タ ー ニ ン グ

-  Ver.ASUKA -


「ねえ、アスカ。」
その日の放課後、ヒカリが小声でアスカに尋ねた。

「碇君と、何かあったの?」

「別に。何もないわよ。」
いつもと同じ口調で、アスカは答える。

「そう? 何か、碇君のことを避けているみたいだし。
 その割には、ときどき碇君のことを見ているから、何かあったのかと思ったのよ。」

「別に、シンジなんか見ていないわ。ヒカリの思い過ごしじゃないの。」

「だったら、いいんだけど。
 ところで、もうすぐバレンタインよね。アスカは誰かに、チョコあげたりするの?
 たとえば、碇君とか?」

「ばか言わないでよ、なんであんな奴に!
 それに、日本のその習慣って、好きになれないわ。」

「ドイツでは、違うの?」

「日本だけよ、そんなことしてるのは。
 あちらでは、バレンタインはお祭りで、パーティを開くことになってるの。
 まあ、そのときにプレゼント交換をすることはあるけど。
 女の子が、男の子に贈り物をするのは、ふつうは4月よ。」

「サン・ジョルディの日ね?本を贈るんだっけ。」

「そう、それそれ。よく知ってるわね。」

「でもね、アスカ。
 ”郷に入れば郷に従え”って言うじゃない。
 実はわたし、これから家に帰ってチョコ作りの練習をするの。
 アスカさえよかったら、一緒にやらない?」

「ごめん、遠慮しておくわ。
 だれのためのチョコかは聞かないけど、がんばってね。」

「ありがとう。
 気が変わったら、いつでも言ってね。
 じゃあ、わたし、帰るね。お先に。」

「ばいばい、また明日ね。」

ヒカリが帰るのを見送ってから、アスカは自分の席で頬杖をついた。

『バレンタインか…。』
ぼんやりと、考え事に沈み込む。

『ヒカリのことだから、本命は鈴原よね。
 あたしがチョコをあげるとしたら…やっぱり、バカシンジになるのかしら。
 でも、あいつ、喜ぶだろうか。』

アスカは、無意識に唇に触れた。

『夕べ、あたしからキスしてあげたというのに、あいつは嬉しそうじゃなかった。
 以前、隣で眠り込んだあたしにキスしそうになったというから、こちらからチャンスを
 あげたというのに。
 やっぱり、あたしのこと、好きじゃないのかしら。』

意識しないまま、何度も唇をなでる。

『”退屈だから、キスしよう”と言ったのがまずかったのかも。
 …チョコだったら、喜んでくれるのかな。
 日本では下手な言葉よりも、相手に好意を伝える有効な手段だものね。』

アスカは、唇から手を離し、決意を込めてしっかりと握りしめた。

『うん、そうしよう。
 ”郷に入れば郷に従え”よね。 明日、ヒカリに頼んでみよう。』 
 

 
 
翌朝。

登校してすぐ、アスカは教室にいたヒカリにおはようと言った後で、こう続けた。

「ねえ、ヒカリ。やっぱり、チョコの作り方、教えてくれない?」

「いいわよ、アスカ。」
ヒカリは微笑んで応えた。

「じゃあ、学校が終わったら、うちに来る?」

「ええ、お邪魔するわ。」

「だれにあげるものかと言うことは、その日がくるまでは…。」
「お互いに、言いっこなしということで。」

考えていることは同じだと知って、二人は笑みを浮かべ、頷き合う。

『鈴原に、あげるつもりなのね。』
『碇君に、あげるつもりなのね。』

口に出さなくても、分かる。
だが、口に出してしまったら、とても恥ずかしくて作業に支障が出てしまう。
どのみち、その日が来たらわかってしまうことだ。
だったらその日までは、チョコ作りに専念できた方がいい。
二人は、そう考えたのだった。

その日の放課後、アスカはヒカリといっしょに帰った。
シンジは、掃除当番で居残りとなっている。
だから、とくにシンジに不審がられることはなかった。



そして、その翌日。
朝からアスカは、機嫌がよかった。

「やっぱり、ミルクの量が大事なのよね。
 本体の味をころさずに、まろやかに仕上げるのがコツなのよ。」

始業前の教室で、自慢げにアスカはヒカリに言う。
思った以上に、チョコ作りの練習がうまくいっているのだ。

「さすがね、アスカ。
 あんなに上達が早いとは思わなかったわ。
 もう、わたしが教えることは、ほとんどないみたい。」

「そんなことないって。ここからが、大事なんでしょ?
 しっかり伝授してもらうわよ、ヒカリの”秘伝の隠し味”を。」

そう言うと、ヒカリとアスカは楽しそうに笑い合った。

「ねえ、何の話?」
シンジが、にこやかな笑みを浮かべて、会話に加わろうとしてきた。
何かの料理の作り方と、勘違いをしたのかも知れない。

「あんたには、関係ないの。あっちへ行ってなさい!」
ばしっとアスカは言う。

怒って見せはしたが、内心は慌てていた。

「なんだよ、教えてくれてもいいじゃないか…。」
ぶつぶつ言いながら去っていくシンジを見て、アスカはほっとした。


だが、アスカの機嫌が良かったのは、午前中だけだった。
午後からは、チルドレン三人に召集がかかって、本部でハーモニクステストが行われた。

そのとき、はじめてシンクロ率でシンジがトップに立った。
シンジは単純に喜んでいたが、アスカの機嫌はみるみる悪くなった。

「なによ、あのばか、浮かれちゃって!」

テストが終わったあと、ロッカールームでさんざんアスカは悪態をついた。

「ちょっとあたしが気を抜いたからって。
 たまたま、一回くらいトップになったからって。
 あのはしゃぎ様はなによ!
 あたしがキスしてあげたときに、もう少し嬉しそうな顔してたなら可愛げもあるのに。」

レイがそばにいるのに、何ら気にすることなく悪態は続いた。

「あたしの実力は、こんなものじゃないわ!
 見てなさいよ、今に思い知らせてやるんだから。
 まぐれで勝ったからって、いい気になるんじゃないわ。
 もういい!
 あんな奴に、チョコあげようと思ったのが間違いだったわ。」

着替えていた、レイの手が止まった。

「碇君に、チョコをあげるつもりだったの。」

「冗談でしょ、だれが、あんな奴に!」
そう言うと、アスカは手近にあった空のロッカーを、どん、と叩いて部屋を出た。

『チョコなんか…。チョコなんか、だれがあんな奴に!』
繰り返し、胸の内でそうつぶやく。

ヒカリに乗せられたとはいえ、浮かれていた自分はなんて格好悪いんだろう。

『そうよ、天才パイロットのこのあたしが、世間なみに馬鹿騒ぎに付き合うことは
 なかったのよ!』

そう思う一方で、別の声が胸の内でつぶやいていた。

”ほんとうの天才は、シンジかも知れない”と。

いきなりの実戦でシンクロ率が40%を超え、その後も急激に伸び続けている。
とくに、何の努力もなしに、だ。

『エリートと呼ばれたこのあたしが、エヴァを手足の様に動かせるようになるまで、
 どれだけ苦労したと思ってるのよ!
 認められない、認めたくない。そんな人間が、身近にいるなんて!』

アスカは、ぐっと唇を噛みしめて、涙があふれそうになるのをこらえた。



二日後。

「どうなってんの、富士の電波観測所は!」
発令所のメインスクリーンに目をやりながら、ミサトは言った。

「探知していません。直上に、いきなり現れました。」
日向が応じる。

スクリーンには、第3新東京の上空に浮かぶ縞模様のある球体が映し出されていた。

「パターン、オレンジ。ATフィールド反応なし。」
「ATフィールドがない? どういうことなの。」
「まさか、新種の使徒?」

スタッフが騒然とする中で、ミサトの声が響く。
「パイロットたちは?」

「迎えの車が行っています。間もなく、全員が到着します。」

ほどなくレイ、シンジ、アスカが到着し、3機のエヴァが出撃することとなった。

「エヴァンゲリオン零号機、初号機、弐号機、リフトオフ!」

ミサトの号令とともに、3機の最終安全装置が解除され、市街地に配備される。

「三人とも、いい? まずは、目標を市街地上空から外におびき出すわ。
 相手の出方が分からない以上、本格的な作戦行動はそれからよ。」

しかし、ミサトの伝えた作戦は実現しなかった。

「はい、は〜い。先鋒は、ナンバーワンのシンジ様がいいと思いま〜す♪」
「なんだよ、いきなり。」

「あら、自信ないの? せっかく”ナンバーワン”の実力が見れると思ったのに。」
「いいよ、お手本を見せてやるよ!」

アスカの揶揄に、シンジは過剰に反応した。

「ちょっと、あんたたち!」
ミサトの制止も耳に入らないのか、初号機が前に出る。

「まずは、牽制からだ。」
「待ちなさい、シンジ君!」

そのときには、初号機が使徒に向けてエヴァ専用拳銃を、2,3発撃っていた。
銃弾は使徒をすり抜け、その直後にそれは起こった。
 
「パターン青、初号機の足元です!」
「か、影が!」

青葉とシンジが、ほぼ同時に叫んだ。

「なんだよ、これ。おかしいよ!」

初号機は、みるみる足元の影に呑み込まれていく。

「アスカ! レイ! シンジ君の救助を!!」

ミサトの指示で、弐号機が駆け寄る。

「ばか、何やってんのよ!」
沈みゆく初号機に手を差し伸べようとするが、それが届く前に初号機は完全に呑み込まれた。

「碇君!」
レイは、上空の球体に向って発砲する。

が、銃弾は使徒を素通りし、かわりに弐号機の足元に黒い影が現れた。

「いやぁ!」
手近のビルを這い上り、アスカの弐号機はかろうじて影から逃れた。

ミサトは、苦渋の決断を迫られる。

「アスカ、レイ。撤退しなさい。」

「待って。まだ初号機と碇君が!」
レイの言葉に、ミサトも、アスカも驚いた。

だが、
「…命令よ、下がりなさい!」

肩を震わせて言うミサトの言葉に、レイはしぶしぶ従った。




その後、緊急ミーティングが開かれた。

使徒の本体はあの黒い影であると説明した上で、リツコは初号機の回収を最優先で行うと
告げた。
「この際、パイロットの生死は問いません。」

ミサトの平手打ちが、リツコの頬に飛んだ。

「あんた、何考えてんのよ!」

二人のやりとりを傍目で見ながら、アスカは『まさか!』と思った。
いくらなんでも、それはひどい、と思った。

ミサトはよく、『パイロットの保護を最優先に』と言う。
作戦がうまく行かず、”仕切り直し”となる場合、何よりも優先しなければならないのは
パイロットの生還だからだ。

エヴァは、パイロットがいなければ動かない。
エヴァは多少傷ついたとしても、修理することができる。
たとえ腕が一本なくなっても、再生できると聞いたことがある。

だが、生身の体であるパイロットは、そうはいかない。

それをリツコは、初号機の回収を最優先にすると言う。
弐号機が使徒に呑み込まれた場合でも、同じことを言うのだろう。

『あたしたちパイロットは、消耗品なのか。』

選ばれた数少ない人員の一人だと思っていたが、そうではないのか。
代わりは、いくらでもいるのか。

アスカはシンジを否定しようとしたことも忘れ、今は真剣にシンジの身を案じていた。




シンジは、どうやら使徒の体内の虚数空間に捕われているらしいということだった。

使徒の本体に攻撃を加え、初号機のボディを回収するのに、残存する全てのN2爆雷を使用
することになった。
そして、二体のエヴァでATフィールドで使徒の虚数空間に千分の一秒だけ干渉し、捕われ
ている初号機を吐き出させるという作戦であった。

それでも、ミサトに対する気おくれがあったのか、リツコが決めたその決行時期はシンジの
生命維持の機能が停止する12分前、翌朝の午前5時48分となった。

夜がしらじらと明け、薄明があたりを包むころ、幾つものVTOLが使徒を目指して接近しつつ
あった。

アスカはそのとき弐号機に搭乗し、爆撃の瞬間に備えて待機していた。

が、その出番が来ることはなかった。
突然、使徒の影である筈の上空の球体の縞模様が消え、亀裂が走った。

漆黒の球体が、内部から引き裂かれた。

『え、なに?』
なにが、どうなっているのか、分からなかった。

引き裂いた肉片とともに、何かが地上に降り立った。

「初号機? シンジ…シンジなの!?」

初号機は、夜明けの都心の上空を見上げながら、何度も雄叫びを繰り返した。

アスカは、湧き上がる震えを抑えることができなかった。
『あたし…こんなのに、乗ってるの?』




どうやって、初号機が使徒の虚数空間から自力で脱出したのかはわからない。
ともかく、シンジは生きていた。
生命維持モードが切れる直前であり、消耗しきってはいたが、それでもともかく生きていた。

「シンジ君!」
エントリープラグをこじ開け、シンジの無事を確認したミサトは、シンジをかき抱いて号泣
した。
指揮官にあるまじき行為ではあったが、それを責める者はいなかった。

「…会いたかったんだ、もう一度。」
シンジはそうつぶやくと、眠りについた。

『会いたかった? だれに?』

アスカはそう思ったが、確かめる術はない。

『あたしに? まさか…。』

そんな!
まさか。
でも…。

アスカの心は、揺れ動く。

『あのときのキス。
 ちっとも嬉しそうではなかったけど、あたしのこと、少しは…。
 もし、そうだとするなら、あたしはとんでもない間違いをおかすところだった。
 いや、もうおかしている。
 シンジの命令違反は、あたしが追いこんだからだ。
 …シンジに、あやまらなきゃ。』

シンジは病室に運ばれ、点滴による栄養補給と精密検査を受けている。
肉体的に異常はなく、体力が回復すれば目覚めるであろうということだった。

病室に様子を見にいくと、シンジの傍にレイが付いていた。

『ちっ、先客ありか。』

アスカは出直すことにした。



一時間ほどしてから、再度シンジの病室に行くと、まだそこにレイがいた。

「あんた、ずっとシンジの傍についていたの。」
「ええ。」

「いつまで、いるつもりなのよ。」
「碇君が、目覚めるまで。」

「本気?」
「許可は、とってあるわ。」

「あんた、ひょっとして…。」
アスカは、言おうとしていた言葉を飲み込んだ。

『まさか、シンジがもう一度会いたいと言っていたのは、ファーストなの?』

「なに?」
「なんでもないわよ。」

アスカは病室を出てようとすると、レイが声をかけてきた。

「碇君に、用があるのじゃないの。」
「別に。ちょっとシンジの顔が見たかっただけよ。」

「わたしに、遠慮することはないわ。」
「だから、なんでもないのよ!」

「そう…。」
「じゃあね!」

アスカは、いったん家に帰ることにした。




自宅に戻り、キッチンのテーブルに頬杖をついて、アスカは物思いに沈んだ。

シンジがもう一度会いたいと言っていたのは、ファーストなのだろうか。
だから、半ば強引にキスをしたとき、シンジは乗り気ではなかったのではないのか。

ハーモニクステストの後、ロッカールムであのレイが、
『碇君に、チョコをあげるつもりだったの。』
と驚いたように聞いてきたのも、

今回の戦闘で撤退命令が出た時にレイが、
『待って。まだ初号機と碇君が!』
とすぐに応じなかったのも、

シンジとレイの仲が、進展していたからではないのか。

そうかも知れない。

だとしたら、どうする?
このまま、シンジとレイがさらに接近するのを、自分は暖かく見守るのか。
それで、自分は納得できるのか。

そんなことはできない、とアスカは思う。
キスをしたとき、乗り気ではないにしろ、シンジは拒絶もしなかった。
だから、まだ、レイへの気持ちは確定的なものではない筈だ。

「あたしにも、まだ芽がある筈よ。」
アスカは、声に出してそうつぶやいた。

『願うな、勝ち取れ。さすれば、与えられん。』
何かで読んだ、だれだったかの言葉が思い出される。

そして、今もなお病室で、シンジを見守っているレイの姿が思い浮かんだ。

「邪魔よ、ファースト。そこは、あたしの居場所なんだから。」
アスカはつぶやくと、決心したように立ち上がった。

「まだ、間に合うわよね? よかった、捨てないでおいて。」
買い置きしておいた材料をとりに、冷蔵庫の扉を開いた。




その日の夕方。
アスカは再び、シンジの病室を訪れた。

中の様子を扉の陰からそっと窺うと、まだレイはそこにいる様だった。

「綾波…。ずっと、ついててくれたの。」
「ええ。」

ちょうど、シンジが目をさましたところの様だった。

「使徒は?」
「暴走した初号機が、引き裂いたわ。」

「そうか…。心配かけたね、もう大丈夫だよ。」
「今日は、ゆっくり休んで。あとのことは気にしなくていいから。」

「ありがとう。あの、綾波。」
「なに?」

「なんだか母さんがずっと傍にいたような気がしたんだけど、やっぱり綾波だったのかな。」
「そう、よかったわね。でも、たぶんそれはわたしじゃないわ。」

「そうなの? でも、嬉しかったよ。目を覚ましたときに、綾波がいてくれて。」
「わたしも、碇君が無事に戻ってきてくれて、嬉しかった。」
「うん…。」

『なに、雰囲気出してんのよ!』
アスカは、歯噛みする思いでその光景を見つめた。

シンジとレイは、しばらくお互いの顔を黙って見ている。
だんだんと虚しくなってきて、

『やっぱり、帰ろうかしら。』
アスカがそう思ったとき、

「それじゃ、ゆっくり休んで。」
レイが椅子から立ちあがり、そう言った。

「帰るの、綾波。」
「ええ。」

『えっ! それだけ?』
アスカは意外に思った。
本当に二人の仲は進展しているのか、アスカは訳が分からなくなった。

「今日は、ありがとう。また、明日ね。」
「ええ。また、明日。」

シンジたちのその言葉を耳にして、慌てて物陰に隠れる。
レイが部屋から出て行くのが見えた。
アスカには、気づかなかったようだ。

レイの姿が見えなくなってから、アスカはシンジの病室に入った。

「ああ、アスカも来てくれたんだ。」

シンジがアスカを見て、にこやかな笑みを浮かべて言った。




「具合は、どう?」
何から話せばいいのか分からなかったが、とりあえずアスカはそう尋ねた。

「少しだるいけど、もう大丈夫だよ。」
「そう、安心したわ…。」

それっきり黙り込んだアスカを、シンジは不審に思った。

「どうかしたの、アスカ。」

「一応、謝っておくわ。」
「え?]

「今回のことの原因の一端は、あたしにもあるからね。」

そう言いながらアスカは、
『ばか、どうしてもっとすなおになれないのよ!』
自分自身にあきれていた。

「なんだ、そんなことか。」
シンジは柔らかく笑った。

「別に、アスカが悪いわけじゃないよ。
 ミサトさんの命令を勝手に聞かなかったのは、ぼくなんだし…。」

アスカは、最後まで聞かずに、手にしていた紙袋を両手でシンジに差し出した。

「はいっ。」
「え?」

突然のことに、シンジは面食らった。

「受け取って!」
「なに、これ?」

「あたしの気持ち。
 お詫びと、感謝と、それから…ああ、もう! 全部言わせないでよ。」

紙袋の中を覗いたシンジは、そこにチョコの包みがあるのに気づいた。

「そうか、今日は…。
 でも、使徒が来て、そんな時間なんかなかった筈なのに。」

「終わってしまえば、戦闘後処理体制が解けるまで、あたしたちは暇なのよ。」

「そういえば、そうだったね。
 でも、アスカも疲れているだろうに、わざわざ、ぼくなんかのために…。」

「で、受け取ってくれるの?」

「も、もちろんいただくよ!
 うれしいよ、本当にありがとう!」
  
シンジが心から喜んでくれる姿を見て、アスカはチョコを作ってよかった、と思った。

「それからね、シンジ。」
アスカは、思わず言った。

「これも、あげるわ。」
「え? なにを…。」

驚くシンジの口をふさぐ様に、アスカはシンジにキスをした。

「あ、アスカ…。」

茫然としているシンジが、何か言う前に、

「おやすみ!」
叫ぶようにそう言うと、部屋を飛び出していった。

『負けない…。ファーストなんかに、負けるもんか!』

衝動的な自分の行動を正当化するように、アスカは胸の内で何度もそう繰り返していた。




だが、アスカは知らない。

その夜遅くに、シンジの病室を訪れた、もう一人の少女のことを。




一ケ月後。

「おはよう、アスカ。」

起き出してきたアスカに、シンジは笑顔で声をかけた。

「おあひょ…。」
あくびをかみ殺しながら、アスカは応える。

「はいっ。アスカ。」

シンジが差し出したリボンのついた包みを見て、アスカの目に活気が戻った。

「これって…!」

「忘れてたの? 今日はホワイトデーだよ。」

「し、知ってたわよ、昨日までは!
 起き抜けだから、ちょっと思い出せなかっただけじゃない。」

「それを、忘れてた、ていうんだよ。
 ともかく、この前はありがとう。
 口に合わないかも知れないけど、受け取ってくれるかな。」

「これって、ひょっとして、手作りクッキー?」

「そうだよ。」

「そんなもの、いつ作ってたのよ。
 まさか、あたしたちが寝静まってから、こっそり作ってたの?」

「まあね。ミサトさんは、知ってたみたいだけど。」

「ふうん、あんたにしちゃ、がんばったじゃない。
 いいわ。とりあえず、受け取ってあげる。」

「はは、そりゃどうも。」
アスカの尊大な態度に、シンジは苦笑した。

「シンジ…。」
アスカは、急に真剣な顔をして、シンジを見つめた。

「うん、なに?」

「ありがとう。」
クッキーの包みを胸に抱くようにして、アスカは言った。

「うん…。」




さらに、半月が経った。

3月30日。
ミサトのマンションで、レイの誕生日パーティが開かれようとしていた。

発案者はミサトだったが、最初のうち、レイは辞退しようとしていた。
そこを、シンジが辛抱強くレイを説得し、ようやく実現しようとしていたのだった。

約束の時間に現れたレイは、いつもの制服ではなく、水色のワンピースを着ていた。
そして、首にはネックレスをしている。
控え目だが、青い宝石らしきものが見える。
誕生石だとすると、アクアマリンだろう。

「へえ、意外と似合うじゃない。」
アスカが、感心して言った。

「あんたのセンスだとは思えないから、事前に誕生日プレゼントということで、
 ミサトに買ってもらったんでしょう?」

「服はね。」
ミサトがほんのりと朱がさした貌で言う。すでに一杯、きこしめしているようだ。

乾杯も何も、あったもんじゃないと思いながら、アスカは言う。
「服だけ?」

「靴は、リツコよ。」

「え? それじゃ、あのネックレスは、誰があげたって言うのよ!」

アスカが改めてレイを見ると、シンジがレイに近づいて、何か渡していた。

「遅くなって、ごめん。」
「なに? そんなにいろいろと貰ったら、悪いわ。」

「これは、その、誕生日プレゼントじゃなくて、バレンタインのお返しだよ。」

そういうシンジの声を聞き咎めて、
「なによ、あんた、ファーストからもチョコもらったの?」

「うん、まあ…。」

「いったい、いつよ!
 ファーストはあんたにずっとついてて、そんな暇なかったじゃない。」

「あの日、アスカが帰ってからだよ。」


アスカがシンジにチョコを渡したその日、夜も更けてから再びレイが現れたということだった。
大きな紙袋を持ってきているので、それは何かと尋ねると、チョコを持ってきたのだという。

レイが袋から取り出したのは、二重構造になっているタッパだった。
大きなタッパの中に小さなタッパがあり、その隙間に氷が詰められている。
そして、その小さなタッパの中に、できて間もないチョコが収めらていた。

『一度はあきらめたのだけど、まだ間に合うかも知れないと思って。』
そう、レイは言う。

『綾波、そうまでして…。ありがとう、嬉しいよ!』

そんなことがあったらしい。


「で、そのお返しがそのクッキーというわけね。ちょっと見せなさいよ。」

「あ、ちょっと…。」

「なによ、これ!
 チョコチップが入っているじゃない。あたしのときは、なかったのに!」

「アスカのときは、ほら、初めて作るものだったし。
 なんとしても、ホワイトデーに間に合わせようと、徹夜して作ったものだから。」

「むぅぅ。」
シンジの言い分はもっともだが、アスカは何か、自分は練習台にさせられたような気がした。

何か、言ってやろうとしたそのとき、ピンポーンとチャイムが鳴った。

「おめでとうさ〜ん!」
「おじゃまします。綾波さん、おめでとう。」
「おめでとう、ございま〜す!」

トウジとヒカリ、そしてケンスケが入ってきた。

「ああ、あがってよ。」
シンジが、笑顔で迎え入れた。

「あら、ヒカリ。お花持ってきたの?」
「ええ。少しは、華やかになるかなと思って。」

アスカとヒカリが話し始めて、ネックレスやクッキーの話はうやむやになった。

「レイのネックレス、シンジ君がプレゼントしたものでしょ。」
ミサトが、シンジに耳打ちしてきた。

「ええ、まあ…。」
「やるじゃない、シンちゃん。高かったでしょうに。」

「一番安いやつですけどね。ぼくにとっては、せいいっぱいです。」
「アスカが聞いたら、ひがむでしょうねぇ。」

「ちょっと、内緒ですよ、ミサトさん!
 アスカの誕生日には、ちゃんとするつもりですから。」

「わたしの誕生日のときも、よろしくね。」
「えっ!!」

ミサトの誕生日は、アスカのそれと4日しか離れていない。 
まだ先のこととはいえ、資金繰りはどうするのか…。
シンジの顔色は、いくぶん青ざめていた。
                       完