今、プラグスーツに着替えて碇君を待っている。
起動実験室の外の、ひとけのない廊下の長椅子に、一人で座っている。

碇君のシンクロテストは、もう少しかかるということだった。
何があったのか、テストの結果は芳しくないらしい。

碇君を待ちながら、わたしは赤木博士がどうしてあんなことをしたのか考えていた。

赤木博士が、わたしのことを憎んでいるのは、前から薄々感じていた。
嫌っているのでは、ない。
ときには、実の娘か妹のように、可愛がってくれることもあったのだ。

ただ、碇司令のことが絡んでくると、彼女ははっきりとわたしに憎悪の目を向けた。
碇司令がわたしに笑顔をみせると、そのあとで決まって赤木博士の態度は冷たくなった。

そればかりか、激情にかられた彼女に、首を絞められたこともあった。
そのときは、すぐに彼女は我にかえって、わたしは解放されたのだけれども。

今回のことも、おそらく碇司令のことが関係しているのだろう。
司令と赤木博士の間に、何があったのかはわからない。
だが、なにか決定的なことがあったのだろうと、わたしは思った。


わたしは、顔を上げた。
起動実験室のドアが開き、碇君が出てきたのだ。




シンジは、起動実験室を出たところで、そこにレイがいるのを見た。

「碇君・・・。」
レイが長椅子から立ち上がり、自分の方に近づいてくる。

「あ、綾波・・・。」
シンジは、思わず立ち止まる。
どうしようかと、思った。

「碇君?」
なにかを尋ねようとしたレイは、シンジの表情がこわばるのを見た。

「なにか、用?」
シンジはレイから目をそらして言った。
昨日のダミープラントのことが、思い出された。
レイを、まともに見ることができなかった。

「どうしたの、碇君。」
病院で会ったときとはちがって、レイのその声には、よそよそしさがない。
いつもの、綾波レイの声だった。

だが・・・シンジは、知ってしまっていた。
そのレイも、もとはダミーシステムのためのパーツのひとつであったことを。

『この綾波も、スイッチひとつで、簡単に崩れ去るかも知れない。』
そう思って、シンジは戦慄する。

「な、なんでもないよ。」
そういうシンジの声は、わずかに震えていた。

わたしを、怖がっている? なぜ・・・?
そう思ったレイは、ひとつの結論に到達する。

「・・・見たの?」
真剣なその声に、シンジは思わずレイを見てしまった。

レイは、悲しげな眼差しでシンジを見上げていた。
その消え入りそうな表情に、シンジは否定も肯定もできなかった。

「ご、ごめん。」
そういい残すと、シンジは駆け出していた。
後を振り返ることもなく、逃げるように走り去っていった。

「碇君・・・。」
あとには、茫然と佇むレイが、ひとり取り残されていた。




『碇君に、見られてしまった・・・。』
わたし自身の素体と、おそらくはそれが破壊されるところを。
赤木博士は、それを碇君に見せることで、司令に対して何らかの復讐をしようとしたのではないだろうか。

『碇君に、見られてしまった・・・。』
その思いが、わたしに重くのしかかる。
案の定、シンクロテストは最初のうち、惨憺たる結果だった。

「レイちゃん、どうしたの。
 いつものとおり、余計なことは考えないで。」

「・・・はい。」
伊吹二尉の言葉に、わたしは素直に応じようと思った。

『何を、気にしているの。
 何を、期待していたの。
 あなたは、綾波レイとしての、役目を果たせばよかったはずよ。
 そう、役目を果たせば解放される。
 そのときのために、あなたは存在していたのではなかったの。』

気持ちを、切り替えようとした。
あらゆる感情を、切り捨てることにした。
それは、わたし自身をいつわることであったかも知れない。
それでも、シンクロ率はいくらかは上向くことにはなった。

データが取れる程度までには回復し、しばらくテストは続けられた。
だがやはり、いつもどおりというわけにはいかなかったようだ。

「はい、あがっていいわよ。レイちゃん。」
少し早めにテストを切り上げて、伊吹二尉がそう言った。

「でも、今日は調子が悪かったようね。
 疲れているようだから、帰ったらゆっくり休みなさい。」

「・・・はい。」
つとめて無表情のまま、わたしは答えた。




起動実験室を出て、ロッカールームに行く途中でレイはミサトに出会った。

「あら、レイ・・・。」
ミサトは、驚いて立ち止まってしまう。
目をみはり、その口元がぴくりと動いた。

昨日、ミサトもシンジと同じものを見ている。
さすがに年の功なのか、シンジとは違い、平静を装ってはいるが、
ミサトはレイと目を合わせることはできなかった。

その横を、かすかに会釈しながらレイが、表情を消したまま通り過ぎる。

「あ、あの、レイ。」
ミサトは、思わず声をかけてしまった。

レイは立ち止まる。
「・・・なんでしょうか。」

振り向かれたらどうしよう、ミサトはそう思った。
振り向かれたら、目を合わすしかない。
そのとき、自分はどんな顔ができるだろう。
が、レイはミサトに背を向けたままだった。

「シンジ君に、会わなかった? 何処に行ったか知らない。」

レイは、ゆっくりとかぶりを振った。

「シンクロテストの前に、廊下で会いましたが、急いで何処かに行ってしまいました。
 何処へ行ったのかは、わかりません。」
そう言う間中、レイはミサトに背中を向けていた。

「そう・・・。ありがとう。」
「いいえ。」

レイは、再び歩き始めた。
一度として、ミサトの方を振り返ることはなかった。




レイは制服に着替えると、集合団地の自分の部屋に戻っていた。

昨日と同じように、鏡の前に立っていた。
無表情な、自分の顔が映っている。

不意に、その唇の端が、震えた。
一筋の涙が、頬を伝った。

「うぅ・・・。」
鏡に映った顔を見ながら、レイは小さく呻いた。
涙が、さらにあふれ出した。

その場に、レイは膝をついた。
「うぅっ・・・。うぅぅぅぅ・・・。」
ぽたぽたと、床に落ちるものがある。

レイは初めて、声をあげて泣いていた。




ひとしきり泣くと、わたしは立ちあがった。

チェストの上の、碇司令の眼鏡を手にとった。
唇をかみしめ、眼鏡を握った両手に力を込める。

ぱきっ。
乾いた音がして、それはわたしの手から床に落ちた。

窓の外の空を見上げると、もう日が暮れようとしていた。

「碇君・・・。」
わたしは、声に出してそうつぶやいた。
もう、泣くまいと思った。

碇君の心が、わたしから離れていく・・・。
でも、それは仕方がないことかも知れない。
碇君は、知ってしまったのだもの、わたしの秘密を。

わたしには、わかっていたような気がする。
いつかは、この日がくることを。

わたしは、碇君のことを、恨んだりしない。
いえ、むしろ感謝している。
碇君は、わたしに『心』をくれたもの。

いつか、もし、碇君がわたしを必要とすることがあれば、
わたしは、それにせいいっぱい応えようと思う。

それまで、わたしは碇君を追い求めることはやめよう。
近づいてもいけない。
碇君を、苦しめるだけだもの。

もし、碇君がわたしを必要とすることがなければ、
そのときは、わたしは碇君の思い出だけを抱いて、朽ちていくことにしよう。


     ・
     ・
     ・
     ・
     ・

「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

碇君の、絶叫が聞こえる。
碇君が助けを求めている・・・わたしは、そう感じた。
わたしを、必要としてくれている。

そのときが、来たのだ。

「頼む、待ってくれ、レイ!」
碇司令が、縋るように叫んでいる。
補完計画の最終局面で、わたしが拒絶したからだった。

だが、わたしの応えはもう、決まっていた。

「だめ。碇君が、呼んでる・・・。」