M A N A
- Valentine's Eve -
「はい、お疲れ様。 今日はこのくらいにしておこう。」
シンジのそのひと言で、居合わせたスタッフはみな、緊張を解いた。
「お疲れ様。」
「お疲れ。」
各々が、機材を片付けたり、端末の電源を落としにかかる。
生体工学研究所_。
それが、現在のシンジの職場だった。
前身は特務機関「ネルフ」であったが、今はただの研究施設に過ぎない。
さらにその前身である、人工進化研究所に似た性格のものとなっていた。
シンジは「測定室」を出て、向いのガラス張りの部屋に向う。
その中に、スレンダーな体つきをした、一人の女性がいた。
計測用のフルフェイスのヘルメットを今、持ち上げる様にして外したところだった。
軽く頭を振ると、蒼い髪がさわさわと揺れた。
「お疲れ、綾波。」
「碇君も。」
軽く挨拶をする様に、二人は口付けをかわす。
「ごめんね。つらい思いをさせて。」
ささやく様に、シンジは言った。
「実験のこと? 別に、つらいとは思っていないわ。」
生身の体でATフィールドを展開できるただ一人の『リリンの末裔』であるため、
レイはこの実験に被験者として協力していたのだった。
もともと、人類はリリスが産み落とした「十八番目の使徒」である。
それが、長い年月を経て群体として暮らすうちに、使徒としての特性のいくつかを
失っていた。
ATフィールドも、その特性のひとつであった。
レイが『リリンの末裔』とか『古代種』と呼ばれる所以は、深い眠りについていた
リリスから、ゲンドウが強制的に生み出させたためである。
だから、レイには本当の意味での両親というものがいなかった。
原初の人類と同じく、リリスから直接生まれたものであるから。
「どう? 何か、解明できた?」
レイの問いに、シンジは黙ってかぶりを振った。
「まだなんだ。
フィールドを展開するときの脳波パターンが、今ひとつ特定できないんだよ。
幾つか、それらしいものはあるんだけど…。」
「そう。」
「綾波には、申し訳ないと思ってるよ。」
「実験動物みたいだから?」
「はっきり言うね。」
「でも、碇君はちゃんと、ヒトとして扱ってくれているわ。
『ダミーシステムの開発』のときの方が、もっとモノに近かった。
それでも、それをつらいとは思わなかったけれど。」
「そう言ってくれるとうれしいけど。
そうだ、よかったら、これから食事に行かない?」
「ありがとう。でも、いいの?
アスカが碇君の帰りを待っているんじゃないの。」
「いいんだ。たぶん、先に寝てるだろうし。
それに、あの…。」
「なに?」
「綾波のことを、頼むと言われているし…。」
そういうとシンジは、困ったような、照れくさそうな顔をして頬を掻いた。
シンジとレイは、とあるビルの9階にある、こじんまりとしたイタリアンレストランに
入っていた。
時刻は、夜の10時を少しまわっている。
パスタとワインを頼むと、二人は見るともなしに傍らの窓の外を眺めた。
第3新東京の、煌びやかな夜景が見える。
7年前に、ここで対使徒戦が繰り広げられたとは、とても思えなかった。
街は完全に復興し、エヴァのサポートのために設けられていた電源ビルや兵装ビルは、
とうにその姿を消している。
平穏な今に比べると、あの頃は全てが異常であった。
『まるで、悪い夢を見ていたようだ。』
シンジは、ぼんやりとそんなことを考えていた。
「サキちゃんは、元気?」
不意に、レイに声をかけられて、シンジは現実に引き戻された。
「うん、相変わらず元気一杯だよ。」
サキというのは、シンジとアスカの間に生まれた女の子のことである。
二人は3年前に入籍し、その翌年に一人娘を儲けていた。
つい先日、2歳になったばかりである。
「この前は、誕生日プレゼントをありがとう。」
「あんなものでよかったかしら。」
レイが贈ったプレゼントは、小さな喇叭だった。
「正直、助かっているよ。
最近、何でも一度は口に入れないと気がすまないみたいだから。
下手なものを床に置いておけなくて、困っていたところなんだ。
結構気に入ったみたいで、しょっちゅうプウプウ吹いているよ。」
「そう、やんちゃなのね。…アスカも大変ね。」
「まったく、誰に似たのやら。」
「でも、毎日こんなに遅くていいの?
奥さん一人で、子育てするのも大変だろうし、その上、わたしとなんかと
付き合っていたら…。」
「そのことは、何度も3人で話し合ったはずだよ。」
「…そうね。」
ことの発端は、3年前にあった。
二人は、当時のことを思い出していた。
使徒との戦いが終わり、ゼーレの野望をも退けてサードインパクトを回避していた
シンジたちは、当然のように高校に進学し、平穏な日々を送っていた。
そのうちに、シンジは当然の流れのように、レイとアスカの二人と親密な関係に
なっていった。
使徒という、外敵からの脅威がなくなったために、やっとシンジは自分のまわりに
目を向けるようになったのだった。
ただ、問題はシンジが、全く正反対の性格を持つ二人の少女に、同時に惹かれて
しまったということだった。
卒業を間近に控えたある日の放課後、アスカはシンジとレイを呼んだ。
誰もいない教室で、二人を自分の席の前の椅子に座らせた。
「あたしとレイの、どちらを選ぶの。いいかげん、はっきりしなさいよ!」
レイの目の前で、シンジに決断を迫った。
自分は、選ばれないかも知れない。
アスカは、半分覚悟を決めていた。
ただ、どっちつかずの状態が長く続いていることの方が、我慢ならなかった。
「どちらかなんて、ぼくには決められない。」
それでも、シンジは言った。
「あんたバカ? いずれは決めなくてはいけないのよ。
日本の法律では、生涯の伴侶は一人しか選べないんだから。」
「生涯の伴侶って…まだ、早すぎるよ。」
「あたしは、早すぎるなんて思わない。
就職も決まっていることだし、シンジさえよければ、あたしは…。」
そこで、アスカは言葉に詰まった。
「あたしは…。」
「アスカは、碇君と結婚したいのね。」
「え…!!」
レイの指摘に、アスカではなく、シンジが固まってしまった。
「そうよ!」
アスカは、逆に開き直った。
「でも、あたしが選ばれなくても、レイ、あんただったら許せる。
だから、シンジがどう思っているのか、知りたいのよ。
いい? シンジ。」
アスカは、そこで小さく深呼吸をした。
そして、顔を赤らめ、やや小さな声で言った。
「これは、プロポーズなのよ。」
シンジは、かぶりを振った。
「アスカの気持ちは嬉しい。
だけど、ぼくは…ぼくは、綾波もアスカも好きだ。
この気持ちに、嘘はないよ。」
「言ったでしょ。どちらか一人しか、選べないって。
まあ、いいわ。
時間が欲しいなら、あげる。
そのかわり、よく考えて、後悔のないように…。」
「そういうことなら、」
そこで、レイがアスカの言葉を遮った。
「わたしが、身を引くわ。」
「レイ!」「綾波!」
「わたしは、碇君と結婚はできないもの。」
「なんでよ。」
「『生涯の伴侶』となる資格…妊娠することが、できないもの。」
「綾波…。」
「アスカと幸せにね、碇君。」
そう言うと、レイは顔を伏せたまま立ち上がった。
前髪にかくれて、その表情は見えなかった。
「さよなら。」
レイは二人に背を向けて、教室を出て行こうとした。
「ちょっと待ちなさいよ、レイ!」
アスカは、叫ぶようにしてレイを呼び止めた。
「あんた、シンジのこと、好きなんでしょ。」
レイは背を向けたまま、無言で頷いた。
「だったら…。」
アスカは言いかけた言葉をいったん飲み込み、それから再び口を開いた。
「あたしは、シンジと結婚する。
でも、シンジはあんたも愛する権利があるわ。あんたにもね。」
レイは、驚いたように振り返った。
「アスカ…?」
シンジも、突然のことに、当惑してアスカを見た。
「あたしは、シンジと籍は入れるけれど、それは戸籍上のこと。
あたしと同じだけ、あんたもシンジに愛されなさい。」
「どういうことかしら。」
「あたし一人、幸せになるなんてこと、許されないもの。
子供ができないというだけで、あんたの幸せまで奪う権利はあたしにはないもの。」
「アスカ…。」
「逃げちゃだめよ、レイ。
あたしは、フェアにいきたいのよ。シンジもいいわね?」
「ありがとう、アスカ。」
シンジにはもちろん、異存はなかった。
レイと遅い夕食を済ませ、シンジが自宅に戻ったのは夜半近くだった。
そっと物音をたてない様に、玄関のドアを閉める。
サキは不審な音には敏感で、2歳になったばかりだというのに、いまだに夜泣きを
することがあるからだった。
シンジがリビングに入ると、隣の部屋の引き戸が開いてアスカが出てきた。
パジャマ姿である。
「おかえり、シンジ。」
「ああ、ただいま。 …サキは?」
「よく、眠っているわ。」
どうやら今まで、添い寝をしていたらしい。
そのまま一緒に寝入ってしまうことが多かったが、今夜はシンジが帰宅する気配で
目が覚めたのだろうか。
「食事は?」
「綾波と済ませてきたよ。」
シンジはソファに腰を下ろした。
「泊まってきてもよかったのに。」
そう言いながら、アスカは紅茶の用意をしている。
「このところ、ずっとレイのところに『お泊り』していないじゃない。」
「夕食は、綾波と食べることの方が多いよ。」
「それは、遅くまで仕事があるのだから、仕方がないわ。」
アスカは、はい、とシンジに紅茶を渡す。
ありがとう、とシンジは受取り、
「アスカに家のことをまかせっきりで、悪いと思ってるよ。
それは、たぶん、綾波も感じていると思う。」
「それはいいのよ。」
アスカは自分も紅茶のカップを両手で持つと、シンジの横に座った。
「あたしが、選んだ道だもの。
シンジがいろいろ教えてくれたおかげで、自分でもずいぶんと家事は上手になった
と思う。
家事をしながら、夫の帰りを待つのって、結構楽しいのよ。」
「アスカ…。」
「だからあたしは、シンジが帰ってきてくれた、今このときがしあわせ。
でも、レイはそうじゃないわ。
もっとレイと過ごす時間を、とってあげなきゃ。」
「綾波とは、ずっと仕事で一緒なんだよ。」
「バカね、時間の長さの問題じゃないわ。どう、過ごすかよ。」
「そうだね、ありがとう。」
「『バカ』と言って、お礼を言われるとは思わなかったわ。」
二人はひとしきり笑った。
「仕事の方は、うまく言ってるの?」
「今ひとつ、結果が出なくってね。」
「そうなの。」
「あ、でも、進んでいないというわけじゃないんだよ。
アスカがみっちり鍛えてくれたおかげで、やれることはちゃんとやってると思う。」
「じゃあ、焦ることはないわ。
最善を尽くしていれば、そのうち結果はついてくるわよ。」
「うん、そうだね。」
シンジは、紅茶を一口飲んだ。
そして、たった今聞いたアスカの言葉を、以前にも聞いたことを思い出していた。
シンジとアスカ、そしてレイは高校卒業後、いっしょに生体工学研究所に就職した。
3人とも、大学には進まなかった。
アスカはすでにドイツで大学を卒業していたから当然であったし、レイも中学時代から
アスカを上回る学力があった。
(だから、アスカは一時、レイのことを「優等生」と呼んでいた。)
シンジは、高校に入ってから急激に伸びた。
あの両親のことを思えば、むしろ当然であった。
シンジとアスカは研究所の中の基礎研究部門に、レイは応用開発部門に配属された。
3人は、研究所に入ってからは大卒以上の仕事をやってのけていた。
それでもシンジは、仕事の進め方でアスカにはかなわなかった。
どうしたらアスカに追いつけるのか、真剣に考えた。
アスカとの挙式が、半年後に迫っており、その時点でアスカは退職することになって
いたからだった。
『ぼくがしっかりしないと、チームが立ち行かなくなる。』
シンジは研究チームのbQだったが、bPのアスカとの間には大きな差があることを
痛感していた。
だが、どうしてもその差がどこにあるかわからなくて、ある日シンジはアスカにそれを
尋ねた。
「いいわ、教えてあげる。」
アスカは、笑みを浮かべて言った。
「そのかわり、条件があるわ。」
「え?」
「これから半年間で、あんたに足りないところをみっちり教えてあげる。
そのかわり、あんたはあたしに、料理をはじめ家事全般をしっかり教えるのよ。
あたしが、一人前の奥さんとして、やっていけるようにね。」
最初、意外な言葉に驚いたシンジだったが、すぐに何度も頷いた。
「じゃあ、言うわよ。まず、研究者には、不可欠な3つの要素があるの。
『好奇心』と、『根気』と、『問題意識』よ。
シンジ、あんたには好奇心と根気は十分にあると思う。
あんたに足らないのは、問題意識の方よ。
でもまあ、あたしに自分の足りないところを尋ねようとしたんだから、
見込みはあるわよ。」
「そうなのかな。」
「問題を見つけたら、どうしたらそれが解決できるかを考える。
解決方法は、ひとつだけとは限らないわ。
いくつか、それがある筈よ。
その中で、最善と思われるものを選べばいいの。」
「その、解決方法を見つけるところで、ぼくはいつも壁に当たるんだよ。」
「わかるわ。
それを打ち破るものは、やっぱり観察力と想像力ね。
まず、もっと周囲をよく見なさい。何か、手掛りがある筈よ。
それから、どうすればそれを活かすことができるか、想像すること。
それさえ心掛けることができたらシンジ、あんたはもっと上に行ける。」
「なんとなく、わかったよ。」
「迷うことはないわ。
自信をもって、最善を尽くしていれば、そのうち結果はついてくるわ。」
「そうだ、忘れてた。」
アスカの声に、シンジは我に返った。
アスカは白い封筒を出すとシンジの前に置いた。
「昼間、ミサトが来てこれを置いていったのよ。」
宛先は、シンジになっていた。
取り上げて差出人を見た。
「霧島マナ…。マナ!」
開封して中から手紙を取り出す。
シンジが読んでいるそばから、アスカは言った。
「7年ぶりかしらね。
以前住んでいたからということで、ミサトのマンションに届いたらしいわ。
で、なんて書いてあるの?」
「13日に、こちらに来ることがあるので、そのときに会いたいって。」
「へえ。」
「だから、都合がつくようだったら、夕方以降で会える時間と場所を教えて
ほしいってさ。
メールアドレスも書いてあるよ。どうする、アスカ。」
「あたしは、いいわ。シンジ、行ってきなさいよ。」
「……。」
「なによ。」
「いや、まだアスカ、マナのことが嫌いなのかなって。」
「もう、7年も前のことじゃない。」
「そうだよ。昔のことだよ。会うくらい、いいじゃないか。」
「でもね、この手紙はシンジに来たのよ。
あたしたちが一緒になったことも、たぶん知らないと思う。
昔の恋人に会って、いっときでも昔のことを思い出したいのじゃないかしら。
そんなときに、さんざん邪魔してくれた、かっての恋敵には会いたくないでしょ。」
「…よく、そんなに冷静に見れるね。」
シンジは感心して言った。
「実のところ、まだあの子が苦手だというのは確かよ。」
アスカは苦笑した。
「でも、何に対しても一途だった彼女のこと、今は嫌いじゃない。
だから、シンジが会うことについては反対はしないわ。
いえ、ぜひ会ってあげるべきだと思う。」
「ありがとう。やさしいんだね、アスカは。」
「バカ! よくそんなクサい台詞が、さらっと吐けるわね。」
そして迎えた2月13日の月曜日の朝_。
シンジはその日の仕事を早めに切り上げて、夜7時からマナに会うことにしていた。
「じゃあ、今日は遅くなると思うから、先に寝てて。」
シンジは玄関先で振り返ると、アスカにそう言った。
「ええ。」
アスカは頷くとしゃがんで、そこにいたサキの両肩に手を置いた。
「サキ、パパに『行ってらっしゃい』は?」
口に指を入れてシンジを見上げていたサキは、黙ったまま笑みを浮かべると、
シンジに向って空いている手を力一杯振った。
シンジも笑みを浮かべ、
「じゃあ、行ってきます。」
「行ってらっしゃい…あ、シンジ。」
「なに?」
「今夜は…泊まってきてもいいわよ。」
「まさか。ちゃんと帰ってくるよ。それじゃ。」
そう言うと、シンジは家を後にした。
生体工学研究所_。
日本では唯一、ヒトのクローン技術の研究が許されている特殊研究機関として知られて
いる。
実際にはそればかりでなく、S2機関や対生物兵器のワクチンの開発など、表沙汰に
できない各種の研究が、厳重な管理の下で行われていた。
シンジが担当している、「ヒトの身で発生させうるATフィールドに必要な因子」も、
そういった研究テーマの一つだった。
その日は午後から、再びレイを被験者として実験を行うことになっていた。
研究室でシンジが準備を進めていると、入り口のドアが開いてレイが入ってきた。
「どうしたの。」
「明日、わたしは松代に出張だから、先に渡しておこうと思って。」
そう言って、レイは綺麗に包装された紙包みをシンジに差し出した。
「これは…? そうか、明日は!」
「そう、バレンタインデーだから。」
「ありがとう!
そうか、すっかり忘れていたよ。アスカは、何にも言わないんだもの。
ひょっとして、アスカも忘れてるんじゃないかな。」
「それはないと思うわ。」
レイは、わずかな笑みを浮かべて言った。
「わたしに、バレンタインデーのことを教えてくれたのは、アスカだもの。」
「そうだったね。」
レイがバレンタインデーの本当の意味を知ったのは、3年前の高校3年のとき_。
アスカに教えられて、レイは初めてシンジにまともなプレゼントを買った。
2月14日の朝、アスカと一緒に学校でチョコの包みをシンジに渡していた。
そのとき、妙に胸がどきどきしたのは、レイは今でも忘れられない。
それは、アスカがレイとシンジを呼んで、シンジにレイと自分のどちらを選ぶのかと、
選択を迫る少し前のことだった。
「今、開けていいかな。」
「ええ、そうしてくれると嬉しい。」
注意深く包装を解いて出てきたものは、明らかに手造りとわかるプレート状のチョコ
だった。
『Eternal bonds of affection, I wish』
ホワイトチョコでそう書かれていた。
「ありがとう、綾波。 なんだか、食べるのが勿体ないな。」
「でも、生ものだから、3日以内には食べて。」
「生ものなの?」
「ええ。」
「わかった、そうするよ。」
その日の実験は、6時すぎには切り上げることにした。
「やった! まだデパート、開いてるかしら。」
若手の女子職員たちは、いそいそと帰っていった。
どうやら、明日のバレンタインのチョコを、今から買いに行くらしい。
「もっと早くから準備しておけばいいのに。」
シンジは苦笑して、それを見送る。
「碇君は、これから、霧島さんに会いにいくんでしょう?」
レイが声をかけてきた。
「うん、なんだか、久々にどきどきするよ。」
「楽しいひとときが過ごせるといいわね。」
「やっぱり、綾波は一緒には来てくれないの。」
「一人二役は、大変だもの。」
ちがった! (声優ネタです、ごめんなさい)
「ごめんなさい、明日の朝、早いから。」
「そうか、松代へ行くんだったね。気をつけて行ってきてね。」
「ええ、ありがとう。」
約束した待ち合わせの、7時に少し前_。
シンジは事前に連絡しておいた様に、駅の中央の柱の前で、マナを待っていた。
その場所は7年前、初めてマナとデートしたときに、待ち合わせた場所だった。
もし、お互いがそれとわからぬほどに変わってしまっていたとしても、そこにいる限り
見まちがう筈がなかった。
ただ、今回はシンジは、マナがどこから現われるかを知らなかった。
だから、
「シンジ!」
不意に後ろから声をかけられ、吃驚した。
約束の時間より、少し早かった。
「やっぱりシンジだ。すぐにわかったよ。」
「マナ…。」
振り向いたシンジが見たものは、栗色のショートヘアの、快活そうな娘_。
別れたときのイメージそのままのマナだった。
「背、伸びたね。」
「うん…。」
「でも、雰囲気は昔のままだから、すぐにシンジだとわかったよ。」
「マナもね。」
「え? それって、ほめられてるのかなぁ。
なんだか、私、成長していないみたいじゃない。」
「そんなことはないよ。女らしくなった。」
「ほんと? お色気出てる?」
「えーっと、その…。」
「そこで言葉に詰まるかなぁ。」
二人でしばらく笑い合った。
7年間のブランクは、全く感じなかった。
まるで、昨日会ったばかりの雰囲気を、シンジはマナから感じた。
「行こうか。」
「うん。」
「ねえ、どこへ連れてってくれるの。」
そう言いながら、マナはシンジの左手をとって腕を組んできた。
「そ、そうだね。」
シンジは、少しどぎまぎしながら応える。
「まず、軽く食事して、それから飲みに行こうか。」
「あんまり、高いところは駄目だよ。」
「大丈夫だよ。少々なら持ち合わせがあるから。
…ひょっとして、ワリカンにするつもりだった?」
「奢ってくれるの?」
「まあね。」
「やった! シンジって、お大尽だね。」
「一応、勤め人だからね。」
「大学、行かなかったんだ。」
「うん、今は小さな研究所に勤めている。マナは、女子大生?」
「残念でした。これでも、T大学の学生なんだよ。」
マナが口にしたのは、とある学園都市にある四年制の大学だった。
「…結構すごいところに行ってるんだね。」
「へへ、でも専攻は芸術専門なんだけどね。」
「デザイナーになるの?」
「うん、インテリアデザイナーになれたらいいなって。」
「そうなんだ。 あ、ここだよ。」
シンジが案内したのは、先日レイと入ったイタリアンレストランだった。
「へえ、洒落たお店じゃない。センスいいよ、シンジ。」
「そう言ってもらえると嬉しいけど…ここくらいしか、知らないんだよ。」
二人は席についた。
シェフおすすめのコースを頼むことにする。
ウェイトレスが注文を聞いて、厨房に戻って行ったあと、マナはそわそわと、
なんとなく落ち着きがなかった。
「どうしたの?」
「うん、こんな雰囲気の店に入るのって、初めてなんだ。
なんか、いかにも【アダルト】って感じ。」
「そうかな。」
「シンジはよく、ここに来るの。」
「まあね、仕事が終わってから、食事しによく来るよ。」
「…一人で、じゃないでしょ。」
そう言うとマナは、シンジの顔色を伺う様にじっと見つめてきた。
「あ、綾波と来ることが多いかな。」
ぽろっと言ってしまう。
「へぇ。シンジ、今は綾波さんと付き合ってるんだ。」
「ち、違うよ。綾波とは、勤め先が同じで、仕事も一緒にすることが多いんだ。」
「ホントかなぁ?」
「ほ、本当だってば。」
「まぁ、いいわ。それより、シンジの今の仕事のこと、教えて。」
「うん、いいけど。『生体工学研究所』ってとこに勤めてるんだ。」
「すごい名前だね。」
「そうかな? 昔、ネルフだったところだよ。」
「え? 今はもう、ネルフってないの。」
「知らなかった? もう6年前に解体されて、研究部門だけ残ったんだ。
でもまあ、当時のスタッフはもう、今はほとんどいないけどね。」
「赤木博士も?」
「…うん。」
「そうだったの。私、ずっと戸籍を捨てたまま、身を隠していたもの。
新聞だって、ずっと読めなかった。
新しい戸籍をもらったのは、4年くらい前かな。」
「そうだったんだ。」
「だから、今の名前は、山城ハルナというの。」
ほら、とマナはバッグから学生証を取り出してシンジに見せた。
「へぇ、ホントだ。」
シンジは学生証を手にとって、まじまじと見た。
「なに。なにか、変?」
「いや、本物のほうがきれいだなって思って。」
「どうせ、私は写真うつりが悪いですよーだ!」
マナはふくれっ面をして見せると、学生証をひったくる様にしてバッグにしまった。
アスカはその頃、サキと一緒に入浴していた。
「はい、シャンプーは終わり。もう少し、目を閉じていてね。」
「んー…。」
アスカはサキの目を左手で覆いながら、シャワーでサキの頭の泡を洗い落とした。
「はい、よく辛抱したわね。」
タオルで顔と頭を拭いてやる。
サキはずっとおとなしくしていた。こういうところはやっぱり女の子だな、と思う。
『子供なんかいらない。』
たしかに、昔はそう思っていた。
だが、シンジとの間にできた子は、別格だった。
今は、サキが愛しくてしかたがない。
『あたしが両親から得られなかった愛情は、せめてサキにはたっぷり注いであげよう。
サキ、あんたにだけは、淋しい思いをさせないからね。』
欲を言えば…今、この場にシンジもいたらいいのにと思う。
親子3人揃うこと_。
だが、毎日それを望むのは、ぜいたくというものだろう。
アスカは、かぶりを振った。
『あたしは、じゅうぶん幸せな筈よ。これ以上、何を望むというの?』
それなのに感じる、この一抹の淋しさは何なのか。
今頃、シンジはマナと会っている筈だ。
昔の恋敵_。
なぜ、自分は会うことを薦めたのか。
あまつさえ、「泊まってきてもいい」とまで言った。
バカなことを言ったものだと、自分でも思う。
相手がレイであれば、それでもよかった。
かっての戦友であり、ライバルでもあったが、シンジにとって自分とレイは「表と裏」
の関係であると理解している。
だから、シンジはどちらか一方を選ぶことなどできないと言ったのだ。
だが、マナは違う。
「立ち位置」としては、マナは自分とレイの中間にある。
もし、マナが当時『戦自』という敵対組織ではなく、たとえばチルドレンの一人で
あったなら、シンジはマナと結ばれていたのかも知れないのだ。
「ちゃんと帰ってくるよ。」
今朝出かける際、シンジはそう言った。
今は、その言葉を信じたいと思う。
『そう、シンジの帰る場所は、ここなんだからね。』
「ママ?」
サキの声で、アスカは我に返った。
唇をかみしめたまま、長いこと俯いていたことに気づいた。
「ごめんね、なんでもないのよ。」
そう言うとアスカは、微笑んで見せた。
『そうだ、サキを寝かせつけたら、シンジのためにチョコを作らなきゃ。』
サキの頬を撫でながら、そう思った。
シンジとマナはレストランを出ると、静かなスナックに場所を移していた。
「ここも、よく来るの?」
マナの問いに、
「そうでもないよ。これで、3回目かな。」
今度はシンジが、なんとなく落ち着かない。
「静かなところね。」
「まあね。」
「騒がしいところを避けるってことは…やっぱり、相手は綾波さん?」
「ちょっ! 冗談は…。」
「図星ね。」
マナはくすくす笑っている。
「そうだ、シンジにプレゼントがあるんだ。」
「えっ何?」
「まずは、これ。安物で悪いんだけど。」
マナが差し出したのは、リボンの掛かったチョコの包みだった。
「これって…。」
「明日は、バレンタインデーだものね。少し早いけど、受け取ってくれる?」
「喜んで!」
「それからね、これも受け取ってもらえるかな。」
今度は立派な箱に入ったものが差し出された。
「えっと何かな。」
「開けてみて。」
「うん。」
シンジが箱を開けると、出てきたものは、赤い宝石が付いたペンダントだった。
おそらくは、アメジストだろう。
「いいの? こんな高価なもの。」
「私の気持ち…7年間の、私の想いだから。」
「…だったらマナ、これは受け取れないよ。」
「私、シンジの重荷になろうとは思わない。
シンジが今付き合っている人がいるなら、それでもいいの。
シンジに、何かを求めているわけではないのよ。」
「マナ…。」
「あくまで、私の気持ち。受け取ってくれるだけでいいの。」
「実は、マナ。言わなかったけど…ぼく、結婚しているんだ。子供もいる。」
「そうなの。」
「…ごめん。」
「いいのよ。シンジのことだから、恋人の一人や二人、いると思ってた。
結婚してるとまでは、思わなかったけど。」
「そういうことだから、これは…。」
「ううん、受け取ってほしいの。再会の記念として。それでもだめ?」
マナは、今にも泣き出しそうだった。
「わかったよマナ。ありがたく、いただくよ。」
「嬉しい!」
とたんに、マナの顔がぱっと輝いた。
「でも、高かったんだろ、これ。」
「そうでもないよ。見た目だけなんだから。」
もう、いつものマナに戻っている。
「ね、それより、シンジのハートを射止めたのは、やっぱり綾波さん?」
シンジはかぶりを振った。
「結婚したのは、アスカだよ。」
「へえ、そうなんだ!」
「でも、綾波とも付き合っている。」
「えっ…。」
「軽蔑する?」
「軽蔑するも何も…。」
マナはどういう顔をしたらいいか、わからないようだった。
「結婚するとき、そういう約束だったんだよ。」
「そこんところ、もっと詳しく!」
興味津々という様子で、マナが詰め寄ろうとするが、
「その前に、ちょっとトイレ…。」
あっさりとシンジに躱されていた。
シンジが手洗いにたった後、
「なんだ、それで店に入ってすぐから、そわそわしていたのかぁ。」
マナは苦笑しながら、合点がいったように言った。
それから、ふと、真顔に戻ると、
「シンジ、ごめんね…。」
だれにも聞こえない様に、小さな声でそっとつぶやいていた。
ずいぶんたってから、シンジが席に戻ってきた。
「ごめん、何の話だった?」
「シンジが、なぜ綾波さんと付き合う前提でアスカさんと結婚したかよ。」
「ああ、そうだったね。」
3年前のバレンタインと、その後のできごとをシンジはかいつまんで話した。
「そうだったんだ…。
なんか、いいなぁ。私もその場に居合わせたかったな。」
「マナまでいたら、アスカはそんな提案しなかったと思うよ。」
「そう?」
「だって、マナは引かないでしょ。間違いなく、アスカとけんかしてたよ。」
「うーん、そうかもね。
そうだ、シンジ。せっかくだから、さっきのチョコ食べてみてよ。」
「いや、いいよ。」
「どうして?」
「遠慮しておくよ。」
何故か、シンジの態度がよそよそしい。
そういえば、トイレから戻ってきてから、何か様子が変だった。
「どうしたって言うのよ、シンジ。」
「ねぇ、マナ。もうやめようよ、こんなことは。」
シンジは、少し悲しそうな顔をして言った。
「…どういうこと?」
「T大学の学生だなんて、嘘なんだろ。」
「………。」
「マナは憶えてないかも知れないけど、
ぼくの友達に、相田ケンスケというのがいてね。」
「相田君ね…憶えてるわ。いつも、シンジたちと一緒にいた。」
「そう、彼はT大学に行ってるんだ。」
「!」
「彼はパソコンが得意でね。
学生課のホストに入り込んで、学生名簿のデータベースを調べてもらったんだ。」
「シンジがトイレに行っている間に…。」
「そう。彼の手にかかれば、あっという間だったよ。
『山城ハルナ』という名の学生は、どこの学部にもいないそうだ。
学生証にあった学生番号も、偽造されたものだってさ。」
「………。」
「それに、これだ。」
シンジは、先ほどもらい受けたペンダントを手に取ると言った。
「ただの、宝石を埋め込んだペンダントにしては、重すぎるんだ。」
上着の内ポケットから、シンジは小さなドライバーを取り出した。
「あっ!」
マナに制止する暇も与えず、シンジはペンダントの本体の継ぎ目にドライバーの先を
当てると、一気に押し開いた。
ウラ蓋がはずれる様に開くと、中から小さな電子部品が現れた。
「…やっぱりね。」
シンジは、ため息をつく様に言った。
「盗聴器だよね、これ。」
マナは震え始めた。
「今の研究所に、もうネルフのスタッフがほとんどいない話をしたとき、
『赤木博士もいないのか』というようなことを、マナは言ったよね。
おかしいと、思ったんだよ。
7年前、マナはリツコさんのことは知らなかった筈だから。」
「………。」
「ねえ、マナ。まだ、スパイの様なことをやってるの。」
「仕方なかったのよ!」
マナは、悲痛な声で叫ぶ様に言った。
「戸籍がないということが、どんなに孤独でつらいことかわかる?
加持さんの配慮のおかげで、食べることには困らなかったけれど、
社会から抹殺された状態が、何年も続いたわ。
…そんなとき、あの女が現れたのよ。」
「あの女?」
「戦自の関係者だと、思うわ。 私のことを、何でも知っていた。
日陰で暮らすのも飽きただろう、と言ったわ。
私が望むなら、新しい戸籍を作ってやろう。
大学にも、そのうち行かせてやる。
そのかわり、協力しろと。」
「それで、特務機関であるうちの研究所のことを、調べろと言われたんだね。」
「そうよ。」
「そして、そのターゲットは、ぼくになった。」
「シンジ…。」
「マナと初めて会ったとき…あの頃は、ぼくも子供だった。
でも、今は…今のぼくは、こんな手にひっかかるほど、純粋じゃない。」
「………。」
「マナとは、こんな形で再会したくはなかったよ。」
「シンジ!」
マナは立ち上がると、すがる様にシンジの手を握ろうとした。
だが、シンジは軽く身をひねってそれを躱す。
「シンジ…。」
マナはシンジを見つめ、いやいやをする様に首をふった。
「シンジのことが、今でも好き。それだけは信じて!」
「…勝手すぎるよ。」
「ううっ!」
マナは小さく呻くと、店を飛び出していった。
シンジは、マナが残していったテーブルの上のチョコを手にとった。
悲しそうな顔で、それをじっと見つめる。
「信じたいさ。信じたいんだよ、本当に!」
そうつぶやくと、包装を解いて一粒のチョコを口に放り込んだ。
噛みしめると、ほろ苦くて甘い風味が、口いっぱいに広がった。
『睡眠薬か何かが仕込んであるかも知れない』
本当ならそう警戒するところだが、シンジはかまうものか、と思った。
_だが、特になにも起きなかった。
シンジは黙ったまま立ち上がり、勘定をすませると店を出た。
すぐそばの路地裏のゴミバケツに、残りのチョコとペンダントを捨ててしまう。
夜空を見上げた。
無性に、アスカの顔が見たくなった。
「アスカ…。帰るよ。」
そうつぶやくと、シンジは歩き始めた。
完