そぼふる雨というものは、大抵の者が憂鬱に感じるものであるが、それも場合によりけりだな、と男は思った。
とくに、様々な相手から身を隠さなくてはならない自分にとっては、朝から降り続いているこの雨は、恵みの雨であった。

男__加持リョウジは、細めにあけた窓から外を眺めながら、煙草に火をつけた。
いつ取り壊されても不思議ではない、古びたアパートの一室である。

冬月をゼーレのもとから救い出した後、加持は行方をくらましていた。
ミサトのマンションに、遺言ともとれる留守録を残した後、巧妙な情報操作により、彼は死んだことになっている。

が、身許が判明できる死体を用意できた訳ではない。
猟犬の様に自分を追う追跡者は、常に存在すると考えなければならなかった。

それでも、今日のように降り続く雨の中では、猟犬のほとんどは家で大人しくしている筈だ。
しかも、社会的に抹殺されたも同然の加持の生死を確認する程度の任務に、それほど有能な人材が割り当てられるとも思えなかった。

不安がない訳ではないが、たまには外の空気も吸わないと身がもたない。
そう考えた上での、窓を開けた気分転換だった。

突然、ドアのチャイムが2度鳴った。
加持の肉体が、わずかに緊張する。

もう一度、今度は1度だけ、ゆっくりとチャイムが鳴った。
加持の緊張が解ける。せっかちな来客なら、普通は逆の押し方をするだろう。

「林葉(はやしば)か。」
「ああ、今帰った。」
部屋に入ってきたのは、加持と同年輩の男だった。

中肉中背、目立たない顔つきだが、左腕がない。
右腕には買い物袋をぶら下げている。どうやら食料の買出しに出かけていたらしい。

「いつも済まんな。」
加持は窓の外を眺めながら言った。

林葉隆志・・・かっての加持のライバルである。
とあるネルフの敵対組織の、腕利きの諜報部員であった。

ネルフの大停電事件の直後、破壊工作を行おうとしていたところを、加持に阻まれ、銃撃戦となった。
激しい戦いの末に加持が勝ち、林葉は瀕死の重傷を負った。
左腕を失ったのは、このときである。

そのとき、加持は林葉にとどめをささなかった。
それどころか、傷の手当てまで行った。
林葉は一命をとりとめ、そのときの恩義で今は加持をかくまっている。

「おい、窓のそばに寄るのはやばいぜ。」
「大丈夫だよ、こんな日は。」
「相変わらず、大胆なヤツだな。・・・それとも、抜けているのか。」
林葉は買った食料品を片付けながら言った。 加持は苦笑した。

「そういえば、この雨の中、弐号機パイロットの女の子を見かけたぜ。」
「アスカか。」

「南下川の方に、傘もささずに向かっていたが、あんなところに何かあったか?」
「いや、あちらには廃屋しかない筈だが・・・。だれか、一緒だったか。」

「いいや、一人だった。」
「まさか・・・家出か!」
「ああ、そうかもな。このところ、活躍の場を失って、随分と落ち込んでいるらしいからな。」

アスカはアルミサエル戦のあと、弐号機とのシンクロ率がほとんどゼロにまで下がっていた。
再三テストを繰り返しても、一向に改善の兆候が見られず、その落ち込みようは見ているほうがつらいくらいであったという。

周囲の同情の視線に耐えかねて、誰にも会わずにすむところへ行こうと考えても、不思議ではない。
加持は、しばらく考えこんでいる様だった。

「どうしたんだ、加持。 おい、まさか・・・。」
「・・・ほっとけないな。」
加持は、つぶやくように言った。

「だめだ! 自分のことを考えろよ。
 おまえは、ゼーレからも、日本政府からも狙われているんだぜ。
 ネルフにだって、あぶないもんだ。
 のこのこ出ていったら、死にに行くようなもんだろうが!」

「だからって、何もしなかったら、悔いがのこるだろう?」
加持はそう言うと、ふっと唇の端で笑ってみせた。



--- 人 身 御 供---   <復活のアスカ>



「まったく、おまえは、人がよすぎるんだよ! よくそれで、今日まで生き残ってこれたな。」
「まあ、そう言うな。」

「おれとやり合ったときだってそうだ。
左腕を失ったおれを、放っておけば出血多量で死んでいたものを、わざわざ手当てなんかしやがって。
敵を助けるなんて、とんでもない奴だよ、おまえは。
おれが寝首をかこうとするとは、思わなかったのか。」

「おまえは、そういう奴じゃないさ。
 だから今、おれをかくまってくれている。
 その上、アスカを助けることにも、一肌脱ごうとしてくれている。
 ほんと、いい奴だよ、おまえは。」

「ちっ・・・。」      
林葉は舌打ちした。
「わかったよ。 それで、どうするつもりなんだ。」
「そうだな・・・。」
加持は2本目の煙草に火をつけ、ゆっくり吸い込んだ。
そして、煙とともに語りだした。


まずは、林葉はアスカの居場所を確認すること。
この雨である。 ずぶ濡れになることが気にならないほど、ひどく落ち込んでいたとしても、
いずれはどこかで休息をとるだろう。
その場所が確定した時点で、まず加持に連絡を入れる。

知らせを受けた加持が合流したら、林葉は見張りを加持にまかせて、アスカの着替えを入手してくること。
着替えを入手したら再び加持に連絡を入れ、状況に応じて再度加持と合流する。
それから加持はアスカに声をかけ、説得の上、保護する。
林場が合流している場合は、アスカを連れ帰るまでの間、林場は追跡者から二人を守ること。

・・・加持の計画は、以上のようなものだった。

「わかった、やってみよう。」
「すまない。」
「それじゃ、おれはその、弐号機パイロットの女の子を探してこよう。
 見つけたら、連絡するよ。」
「ああ、たのむ。」
「だけどな、加持。」
「ん?」
「くれぐれも、無理はするなよ。」
「ああ、わかっている。」

林葉は雨の中を、先程見かけたアスカの姿を探しに出かけていった。
加持は再び、ひとりで部屋に残ることとなった。


雨はいつ降り止むとも知れない。 静寂の中で、しとしとと雨音のみが続いている。
「アスカ・・・すまなかった。」
加持は、ぽつりと言った。

もともと加持は、ドイツからアスカをこの日本に連れてくるとき、彼女の護衛役として選任された。
日本に着いた時点でその任務は完了したが、アスカはずっと加持を慕っていた。
その気持ちをぶつけようとするアスカに対して、加持は「まだ子供だから」ということで、うまくあしらおうとし、まともには取り合わなかった。

心の何処かで、アスカを避けようとしていなかったか。
真剣にアスカの気持ちを受け止めていてやれば、アスカはそこまで追い詰められることもなかったのではないのか。
それなのに、自分は「真実を追い求める」という理由のもと、己の好奇心を満たすことのみに腐心した。
今さらながら、加持にはそれが悔やまれてならない。


真実を知る・・・センカンドインパクトの真相に迫る、それが一体何を生んだというのか。
結局は、自分の周囲の人たちに多大な迷惑をかけ、自分は身を潜めてかろうじて生き延びているだけである。
実際のところは、真実を知る者などいないのではないのか。
わずかばかり、それに近いところにいるかどうかの違いだけで。
所詮は人間では計り知れない、巨大なものに立ち向かったところで、その全貌をつかむことなどできないのではないか・・・。

そこまで考え及んだとき、
トゥルルルルルルルル・・・・・・・ 携帯電話の呼び出し音で加持は我に返った。

「林葉か。」
「ああ、見つけたぞ。」


林葉に呼び出された加持は、とある廃屋にやってきた。
そこは、対アルミサエル戦でレイが自爆したときに廃墟となった街並みの一角で、今では誰も住んでいない筈だった。
雨露くらい凌ぐ場所はあるだろうが、とても人の暮らしてゆける場所ではない。

「どこだ、アスカは?」
物陰に潜んでいた林葉の隣に、同じ様にしゃがみ込むと加持は小声で尋ねた。

「あそこだ。」
林場が指し示す方向を見ると、
__いた。

かろうじて屋根が半分残った、かっての公営住宅であった建物にアスカはいた。
こちら側の壁のかなりの部分がなくなっているため、膝をかかえて蹲っているようすが見える。
「すまんな。じゃあ、着替えの方を頼む。」
加持は、アスカから目を離さずに言う。
「わかった。 また、連絡する。」
「頼む。」
林葉は、加持の肩をポンと叩くと、去っていった。
「さて、と・・・。」
加持は小さく伸びをすると、アスカを見守ることのできる範囲で雨露をしのげる場所を探すこととした。


「シンクロ率、ゼロ。 セカンドチルドレンの資格、なし・・・」
アスカは、廃屋の中で膝を抱えるようにして座り、そうつぶやいていた。
「だれも、もう私を見てくれない・・・」

自分が期待されているときは、家を飛び出せばだれかが追いかけてきてくれた。

対イスラフェル戦のために、シンジとユニゾンの特訓をしていたときもそうだった。
自分のかわりにレイをシンジと組ませるかも知れないとミサトが言ったとき、だったらそうすればいいでしょと、
自棄になってミサトのマンションを飛び出した。
そのときは、シンジが追いかけてきてくれた。

今は、だれも自分を追ってこない。
自分はもう、必要とされていないのだ。

弐号機のパイロットに、セカンドチルドレンに選ばれて以来、周囲の期待に応えようと、あれほど努力してきたのは一体何だったのだろう。
エヴァへのフィードバックを円滑にするために、ありとあらゆる格闘技を習得した。
学業にも真剣に取り組み、ついには飛び級で大学まで卒業した。
アスカの行くところ、常に賞賛と羨望の眼差しがあった。

だが___。
エヴァを動かせなくなったとたん、それは同情と憐憫に変わった。
無責任な助言や叱咤はあったが、だれも真剣に助力をしてくれるわけではなかった。
それは、アスカ自身の問題なのだ。
自分で解決できなければ、かわりのチルドレンが選抜されるだけのことである。

アスカは抱えた膝の中に顔を埋めた。
『淋しい・・・』
涙があふれた。
『あたしはもう、泣かないと決めたのに。でも・・・』
雨はアスカの心を代弁するかのように、相変わらずしとしとと降り続いている。
『淋しいよぅ、シンジ・・・。』
シンジ、トウジ、ケンスケ、そしてヒカリや他の級友たち__彼らと過ごした学校生活が懐かしかった。

だれかに救いを求めたい。

だが、だれにもこんな自分を見せたくない。

どうすればいいの。
どうすれば。

絶望感が、少しずつ、少しずつ、アスカの精神を蝕んでいく。

どのくらい、そうしていただろう。

「よう。」
聞き慣れた声に、アスカの肩がぴくりと震えた。
「道に迷ったお姫様がいると聞いてきたが、こちらだったかな。」
はっとして顔を上げる。
「加持さん・・・」

「迎えにきたよ、アスカ。」
優しく微笑んだ加持が、そこにいた。

「あたし・・・あたし、帰らない!」
アスカは俯いて言った。
いまさら、どんな顔をして帰れるというのか。

「わかってるさ。」
加持は頷いた。
「帰るのは、おれのヤサ(隠れ家)だよ。 雨風をしのげるだけ、ここよりはましだろう。
 もちろん、葛城に連絡することもしない。
 なにしろ、『消息不明』の身の上だからな。」

「・・・いいの?」
それがどれだけ加持に迷惑をかけることになるのか、アスカはわかっているつもりだ。

「かまわないさ。 もっとも、頻繁に引越しすることになるかも知れないがね。」
「・・・・・・・・・・・・・。」

「ここに、バスタオルと着替えがある。
しばらく向こうにいるから、着替え終わったら呼んでくれるかい。」
そういうと、加持はアスカに手にしていたスポーツバッグを差し出した。

アスカが飛びついてきて、加持はバッグをとり落とした。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん。」
その手で、泣きじゃくるアスカの髪をなでる。

しばらく、泣きたいだけ泣かせてあげよう、と加持は思った。

       ・
       ・
       ・
加持のアパートには、無事に着くことができた。
林葉が、物陰から二人を見守っていたのは言うまでもない。

アスカは食欲がないと言い、加持がすすめた夕食も、コンビニおにぎりを半分食べただけだった。
入浴をすませると、アスカは疲れていたのかすぐに眠ってしまった。

加持は、アスカの寝顔を確認すると、そっとアパートの外に出た。
すぐに林葉が現れた。
「寝たのか。」
「ああ、疲れていたようだからな。」

「そうか。
 念のため、これを渡しておこう。 
 今のヤサがやばくなったときの、次のアパートの鍵と住所だ。」
「何から何まで、すまない。」

「いいってことよ。
それより、いつまでも続けられないぞ、こんな生活は。」
「ああ、わかっている。」
そう言いながら加持は、どうすればアスカが復調できるのか、考えあぐねていた。



翌日から、加持とアスカの共同生活が始まった。
人目を忍ぶ二人であったが、時間だけはたっぷりある。
差し支えのない範囲で、お互いの境遇について話し合った。

アスカは、対レリエル戦以後、シンジにどんどん差をつけられてプライドが許さなかったところへ、対アラエル戦で触れられたくない心の傷を、使徒に覗かれたこと。
対アルミサエル戦では、まったくの役立たずとなってしまい、自分の存在意義を喪失したことなどを語った。

加持は、初めて自分が3足の草鞋をはいていたことを明かした。
(ゼーレと日本政府の具体名は出さなかったが。)
セカンドインパクトの真実を知るために都合のいいと考えた上での、3重スパイ活動であった。

・・・その筈だった。
だが、真相に迫れば迫るほど、自分の立場を危うくするだけであった。
しかも、この真相には終わりがなかった。
関与した人間の、最終的な行動内容はわかる。
だが、現象としてのセカンドインパクトについては、謎が謎を呼ぶだけであった。

「そして、その結果がこのありさまさ。」
加持は、身を隠してかろうじて生きている、現在の自分を自嘲をこめて言った。

「ふうん、加持さんも、大変なのね・・・。」
理由は異なるが、周囲との関係を断とうとしている者どうしとして、アスカは加持の境遇を理解する余裕が出てきたようである。

「おっ、少しは元気が出てきたのかな。
 それとも、おれもとうとう、同情されるようになったか。」
加持が少しおどけた口調で言う。

「そんなことないって。」
アスカは力なく笑った。 それでも、笑うのは何日ぶりのことだろう。
加持といっしょにいられる安心感がそうさせたのかも知れない。
一晩寝たことにより、体力もそれなりに回復しているようだ。

「よし、じゃあまあ、飯にしよう!」
「・・・うん。」
まだまだ、アスカらしくはないが、少しはよくなったようだ。
今のところはこれでよしとしよう、加持はそう思った。



2、3日もすると、アスカの精神状態はかなり回復してきた。
やはり,加持といっしょにいることが大きいようだ。

「ねえ、加持さん。」
ある日、昼食後の食器を洗いながらアスカは言った。

「うん?」
テーブルの前でくつろいでいた加持が、聞き返す。

「あの、林葉って人、加持さんの同僚なの。」
「ああ、そんなところだ。」
かっての敵どうしというと、ややこしくなると思って加持は曖昧に答えた。
林葉が食料や日用品を運んできてくれることは、もうアスカは知っていた。
だが、最初少し挨拶しただけで、ほとんど話したことはない。

「でも、加持さんをかくまっているってことは、あの人も組織を裏切っているってことよね。」
「まあ、そうなるかな。」
「見つかると、すごくまずいんでしょ?」
「まあ、な。 だが、あいつはそんなヘマはしない。大丈夫だよ。」
「だけど、申し訳ないわ。
 それでなくても、私たちのために、本来の諜報活動を邪魔されているわけだし。」
「アスカが、そんなことを気にすることはないさ。」

実は、かくまわれることの謝礼としては申し訳程度だが、加持は林葉にゼーレやネルフに関する情報を、差し障りのない範囲で小出しに流していた。
片腕を失った林葉は、破壊活動からは引退しており、専ら情報収集を生業としていた。
そちらの方面でも林葉は優秀であったが、複数の組織に属していた加持からの情報は、それなりに貴重なものもあったのだ。
もちろん、アスカにそんなことを言う訳にはいかない。

食器を洗い終わったアスカは、タオルで手を拭くと加持の方に向き直った。
「今度から、買出しくらいは私がいくわ。」

「アスカだって、見つかるとまずいだろう?」
「大丈夫よ。暗くなってから、ちょっと変装して出かけるし。
 それに、万一見つかっても、あたしは命を狙われているわけじゃないから。」
「・・・わかった、変装の道具のこともあるし、次に林葉に会ったときに相談しておこう。
 それまで待ってくれるか。」
「ええ、お願いね。」

少し、前向きに生きようとしだしたようだ。
悪いことではない。
あとは、どのようにして、元の生活に戻るか、だが。

ここからが難しいところだな、と加持は思う。

『エヴァに拘らずに、しかも逃げずに生きる』
それを教えるには、どうすればよいか。
自分とは違い、アスカの人生は、これからなのだから。


夜になってから、加持はまたアパートの外で林葉と会っていた。
アスカは先に、布団に包まって眠っている。

「・・・そうか。」
林葉は、加持から昼間の一件を聞くと言った。
「わかった、変装の道具一式は、朝までに準備して届けておこう。
 しかし、よくそこまで回復したものだな。
 おまえさんの、人徳だな。」

「よせよ。」
加持は苦笑した。それから、ふと真顔に戻り、
「悪いが、変装道具はおれの分も頼む。 目立たなければ、何でもいい。」

「なに、おまえまでもか。いったい、何を考えている。」
「ちょっと、思うところがあってな。」
「まあ、いいが。・・・何度もいうが、無理はするなよ。」
「わかってるよ。」


部屋に戻ると、加持も布団に横になった。
すると、隣で布団に包まって寝ていた筈のアスカが、突然布団をはねのけ、抱き着いてきた。

アスカの熱い体温を感じる。
・・・全裸だった。

「アスカ、よせ!」
加持は首にまわされたアスカの腕をほどこうとした。

「加持さん! 私のこと、奥さんにして!!」
それを聞いて、ふりほどこうとしていた加持の動きが止まった。

「アスカ・・・」
加持はゆっくりと、アスカの両肩を抱くようにした。

今ここでアスカを拒否すれば、以前の失敗を繰り返すだけである。
心の拠り所をなくしたアスカは、取り返しのつかないところまでいってしまうだろう。
だが、アスカの激情に身をまかせては、それこそアスカの未来を奪うことになる。
こんな愚かな男よりもふさわしい相手が、世の中にはいくらでもいる筈だ。

「アスカ。」
加持は、アスカを優しく抱き寄せると言った。
「俺は、アスカのことが好きだよ。」
「加持さん・・・。」
しがみついていた、アスカの力がふっと抜けた。

「だが、今の俺では、アスカを幸せにしてやることができない。」
アスカはかぶりをふった。
「私には、加持さんしかいない。もう、加持さんしかいないの。」

「そんなことは、ない。」
加持は低い、しかし力強い声で、確信をこめて言った。
アスカは叱られでもしたかのように、ぴくりと震えた。

「明日、アスカに見せたいものがある。ついてきてくれるか。」
「加持さん、出かけるの?」
「ああ。」
「大丈夫なの。」
加持は、ははっと笑ってみせた。だれもが安心する、人懐っこい笑みだった。
「変装するから大丈夫さ。それにアスカを迎えに行ったときも大丈夫だったろ。
 ヘマはしないさ。」
「うん・・・。」
アスカの緊張が解けていくのがわかる。

「よし、じゃあ、今日はもう寝よう。」
「このまま、一緒に寝てくれる?」
「もちろんだ。」
「それから、あの・・・。」
「ん?」
「キス、してくれる。」
「いいとも。」
加持は、アスカに優しくキスをした。
「じゃあ、お休み。」
「お休みなさい・・・。」
アスカは安心したのか、それからすぐに眠ってしまった。
加持は・・・もちろん、そんな状況では眠れなかった。



翌朝、加持が頼んだとおりに、変装道具一式が玄関前に届けられていた。
「これを着て、出かけるの?」
「ああ、そうだ。」

アスカ用には、ボーイッシュなポロシャツとスラックス,髪かざりと黒い瞳のコンタクト,
ファンデーションと2本のヘアスプレーがあった。
「ヘアスプレーが2本あるわ。」
「着色用と脱色用さ。
 アスカの様に髪が長い場合は、カツラよりも色を染めて髪型を変えた方がいいからな。
 脱色スプレーを使うと、シャンプーで簡単に洗い流して元に戻せる。」
「へえ、便利にできてるのね。
 私はまた、帽子をかぶってサングラスでもかけるのかと思ってたわ。」
「それじゃ、かえって怪しまれるだろ。」
「ふふふふ、そうね。」

元気になったな、と加持は思う。
「加持さんのは?」
「俺のは、これだ。」
加持の変装道具は、ファンデーションの他、くたびれた背広の上下とロマンスグレーのカツラだった。

加持が背広を着て、カツラをかぶってみせると、アスカは
「あははははは、やだぁ。」
と笑いころげている。

「どうした、何か変か?」
「だってぇ、冬月副司令みたいなんだもん。」
そう言って、また笑った。


ファンデーションで念入りに肌の色を変え、変装道具を身につけて二人は出かけた。

アスカは髪全体を黒く染め、頭の左側で髪を留めてポニーテールにしている。
浅黒い肌と漆黒の瞳で、スラックスをはいたその姿は、どこから見ても活発な日本の女の子である。
加持はやはり冬月に似た初老の紳士の姿で、いっしょに並ぶとアスカが娘か、孫娘のようであった。

加持がアスカを連れてきたところは、延々と墓標の並ぶ共同墓地の一角だった。
以前、別の一角にシンジとゲンドウが来たことのある、あの共同墓地である。

「ここは?」
「見てのとおり、共同墓地さ。」
加持は、とある墓標の前に来ると、伸び放題になっていた雑草を抜き始めた。

「誰の、お墓なの。」
墓碑には没年月日はおろか、名前すら書いてなかった。ただ、石で削ったかの様に、『K』の文字がかろうじて読めるだけである。

「俺の、弟でね。ユウジっていうんだ。今日がその命日なんだ。」
「加持さんの、弟さん?」
「セカンドインパクト直後の混乱の中で、死なせてしまってね。
 もっとも、ここに遺体があるわけじゃない。
 このあたりの墓標は、みんなそうさ。」
「そう・・・。」

雑草を抜き終えた加持が墓前で手を合わせるのを見て、アスカもしゃがみ込んで手を合わせる。

やがて、加持は立ち上がると、
「葛城のお母さんの墓も、隣にある。」

「えっ、ミサトの?」
加持を見上げるようにしてアスカが聞き返すと、加持は左隣の墓標に向かって手を合わせ、小さく黙礼するところだった。 あわててアスカもそれにならう。

「ネルフに赴任したばかりの頃、ここに墓標を立てようと言い出したのは、葛城だった。
 彼女も、父親の最期の言葉で『母さんをたのむ』と言われたのに、
 セカンドインパクトの災厄から母親を守りきれなかった。
 悔やんでも悔やみきれない、その想いを刻み込むために、ここに墓標を残そうということになったのさ。」

「その意味で、俺と葛城は似た者どうしだった。
 その想いを胸に、俺はセカンドインパクトの真実を捜し求めたし、
 葛城は使徒への復讐に血道をあげている。
 だが、本当は・・・。」

加持はそこで言葉を切った。
アスカは、『似た者どうし』という言葉に軽い嫉妬を覚えていたので、加持の次の言葉を予想できなかった。
「本当は、【二度と悔いが残らないようにしたい】、そのための墓標なんだ。」

「悔いが、残らないように・・・。」
アスカがつぶやくように言うのに、加持は頷いた。

「あのとき、こうしておけばよかった。 自分は、本当に最善の手を尽くしたのだろうか。
 そういった、後悔を二度としたくない。
 この墓標には、そうした想いが込められているんだ。」

「加持さん・・・。」
アスカは、加持の頬に光るものを見て驚いた。
(あの、加持さんが、泣いてる?)

「アスカ、君はこのまま、エヴァのパイロットをやめることに、本当に悔いが残らないのか。」
「え・・・。」
「エヴァに拘る必要はない。
 この数日で、アスカはエヴァなしで生きていけることを、十分証明できるくらいに立ち直った。
 本当に、立派だったと思う。
 だが、君がエヴァのパイロットに選ばれてから、今日まで習得してきたものは、
 たかが数週間の不調で吹き飛ぶものだったのか。
 エヴァを降りるのは、もう一度確かめてみてからでもいいのではないのか。」

「・・・わからないわ。」
加持の言うとおりかも知れない。 だが、アスカには自信がなかった。

「何も、怖れる必要はない。
 エヴァに乗れれば、また乗ればいいし、だめだったら降りればいい。
 そのことで、アスカをとやかく言う人はいない。
 これまで、世界で数名しかいないチルドレンとして、アスカが歩んできた道は消えやしないんだから。
 堂々と、胸をはって生きていけばいいんだ。」

「今、逃げたら『悔いが残る』ってことね。」
「そうだ。」
「少し、考えさせて。」
「ああ、時間は十分ある。 ゆっくり考えればいいさ。」



その夜__。

アスカは、昼間の加持の言葉を何度となく思い出しながら、自分は本当に「エヴァに拘らず」に、
エヴァに乗るなんてことができるのだろうかと、布団の中で考えていた。

加持は、昨夜の件で寝不足だったためか、隣の布団ですでに小さな鼾ををかいている。

「わかんないな。」
そのうち、アスカも眠くなってきて、眠ってしまった。

深夜__。
アスカは、ふと目を覚ました。
そして、気がついた。
隣で寝ていた筈の、加持がいない!

「加持さん!!」
アスカは跳ね起きて、加持を探した。
やはり、いない。

そして、テーブルの上にメモがあるのに気付いた。
加持がいつもしていた、小さなペンダントが重しがわりに置かれている。

そこには、こう書かれていた。

『アスカへ。

 すまない、油断したようだ。
 どうやら昼間、尾行(つけ)られたらしい。
 ここも、危なくなってきたので、急遽ヤサを変えなければならなくなった。

 アスカも連れていこうかと考えたが、今回の敵は俺に尾行を気付かせぬ程の相手だ。
 俺ひとりの身を守るのがせい一杯だろう。
 
 アスカは、やっぱり葛城のところへ帰れ。
 後の手配は、林葉に頼んでおいた。
 明朝とはいわず、林葉が迎えにきたらすぐにそこを離れた方がいい。

 言い忘れたことがひとつある。いや、確信がなかったので言えなかった。

 初号機がユイ博士を取り込んだように、
 弐号機はキョウコ博士の精神の大部分を取り込んでいる可能性がある。
 エヴァがチルドレンとシンクロできるのは、そのコアに肉親の魂が宿っているためだと、
 聞いたことがある。

 エヴァに乗る機会があれば、いや、その機会を作って、確かめてほしい。
 もし本当なら、弐号機はアスカ専用機であるし、キョウコ博士との意志の疎通が可能かも知れない。

 悪いが、そろそろ行かなくてはならない。
 葛城には悪いが、俺が生きていたということは、内密にしておいてくれ。

 それでは、全てが終わったときに、また会おう。』

「ちょっと、これ、どういうことよ!」
アスカは、メモを握り締めたまま、叫んだ。 いっしょに掴んだペンダントが揺れている。
しかし、応える者はいなかった。

大声で、加持の名を呼ぼうとして思いとどまった。
追跡者は、もうすぐそこまで来ているかも知れないのだ。

アスカは急いで着替えると、メモとペンダント、身の回りのものを持ってアパートを飛び出した。

急げば、加持に追いつけるかも知れない。
でも、何処へ?
そんなことしか考えられない自分が、情けなかった。

そのとき、一台の車が背後から近づいてきたのに気付いた。
はっとして身構える。

車が停車し、運転席から顔を出したのは林葉だった。
「アスカ君だね。」

「林葉さん・・・。 加持さんは?」

林葉はゆっくりとかぶりを振った。
「加持から頼まれている。 家まで送ろう。」

「そう・・・。わかったわ。」
アスカは力なく言うと、車に乗り込んだ。

「加持の残したメモは持っているか。」
アスカは頷くと、林葉に渡した。 どうせ、処分しなければならないものだった。
「ペンダントはいいの?」
実のところ、それは渡したくはなかった。

「ああ、それは君が預かっておいてほしいそうだ。
 だれにも見せないのが、条件だということだが。」

『加持さん、これ、形見じゃないよね。』
アスカは、ペンダントをぎゅっと握り締めた。

車は、ミサトのマンションを目指して、走り始めていた。





あとがき

「人 身 御 供」本編で、どうしてアスカが復活しているのか、
少しカドがとれているのは何故か、
という疑問への、回答になりましたでしょうか。

少しアスカに感情移入してしまいました。
また、本編でお会いしましょう。