伊丹空港の施設内のとある喫茶店で、碇ユイはコーヒーを片手に本を読んでいた。
本といっても、文庫本のたぐいではない。
分厚い。
医学書か、宗教書の類(たぐい)に見える。
出発時刻までは、まだかなり時間があるが、さすがにその手の本を待合ロビーで開く気にもならず、人目のつかない喫茶店の片隅で目を通していたのだった。
「ここ、よろしいですか。」
不意に、声をかけられた。
見上げると、長身の男が向かいの席の背もたれに手をかけて立っていた。
「ええ、どうぞ。」
さして気にするでもなく、ユイはそう言うと、再び本に目を移す。
「随分と、難しそうな本を読んでおられるのですね。」
男が話し掛けてきた。
男は向かいの席に座り、テーブルに肘をついて顔の前で両手を組んだまま、ユイを見ていた。
年齢は、三十歳は超えているだろう。
男は微笑んではいるが、他人を安心させる様な人懐っこい笑みではない。
なにかしら、下心が見える。
店内には他にも空席があるし、何かが目的でユイに接触してきたものと思われる。
少し煩わしいな、と思いながらユイは本を閉じ、
「ただの暇つぶしですわ。」
と応えた。
ナンパするなら、もっと気の利いた言い方があるだろうに。
そう思っていたところへ、
「『死海文書』の写しですか、とても暇つぶしで読めるものではないですね。」
「あの、すみません。どちら様ですか。」
「これは、失礼。実は、わたし、こういうものでして。」
男が差し出した名刺には、フリーのジャーナリストの肩書きと、
『六分儀ゲンドウ』の名前が書かれていた。
ウェイトレスが注文を取りにきたので、ゲンドウは
「わたしもコーヒーを。」と言う。
「一介の大学生に、ジャーナリストの方が何のご用かしら。」
「大学生・・・確かにそうかも知れませんが、それだけではないでしょう。」
「何をおっしゃりたいのか、よくわかりませんが。」
「失礼なことを申し上げたなら、謝ります。
ですが、この空港であなたのことを、よくお見かけしているのですよ。
月に2度は、ドイツにお出かけですね。」
「それが、何か。」
「行き先は、ゲヒルンの西ドイツ支部。違いますか。」
ユイは、警戒するどころか、むしろあきれあた。
よくそこまで、調べあげたものであると。
「よく、ご存知ですね。
そこまでご存知なら、私がなにをしているのかも、知っているのでしょう。
ノストラダムスのブームが去った今、私たちのことを取材したところで、
何の得にもなりませんよ。」
「【裁きの日】の到来のことですか?
記事が書きたくて、あなたに近づいたのではないのです。
あなたたち、ゼーレの主旨に賛同するものの一人として、
仕事がら、私の人脈がお役に立てるのではないかと思いましてね。」
ユイは息を呑んだ。
まさか、ゼーレのことまで知っているとは思わなかった。
それは、歴史のウラを知るもののみぞ知る・・・トップシークレットであったのだ。
ちなみに、【裁きの日】とは、のちの世でいう、セカンドインパクトのことである。
ゼーレは、世紀末の大いなる災厄を予見していた。
ただし、世の人々はノストラダムスの予言と混同しており、その年の9月になっても何も起きないため、今や完全に忘れ去られようとしていた。
人々の関心は、今や西暦2000年問題に移っていたのだ。
「失礼。その名は軽々しく口にするものではないものでしたね。
今日のところは、挨拶だけとしましょう。
皆様に、六分儀という男が会いたがっていたとだけ、お伝え下さい。
いずれまた、こちらから連絡します。」
ゲンドウはそう言うと立ちあがり、テーブルの上のユイの伝票を掴んだ。
「あの・・・。」
何か言いかけるユイに背を向け、ちょうどコーヒーを運んできたウェイトレスのトレイから自分の伝票を受け取ると、そのままレジに向かい、行ってしまった。
それは、1999年9月13日のこと。
あの、セカンドインパクトのちょうど1年前のことであった。
「その、六分儀とかいう男、信用できると思うかね。」
ゼーレのメンバーの一人が、おもむろに口を開いた。
委員会の定例会議の席上である。
ユイの報告を受け、彼らはゲンドウのことを少し調べたようだった。
別の男がそれに応える。
「いかがわしい噂が絶えない男だと聞くが。」
「長谷川薬品の廃液垂れ流しの事件でも、ジャーナリストの立場を利用して、
随分とあこぎなゆすりをしていたらしいな。」
「だが、ウラの人脈に有望な人材を抱えているのは、確かなようだ。」
「赤木博士のことか。」
「さよう、生体コンピュータの第一人者だったな。
我らが手にいれたい人材の一人だよ。」
「どうする?」
「取り合えず、コンタクトをとろう。切るときは、いつでも切れる。」
「・・・わかった、碇ユイには私からその様に伝えよう。」
その日、ユイはキール・ローレンツから連絡を受けた。
次にゲンドウから連絡があったとき、『ゼーレとしては会う用意がある』と伝えるようにと。
その少女は、図書館からの帰宅途中で、ノートを買い忘れたことに気付いた。
あたりは、もう暗くなっており、文房具店も閉まっている。
「困ったな、どうしよう。」
こんなことなら、中学校を出て図書館に行く前に、買っておくべきだったと思った。
ついつい読書に夢中で、日が暮れたのにも気付かなかったのだ。
通りの向かい側にある、コンビニの明かりにふと、気付いた。
「よかった・・・。コンビニなら、ノートくらい売ってるわよね。」
道路を渡って、コンビニに入る。
ノートを買って、店を出ようとしたところで少女は動けなくなった。
コンビニの前には、高校生くらいの少年たちが4人、車座に座って飲み食いをしていた。
見るからに、ワルそうな連中である。
少女が帰路につくには、その中を突っ切って行かなければならない。
少女は、思い切って声をかけた。
「あの、すみません。」
「あン?」
一人が、上目づかいに彼女を見た。
「その、通してもらえません?」
「通りたいのか。」
「ええ・・・。」
「通りたければ、通行料を払うんだな。」
別の少年が、にやにや笑いながら言った。
「そんな・・・。」
少女は途方に暮れた。
ユイが、たまたまそこに通りかかった。
「困ります、家に帰りたいのです。 そこを、通してください。」
その声のする方を見ると、中学生くらいの少女がコンビニの前で、
4人の少年たちに絡まれている。
「なにをしているの、あなたたち!」
背後から叫ぶと、少年たちが振り向いた。
「なんだ、おまえは。」
「関係ないだろ、あっちへ行ってろ。」
相手がユイ一人だとわかると、少年たちはなめてかかってきた。
「ねえ、あなた。」
ユイは、コンビニの前にいる少女に声をかけた。
「はい・・・。」
「お店の人は、気付いていないようだから、
いったんお店に戻って、警察を呼んでもらいなさい。」
「はい!」
どうしてそれに気付かなかったのだろう。
そう思い、少女は店の中に駆け込んだ。
「ちっ。 おい、行くぞ。」
少年たちは、ユイを睨みつけるようにして、その場を去っていった。
ユイは、コンビニに入ると、店員に事情を話している少女に、
「もう、大丈夫よ。彼らはいなくいなったわ。」
と告げた。
「ありがとうございました。おかげで、助かりました。」
「いいえ、たいしたことはしていないわ。」
「あの、私、赤木リツコといいます。お名前を教えてください。」
「名乗るほどの者ではないけど・・・碇ユイよ。」
リツコは、ユイに何度も礼を言うと去っていった。
「さてと、遅くなったわね。私も帰って、夕飯を作らなきゃ。」
ユイは、そうつぶやくと帰路についた。
コンビニを出て、しばらく行くと、大きな屋敷がある。
ユイは、そこの角を右に曲がった。
そこから先は、同じような大きな屋敷が道の両側に並んでいる。
比較的裕福な人々が、この一角で暮らしているようである。
だから、どの家も、大きい。
大きいから、高い塀がある。
道路に面して明かりのついた窓があるような家は、ほとんどなかった。
そして、街灯で道は明るく照らされてはいるが、人通りはなく、淋しい道であった。
ユイは、油断していた。
まだ、夜も更けてはいないとはいえ、女性が一人歩きするには用心すべきであった。
「おい!」
不意に、背後から声をかけられた。
振り向くと、先程コンビニの前でたむろしていた連中であった。
四人のうち、二人が素早くユイの前に廻り込んで、ユイをとり囲む形になった。
「なんですか、あなたたちは!」
「さっきは、よくもなめた真似をしてくれたな。」
仲間内のリーダーと思われる、がっしりした体格の少年が笑みを浮かべて言った。
ユイは、走ってその場を逃げようとしたが、
「おっと。」
別の少年に廻り込まれ、右腕を掴まれてしまった。
「なにをするんです、人を呼びますよ!」
掴まれた右腕を振りほどこうと、身じろぎしながら叫んだ。
「誰も、来やしないよ。」
リーダー格の少年が、にやにや笑いながら近づいてくる。
「ここいらの連中は、企業のお偉いさんか、医者ばっかりだ。
家の外のことなんか、気にもかけていないし、聞こえてもいないだろうよ。」
「このねえちゃん、けっこうイケてるぜ。」
右腕をつかんでいる少年が、ユイの横顔を見ながらそう言う。
「ほう、さっきは暗くてわからなかったが、これはなかなか・・・。」
街灯に照らされたユイの顔を見た、リーダー格の少年は、
もっとよく見ようと、ユイのあごに手をかけようとした。
なにするの!放しなさい!!」
ユイは、ありったけの大声をあげた。
「誰も来やしないって。」
リーダー格の少年が、自信たっぷりにそう言ったときだった。
「いいかげんにしろ・・・。」
不意に、路地裏から低い男の声がした。
屋敷の一つの塀にある、勝手口と思われる扉を後ろでに閉めて、長身の男が現われた。
「多勢で一人の女を苛めて、何がおもしろい。
みっともないとは、思わんか・・・。」
通りに出てきて、明らかになったその姿は、六分儀ゲンドウであった。
「な、なんだてめぇは!」
「六分儀さん・・・。」
ユイのつぶやきに、リーダー格の少年は、
「くっ・・・知り合いかよ!」
と、はき捨てる。
「失せろ。」
ゲンドウの一言に、少年たちは反感を覚え、隙をついて一斉に襲いかかろうと構える。
が、ゲンドウの一睨みでたちまち、その戦意は萎えた。
ゲンドウと少年たちでは、修羅場を体験してきた、場数が違うのである。
「ちぃ、憶えてろよ。」
少年たちは、ゲンドウとユイを睨みつけるようにしたまま、去っていった。
ゲンドウは、しばらく様子を伺っていたが、
「もう、大丈夫ですよ。」
静かな声で、ユイに告げた。
「六分儀さん、どうしてここに?」
「偶然ですよ。」
「・・・ゆすりですね。」
よくここを通るユイは知っていたが、ゲンドウが出てきた屋敷は、とある中堅企業の社長の家だった。
勝手口から出てきたということは、人目につく正面玄関から出入りできない用件、すなわち、何らかの裏取引をしてきたということであろう。
「人聞きの悪いことを。
・・・私がどういう人間かは、組織のほうから聞かされたということですか。」
「ごめんなさい。
助けていただいて、ありがとうございました。
でも、助けていただいた上で、こんなこと言うのはなんですが、
そのような生活は、やめた方がいいと思います。」
「よけいなことですよ。」
ゲンドウは、どうでもいいように言った。
「そうかも知れませんが、つまらないことで命を落としてほしくないのです。
あなたから、次に連絡があったときに、伝えろと言われているのですが、
彼らは、あなたに会う用意があるとのことです。」
「そうですか。それは、ありがたい。」
「でも、彼らはあなたの人脈を必要としているだけです。
もし、目的の人物と接触できた後で、あなたが彼らをゆすりでもしようものなら、
確実に命を落とすでしょう。」
「それは、ご親切に。
ですが、『私たち』ではなく、『彼ら』ですか。あなたは、彼らとは違うと?」
「同じ穴のムジナと言われるのなら、そうかも知れません。」
ユイは、そういうと俯いた。
「少なくとも最初は、私は彼らの理念に賛同していました。
・・・人類が増長を極めたとき、【裁きの日】が到来し、混乱の時代となる。
そのときには、人々を導く指導者が必要であると。
ですが今回の【裁きの日】が、彼らの理解を超える未曾有の災厄だとわかるにつれ、
彼らは人類の救済ではなく、自らの保身を優先するようになりました。
私は、そんな彼らが許せないのです。」
「・・・・・・・・・。」
ユイは、顔を上げた。
「お願いです。六分儀さん、私に力を貸してください!」
「力を貸して、どうするのです。」
「人類の救済と、ゼーレの野望を阻止したいのです。」
「・・・私は、汚れきった男だ。とてもあなたの力にはなれない。」
「お願いです!」
「あなたは、危険な目にあって、興奮しているだけだ。
その話は、もう少し冷静になってからにしよう。
ゼーレとの交渉のこともある。
明日にでも、ここに連絡を入れてくれるか。」
そう言って、ゲンドウはユイにメモを渡す。
携帯電話の番号が、そこには書かれていた。
今日のことは想定していなかったであろうが、
いつでも手渡せるように、予め準備されたものと思われる。
「六分儀さん・・・。」
ユイは、メモを握り締めた。
ゲンドウは、そんなユイに背を向けて、無言で歩み去っていった。
ゲンドウは一人、夜道を歩きながら、『自分らしくないな』と思っていた。
どうして、ユイを助ける様なマネをしたか・・・。
ゼーレと接触するために、まずユイに顔つなぎを頼んだ。
目的の半分は、もうそれで達している。
わざわざ危険を冒してまで、助けに行くことはなかった。
あの屋敷を出るときに、たまたまユイの叫び声が聞こえたのだが、
無視しておけばよかったのだ。
また、利用価値がまだあるということで、ユイを助けたのなら、
彼女の無事が確認できた時点でそこを去ればよかったのだ。
・・・ゲンドウは、ユイに惹かれていることを、まだこのときは気付かずにいた。
ユイは帰宅後、テーブルに頬杖をついて、
どうしてあんなことを言ってしまったのだろう、と思っていた。
ゲンドウに助けてもらったのは事実だが、彼がどういう人物なのかは、
はっきりわかっていない。
それなのに、ゼーレといずれ対決するようなことを明かし、助力を求めた。
しかも、具体的にどうしてほしい、などとは言っていない。
ただ、力を貸してほしい、と言っただけである。
これでは、ゲンドウでなくても了解しかねるであろう。
やはり、ゲンドウのいうように、どうかしていたのだろう。
危機を脱してほっとしたあまり、協力者がほしいという日頃の思いが、
つい、口をついて出たのだろうか。
・・・ユイは、ゲンドウの中に何かを見たことに、このときはまだ気付かないでいた。
「とりあえず、ゼーレとのパイプはできた。」
ゲンドウはそう言うと、ウィスキーグラスをあおってテーブルの上に置いた。
とあるマンションのリビングである。
前かがみになってソファに腰掛けているが、目の前のテーブルは低すぎて、
両肘をつくことができない。
仕方なく、肘は自分の膝にひっかけるようにして、両手をたらしている。
「世話をかけるわね。」
傍らのソファに、ガウンを着た、知的で妖艶な感じがする女が座った。
ゲンドウよりは、年上のようである。三十代後半くらいだろうか。
赤木ナオコである。
「あなたの会社の経営危機を招いた、責任があるからな。」
「うそばっかり。私を踏み台にして、また甘い汁を吸おうというつもりでしょう。」
「・・・・・・。」
ゲンドウは、それには答えず、もう一度ウィスキーグラスをあおると飲み干した。
ナオコが次のウィスキーを注ごうとするが、それを手で制する。
「でも、ゼーレは私を所望してくれるかしら。」
「のどから手が出るほど欲しい筈だ。
これから先に起きることの判断材料は、不確定要素が大きいものばかりだからな。
合議型の生体コンピュータでないと、分析・予測はできないだろう。
そして、それを開発できるのは、あなたくらいしかいまい。」
「長谷川薬品は、生体コンピュータなど夢物語だと、取り合ってくれなかったわ。」
「目先の利益しか、考えていないからだ。
だから、廃液のたれ流しを指摘されて企業生命を断たれるし、
あなたのような有能な人材からも逃げられることにもなる。」
「よく言うわ。お金の匂いを嗅ぎ取っては、企業を食い物にしている人が。
あら、言いすぎたかしら?」
「誉め言葉として、受け取っておこう。」
「あなたも、私と一緒に大学で研究を続けていれば、形而上生物学の、
それなりの権威になれたかも知れないのにね。」
「ふっ・・・。それは無理だな。
平和な世の中では、あなたのように電子工学の知識もないと、成功はおぼつかん。
それに、やはり私は学者にはむかんよ。」
「あなたは、昔から野心家だったものね。
研究室を飛び出していった日のことが、昨日のことのように思い出されるわ。」
「昔のことには、興味はない・・・。」
そういうと、ゲンドウは立ち上がった。
「あら、もう行くの。今夜は泊まっていってくれればいいのに。」
「娘が、帰ってきているのだろう。」
「リツコなら、部屋で勉強しているわ。気にすることはないわ。」
「彼女は、私をきらっているらしい。」
「あなたが、気にかけることではないわ。」
「そうかな。自分の子は、もう少し大切にした方がいい。」
そう言うと、ゲンドウは返事も待たずに去っていった。
二日後__。
ユイはゲンドウを、とある市立公園に呼び出していた。
前日のうちに、ゲンドウに連絡をとり、待ち合わせ場所を決めていたのだ。
その公園には大きな池があり、貸しボートが運営されていた。
ユイとゲンドウは、アベックを装って、貸しボートに乗ることとした。
誰にも聞かれないところで、極秘の話をするためである。
「明後日の午後1時、箱根の×××に来れるかしら。」
ゲンドウが、池の中央までボートを漕ぎだしたときに、ユイはぽつりと言った。
「ああ、問題ない。」
と、ゲンドウは返す。
二人とも、もはや敬語は使わない。
かけひきではなく、ホンネを含んだ交渉だからである。
「そのときに、引き合わせてほしい人がいるわ。」
「赤木ナオコか。」
「ええ。それが、あなたを受け入れる条件だそうよ。可能かしら。」
「そちらからは、だれが来る。」
「キール・ローレンツ議長よ。」
「なに!」
ゲンドウは、思わず叫んだ。
「しっ・・・。声が大きいわ。」
「あ、ああ。
しかし、驚いた。いきなり、ゼーレのトップと呼ばれる男が来るのか。」
「あなたに、興味がわいたようよ。
ここから先は、私の想像だけど、
ゼーレは、ゲヒルンの本部を、ドイツから日本に移す計画があるらしいわ。」
「ありうる話だな、それで?」
「そのときには、日本政府や国連と対等以上に交渉ができる人材が必要になるわ。」
「それで、この私か。
いつ、寝返るかも知れない男に、組織をまかせるというのか。
赤木博士を手土産にゼーレとの接触を許すにしても、そこまでゼーレもお目出度くはないだろう
。」
「あなたも、【あれ】を見れば、気がかわるでしょう。
少なくとも、ゼーレが本気であることが、わかる筈よ。」
「【あれ】とは、何だ?」
「箱根の地下にあるもの・・・ジオ・フロントと、リリスよ。」
「ジオ・フロント? リリス? 何だ、それは」
「人知を超えたものよ。
・・・今は、知らない方がいいわ。知ってしまえば、抜け出せなくなるもの。」
「君は、知っているんだな。
なのにどうして、ゼーレと訣別するようなことを言った。」
「ゼーレの全てを否定しているわけではないの。
人類が生き残るためには、彼らがやろうとしていることは、必要なことだもの。
ただ、目的は間違っている・・・それだけよ。」
「・・・・・・・・・。」
「お願い、力を貸して。」
「何故、私にそれを言う。」
私は、君をも裏切るかも知れないのだぞ。」
「お金のために?」
「・・・ああ。」
「人類が滅んでしまっては、お金どころではないのよ。
これは、冗談でもなんでもないわ。本当に起きることなのよ!」
「・・・・・・・・・。」
「あなたには、守るべきものはないの?」
「残念ながら。
もしあれば、今のような人生は歩まなかっただろうな。」
「今すぐにとは、言わないわ。
箱根で【あれ】を見たら、もう一度考えて。」
そのときだった。
「きゃあ!」
池にかかる橋の方から、悲鳴が聞こえた。
続いて、ばしゃんと、何かが池に落ちる音がした。
「子供が、池に落ちたぞう!」
遠くで、老人の叫び声が聞こえる。
見ると、8歳くらいの少女が、仰向けになった姿で、
水飛沫をあげてもがいている。
「助けてぇ!」
なんとか水面から頭を出そうとしているのだが、
背負っているランドセルが邪魔でうまく行かないようだ。
「このままでは、溺れてしまうわ! 急いで!!」
「ああ。」
ユイの声に急かされて、ゲンドウは思いきりボートを漕ぐ。
へさきの方に座っているゲンドウは、何度もふりむきながら、
やっとのことで溺れかけている少女の近くまでボートを寄せた。
少女の方に向き直って、手を差し出そうとした矢先、
ユイがボートから池に飛び込んでいた。
「おい、無茶をするな!」
ゲンドウの制止も聞かずに、少女の方に泳いでいく。
ユイは、少女に手を差し延べようとして、
逆に抱きつかれてしまった。
「ちょ、ちょっと!」
助け上げるどころか、池の中に引き込まれそうになる。
「ちぃ!」
そのときには、ゲンドウは上着を脱ぎ捨てて、池に飛び込んでいた。
「ユイ、落ち着け。」
そう言いながら、少女の背後にまわる。
「片方ずつだ、その子の手を引き剥がせ。」
ゲンドウの声に幾分落ち着いたユイは、言われるように、
しがみつかれている左手を両手で掴むと、ゆっくりと引き剥がした。
もう片方の右手は、自分の首にまわされたままだ。
「よし。」
ゲンドウはその少女の左手の肘をとらえると、その肩から、
ランドセルの肩かけを外す。
「もう片方だ。」
同じようにして今度は右手を剥がさせ、その右肩から肩かけを外して、
ゲンドウはランドセルを抜き取った。
「もう少し待て。」
ランドセルをボートに放りこむと、ゲンドウは背後から少女の顎に手をかけて、
顔を完全に水面から出してやる。
少女は今度は、自分の顎にかかったゲンドウの片腕にしがみつく。
ユイは、やっと解放されて軽く咳き込んだ。
「大丈夫か。」
「ええ、すみません。」
「全く、無茶をする。」
二人は、そのままその子を岸まで泳ぎ運んだ。
少女は、少し水を飲んだだけで、無事であった。
駆け付けた管理事務所の人に後をまかせて、
ゲンドウとユイは、逃げるようにその場を離れた。
・・・これからのことを考え、新聞ネタにだけはなりたくなかったのである。
その公園の別の一角__。
人目のつかない木立の中に設けられたベンチで、ゲンドウとユイは休んでいた。
二人とも、さっき管理事務所の人から渡されたバスタオルを、肩にかけている。
「まったく、君は無茶だな。」
あらためて、ゲンドウは言う。
「ごめんなさい。」
ユイは、すまなさそうな顔をして、見上げるようにして言った。
「ふ・・・。」
ゲンドウは苦笑した。その顔は反則だな、と思う。
ユイも微笑むと、
「でも、よかった。 あなたが、思ったとおりの人で。」
9月半ばであり、日中はまだ暑いとはいえ、風が吹くと涼しく感じるときがある。
一陣の風が吹き渡り、ゲンドウは身を震わせた。
「寒いの?」
ゲンドウの上着は、ユイに着せている。
「いや。」
そういうゲンドウに、ユイは寄りかかった。
「なにを・・・。」
ゲンドウは、顔を赤くしてそっぽを向いた。
「どう、あたたかくなった?」
「も、問題ない。」
「ふふ・・・。」
かわいい人ね、と ユイは思った。
この人となら、あるいは・・・。
ユイは、遠い未来に思いをよせるのだった。
あとがき
若き日の、ゲンドウとユイの、出会いの物語です。
このあと、箱根のとある場所で、ゲンドウはキール・ローレンツと、
赤木ナオコは娘の恩人であるユイと、それぞれ出会う筈です。
運命の糸車は、どのように廻り始めるのでしょうか。
少女 『ねえ!』
ぶらいと「わ、びっくりした。」
少女 『私のこと、忘れていない?』
ぶらいと「君は、たしか、池でおぼれていた・・・
ええと、だれだっけ。」
少女 『もう!
自分で決めておいて、名無しで話をすすめるうちに、
忘れちゃ駄目でしょ。
伊吹マヤ(8歳)よ!』
ぶ 「えーと、そうだっけ。
ところで、マヤちゃんは、なんで溺れていたのかな。」
マ 『橋の上から、お池を見ていたら、でっかい鯉がいたの。
それが、橋の下に、隠れそうになったので、
もっとよく見ようとして、欄干から、身を乗り出したら・・・。』
ぶ 「どじ。」
マ 『ひどぉい。そういうこと、いうわけ?』
ぶ 「マヤは、もっとおとなしい子だと思ってた。
だから、名前を出すのを、やめたんだと思う。」
マ 『だれだって、子供のときは、そういうこともあるわ。』
ぶ 「マヤじゃなくて、マナじゃない? 性格的に。」
マ 『年齢が違うでしょ!
運命の糸車というからには、この続きでは当然、
私も出るのよね?』
ぶ 「あの、まだ続きを書くとは、言ってませんが・・・。」