春 な の に
- あたしのこと、離さないで! -
このところシンジは、学校からの帰り道に、レイの家に寄ることが多かった。
サードインパクトを経て、いきなり季節が戻ってきた。
再生されたこの世界では、今は春たけなわである。
シンジたちは、何事もなかったかの様に、中学3年生になっていた。
戦自のネルフへの侵入と殺戮、補完計画の発動…シンジにとって悪夢のような記憶が、
消えたわけではない。
ただ、「もう一度会いたい、みんなに。」
シンジのその願いが、結果として世界を救ったのである。
いわばここは、『やり直し』の世界であった。
シンジがたびたび、レイの部屋を訪問するのも、前世を悔いることがあったからだろうか。
だが、アスカにとってみれば、それは決して面白いことではなかった。
『シンジの奴、またファーストのところに行ってるんだわ。
ホント、仲のおよろしいこと。
でも、保護者のいない家で若い男女が二人きり…。
間違いが起きたら、どうするつもりなのよ!』
実際のところシンジは、あたりさわりのない話をレイにするだけだった。
シンジにしてみれば、言いたいことは他にあった。
それも、重大な用件が。
それなのに、どうしても切り出せないまま、いつも帰ってきてしまうのだった。
そんなある日_。
その日もシンジは、レイの部屋を訪ねていた。
「どうして、碇君はわたしの家に来るの?」
レイのほうからシンジに尋ねてきた。
「あの…、お邪魔だった?」
「そんなことはないけど。
なにか、言いたいことがあるのではないの。」
「うん…。」
シンジは少し逡巡したが、思い切って言うことにした。
「綾波ってさ、ずっと一人で住んでるよね。」
「ええ。」
「だれかと一緒に暮らしたいとは、思わないの。」
「とくに、そんなことを考えたことはないわ。
どうして急にそんなことを言うの。」
「だってさ…。」
シンジは俯き、再び口ごもる。
お互いに、すべてを知っているんだ、今さら隠したって仕方がない。
そう思って、シンジは覚悟を決めた。
「綾波って、言い方は悪いけど、母さんのクローンなんだろ。」
「そうなるわね。」
レイは、あっさりと肯定した。
「だけど、年齢はぼくと同じだ。」
「ええ。」
「だったら、ぼくたちは、兄妹みたいなものじゃないか。」
「…そうね。」
「一緒に住めないかな、その…ぼくたちと。」
そう言うと、シンジは懇願するような面持ちでレイを見つめた。
レイはシンジを見返し、そしてあるかなしかの、笑みを浮かべた。
「ありがとう。でも、部屋がないわ。」
「ミサトさんに、もっと大きな家に引っ越すように頼むよ。
綾波だけが、こんな不自由な生活をすることなんてないんだ!
父さんも、父さんだ。
綾波に、いつまでもこんな暮らしをさせて!」
言いながら、シンジは自分でも少し興奮していると思った。
「わたしは、ここでの暮らしは、きらいではないわ。」
レイは、静かに言った。
その口調に、ゲンドウへの不満を口にしたシンジに対する非難めいたものが
混ざっているのをシンジは感じた。
「うん…。知ってる。」
シンジは、落ち着きを取り戻した。
「綾波が生まれ育ったところのイメージに、似てるんだよね。
リツコさんが、そう言っていた。
だけど、やっぱりよくないよ。
年頃の女の子が、暮らすのに向いているとは思えないんだ。」
「わたしのことを、心配してくれているのね。」
「うん。」
「…ありがとう。」
「えぇーっ! ファーストと一緒に住むのぉ?」
アスカが抗議の叫びを放った。
「いやよ、あんな女と。」
その日の夕食後、シンジがミサトとアスカに、レイとの同居を提案したところ、
案の定、アスカは猛反対していた。
「そんなこと、言うもんじゃないわよ、アスカ。」
ミサトがたしなめる様に言った。
「前から、気にはなっていたのよね。
シンジ君とアスカとは、一緒に暮らしているのに、
レイにだけは一人暮らしをさせていたことを。
…まあ、本人の希望だからと、わたし自身が口実を設けていたのだけど、
レイがその気になったというのなら、それはいいことだとは思うわ。」
「どうすんのよ、部屋は!
それでなくても、物置部屋で寝てる奴がいるっていうのに。」
「その物置部屋にシンジ君を追い出したのは、あなたでしょ、アスカ。
…やっぱ、引っ越すしかないわねぇ。」
「そうですよね。」
シンジが同意する。
「なに、二人で納得してんのよ! とにかく、あたしは反対だからね。
どうしてもファーストと暮らしたいのだったら、
シンジ、あんたひとりが荷物をまとめてここを出て行けばいいのよ!」
「あ、綾波と、二人で暮らせというの?」
「そうよ!」
「そんな…。」
考えもしていないことを言われ、シンジは絶句した。
アスカはアスカで、勢いでそう言ってしまったものの、もしシンジが本気にし、
そのとおりになったらどうしようと思った。
「さすがにそれは、ちょっちマズいかもねぇ。」
ミサトは、にやにや笑いながら言った。
「あっという間にシンちゃん、お父さんになってしまうかも知れないわよ。」
「か、からかわないで下さいよ!」
さらにシンジは、何か言いかけようとしたが、電話の呼び出し音でそれは中断された。
「…はい。」
受話器をとってシンジはすぐに、それをアスカに差し出す。
「ドイツのお義母さんから。」
アスカはひったくる様に受話器を受け取ると、何事か話し出した。
以前、同じ様に電話がかかってきたときは、いかにも楽しそうに応対し、愛想笑いまで
浮かべていたのに、今回は何か、真剣な表情をしている。
何を言っているのか、声が低くて聞き取れない。
聞き取れたところで、ミサトはともかく、ドイツ語を知らないシンジには、さっぱり
わからなかったであろう。
「Nein! (いやよ!)」
突然、アスカは大声で叫んだ。
それからアスカは、堰を切ったかの様に何事か喚き続けた。
そして、受話器を叩きつける様にして、電話を切ってしまった。
「ど、どうしたんだよ、アスカ。」
シンジは心配になって声をかけた。
だが、アスカは肩を上下させて荒い息をするばかりだった。
ややあって、
「どいつもこいつも、あたしの気持ちをないがしろにして!」
つぶやく様にそう言うと、さっさと自分の部屋にこもってしまった。
「あの、ミサトさん…。」
シンジは、助けを求めるようにミサトを見た。
ミサトは黙ったまま、缶ビールのプルタブを引き抜いていた。
そして、ため息をつく様に言った。
「いつかは、この日が来るんじゃないかと思っていたわ。
でも、よりによって、この時期とはね。」
ビールを一口のみ、苦そうに顔をしかめた。
シンジがミサトから聞き出した話では、どうやらアスカはさきほどの電話で、
ドイツに帰るように言われたらしい、ということだった。
もう、使徒はいない。
少なくとも、戦うためにエヴァに乗る必要はない。
週に一回程度、データ取りのためにシンクロテストをするくらいのことしかなかった。
それだけのことであれば、シンジとレイがいれば十分である。
アスカが、日本に居続けなければならない理由は、特になかった。
だから、家族のもとに帰ってこいと、両親は言っているのだ。
「あの、アスカ…。」
シンジは、アスカの部屋の前で声をかけた。
「入ってこないで!」
くぐもったアスカの声が聞こえた。
ベッドに身を投げ出し、枕に顔を埋めているのかも知れない。
「誰の顔も見たくないの。 あたしのことは、放っておいて!!」
涙声だった。
そう言われては、シンジは立ち去るしかなかった。
翌日、アスカは学校を休んだ。
座る者のいないアスカの席を見つめながら、シンジ自身も落ち込んでいた。
「お?、惣流は休みか。」
トウジとケンスケが、意外だという様な顔で、話しかけてきた。
「うん…。」
「なんや、シンジも元気ないやないか。おまえらまた、けんかでもしたんか。」
「でも惣流にダメージを与えるなんて、けっこうシンジもやるもんだな。」
「そんなんじゃないよ。」
シンジは力なく答えた。
「あかん、こら重症や。」
そう言うと、トウジたちはそっと去っていった。
授業に身が入らないまま、一日が過ぎていった。
放課後になって帰り支度をしていると、今度はレイが声をかけてきた。
「惣流さん、どうかしたの。」
「うん…。」
「わたしと暮らすのが嫌で、家を出て行ったわけではないの。」
「そうじゃないよ。」
シンジは少しためらったが、レイには言っておいた方がいいかと思った。
「実はアスカが、ドイツに帰ってしまうかも知れないんだ。」
「そうなの。」
「夕べ、ドイツから電話がかかってきたんだ。
アスカは、すごく嫌がっているんだけど…。」
そこまで言って、シンジは俯いた。言葉が、続かなかった。
ややあって、レイが静かな声で言った。
「…碇君も、そうなのね。」
「え?」
「碇君も、惣流さんと別れるのがつらい。そうなんでしょう?」
「それは、そうなんだけど、アスカは…。」
「だったら、そう言えばいいのに。」
「そう言うって、アスカに?」
「惣流さんは、日本を離れたくない。
碇君も、惣流さんとは別れたくない。
伝えてどうなるものでもないかも知れないけれど、お互いが悩んだまま、
無為に時を過ごすことはないわ。」
「そうか…。 そうだよね。
ありがとう、綾波。 もう一度、アスカと話してみるよ。」
シンジは、少しだけ元気を取り戻していた。
「アスカ。」
帰宅すると、シンジはアスカの部屋の前で、再び声をかけた。
「ちょっと、話したいことがあるんだけど、いいかな。」
すぐに、返事が返ってきた。
「あたしも、あんたに話しておきたいことがあるわ。」
「そう、よかった。それじゃ…。」
「でも、ここではいや。 外へ行きましょう。」
「うん、そうだね。 それがいいかも知れない。」
「着替えるから、ちょと待ってて。」
しばらくすると、白いワンピースに着替えたアスカが、部屋から出てきた。
「ついて来て。」
「…うん。」
アスカは、黙ったまま歩き、シンジはそれについていく。
二人は、郊外に向っていた。
ミサトのマンションは、もともと町外れにある。
すぐに、田舎道に入っていた。
傍らを、小川が流れている。
人気のない道を、二人は歩く。
何から、切り出したらいいものか…シンジは、そう思いながらアスカの背を見ていた。
物言わぬアスカの背で、その美しい褐色の髪が、歩調に合わせて左右に揺れている。
家を出てから、既に15分以上が経過していた。
「ねぇ、シンジ。」
不意に、アスカが口を開いた。
「なに? アスカ。」
「あたしの部屋は、レイに使わせてあげてね。」
アスカは、シンジに背を向けたまま言った。
レイ?
ファーストと言わずに、レイと呼んだ。
これが、最後だからだろうか。
アスカは本当に、ドイツに帰ってしまうのだろうか。
「間違っても、あんたの『物置』を使わせちゃだめよ。
レイはそっちの方がいいというかも知れないけれど、一応、女の子なんだからね。
…ちゃんと、女の子らしくさせるのよ。
ミサトじゃ心許ないから、あんたがいろいろレイに教えてあげるのよ。」
「アスカ!」
シンジは思わず叫んでしまった。
「ほんとうに、ドイツに帰ってしまうの?」
「だって、しょうがないじゃない!」
アスカは振り向くと、シンジを見た。
その目に、涙が一杯たまって、今にもあふれそうだった。
シンジに背を向けたまま、いつから泣いていたのだろうか。
「あたしにも、わかっているのよ。
あたしがここにいる理由が、もうほとんどないことを。
昨日の晩、日本のことをもっと勉強したいとは、電話で言ったわ。
でも、あの女には、そんなことは関係ないのよ!」
あの女…アスカの義母のことだろう、とシンジは思った。
「補完計画」が発動したとき、シンジはアスカの心を覗いてしまっている。
『私はいつでも、あの子の母親をやめられますのよ。』
彼女がアスカの父にそう言ったのを、物陰から聞いていた幼いアスカの記憶を、
シンジは垣間見ている。
アスカのことを本当には愛しておらず、表面のみを取り繕う女性であるということを、
シンジは知っていた。
「あたしが、ママの国のことをもっと知ろうと、日本語の勉強を始めたときも、
あの女はいい顔をしなかった。
そのくせ、体裁ばかり気にして、世間に対しては仲のいい母娘を演じようとする。
パパはパパで、だんだんママに似てきたあたしを、避けようとしている…。
ほんとうは、あんな家に帰りたくないのよ!」
「だったら、帰らなきゃいいじゃないか!」
「世間体がそれを許さないから、言ってきたのだと思うわ。…無理よ!」
そう言うと、アスカは道端にしゃがみこみ、傍らを流れる小川に手を浸した。
「水が、冷たい。
でも、凍えるほどではないわ。
これが、春なのね。
せっかく季節が、戻ってきたのだもの。
これから、シンジたちと、陽の光を体一杯に浴びたり、寒さに身を縮めたり、
いろんなことをしたかった…。
季節の移ろいを、一緒に楽しみたかった。
…せっかくの春なのに、もう、それができない。」
「アスカ…。」
アスカは涙を拭うとシンジを見上げ、笑みを浮かべて言った。
「でも、シンジにはレイがいるものね。
あんたたちは、お似合いだと思うわ。
あたしのことはいいから、レイを大切にしてあげなさいね。」
「綾波は、ちがうよ。」
シンジは、低い声で応えた。
「え?」
「綾波は、そんなんじゃないよ。
アスカも、補完計画のときに、全てを観ただろう?
ぼくのことも…、綾波のことも。」
「………。」
「綾波は、年齢をぼくたちに合わせた、母さんのクローンなんだ。」
「知ってるわ。
でも、あんたがレイのことを好きかどうかには、そんなこと関係ないでしょ。」
「それは、そうだけど。」
「気に掛かるから…レイに魅かれているから、
毎日の様にレイの家に寄ったり、
一緒に住みたいと言っていたのではないの。」
「だから、違うんだよ。
身内っていうか、家族の一員として、接したいと思っただけなんだ。
…もっと言うと、妹みたいなものなんだ。」
「なんだ…。」
アスカは、自嘲した様にひとしきり小さく笑うと、顔を伏せた。
「あたしって、バカみたいじゃない。」
「この際だから、言うよ。」
シンジは、アスカの傍にしゃがんだ。
「ぼくが好きなのは、アスカなんだ。」
「えっ?」
アスカは驚いた様に顔を上げる。
「アスカ、君を失いたくない。帰らないでほしいんだ!」
シンジはアスカの両方の肩に、手を置いて言った。
「バカぁっ!!」
いきなり、アスカに殴られた。
シンジは、しりもちをついてしまった。
「なにが、『この際』よ。
そんなことは、もっと早く言うものだわ!」
「アスカ…。」
「シンジ!」
アスカはシンジに抱きついてきた。
「あたしも、シンジのことが好き。お願い、あたしのこと、離さないで!」
「ごめんよ、アスカ。ごめん。」
シンジは、謝りながらアスカを強く抱き返した。
肩口が、温かいもので濡れていくのを感じる。
「アスカのことは、ぼくが守るよ。だから、ここにいて欲しいんだ。」
「本当?」
アスカのその声は、やけに小さく、弱々しく聞こえた。
「本当だよ。」
「じゃあ、あたしもできるだけ、粘ってみる。
あたしが、もし、誰かに連れていかれそうになったら、
そのときは、シンジが守ってね。」
「うん、約束するよ。」
シンジは、アスカをもう一度、しっかりと抱いた。
傾いた陽が、二人の影を道端に長く落としていた。
数日後、シンジたちは、引越し先の検討を始めることにした。
レイも呼んで、幾つかの引越し先の候補について、その間取りの図面や付近の地図
を見ながら、ああでもない、こうでもないと、お茶を飲みながら話し合っていた。
「ああ、だから、ここは駄目だって。 駅から遠すぎるわ。」
ミサトが指し示しているのは、郊外の一戸建てだったが、
アスカが早速、それに文句をつけていた。
「そお? でも、バスもちゃんと通っているのよ。」
「あたしたちに、バス通学をやれっていうの?
いったい、朝何時に起きればいいっていうのよ。」
「でも、空気はきれいなところみたいだね。」
シンジが口を挟んだ。
「でしょ、でしょ。 緑が多いし、高原道路も近いのよ♪」
ミサトが嬉しそうに応じる。
「だめよ、シンジ。
どうせミサトは、週末にあたしたちを放っぽっといて、
スポーツドライブに行くことしか、考えていないんだから。」
「う…。(あちゃあ、ばればれか)」
「近くに、病院がないわ。」
レイが指摘した。
「スーパーも遠い。生活用品を揃えるとなると、街まで出るか、
車でホームセンターに行くしかないわ。」
「ホームセンターなら、私の車で…。」
「あんたが峠道を悦んでぶっとばしているその留守中に、
あたしたちが買い物しなければならなくなったらどうすんのよ。
だいたい、あんたの車って、そんなに荷物載せられないでしょうが。」
「う…。」
そう言われては、ミサトは返す言葉がなかった。
「却下。」
アスカが言うと、
「却下。」
レイも続いた。
「残念ながら、却下ですね。
じゃあ、ここはどうです?
駅から近いし、間取りもちょうど、今より一部屋多いみたいだし。」
「駄目よ、狭すぎるわ。窓も少ないし。
大体、今より一部屋多いだけじゃ、駄目なのよ。」
「え、どうして?」
「シンジ、そんなに物置暮らしを続けたいの。
もっと陽のあたる、広い部屋に住みたいとか、思わないわけ?」
「そりゃ、まあ。」
「と、いうわけで、却下!」
「ここは、どうかしら。」
続いて、レイが指し示した間取りのマンションを、シンジたちは見た。
「…いいんじゃないかな。」
「そうね、このくらい広ければ、申し分ないわ。」
「あ、やっぱりそう来たか。一番高いのよね、ここ…。」
「何言ってんのよ、この高給取りが。
ちゃんと、知ってるのよ。
車の道楽と酒を、もう少し控えたら、結構余裕があることくらい。
うん、ここなら交通の便もいいみたいね。
ここにしましょ。
ホント、シンジよりレイの方が、よっぽどしっかりしてるわ。
『妹』じゃなくて、『姉さん』と呼んだ方がいいかもね。」
「は? 何の話?」
ミサトが訝るが、
「いいの、いいの。こっちの話よ。 それよりも…。」
アスカが何か言いかけようとしたところで、電話が鳴った。
「あ、あたしが出るわ。」
そういうと、アスカはリビングを出て、キッチンにある電話台に向った。
「ね、ね。『妹』とか『姉さん』とか、一体何のこと?」
アスカが席を外してから、再びミサトの詮索が始まった。
当然、その矛先はシンジに向けられている。
「だから、何でもないんですってば。」
ちゃんと説明すればいいものを、変にごまかそうとするものだから、
ますますシンジは深みにはまっていく。
「そーかなー。この間から、レイの家に頻繁に寄っていたし、
アスカとも、何かあったみたいだし。
保護者としては、気になるのよねぇ、そこんところ。」
にやにや笑いながら、ミサトは言う。
あるいは、ミサトには見当がついているのかも知れない。
ミサトもまた、補完計画発動のときに、シンジの心を覗いている。
もちろん、レイの出自をも知っている。
知っていながら追求しようとしているのだとしたら、ミサトも相当に人が悪かった。
「もう、やめましょうよ、そんな話。
それより、このマンションでいいんですよね。
よければ、空き部屋の確認とか、具体的な計画を進めますよ。」
レイは、二人の会話がさも、「自分には関係がない」といった様な顔をして、
候補となったマンションの周辺マップを調べている。
そこへ、アスカが戻ってきた。
「シンジ…。」
やけに真剣な表情で、リビングの入り口に突っ立ったまま声をかけた。
「どうしたの。まさか、ドイツからの電話だったの?」
シンジの問いかけに、無言で頷く。
「それで、何と…。」
「あたし、ドイツに帰らなくても、よくなっちゃった。」
「え、どういうこと?」
「『本当は淋しいけれど、日本への【留学】を続けたいという、
あなたの熱意を尊重することにしたわ。』だって。
この前と、話が全然違うわ。
わけわかんない!」
「ふーん、やっぱりねぇ…。」
ミサトが思わずもらした言葉に、
「なによ、ミサトはこうなることがわかってたの?」
アスカが喰ってかかる。
わかっていたなら、教えてくれればよかったのにと。
「あ、いや。絶対そうなると、わかっていたわけじゃないのよ。
あくまでも、可能性の一つよ。」
「どんな?」
「まあ、いろいろとあるのよ、大人の世界には。」
「なによ、あたしを子供扱いしようってんの!」
アスカは、これまで翻弄された腹いせを、何かにぶつけたい様だった。
「まあまあ、アスカ。今は素直に喜ぼうよ。帰らずに済んだことを。」
「…そうね。」
アスカは、シンジの傍に腰を下ろした。
それから、いつもと同じ口調で、こう言った。
「ミサト、レイ。
このことは、見なかったことにするのよ。いいわね!」
言い終わると、アスカはシンジに抱きついていた。
「あの、アスカ…。」
シンジは何か言いかけたが、すぐにそれを呑みこんでアスカを抱きしめた。
ミサトとレイに背を向けたそのアスカの両肩は、小刻みに震えていた。
ミサトは黙ったまま、それを見ていた。
アスカは、本当に両親に愛されてはいない_。
アスカがここに居続けることが、彼らにとっては好都合なのだ。
だが、世間体というものがある。
役目の終わったアスカが、両親のもとに帰ってこないのは、不自然と見られかねない。
だから、アスカがそれを嫌がるのを承知の上で、一旦は「帰って来い」と言ったのだ。
日を置いてから、「アスカの意志を尊重する」と言ったのも、予定の行動であろう。
帰るところのないアスカを、ミサトは気の毒に思うと同時に、
これでいいのだ、とも思った。
『シンジ君、アスカを大切にしてあげるのよ。』
二人を見つめるミサトの目は、いつになく優しかった。
完