綾 波 レ イ の 休 日
- 続 ・ 春 な の に -
ここ最近、碇君は、わたしにとてもやさしい。
以前から、なにかと気をつかってくれてはいた。
だが、一緒に住むようになってからこの3ヶ月、その頻度がすいぶんと増えた様な気がする。
わたしに向ける笑顔も、増えた様に思う。
でもわたしは、その笑顔に何かしら、違和感の様なものを感じている。
義理的なもの、と言ったらそれは言い過ぎだろうか。
いや、たしかにそれは、本心からのものだとは思う。
でも、その笑顔の向こうには、常にあの人…弐号機パイロットを感じるのだった。
そうだ、その呼び方、『弐号機パイロット』と言ってはいけないのだった。
「だめだよ、レイ。
もう、家族なんだから、『アスカ』と呼ばなきゃ。」
碇君…いえ、兄さんは、そう言ってわたしをたしなめる。
わたしは、碇ユイのクローンであり、年齢的には彼と同い年であるものの、
彼の後からこの世に生を受けたことから、立場上は「妹」ということになっている。
レイと呼ばれることには、なんの抵抗もない。
同居している少女をアスカと呼ぶことも、もう少しすれば慣れるだろう。
でも、彼…碇君のことを、「兄さん」と呼ぶことには、どうしても馴染めない。
それでも、彼がそれを望む以上、わたしはできるだけ「兄さん」と呼ぶことにしている。
違和感の原因のひとつは、そこにあるのかも知れない。
…望まぬままに、家族を演じなければならないことに。
わたしは本当は、「碇君」−「綾波」の関係のままでいたかった。
兄−妹の関係になったことで、却ってお互いの距離は開いた様な気がする。
碇君…兄さんは、わたしと「家族の一員」として接したいと言った。
一緒に住むことになった理由も、それだった。
それはそれで、嬉しかったのだけれど、何か大きなものを失った様な気がする。
たとえて言うなら、それは将来、わたしと彼とが「男と女の関係」になる可能性を
捨てたことになるからなのかも知れない。
一方で、アスカは兄さんと、そうなる可能性が大きくなった。
わたしにはそれが、なにかしら淋しく感じられる。
それを知っているからこそ、兄さんはわたしにやさしくしてくれるのだろう。
夏休みに入って間もない、ある日曜日の午後_。
「それじゃ、レイ。行ってくるね。」
今、兄さんはアスカと、二人で買物に行こうとしている。
わたしを一緒に誘うこともあれば、今日の様にわたしに留守番を頼むこともある。
家族としてわたしを連れていく場合と、わたしがただの『お邪魔虫』の場合がある様だ。
二人は、はっきりそうだとは言わないが、これがデートであることはわたしにも判る。
「レイは晩ごはんは、何が食べたい?」
玄関口で兄さんは、わたしにそう尋ねる。
「ハンバーグがいいわ。」
あえて、アスカが好きなものを答える。
「本当にそれでいいの?」
無理しなくていいのよ、という口調でアスカが言ったが、わたしは黙って頷いた。
葛城三佐…いえ、ミサトさんとわたしたち、四人で暮らすようになってから、
わたしの食生活はずいぶんと変わった。
皆に合わせられるよう、かなりのものが食べられるようになった。
まだ、血の味が残るものは好きではないが、十分に加工された肉や魚は口にできる様に
なっていた。
「じゃあ、そうするね。」
兄さんは、そう言った。
「帰りに、ケーキでも買ってくるよ。」
おそらく、わたしが好んで食べる苺ショートを買ってくるのだろう。
アスカはモンブランが、兄さんはショコラが好きな筈だが、二人がデートに出かけるときは、
必ずと言っていいほど、そういうものを買ってくる。
そのやさしさが、わたしには少しつらかった。
二人が出かけたあと、わたしは手持ち無沙汰になった。
いつもなら、そういうときは本を読んで過ごす。
だけど今日は、そんな気分にはならなかった。
何処へいくというあてもないのだけれど、わたしも出かけることにした。
ここ数日、暑い日が続いていたが、今日はわりと過ごしやすい。
天気予報では今日も晴れると言っていたのに、空を薄く雲が覆っている。
日差しが強くない分、日焼けに弱いわたしにはありがたかった。
何処へ行こうかと思い、結局わたしは駅前の本屋に行くことにした。
なんのことはない、今手持ちの本に、わたしは飽きただけなのだった。
なにか面白しそうな、新しい本がないか探そうと思っていた。
本屋に入ろうとしたところで、そこから出てきた赤木博士と出くわした。
「あら、レイ?」
「こんにちは。」
「今日は、ひとり?」
数日前も、街角でわたしは赤木博士と出会ったのだが、そのときはわたしの普段着を
買いに行く途中で、兄さんとアスカが一緒だった。
「ええ。新しい本を買おうと思って。」
「そう…。」
赤木博士は、何か言いたげな表情でわたしを見た。
「あの、なにか?」
「レイ…。」
博士は少しためらっていたが、やがてしっかりとわたしを見て言った。
「レイ、つらくない?」
「つらいって、何がですか。」
「シンジ君たちと、一緒に住むことよ。
あなたにとって、他人との共同生活は、初めてでしょう。
かえって、不自由なことはない?」
「とくに、そんなことはありません。」
「あ、いえ、私が言いたいのは、そんなことじゃなくて…。
どう言ったらいいのかしら。」
赤木博士は、まだ何か言いにくそうにしていたが、やがて思い切った様に言った。
「シンジ君とアスカの二人を見て、なんとも思わない?」
「………。」
わたしは、押し黙った。
この人は、全てを知っているのではないかと、思った。
わたしのひそかな悩みを。
胸のうちに、澱のように溜まっている小さな痛みを。
「あの二人は、あなたにやさしい?」
「ええ。」
彼女は確信したように、頷くと言った。
「でも、それがつらいのでしょう?」
「…そうかも知れません。」
「シンジ君のことが、好きだから。
そうなのでしょう?」
「なぜ…。」
それを、という言葉をわたしは呑み込んだ。
「わからないわけないわ。
ミサトと違って、私はずっと昔から、あなたを見てきたのだもの。
この1年の間に、あなたがどう変わってきたかを知っているし、
その変化を生じさせたのが誰なのかも、少し考えれば見当はつくわ。」
「どうすれば、いいのですか。」
わたしはつい、その言葉を口にしてしまった。
明確な答えなど、ないということを知りながら。
そのことを思い知ることで、余計につらくなるかも知れないのに。
「時間が解決するのを、待つしかないかも知れないわね。」
吐息をつく様に、赤木博士は言った。
…ああ、やはり。
「でも、」
と、彼女は続けた。
「少しでも、前向きに解決したいと思うのなら…。
恋を、しなさい。
もっと着飾って、街に出てもいいし、
積極的に何かのサークルに参加してもいい。
新しい出会いがあれば、それが糸口になるかも知れないわ。」
「碇君以外のだれかと、恋を?」
そんなことが、できるのだろうか。
「男と女の関係は、ロジックじゃないのよ。」
赤木博士は、微笑んで言った。
「いつ、誰を好きになるかは、わからないものよ。
それが、幸せなのかどうかも、わからないけどね。」
「はい。」
「本を読むことは悪いことではないけれど、そればかりでは駄目よ。
もっと、外に出ること。
以前は無理だったかも知れないけど、今のあなたなら、それができる筈よ。
少し、勇気をだせばね。」
「…わかりました。」
結局、わたしはその本屋に入ることをやめたのだった。
赤木博士と別れたあと、あてもなく、わたしは街を歩いてみた。
ふと、目に留まったショウウィンドウなどを、覗いてみたりする。
そこに陳列されている夏服の中に、水色の涼しげなワンピースを見つけた。
『もっと着飾って、街に出てもいい』
博士の言葉が思い出される。
それを見て、いろんなことを一度に思った。
碇君…いえ、兄さんは、こんな服は好みだろうか。
たとえばわたしがこれを着ても、似合うだろうか。
赤木博士はああ言ったが、彼女自身もこんなふうに陳列された服を見て、
あれこれ思うことがあるのだろうか。
そういえば、服を眺めて佇むなんてことは、わたしにとっては初めてのことだった。
先日、わたしの普段着を買いに出かけたときも、わたしはろくに見もしないで、
兄さんとアスカに、全てまかせっきりにしていたのだった。
幸い、今は少し持ち合わせがあるし、カードも持っている。
(わたしが買う本は、専門書であることが多く、結構高かったりするのだ。)
わたしは店に入り、思い切ってその服を買うことにした。
…これを、『衝動買い』というのだろうか。
「お似合いですよ。」
店の人にそう言われ、わたしは少し気をよくして店を出てきた。
とたんに、むっとする熱気に襲われる。
店の中は冷房が効いていて快適だったのに、この暑さは一体何なのだろう。
店に入る前は、これほど蒸し暑くはなかった様な気がする。
日差しは、相変わらず強くはない。
それなのに、この不快感は昨日までの猛暑をしのぐのではないかと感じた。
せっかく気分よく買い物ができて、わたしにしてみれば小さな快挙であったのに。
涼を求めてわたしは、建物沿いの影の部分の歩道を歩いた。
そのとき_。
「ほら、しっかり前を見て歩く。 蹴つまづいてるんじゃないわよ!」
聞き慣れた、声が聞こえた。
「そんなこと言ったって、
こんな大きな荷物持たされたら、前なんか見えるわけないじゃないか。」
やはり、そうだ。
この声は、兄さんとアスカだった。
何故か、わたしは、路地に入って二人から隠れてしまった。
「なによ、文句あるの。」
「…いいけど、身軽なアスカほど、こっちは早く歩けないんだから。
もうちょっと足もととかに、気を配ってくれてもいいだろ。」
相変わらずの二人だと思いながら、わたしは二人が近づいてくるのを待つ。
それにしても、どうしてわたしはこんな薄暗い路地に隠れているのだろう。
そう、頼まれた留守番をせずに、街に出て来ているのを見られるのが気まずかったのだ。
「文句じゃない、それって。」
「………。」
しばしの沈黙のあと、
「アスカはいいよな。 涼しげに、アイス片手にして。
まったく、人の苦労も知らないで。」
文句から、愚痴に変わった。
「ああ、わかったわよ。
あんたがいらないというから、一つしか買わなかったんじゃない。」
そのとき、わたしには目の前を通り過ぎる二人の姿が見えた。
兄さんは、大きな紙袋を抱えている。大きすぎて、手に提げることができない様だ。
中身は、何着かの衣類…おそらく、アスカが買い漁ったものだろう。
顔の下半分くらいのところまで視界を覆っており、確かにあれでは歩きにくいと思った。
アスカの方は、小さなバッグ一つしか持っておらず、しかも空いている方の手で、
アイスキャンデーを舐めている。
そこまでは、見慣れた様な光景だった。
ところが、
「ほら!」
そう言って、アスカは手にしていたアイスを、兄さんの顔の前に差し出したのだ。
「な、なに?」
両手の塞がっている兄さんは、面食らっていた。
「一口、あげると言っているのよ。 好きなだけ、齧りなさいよ。」
「うーん…。じゃ、ちょっとだけ。」
「好きなだけ、と言ってるでしょ。」
そういうアスカの目は、どこかやさしい。
兄さんも、笑みを浮かべて、
「じゃ、遠慮なく。」
そう言うと、口を開けて差し出されたアイスに齧りついていた。
それだけのこと…それだけのことだったが、
わたしにとっては、衝撃だった。
気が付くと、ワンピースの入った紙袋を胸に抱いたまま、薄暗い路地にひとり、
わたしはしゃがみ込んでいた。
あの二人の声はおろか気配すら、今はもう感じられない。
いったい、どのくらいそうしていたのだろう。
わたしは立ち上がり、路地から出てきた。
人通りの少ない歩道には、やはり兄さんとアスカの姿はなかった。
不意に、わたしは思った。
『恋が、したい!』
開いてしまった胸の隙間を埋めるには、それしかないように感じられた。
少し、しわになってしっまった紙袋を提げて、わたしは再びあてもなく街を歩いた。
今はもう、どこかの店に立ち寄ろうというような気は、失せていた。
ただ、歩く_。 やみくもに、歩く。
疲れたと感じたら、帰ろう。
それまでは、歩けるところまで歩こう…ぼんやりと、そう考えていた。
急に、冷えてきた。
そう気付いたとき_。
突然の雨滴が、歩道の敷石を濡らし始めた。
みるみるうちに、それが勢力を広げていく。
ざあああああああ…。
『夕立?』
大粒の雨が、容赦なく降り注いできた。
雨宿りをしようにも、近くに適当な店がなかった。
ずいぶんと歩いたためか、すでにそこは商店街ではなかった。
わたしは、人通りの絶えた、休日のオフィス街まで来てしまっていたのだ。
少し向こうの交差点に、地下鉄への入り口が見えた。
わたしは、そこに向って、懸命に走る。
わたし自身がずぶ濡れになることよりも、せっかく買ったワンピースを、
こんなことで濡らしたくなかった。
だが、水気を吸った紙袋は、心なしか重くなってきている様な気がする。
中にまで、雨が滲み出してきていないか、気が気ではなかった。
さらに急ごうと、速度を増したそのとき_。
思わず振ってしまった紙袋の、取っ手の根元が音をたてて破れた。
「あ…。」
わたしは、地に落ちた紙袋を拾うと、思わず膝を付いてそれを抱きしめた。
「どうしよう。」
どうしようも、なかった。
もう、紙袋の取っ手を提げて走ることはできない。
わたしは、それを抱いたまま、少しでも雨から守るために身を屈めるしかできなかった。
冷たい雨滴が、わたしの全身を濡らしていく。
「早く、止んで。」
じっとりと水分を含んだ紙袋を抱いて、わたしはそう祈るしかなかった。
わたしの祈りが通じたのだろうか。
不意に、降り注ぐ雨滴が途絶えた。
「大丈夫ですか。」
誰かがわたしに、開いた傘をかざしているのに気付いた。
見上げると、同い年くらいの少年が、傍らにしゃがんでいた。
わたしが不思議そうに見つめると、少年はどぎまぎした表情を見せた。
気の弱そうな、凡庸な顔立ちの少年だった。
どことなく、雰囲気が碇君…兄さんに似ている。
わたしが、ぼうっと見上げていると、
「あの、大丈夫ですか。」
もう一度、少年は言った。
わたしは、黙ったまま頷いた。
「立てますか。」
「ええ。」
わたしは応えると、立ち上がった。
少年は、わたしに傘をかざしたまま、一緒に立ち上がる。
「よかった…。」
少年は、ほっとした様に言った。
「気分でも悪くなったのかと思って。」
「わたしは、大丈夫。
でも、せっかく買った服が濡れてしまって…。」
「その、荷物のこと?」
「ええ。」
「ちょっと、いい?」
少年は、紙袋を覗き込む様にすると、
「大丈夫じゃないかな、これくらいなら。
部屋の中に陰干ししておけばいいと思う。
どうしても心配なら、クリーニングに出してもいいけど、
そこまでしなくてもいいんじゃないかな。」
「そう、よかった。」
「ともかく、そこの地下鉄まで行こう。」
わたしたちは、地下鉄の入り口までいくと、そこで雨を拭った。
私は自分の体を、少年はわたしの荷物をハンカチで拭いた。
「ありがとう。」
わたしはやっと、その言葉を口にした。
「いや、いいんだ。」
少年は、顔を赤くする。やはり、雰囲気がどことなく兄さんに似ている。
「名前を聞いても、いいかしら。」
少年は、少しためらっていたが、
「浅利…。」
とだけ答えた。
「わたしは、綾波。」
「綾波さん、か。 家は、この近く?」
わたしは、かぶりをふった。
「バスで来たの。」
「じゃ、じゃあ、そのバス停まで送っていくよ。
あ、でもその前に…ちょと、待っててくれる。」
そう言うと、浅利君は地下鉄の階段を駆け下りていった。
「あの…。」
呼び止める間もなかった。
やがて、息を切らせて戻ってきた。
そうしないと、わたしがいなくなってしまうとでも思っているかのように。
彼は手にしていた、新しい紙袋をわたしに差し出すと言った。
「これに、入れ替えるといいよ。」
地下鉄の売店で買ってきたものだろう。
多少雨に濡れてもいいように、ビニールが全体を覆っている。
「…いいの?」
「遠慮しなくていいよ。」
「あの、どうして。」
「うん?」
「どうして、見ず知らずのわたしに、こんなことを…。」
「困っているときは、お互いさまさ。
…といっても、信じてくれないよね。」
「………。」
「………。」
しばしの、沈黙があった。
「似てたんだよ、後ろ姿が。」
ぽつりと、彼が言う。
「え?」
「…似てたんだよ、君の後ろ姿が。
雨にうたれて膝をついている君の姿が、ぼくの、好きな人に。
だから、ほっとけないと思った…。」
「そう。」
「ああ、おれ、何を言ってるんだろ。
変だよね、こういうのって。」
わたしは、だまったまま、かぶりをふった。
「変じゃない?」
「わたしも、あなたのこと、知ってる人にちょっと似ていると思ったもの。」
「そ、そうなんだ。」
浅利君は、顔を赤らめた。
「紙袋を、お借りするわ。」
「あ、ああ。どうぞ。」
わたしは紙袋を受け取ると、ワンピースを入れ替えた。
肩のところが、少し濡れてしまっている様だったが、汚れてはいなかった。
浅利君の言うように、陰干ししておけばいいのかも知れない。
濡れて破れた方の紙袋を、地下鉄入り口のごみ箱に入れると、
雨がずいぶんと小降りになってきているのに気づいた。
「いろいろと、ありがとう。」
わたしがそう言うと、
「あ、あの、送っていくよ。」
あわてた様に、浅利君が言う。
わたしは、少し笑って言った。
「ええ、お願いするわ。」
浅利君は、不思議なものを見る様な顔で、わたしを見た。
「どうかしたの。」
「笑うと、マナにそっくりなんだ…。」
「なに?」
「なんでもないよ、行こう。」
彼が傘をさしたので、わたしはそれに入れてもらった。
浅利君は、どこかで聞いたような名前をさっき言ったが、
彼とは初対面なので、たぶん気のせいだろう。
歩きながら、余計なこととは思ったが、彼に聞いてみた。
「さっき言ったのは、あなたが好きな人の名前?」
「うん…。」
「そんなに、わたしと似ているの。」
浅利君はわたしを見て、あいまいな笑みを浮かべてかぶりをふった。
「後姿は似ていると思ったけど、雰囲気はやっぱり違う。
目元なんか、綾波さんの方がきりっとしてるし…。
でも、さっき見た笑った顔は、似ていると思った。」
「そう…。」
「綾波さんが言った人も、ぼくに似てるの?」
「雰囲気だけ。」
「そうなんだ。」
それからしばらく、わたしたちは押し黙った。
ややあって、わたしはまた尋ねた。
「その人も、あなたのことが好きなの。」
「………。」
浅利君は、下を向いて答えなかった。
「ごめんなさい、余計なことを聞いたわ。」
「いいんだ。嫌われているわけじゃないと思うから。
でも、彼女はぼくを、ただの友達としか思っていないと思う。」
「そうなの。でも、笑顔を見せてくれるのでしょう?」
「うん。」
「だったら、悲観することはないわ。」
「そうかな。そうだといいんだけど。
…いや、やっぱりだめだよ。あいつにはかなわない。」
「あいつ?」
「彼女はぼくなんかよりも、好きなやつがいるんだよ。
ぼくの、親友なんだけどね。」
「………。」
そうなると、わたしは何も言えなかった。
「友達でいられる_。
今は、それでよしとしなければ、いけないんだろうね。」
浅利君は、淋しそうに笑ってそう言った。
いつの間にか、雨が止んでいた。
「止んだわ。」
「そうだね。」
浅利君は頷くと、傘を畳んだ。
「ありがとう。
あそこのバス停から、わたしはバスに乗るわ。」
「うん…。」
彼は、なんだか名残り惜しそうにしていた。
「でも。」
わたしは、浅利君の方に向き直った。
陽が、照りだし始めるのを感じる。
夏の日差しが、回復しようとしていた。
「浅利君さえよければ、服がもう少し乾くまでの間、お話しててもいいかしら。」
「もちろん!」
彼の顔が、ぱっと輝いた。
それから、わたしたちはバス停の椅子に腰掛けて、しばらくの間とりとめもない会話を
続けたのだった。
家に帰ったのは、夕方近くになってからだった。
「あっ 帰ってきた!」
玄関を開けると、アスカが飛び出すように走り寄ってきた。
「もう、どこへ行ってたのよ!」
「ごめんなさい、ちょっと買物に。」
「あ、あんたも濡れたんだ…。」
アスカの言葉に、兄さんがバスタオルを持って出てきてくれた。
「レイも、夕立にやられたの?」
「ええ、でも大丈夫。」
着ていた服は、かなり生乾きの状態になっていた。
それよりも、せっかく買ったワンピースを、早く陰干しにしたかった。
リビングに入って、服をどこかに掛けようと思ったら、先客がいた。
部屋を横切るように、ビニールロープが張り渡されて、数点の洗濯物が干してある。
「あんたがちゃんと留守番していてくれたら、外側の洗濯物が雨に濡れなくてすんだのよ。
まったく、出かけるときには、天気くらい確認してから行きなさいね。」
アスカが、両手を腰に当ててそう言う。
…ひとのことは、言えないと思う。
わたしは、黙ったまま紙袋からワンピースを取り出すと、ロープの端っこに干した。
「「その服、どうしたの?」」
兄さんとアスカが、声をそろえて言った。
「買ったの。」
「レイひとりで?」
「ええ。」
「珍しいことがあるもんねぇ。
そうか、レイが買っていたんだ。
あたしも、目に付けていた服だったのに〜。」
「アスカも、その服を買う予定だったみたいだよ。」
兄さんが、微笑みながら説明した。
「ぼくたちが、買いにいったとき、
『たった今、売れたことろです。』って言われてね。
アスカが、悔しがっていたよ。」
「そうだったの。 よかったら、あげるわ。」
「本当!?」
「だめだよ、アスカ。
レイが買ったんだから、この服はレイのものだよ。」
「そう…そうよね。
でも、ときどきでいいから、あたしにも着させてね。
それならいいでしょ?」
「ええ。」
「そうだ、折角だから、体の前に当てて見せてよ。」
兄さんがそう言うので、わたしは二人の前でワンピースを体の前に当てて見せた。
「へぇ〜。すごく似合ってるよ! レイ。」
「うぅ…。あたしよりも、似合ってるかも。」
二人が口々にそう言うのを聞いて、わたしは内心、とてもうれしかった。
「ったく、柄にもないことをするから、雨が降るんだわ!」
アスカがぼやいているのを耳にしながら、わたしは浅利君にも見てもらいたいと、思った。
彼なら、何というだろうか。
でも、どこに住んでいるかも知れないし、電話番号も知らない。
近隣の町に住んでいるのだろうけど。
そういえば、浅利君は別れ際に、わたしに何か言いたそうだった。
あるいは、わたしの電話番号でも聞きたかったのかも知れない。
「あの…。」
と口ごもりながら言うので、なに?とわたしが尋ねると、
顔を赤らめながら、
「また、会えるといいね。」
と言う。
「ええ。」
そう言って、わたしたちは別れたのだった。
今思えば、連絡先を教え合っておけばよかった。
『いい友達になれたかも知れないのに。』
もう一度、会えるだろうか…。
水色のワンピースをもう一度陰干しにしながら、わたしはぼんやりと、そんなことを考えていた。
完