COUNT GETTER



HIT 22222  ちうねん様  
愛と誠

 なんとなく寝付けなくて、看護士に見とがめられたらうるさく言われると思いながら、人気のない売店の方に足をむける。
 普段であれば別棟にある売店は、地上階、外に出る渡り廊下ですぐの場所にある。
 しかし今は深夜、当然外への出入りが可能な正面入り口以外は閉鎖されており、それでは守衛に見とがめられる上、かなりの遠回りだ。
 こつん、こつんと松葉杖の音が低い天井に響いた。
 病院にありがちな、不可思議な話の一つや二つ、三ヶ月も入院しているウルフウッドの耳にも当然入っていたが、特に有名だったのが、この売店に通じる地下の細い廊下だ。
 この廊下の途中に、霊安室への道がある。
 怖くもないが薄気味悪さは隠せない薄暗い照明の下、ウルフウッドは病院で唯一喫煙の許されている売店前の休憩室に向かっていた。
 ウルフウッドは、ぴたりと足を止める。
 うっ、うっ、と嗚咽するような、くぐもった声が聞こえてくる。
 聞かされた「ホントにあった怖い話」を思いだしたが、霊安室が近いのであれば、遺族が居る事も考えられ、ウルフウッドは戻ろうか、しらんぷりして通り過ぎようかと迷った。
 逡巡しながらもこつり、こつりと歩み始めると、その音に気が付いたのか、声が聞こえなくなる。
 なんとなく、悪いことをした気分になって足早に進もうと思うが、何分松葉杖の身、霊安室への曲がり角にちらりと視線を送ると、白い姿がぼんやりと見えた。
 一瞬ぎくりとして、立ち止まる。ちょっとした意地も手伝って、正体を見てやろうと向き直った。
 幽霊は、立ち止まったウルフウッドにはっとしたように顔をあげた。
「・・・どうしたんだい。ウルフウッドくん」
 掠れてはいたが、なじみのある声だった。毎日、しょっちゅう聞いている。
「どしたん、先生」
 医者が地下道で泣いてるなんて尋常じゃない。
「あ、いや……。なんでもない。君こそこんな夜更けに病室抜け出して、不良患者だなぁ。すぐ戻んなさい」
 医者にしては横柄な所のない、感じのいいオトナで、事故で大けがをしたウルフウッドに丁寧な治療をしてくれた。仕事に一生懸命で、充実していて、怖い物なんかないみたいに、思っていた。
「・・・何泣いとんの」
「・・・婚約者にふられてねぇ」
 明らかにウソだとわかる軽い返答に、なんとなくウルフウッドはむっとした。
 ほっといて欲しい、と雰囲気で伝える医者に、こつりこつりとわざとらしく音を響かせて近寄っていく。
 当惑して、身じろぐ相手に、容赦なく切り込むみたいに歩み寄った。
「目ぇ真っ赤やんか。どないした」
 医者になるには他よりも時間がかかるらしいから、そんな若いはずもないが、雰囲気はさして自分と変わらない年のように見える。
「・・・うーん。個人のプライバシーですから、そっとしといてくれる?」
 困ったように笑う、作り笑顔は、どうにもウルフウッドのしゃくに触った。
 個人的な事で、こんな所で一人で泣く理由なんてないように思われた。医者が患者のいる場所で泣くなんてタブーだろうと想像もついたし、場所が場所だけに、理由を推測するのは難しい事ではない。
「誰ぞ死んだんか」
 その言葉に、ヴァッシュの瞳に怒りが灯った。
「……そんな言葉、簡単に口にのせるもんじゃない」
 職業柄当然だろう。ましてや遺族が居るかもしれない。
「精一杯やらんかったんか」
 ヴァッシュの瞳に傷ついたような色が横切り、再び別の怒りへととって変わられた。
 こんな顔、しよるんや。
 ウルフウッドの前で、ヴァッシュはいつも「医者」で「先生」だった。
 しばしの沈黙の後、ヴァッシュは瞼を落として、身の内の感情を堪えている様子だった。
 ゆっくりと持ち上げられた瞳に、先ほどまでの激情はない。
「……とにかく、こんな時間に入院患者が徘徊しているのは、医者として見過ごせないねぇ。病室に戻んなさい」
 なんでだろう、「医者」に戻られたくなかった。
 さっきみたいに、怒りに燃えた瞳で睨まれたかった。
「人間、いつかは絶対死ぬんやで」
 びくり、と白衣が揺れた。
「ワイのおとんもおかんも、顔も覚えられん位の時に死によった。面倒見てくれたおばちゃんも、癌で逝きよったよ」
 身元預かり人の名前が異なるのに、両親は居ない事は書類で知っていたろうが、こんな風に話すのは初めての事だ。
「ワイかって、ひとつ間違ったら生きてへんかったんやろ。歩けへんようになってたかもしれん」
「……そうだよ。君は運がよかった。頭部に大きな怪我がなかった」
「あんたが手術してくれたし、足切らんで済んだんやって、聞いた」
 誉められているような話の流れに、困ったようにヴァッシュは少し表情を弛めた。 
「あんたいつも一生懸命仕事しとるやろ」
「当たり前だろう」
 返された言葉は、医者のものではないように、ウルフウッドは感じた。
「泣いたらええやないか」
 精一杯やって、届かない悔しさに涙するのは恥ずかしい事じゃない。
「医者かって、人間やろ。辛かったり、悲しかったりするのは当然ちゃうんか」
 くしゃり、とヴァッシュの顔が歪んだ。
 見られたくないだろう、と肩に手を置いてぐいと引き寄せた。落ち着いて考えれば、年上の男相手にする事ではなかったけれど、その時のウルフウッドは、己の心情に素直に従っただけだ。
 肩に押しつけられた頭が、震えている。それでも堪える嗚咽は、妙にウルフウッドの胸を高鳴らせた。
 毎日、人の生き死にに接しているだろうに、こいつは毎回、いつもこんな風に悲しむのだろうか。
 後でこっそりと看護士に探りを入れた所、適当に笑ってごまかされたが、末期だと他から運ばれて、手のうちようがなかったらしいと、同室だった患者に聞いた。
 そして泣き虫だと看護士間では有名な医者が、渡り廊下の「怖い話」の元凶だと、まことしやかに囁かれているらしい事は、分かった。
  
 
「……携帯、教えてくれへん」  
 半年前、事故に巻き込まれてウルフウッドは大腿部骨折という大けがをした。
 救急で運ばれて、その時の執刀医が7倍の速さでメスを操る奇蹟の外科医と言われたヴァッシュ・ザ・スタンピード。
 複雑骨折で、完治してもまともには歩けないだろうといわれていたウルフウッドを、その華麗なメスさばきで普通の生活を送るに困らない状態まで回復させた。
 もちろん、ウルフウッド自身の懸命なリハビリがあってこその早期回復、退院ではあったが、ヴァッシュでなければこれほどの成果はあげられなかっただろう。
 そして今日、退院の日。
 あれから、医者としてのヴァッシュの態度が変わる事はなかったが、ごくたまに、二人きりの時なんかは、医者と患者でないように、互いの事なんかを話す時もあった。
 学生だった頃、花見にいって、木に登って大声で合唱していたらしょっぴかれたとか。
 ウルフウッドが生い立ちを漏らしたせいだろうか、ヴァッシュも養母に育てられた事、早くにその人を亡くした事。双子の兄が居るとか、そんなたわいのない話。
 それでも、ヴァッシュは決して他の患者や仕事に関する何かを漏らす事はなかったし、あくまでウルフウッドも、いち患者としての立場を逸脱するような行為は控えていたつもりだった。
 そして晴れて今日、患者と医者という立場から解放される。
 それを踏まえての言葉だったが、ヴァッシュは想像していたよりも困惑した表情でウルフウッドを見つめ返した。
「ええと、んーと」
 こんな場所だから、プライベートを公開するのにためらいは当然あるだろうと思う。
「……一応、規則でね。教えない事になってるんだけど……その、ね。医者じゃん。僕」
「知っとる。ここドコやと思とる。病院やで」
 くるくると、ボールペンを手で回してヴァッシュは嘆息した。
「君に教えられるとは……。いや、そういうんじゃなくて。けっこう、その、忙しくてね。電話もらっても、ここでは電源切ってるし」
 迷いつつも、教えてくれるだろうとタカをくくっていたウルフウッドは、相手の態度にむっとくる。
「患者やないワイには用ないんか」
「……っ、て。いや、その……。用事があったらさ、病院に電話くれれば……用事は取り次いでもらえるし」
 あくまで医者としての立場を守ろうとするヴァッシュに、ウルフウッドは傷ついてしまう。
「あんたは、もうワイと会いたいとか、思わへんのか」
 そんなつもりはなかったのに、どこか拗ねたような響きが混ざってしまった事に、ウルフウッドは恥じて頬を熱くした。
 ヴァッシュは、その告白同然の言葉に、ぽろりとペンを取り落とした。
「え、えっと。それって……」
 ウルフウッドとて、本当は、ごくフツーにまずは友人関係をしっかりと築いてから、折りを見て告白するつもりだった。
 たかが携帯の番号ひとつを渋られたりしなければ。
「オンドレが好きやって、言うとる」
 若干19才のウルフウッドは、その若さという勢いにまかせて、互いをのっぴきならない所まで追い込んだ。
 ・・・つもりだった。
 退院手続きの為、医局の一室で話をしていた二人の間に、沈黙が流れる。     
「…………ええと、まず。ありがとうね。少なくとも、僕の仕事に不満がなかったって事だろう?」
 落としたボールペンを拾って、書類の上にことりと置いて、深呼吸をしたヴァッシュが口に出したのはそんな台詞。
 ありがとうと言われて、こんなに嬉しくないのは珍しいのではないだろうか。
「……こう、医者として、信頼を寄せてもらった証みたいなもんかな。病院で長く、きまった人としか接してないと、そういう気持ちになるもんだよ。まして怪我や病気が治るとね、主治医が治したみたいに思う。本当は君自身の力で治したんだよ。僕はお手伝いしただけ」
 にこりと、明らかに作った営業スマイルのまま、マニュアルでもあるのかと疑いたくなる流暢さでヴァッシュは言った。
 確かに医者だから、怪我人だったから出会ったのだけれど、医者だから好きになったのでは決してないのに。
 患者が女で医者が男だったりとか、ヴァッシュが綺麗な若い女医であればそういなされても仕方ないが、お互い男である。
 そして、ヴァッシュにとっても、ちょっとだけ親密な方に入っている、と少なくともウルフウッドは思っていた。
「そうだねぇ、一応後遺症障害が出ないか、一月後にもう一度来て下さい。カルテに書いときますから。特に悪いとこでなかったら二ヶ月後でもいいですから。……その時までもっぺんよく考えて。じゃあ、こっちにサインして」
 妙に饒舌で早口なのも、いかにも動揺を隠そうとしている風にしか思えなかった。
 ぱたぱたと慌ただしく書類を捲り、ペンを差し出した手を掴む。びくりと揺らめいた体が、ウルフウッドの患者としての立場を忘れさせた。その瞬間。
「ちょっと待って下さい!!」
 甲高い声ときゃーっという悲鳴。
 すっかり疚しいモードに入っていたウルフウッドは、掴んだ手を慌てて離した。
 患者が暴れたか、不審者でも入り込んだのではという騒ぎがドアの前で停まる。
「今ドクターはお話中で……!!」
 バターンと派手な音と共にドアが開けられ、派手な登場にまけない位立派なガタイの、派手な衣装の、そして派手に頭から流血した男が闖入してきた。
「いようドクター!ワリィな。また世話んなるぜ」
「大人しくしてて下さいネオンさん!!ストレッチャーに戻って!お願い!」
 看護士が腕にぶらぶらとぶら下がっている。背後にも二人、なんとか取り押さえようとか細い腕がまきついていた。
「ネオン……また君かい」
 病院に半年いたからって、血に慣れるというものではない。あきらかに治療前の大怪我人に、ウルフウッドは正直びびっていたが、さすがは医者、落ち着いたものである。
「ああ、もう。そんな派手に動き回ったら血が飛び散るだろう!ここは治療室じゃないんだから、静かにしろよ!第一、今患者さんとお話中だ!」
 患者さん。
 大変面白くない響きだ。ドアから顔を覗かせているどう見ても「患者」の男と、医者とは思えぬ口調でやりとりするヴァッシュも面白くなかった。
「そりゃ悪かった。けど、おめぇ以外に傷口触らすつもりはねぇから、さっさと話終わらせてくれよ」
 すごいおもしろない。
「ちょお待てや、さっさと終わる話ちゃうで」
 立ち上がって、闘志も露わにウルフウッドは言い放つ。
 ヴァッシュしか視界に入っていなかったのか、んん?とドラマの登場人物みたいに血を流した大男がこちらに視線を寄越した。
「なんだ坊主。言っとくが、こいつは俺のラ・マンだ。よけいなちょっかい出すんじゃねぇぜ」
 ちっちっ、と芝居がかった手つきで指先をふった。
 らまん、が何を指すのかはわからなかったウルフウッドだが、気にくわないポジションを主張しているのだとは本能で理解した。
「これ以上話しをややこしくするな!!!」
 医者である事を放棄したらしいヴァッシュの怒号で、とりあえずその場は解散となった。


 で、翌日。
 ネオンと名乗った男の病室を尋ねるのは造作もなかった。
 見舞いにくるのに、元入院患者も医者も関係ない。というのがウルフウッドのつけた理由だ。
 この際ネオンを見舞いに来る理由なんてどうでもいい。
「あら、ウルフウッドさん。忘れ物?」
 ネオンがおこした騒動に、看護士の間では、勝手に「ヴァッシュ先生を取り合う二人の男」というありがちな噂話が広まっていたが、ウルフウッドの知る所ではない。
 ウルフウッドが時折ヴァッシュと二人で談笑している姿に、ちょっといいツーショットなどと呟かれていたのももちろん知る由もなかった。
 男が外傷で入院しているならば、半年も暮らした場所だ、すぐに所在は知れた。
 B・D・ネオン。というのが男の名前らしい。
 個室に入れるような金持ちには見えなかったが、見舞客らしい似たような格好の男達が部屋からぞろぞろと出ていくのを何食わぬ顔で見送って、ドアをノックした。
 もしかしたら、あっちのスジの人間かもしれない。ウルフウッドは緊張する。
 けれど、相手がどこの組のものであろうと、ヴァッシュに関わる事なら一歩も引かない構えだ。若いっていいなぁ。
 ウルフウッドが久々に下宿に戻って、まずしたのは「ら・まん」なる言葉の意味を調べる事だった。
  『愛人』
 冗談じゃない、と思う。
 少なくとも半年、ヴァッシュと同じ空間と多くの時間を共にした身として言わせてもらえば、とても男の愛人が居るとは思えなかった。
 いくら医者として、仕事場でのヴァッシュしか知らないと言っても、あの時、薄暗い地下道で抱き合った(脚色されている)時に、そう信じる何かがあった。
 男であろうが女であろうが、支えてくれる人が居る人間は、あんな風に泣いたりしない。
 育ててくれた叔母が亡くなって、ウルフウッドは誰にもその悲しみを預ける相手が居なかった。
 そんな、涙だった。
「なんだ。……昨日のボーヤか。もしかすると、俺と張り合いに来たのか?ま、勝負にゃならねぇだろうけどな」
「ラ・マンてなんなんか、聞きに来ただけや」
 ピュウ、と小気味いい音が鳴った。
「本気なのかよ。やめとけやめとけ、てめえみたいなケツの青い小僧に、手の負える相手じゃねぇよ」
「あいつが泣いたん、見たことあるか」
 ばちばちと、火花が散った。
「お前が母性に訴えたら、そんな事もあるかもな。けど勘違いすんじゃねーよ」
「あんたには、言えん事がある、っちゅう訳やな」
 男のヴァッシュに母性とかかなりおかしい話になってるが、それはさておいて、ふん、とウルフウッドは対抗して鼻息を荒くした。
 コン、とノックの音。きい、とドアが開いた。
「ネオン、大人しくしてるか……わぁっ、ウルフウッド!な、なんでここに!」
 役者のようにずざっと後ずさりするヴァッシュに、どうもこの男が居るとみんな芝居がかってしまうんやな、とヤケに冷静につっこんだ。
「よぉ、ドクター。どうやらこの坊主、アンタに懸想してるらしいんだが、知ってたか?」
 面と向かって告白した後だから、ウルフウッドに痛手はなかったが、明らかに牽制しようとしているネオンにウルフウッドも負けてはいられない。
「このごっついおっさんの愛人なんやって?そっちもイケるクチやったん」
 ヴァッシュがきっとネオンを睨む。それからウルフウッドに視線を向けた。 
「……ウルフウッドくん。あのね。知り合いでもない人の病室を尋ねるのは、非常識だよ」    
「昨日知り合ったんや」
「横恋慕しても無駄だって教えてやってたんだ」
 ヴァッシュはこめかみに手をあてて、心底げんなりしたように目を閉じた。
「あのねぇ、君ら。いいけど。妙な噂がたって、僕が職を失ってもいいと思ってる?」
 この仕事に誇りと熱意を持っていると体で知っている元患者と現在患者は、一端口を閉じる。
「……よろしい、まずは当たり前の事ですがネオンさん。病室では静かに、安静にお願いします。ウルフウッドくんもね、この人十針縫って、肋骨折って、腕にもヒビ入ってる重症の患者さんなの。身内以外の面会は遠慮してもらってます」
「さっき、ぎょうさん人来とったで」
「あの人達は、彼の身内。……でもぎょうさんは要らないだろ、ネオン。他の患者さんがびびるからよせって言ってるだろ、いつも」
 わざとらしくそっぽを向いて口笛を小さく鳴らすネオンを、じろりとヴァッシュは睨み付けた。
 自分には向けなかった、気安さがどうにもしゃくに触る。
「他の患者さんと、随分態度ちゃうやないか」
「言ってるだろ、ヴァッシュは俺の」
「ネオン」
 ごう、と冷たい風が個室にふいた。優しげで頼りになる医者が、注射ひとつで人をあっさり殺せる悪魔へと変貌したように雰囲気を違える。
 ウルフウッドまで一緒に固まった。
「……この人はね、トラックの運転手さん。かれこれもう五回……六回も入院してるんだ。お得意さんなんだ。それに、彼の活躍で小さな子供が命を救われた事もある」
 ヴァッシュの言葉は、ネオンを援護しているようにしか思えなかった。
「だから、いい友達なんだ。な、ネオン?」
 が、続けられた言葉は、笑顔で言われたものの、否定を許さない恐ろしさがあった。
 けっ、と小さく吐き捨てて、ネオンはベッドにごろりと横になった。
「君も早く帰んなさい。病院に来るのは患者とまっとうな見舞いの人だけで結構です」
 だからネオンは何回も入院するのだろうか、と疑わずにはおれないウルフウッドだった。
  ネオンの部屋を追い出された後、廊下をとぼとぼ歩いていると、看護士や顔見知りに呼び止められてしまう。 シップをもらいに来てちょっと覗いた、などと適当に話をしながら、ネオンの情報を集めてみる。
 五年ほど前、救急車の事故で、彼は巻き込まれた方だったらしいが、自分の怪我も省みずに少年を搬送したという武勇伝の持ち主だった。
 この病院まで届けた後、ぶっ倒れたネオンが実は脳内出血を起こしていて、自分の命も危うかったらしい。
 それを助けたのがヴァッシュで、以来、事故だとかしようもない怪我とかでも、必ずこの病院にきているのだと、古参の看護士は話してくれた。
 そして、冗談なのか本気なのか、ヴァッシュ先生にすっかり心酔しちゃっててね、と付け加えてもくれた。 
 なかなかに、手強い相手だという予感がした。
 けれど一歩もひくつもりはない。
「ちょっと、ねぇ、アンタ!」
 病院を出た所でお下げ髪の少女に呼び止められる。
「アンタなの?ヴァッシュ困らせてる元患者って!」
 呼び捨て、しかもあんた扱い。
 相手が年下の少女だとしても、ウルフウッドはなんじゃこのガキ、と眉を顰めた。
「アタシはヴァッシュの姪よ。血は繋がってないわ。いるのよね、相手が患者だから優しくするのに、勘違いしてヴァッシュ好きになっちゃって、ストーカーまがいの事する奴!」
 いきなり呼びつけられて、一方的にストーカー扱いされて、楽しいはずがない。
「……ワイがヴァッシュに惚れてたからて、見もしらん相手に言いがかりつけるんは、非常識ちゃうんか」
「知ってるわよ!ウルフウッドって言うんでしょ。黒い髪に西訛り。背が高くって、……て、ヴァッシュに聞いたもの。それにネオンまた入院してるし。いいかげんあいつもしつこいのよ。入院する為に怪我してるとしか思えないわ。最初ちょっと格好いい事したからって、ヴァッシュは友達だって言うけど」
 よほど妄想が激しい少女でなければ、ヴァッシュの身内なのは本当なのだろう。
「アンタには、そんな話もすんのか」
「当たり前よ!一緒に暮らしてるんですから。彼の悩みを聞くのも、ごはんを作るのも、ヴァッシュを支えるのがあたしの仕事だもの」
「……惚れとるんや」
 血が繋がっていない、などと聞かれてもいない事を説明するのは牽制する為だろう。
 それでも、惚れているなどと違った言い回しをされるのに、少女は赤くなった。
「そうよ。アタシのヴァッシュを、よけいな事で悩まさないでくれる?ただでも大変な仕事なんだから」
「ワイの事で悩んどった、て事?」 
 しまった、というように少女が口を噤んだ。そして慌てて付け加える。
「しょっちゅうよ。だからこうやって、困った患者さんには忠告してるの。迷惑だって。だってヴァッシュはお医者さんで、元患者さんには甘いんだもの」
 昨日の今日で、はたして困った患者がウルフウッドだと特定できるものなのだろうか。
「前々から、困っとったやろ」
 ウルフウッドはカマをかけてみる。
「そう、しょっちゅうあなたの事、話してた。あっ、でも患者さんのプライバシーを侵害するような話は聞いてないわよ!名前だって、昨日ネオンがまた来たって言うから注意しに来て、今聞いたばっかりで……」
「……ジェシカ。言うんやろ、あんた」
 ヴァッシュが話していた、おしゃまな姪がいて、かわいいとそんな話題に出てきた名前だ。
 少女は顔色を変えた。
「なんで知ってるのよ」
「ヴァッシュから、聞いたんや」
 から、の所を強調する。
 一緒に暮らしている、とは聞いていなかったけれど、卑怯にもウルフウッドは伏せておく。
「娘みたいに可愛い姪が居る、て、な」
 これはあんまりウソではない。娘が居たらあんな風にかわいいのかな、と笑った笑顔が忘れられない。
「なによ、それ」
 ジェシカが悔しそうに俯いた。
 もしかしたら、ウルフウッドが思っているよりも、自分という存在はヴァッシュにとって大きいものなのかと、淡い期待を持ってしまう。
「あんたなんか、ヴァッシュ相手にしないんだから。ネオンだって、あんな事があったから、ヴァッシュも一目置いてるけど、それはお医者さんだからだもの。彼がヴァッシュが大切にしてる命を救ったからよ」
 お医者さんだから。
 人をなくす悲しみを知っているから、医者になったのだろうとウルフウッドだって思う。
 けれど、命を助ける事が一番偉い事だなんてウルフウッドは思わない。
「それは、ちょっと違うんと、ちゃうんかな」
 別にネオンを弁護してやるいわれはひとつもないのだけれど。
「最初の経緯、ちゅうんは、ワイも詳しくはしらん。ちょっとは聞いたけどな。それはきっかけだけなんちゃうん。ダチや言うからには、あいつにええトコあるんやろ」
 悔しいけれど、怒鳴りあえる相手である事は否定できない。
 医者と患者という枠に、自分も含めてくくられたくはなかった。
「あんたも、身内言うんやったら、医者と違うあいつの事も見たったらどうや」
 ジェシカが色をなくす。残酷な事を言ってしまった自覚はあったが、もし、本当に心からの支えであれば、あんな暗い所で、一人で泣かせないで欲しいという願いもあった。
「……あんたなんか、大っきらい」
 涙を浮かべた少女は、身を翻して駆け出した。
 どうもネオンが絡むと、色んな事がドラマチックになってしまうような気がして、ウルフウッドはうーん、と複雑な思いを抱えて唸った。

「で、なんでまた居るのかな、君は」
 今度はまっとうな見舞い客を装って、リンゴなどを持参して自分で食べているウルフウッドだ。
 八百屋でひともりいくらを、ビニールでぶらぶらさせて持ってきただけだが。
「よう、今日も輝いてんな!マイハニー」
「転院手続きは、すぐ出来るよネオン。別に動かせない怪我じゃないしねぇ」
 ネオンの事は、もちろん気に入らない。
「こいつの事は気にしなくていいぜ。愛を語ろうか」
「……MCRもう一回かけた方が良さそうだね。ところで一昨日退院した人がどうして二日続けて病院に来てるのかな。そんなに好きかな病院が」
 くすくすと、つきそいの看護士が笑いながら言う。
「診療しますから、退席お願いします。ウルフウッドさん」
「気にしなくていいぜキュートなベイビー。これは空気みたいなモンだからよ。」
 身内でも、診療の際は当然退出する。言われてウルフウッドも素直に腰をあげた。
「第一、君学生だろ。せっかく健康になったのに、学校はどうした学校は」
「事故にあった時に休学届け出したあるし。今からいったかて、どうせ留年やもん」
 時間はたっぷりある。バイトも再開したいが、半年も穴をあけて、おいそれと復職できる程世間は甘くない。 廊下で診察を待ってるのも馬鹿馬鹿しいので、勝手知ったる喫煙所に向かう。
 そういえば、ヴァッシュの涙を見たのは、地下道だった。
 あれ以来、この場所でヴァッシュで会う事はなかった。
 医者であるヴァッシュが、患者を不安にさせるようなマネをするはずもなく、結局あの後も、人に知られないように泣いていたのかと思うと、きゅ、と胸が掴まれる。
 患者でなくなれば、きっとまた泣いてくれるんではないだろうか。
 あんな風に一人で悲しむ事が、無くなればいいとウルフウッドは思う。ずっと、そう思っていた。
 悲しみを預ける相手が自分であればいいと思う。けれどそれよりも、苦しまないで欲しいと願う。
 ウルフウッドは、地下道を歩きながら、そんな自分をおかしいと小さく自嘲した。     
 
 
 ヴァッシュの顔が見れるのと、暇も手伝って、すっかりネオンの「見舞い」に行くのが日課となってしまったウルフウッドだった。
 話してみると、確かに男気があって、決して悪い奴ではない。
 ネオンのオーバーな愛の表明も、ヴァッシュはあっさり友人だからと流していて、時々なんだか可哀想になるぐらいだ。
 周りもあっけらかんとしているネオンに、ウケる為の冗談だと思っている。   
 ウルフウッドの見解はもちろん違う。
 少なくともネオンが、ヴァッシュの事を深く想っているのは同じ恋する男として確信があった。
 ネオンにも、伝わっているだろう。
 半端な思いじゃなく、ウルフウッドがヴァッシュの事を想ってる事に。
 ある日、その他大勢の見舞客とブッキングしてしまったウルフウッドは、飲み会に誘われてしまった。
 そこまでなれ合うつもりもなかったのだが、「野郎ども!一花咲かすぜ!」などとよく分からないノリにのせられて、外泊許可を取ったネオンと共に、大勢で繰り出すハメになった。
「くーっ、しみるぜ、アバラによ」
 もちろん酒を飲むなど禁止されているはずだか、こんな夜は無礼講だと止まる気配もない。
 一応未成年のウルフウッドは、どう見ても自分と二周りは違いそうなおっさん達に囲まれて飲むのは初めての事で、勧められるままに飲んでいると、すっかり出来上がってしまった。
「そやからー、あいつはかわいいやろ。一生懸命で、けなげやん。おっさんかて愛人や言うんやったら、あんな風に一人で泣かすなっちゅうねん!」
「なんで泣いてやがった。……いや、あいつが泣くなんて、いっこっきゃねぇ。……患者が、助からなかったんだろ」
 ばん、と居酒屋のテーブルを叩く。
「そんなん、あんな仕事しとったらしゃあないやんか。いちいち泣くんか。……泣くな言うとんとちゃうんや。一人でしょいこむな言いたいんや!そら、ワイは患者やし、医者がへこんどったら不安なるからて、言える相手やないのはわかっとる」
「……俺はねぇよ。あいつが泣くのは、見たことねぇ」
「したら、ワイの方がリードやな。ここで泣きよったよ。まぁ、ぐーぜん泣いてる所に通りかかっただけやけどな」
 右肩を叩き、げらげらとウルフウッドは笑う。
 なんだか悲しい気分なのに、こんなにおかしいのはなんでだろう。自分達は、ヴァッシュが悲しみを預ける相手にはなれないのだろうか。
 誰も、自分も、この男もヴァッシュを心から支えられる人間には足らないのだろうか。
「お前、本当にヴァッシュに惚れてやがんだな」
 周りのおっさんたちもそれぞれに盛り上がっていて、二人の話など聞いていないかのようだった。
「そーや。けど。ケータイも教えてもらえん。その程度や。ワイがなりたいよ。せやけど、悔しいけど、ワイがあかんかったら、誰でもええ。……あいつを一人で泣かせんで欲しい」
 ネオンはカラになったとっくりをふって、差し上げると手近なおっさんが慌てて新しいのを差し出してくる。
  小さいながら運送会社の社長だというネオンは、自分より年かさの相手にも、エバっているように見えるが、
決して権力だけで周りの人間が追従しているとは思えない。
 毎日見舞いにくる人間は立ち替わり入れ替わり、こんな所に来てねぇで仕事しろと怒鳴られている。
「……あいつと、寝るんじゃねぇぞ」
「なんやおっさん、牽制かい。老婆心やったらよけいなお世話じゃ」
 むっとして言い返す。
「なんもかわりゃしねぇ。……かえって傷も深ぇ」
 テーブルにつっぷして話していたウルフウッドはがばりと体を起こした。
 ぐらりと天井が回って、座布団が視界に入った。
「うそやろ……」
 確かに欲望はある。けれどそれは、思いが届いた後にやってくるもので、ウルフウッドにはまだおぼろげにしか存在していなかった次元の話だ。
「身体繋げりゃ、何か変わるかと思った。けど、あいつはきっぱりと言いやがった」
 ネオンの肘が上がって、とっくりごと煽るのが遠い世界の出来事みたいだった。
「・・・変わらないよ。てな。ひでぇ話だ」
 とん、と銚子が置かれる。
 倒れたまま、ウルフウッドはなんだか涙がでそうになった。
 ネオンがウルフウッドを諦めさそうと、作り話をしたとは思えない。
 知らないヴァッシュの肌を知る男に、焼け付くような嫉妬もあった。男に同情もした。
 そして何も変わらないといったヴァッシュが寂しくて、悲しくなった。


 翌日、さすがに二日酔いで昼過ぎにもそもそと起きたウルフウッドは、ぼうっとした頭で昨日の事を反芻する。
 寝るんじゃねぇぞ。
 何もかわりゃしねぇ。
「いちち……」
 頭が痛い。典型的な二日酔いだ。聞いた話も悪かった。
 あの時は、何も疑う部分がないように思った。今だって、ネオンの言葉にうすっぺらい嘘はないと思う。
 けど、ワイがヴァッシュに言われた訳やない。
 まだ自分たちには何も起こっていない。
 どんな結果だろうが、総てはこれからである。


 夜になってから、人としてまともになってきたウルフウッドは、ようやく昨日の飲み代も払っていない事を思いだし、面会時間は過ぎた事は承知でこっそりと病室を尋ねた。
 へんな借りを作ったままにしておきたくなかったし、昨日の話をもう少しちゃんと聞きたかったのもある。
 素面で話してくれるかどうかは分からなかったけれど、忠告を守るつもりもなかったから、その旨を伝えたいのもあった。
「全く!!どんな暴飲暴食してきたんだ!夕方の血糖値むちゃくちゃだったぞ!!酒の匂いぷんぷんさせて、医者のいいつけを守れない奴は、強制退院させるぞ」
 ドアの前に立つと、ヴァッシュの罵声が聞こえる。
 こら間の悪いとこにきたと、とにかくどこかに身を顰めていようとした時に、ネオンの声が小さく響いた。
「あの坊主と飲んでてな、つい過ごしちまった」
「……なんなんだよ、お前達。訳わかんない事すんなよ……」
 後は小さな声になって、よく聞こえない。
「あら!ウルフウッドさん、どうしたんですがこんな時間に」
 ドアに耳をくっつけようと怪しさ満点で身体を傾けたウルフウッドは、正に現場を押さえられて飛び上がった。 拍子にドアにぶつかって、ごん、とどんくさい音がする。
 ドアの中がしん、となったのが分かった。
「いや、あんな。実はネオンのおっさんに昨日金借りて、気持ち悪いし、返しにきたんやけど」
 がちゃり、とドアが開く。
「・・・面会時間とっくに過ぎてるよ、ウルフウッド」
 そういうヴァッシュも私服で、どうやら医者として病室に居た訳ではないらしい。
「あら、ドクターだって、勤務時間終了してますよ」
 明らかに憤怒しているヴァッシュをいなそうとしたのか、看護士が救いの手をさしのべてくれる。
「そ、そうやな。規則は守らんとな、ネオン、金預けとくし、後で受け取って」
 焦ってわけのわからない言動をとってしまうウルフウッドに、年相応の幼さを見てとったのか、口をへの字にしていたヴァッシュもはぁ、とため息をついた。
「僕がどうのとか言ってるけど、この二人のが仲良くて怪しいよね。そう思わない?」
 看護士はウケて笑っていたが、二人はげーっと砂を吐いた。


「……あんまり、ネオンの言う事真に受けるんじゃないぞ」
 ふたりっきりでエレベーターの中、ぽつりとヴァッシュは呟いた。
「あいつ悪い奴じゃないけど、なんて言うか、色々、大げさだから」
「……ワイはそうは思わんよ」
 三階から一階、何十秒かの沈黙。
 チン、と聞き慣れた音が響いた。ドアが開き、薄暗い一階の外来のフロアが広がる。
 出ようとしたヴァッシュの腕をとって引き留めて、地下のボタンを押してしまう。
 しゅん、とドアがしまる。振り解こうとした腕をぐいと引き寄せて抱きしめた。
 地下に付くまでの数秒、その唇を強引に重ねる。
「あん時、地下で泣いとったやん、一人で」
 ドアが再び開く。逃げるようにエレベーターから降りたヴァッシュの腕を再度捕まえる。
「あんな風に、一人で泣かんで欲しいんや」
 戸惑う瞳が向けられる。
「あん時みたいに、ワイの居る所で泣いてぇや」
 観念したように、ヴァッシュが目を閉じた。
「君……家どこだっけ」
「電車のって、二駅やけど」
「……車だから、送ってやるよ」
 ウルフウッドは、え、と想像していなかった展開に、既に先ほどから早くなっていた鼓動が一挙にまたしてもスピードを上げたのを感じた。
 部屋は、ぼちぼち散らかってはいるが、一人暮らしの学生にすればこざっぱりしている方だろう。
 送ってやると言われただけで、別に遊びにくると言われた訳ではない。
 それでも、期待するなという方が酷である。
 ウルフウッドはどこかにひっかかっているネオンの言葉をねじ伏せて、こくり、と神妙に頷いた。

さすがは医者らしくベンツに乗って、ウルフウッドは高級車にしゃちほこばってしまう。
「ネオンに何言われた?」
 平淡な口調は、ウルフウッドが初めて聞く声だった。
「……あんたに惚れてるけど、上手くはいかん、て」
「それだけ?もっと何か聞いたろ?」
 なんだろう、これがあのヴァッシュなのだろうか。
 抱きしめて、口づけて、かえって隔たってしまったかのようだ。 
「……寝ても、なんも変わらんから、寝るなて忠告された」
「……そう、そうだよ」
 ぴく、と身体が揺れて、やっとつけた息のように細く言葉がこぼれた。
「好きだって、言うから。友情と違うって言うから寝てみた。……三回、寝たかな。でも、変わらないよ。その前から友人だし、その後もいい友人だって事は変わらない」
「・・・それは、あんたがそういう風に、好きとちゃうからやろ」
「そうだろうね。……君の事も嫌いじゃない。患者と医者じゃなかったら、普通に友人になれると思うよ」
 優しげな容姿に似合わず、乱暴な運転をするヴァッシュの車は、あっというまにウルフウッドの下宿についた。
「ここでいい?」
「……寄ってかへんの」
「お前も試してみる?」
 挑発とも、誘惑とも、拒絶ともとれた。
「ワイは……試したいんやのうて、オンドレと、したいよ」
 

 脱いだ身体には、似合わず大きな傷があった。大きな事故で、炎上した車から奇跡的に助かったのだと言う。
 ブラックジャックみたいに、だから医者になろうと思ったのだと、ありがちな動機だと以前話してくれたのを思いだした。
 ベッドに横たわって、電気を消した時に、今更のようにヴァッシュが呟く。
「男同士でするとかって、普通じゃないよ。わかってる?それともそもそも男の方が好きだったとか」
「オトコに惚れたんは、オンドレが最初やな。多分最後やと思うけど」
 のしかかって、余計な事を言う唇を塞いでしまう。
 ケロイドや多くの傷跡も、柔らな曲線を持たない身体もウルフウッドを怯ませなかった。
 慣れたように話していたくせに、緊張して、頑なな身体が、男を抱くなど初めてのウルフウッドを非道く手こずらせた。
 痛みを堪えられないように、ヴァッシュは泣いた。
 声を殺そうとして、唇を噛んで。
 それでもあの時と同じように、ウルフウッドの胸に預けて。
 

 翌朝、何かを手に入れた幸せな気分で目を覚ましたウルフウッドは、枕元のメモを見て愕然とする。
『今後ネオンの見舞いにはこないように。飲みにいくなら、彼の怪我が治って退院してからにしなさい。
 守れないなら転院してもらうつもりです。
 それから用事もないのに病院には来ないこと。ダメだったら僕が病院を変えます。』
 どーゆー事や!!
 ウルフウッドは夢でも見ているのかと現実を疑った。
 成り行きは、手順は誉められたものではなかったが、縋られた指先が、ぽろぽろとこぼれた涙が、ヴァッシュが一人で抱えてきた辛さを預けてくれた証だと思ったのに。
「……オンドレは、ワケ、わからん……」
 それでも、病院に怒鳴り込んでいく愚は避けた。
 彼がこう、と決めた事を簡単に翻すとは思えない。やるといったら、本当にあの病院から居なくなりかねない。
 落ち着いて考えれば、もうすぐ退院して一ヶ月になる。患者として正答な理由があれば、ヴァッシュが拒否する理由はない。
 悶々と、いらいらとした二日が過ぎる。
 決まったするべき何かもなく、ただ、折に触れて、ただヴァッシュの肌の熱さや、声や潤んだ瞳ばかりが甦る。
 こんなに、誰かの事だけを考え続けるなんて、頭がおかしくなった人間にしか、できない事だと思っていた。
「くそったれ……!」
 吐き捨てると、携帯が鳴った。
 ヴァッシュからというのはあり得ない。
 表示を見て笑う、BDN。ヴァッシュの番号も知らないのに、おっさんと番号を交換してしまった。
 それでも。
 何かの救いがあるのではないだろうか、とウルフウッドは通話ボタンを押した。

病院から歩いていける距離の、チェーンで有名な喫茶店の名前をネオンは告げた。
 ドアを押して店内を一瞥すると、あっさりと目当ての人物は見つかった。
 着流しを羽織って、今時博物館でしか見ないような古風なキセルをふかしている。
 目立つ事この上なく、どこからどう見ても任侠映画の登場人物にしか見えない。
「汚ぇ顔してやがんな」
 なのに、くしゃくしゃのトレーナーとすりきれたジーンズのウルフウッドの方が、間違っているような違和感すら感じさせた。
「……おっさんに会うのに、めかしこむ必要あらへんやろ」
 そういえば、二日間ヒゲもそっていない。
「あいつと、寝たな?」
「……おっさんに関係あるか」
「しまらねぇ事になっちまったなぁ……全くよ」
 キセルをふかして、ぽん、と灰皿に吸いさしをあけた。
 つまらなさそうに、小さなメモをポケットから出した。
「今日はあいつは病院に来てねぇ、急病で休むなんてまずなかった話だ。電話してみな」
 並べられた数字は、携帯の番号ではない。
「これ……」
「昨日ジェシカが怒鳴り込んできやがって、俺様が何かしたんだろう、ととんだ剣幕でよ。冗談じゃねぇ。こちとらこの三年、ずっと清い交際つづけてんだ。とんだぬれぎぬだ」
 ネオンは、もう届かないヴァッシュの肌を、遠い思い出として脳裏に巡らした。



『大将、俺はてめえに惚れた。ついてはそうだな、あんたと寝てみたい』
『えーーっ。ネオンしっかりしろ!ぼかぁ男だ!睾丸もりっぱな物もついてます!!』
『関係ねぇよ。てめえだから、欲しい。ものは試しだ。あんただって俺様のこたぁ嫌いじゃないだろ』
『・・・そりゃあね。いい男だと思うよ。志も立派で尊敬もしてる。気持ちのいい奴だ。でも、そんな事する必要あるか?ネオンもてるだろ?僕は友人で、それでいいんじゃないのか』
『それ以上のもんが、手に入るかもだろ。少なくとも、おりゃあ欲しいぜ。どうだよ。やってみてからしのごの抜かせよ。俺ぁ本気だぜ』
 困って、考え込んでいるヴァッシュを、なし崩しに押し倒した。
 ひゃーとかぎゃーとか、色気のない事この上なかったが、気持ちよくしてやれば、信じられない位可愛い声をあげた。
『どうだったよ』
『いや、その……キモチよかったです。驚いた』
『そんだけかよ』
『……やっぱ、さぁ。あっても、いいけど。なくても良かない?』
 二度目は、辛さを堪えて笑う男に、怒りをぶつけて無理矢理組み敷いた。
 泣かせたかった。
 けれど、乱暴に扱っても、堪えられないような快楽を与えても、歯を食いしばって、決して泣きはしなかった。
『……こーゆーの。暴行とかに分類されるんじゃないのか。……二度とすんな』
『すまねぇ』
『今度こんなマネしたら、絶交だから。ダチでもなんでもない』
『・・・ぜっこう』
 体中に愛撫の跡をつけて、ヴァッシュの口から出た言葉はそんな子供じみたもので。
 それから最後に肌を合わせたのは、三年前。
 部下が、交通事故で死んだ。
 女房と子供三人を残して。
 ろくに休んでないんだから、他の奴に回せといったのだが、初めて海外旅行に連れていってやるのだと、おぜぜがいるんでさ、と言うので仕方なく許可した。
 理由は居眠り運転だった。
 あの時、止めていれば。
 給料に色ぐらいつけてやるから、旅行から帰ったら倍働けばいいと。
 どうしようもない悔恨の中で、ヴァッシュにくだを巻いた。
『僕は、なにかできる……?』
 そっと、手が伸ばされた。
 己がヴァッシュに望むものは与えられないと知ってはいたけれど、慰めの腕が欲しかった。
 他でもないヴァッシュの肌に溺れたかった。
 交わりは深く、ネオンは傷だらけの身体に頬をつけて、泣いた。
 翌朝、今までになく気まずそうなヴァッシュに、何かが変わったのかと一抹の期待がよぎった。
『・・・そのさ、ネオン』
『ヴァッシュ・・・』
『お前にどんな事があっても、……どんなでも、僕は変わらないから。ずっとダチだから』    昨夜の出来事を、ネオンは後悔しているのでは。そうヴァッシュは捉えたのだろう。
 彼自身にとって、自分の悲しみを誰かに預けるなんて、出来やしない事だったから。
 そしてネオンの失恋は、決定的なものになった。   


「なんで・・・」 
 それでも、時間が流れれば、少しずつ何かはかわるかもとネオンは願っていた。
 いつかヴァッシュが自分を支えられなくなった時、側にいれば助けてやれるかもしれないと信じていた。
「知らねぇよ。これ以上野暮言わせんじゃねぇ」
 偶然だったのかもしれない。
 その時に、この若造がたまたま居合わせだたけかもしれない。
 けれどそれはもう、言ってもしょうがない事。
「おおきに・・・・」
 小さな紙片を握りしめて、ウルフウッドは注文もしないで店を飛び出していった。
 懐から葉を取り出し、もんでキセルに押し込める。   
 マッチを擦って、深く吸い込む。紫煙があがった。
「……全くよ、俺様もヤキがまわっちまったぜ」
 カメラが回っているのではと疑ってしまうぐらい、嫌になっちゃうぐらい、ばっちりきまってる姿だった。 
 


 ウルフウッドは、きょろきょろと今は少なくなった公衆電話を探す。
 それから慌ててコンビニに入ってカードを買った。
 携帯に、この番号を記したくなかった。ヴァッシュ自身から教えられたのでもない番号を残してしまうのは、なんだかいけない事のように感じたからだ。
 かさかさと紙片を広げて、ボタンを押す指先が震えてしまっているのに顔をしかめる。
 ばくばくと、初めて告白する中学生みたいに心臓が鳴る。
 コール音。息を深く吸う。
 ぴーっ、と言う音がなって、留守電のメッセージが流れた。
『はい、セイブレムです。只今留守にしております。ご用件のある方は……』
 ヴァッシュの、声。
 それだけで身体の奥の方が熱くなる。
 受話器を下ろして、ぴーぴーと耳障りな音を立てるカードを引っこ抜いて再度すべりこませる。
 メッセージは残さずに、何度もかける。
 四回目で、がちゃりと受話器の上がる音がした。
『・・・もしもし』
 明らかに不審そうな声。
「ワイや。切るんちゃうで」
 電話向こうで、絶句しているのがわかった。
『……ネオンから聞いたのか?』
「そぉや」
『あいつ・・・。悪いけど、君と話す事ない。メモみたろ?二度と電話とかしてこないで欲しい』
「なんで。・・・なんも変わらんて、あのおっさんには言うたんやろ」
 沈黙と、小さな息づかいが伝わった。
「家、どこ」
『……お前に会いたくないって、言ってる』
「なんで会えへんの。ワイの事いらんのか」
 がちゃん、と非情な音が響いた。
 諦めずに再度ボタンを押す。もう指が覚えてしまった。
 もちろん留守電しか応答しない。
「居るんやろ。聞けや。何で逃げんの。逃げる言うんやったら、どこまででもおっかけるで、病院も毎日いったる。電話も毎日したる。ジェシカにも言う。……アンタと寝たて。もうワイのもんやって」
 がちゃがちゃと焦って受話器をとりあげる音。
『へんなメッセージ入れてんじゃねぇ!お前はストーカーか!』
 怒鳴り声、医者じゃないヴァッシュ。
「オンドレが試してみぃ言うたんやないか。変わらんかったんか?そやったら今まで通りやろ」
『……悪かった。もう、したくない。忘れてくれ。頼む』
 一転して、弱々しい、ひどく頼りない声。
「変わったんや。せやからびびっとるんやろ。なんで怖がるん、ワイの事信じられへんのか?」
『怖がってなんか……』
「好きや」
 どうして電話なんだろう。
 身体を重ねても、変わらないなんて嘘だ。
 少なくとも、自分とヴァッシュは違う。
「オンドレが、好きや」
 今、抱きしめなくちゃならないのに。
 焦燥とうらはらに、受話器の向こうは遠く沈黙している。
「家、教えんの嫌やったら、ワイのとこきて。待っとる。場所わかっとるやろ」
『……いやだ』
 逃げると言うなら、どんな犠牲を払ったって追いかけて捕まえる。
 でも、ヴァッシュだって、必要なはずだ。
 自分が。
『……君は、人間なんて必ずいつか死ぬとか、言うから、嫌いだ』
 地下道で、泣いていたヴァッシュに、おためごかしのつもりもなく、言った言葉だ。
 ウルフウッドにとっては、単なる事実だった。
 どんなに願っても、預かりしらぬ所でも、大切な人も、名も知らぬ相手でも、年寄りでも子供でも。
『……僕の仕事を冒涜してる』
 続けられた言葉に、ウルフウッドは当惑した。
「・・・そんな事とちゃうやろ」
『泣くのは、自分がふがいないからだ。君には関係ない。どうせ人は死ぬよ。亡くなってしまう事が悲しいんじゃない。力不足を嘆くだけだ。どんなに願ったって、亡くなった人は帰ってこない。君はなんにも分かってない』 
 明らかに混乱した話に、ウルフウッドは途方にくれる。
「そら・・・」
『辛いのは当然だ。そんな事も乗り越えられなくて医者なんかやってられるか。バカにすんな。ガキのくせに』
「・・・泣いとるやん」
『だから嫌いなんだ!お前なんか、いらない』
 いらない、と叫ぶ声が、ウルフウッドを呼んで止まない。
「ワイはガキやし、アンタの仕事の大変さは、ようはわからんよ。……人がいつか死ぬんは、ほんまやろ。せやけど、それを悲しむななんて、これっぽちも言うてへんで」
 鼻水をすするみっともない音が、それでも愛しく響く。
「あんたが医者でも、関係なく悲しいんやろ。それがなんであかんねん」
 医学の限界で、助けられない命は当然ある。
 大きなミスで損なってしまったとでも言うなら別だが、救えなかった命を、亡くなってしまった命に心を痛めるのに、力不足のせいだと、悲しむことすら禁じる必要がなんであるんだろう。
『……僕は、医者だ』
「でも、ただのヴァッシュやろ。今はワイの主治医でもなんでもない」
『・・・・・・』
「今、病院すぐ近くや。行って、住所聞き出してくるで。あかん言われるやろうけど、座りこんで、動かへんし。けーさつ呼ばれても、ヴァッシュだせー、て大暴れしたる。で、怪我したらまた入院するし」
『・・・・・・』
「本気やで」
 沈黙が続き、静かに受話器が下ろされた。
 ぷーっぷーっと寂しい音が響く。
 ウルフウッドはぴーぴーうるさいカードをほうって、電話ボックスを飛び出した。
 もちろん、ヴァッシュが向かっている、自分の家に戻る為に。全力で駅に向かった。






 翌朝、何度も顔を洗って、ウルフウッドに買ってこさせた目薬を何度もさして、やっぱり買ってこさせた整髪料で髪を整えて、頼りない足下で、ヴァッシュはようよう出勤した。
 ウルフウッドはにやにやが止まらない。
 だらしない顔してんな、と鳩尾にいっぱついいのをくらったが、へでもない。
 何度も何度も貫いた。最初は堅かった身体も、重ねるにつけ柔らかくほどけて、甘い声と涙を惜しげなくウルフウッドに捧げた。
 ふてくされたみたいに、そっぽを向いておはようすら返さなかったヴァッシュが、変わってしまった自分達の事を認めているのが知れて、ウルフウッドは天にも昇るここちだ。
 空は快晴。
 何もかもが澄み渡っていた。
  今日も、明日もあさっても。
 ヴァッシュと一緒にいよう。
 彼が辛い時だけじゃなくて、幸せな時も、嬉しい事も分かち合いたいと思う。
 
『携帯は、好きじゃないんだ。たいてい、急変だとか、急患だとか。いい話がかかってくる事はめったに、ない』
 自宅に電話したら、ジェシカに取り次いでもらうハメになるかもしれないからと、ねだって番号を教えてもらった。
 もちろん自分の番号も登録させる。
『したら、ワイが毎日電話するよ。ワイの声きかせたる。そしたら好きになるやろ、携帯』
 喜ぶかと思ったのだが、反対にへん、と小馬鹿にされる。
『……君、全く、ガキだな。調子にのってないか。社会人は忙しいの。毎日くだんない電話とかしてる程暇じゃないの』
『ワイかて、もうすぐ二十歳やで』
『……そういや、未成年じゃんか!!なんて事だ……。そうだよ!酒飲むし煙草吸うし!』
 顔を赤くしたヴァッシュが、本当に酒や煙草を問題にしているとは思えず、ついいらん事を言ってしまう。
『セックスは上手いし?』
 がつんと頭に拳が振り下ろされる。
『いたいやんか!……そういや、ヴァッシュって、いくつなん』
『別にお前なんてたいした事ない……。年?知らないのか!……聞いたら後悔するぞ』
 年の事はさておき、たいした事ないとは、やっぱり、おっさんと比べられてしまったのかと、ウルフウッドはおお焦りの上、ぐろぐろと嫉妬の炎を燃やした。
『ちょっと待てや、年はともかく、その前の台詞!聞き捨てならんで!』
『聞いて驚け!こう見えても僕はまだ36だ!若いだろう!』
 ええっ!!!
 童顔ではないが、それにしたってその年齢は反則ちゃうんか!
『なんだよその驚きようは。けっこうこれで苦労したんだからな。25で医者になって、頼りない顔だとか散々言われて。……君とは干支が一回りして、さらにむこうだな』
 えーっえーっえーっ。
 年上なのは承知していたが、二十代だとばかり思っていた。
 さんじゅうろくぅ?!
『後悔してる後悔してる。おっさん呼ばわりしてるネオンと三つしか違わないんだよーん。ははは。ざまぁ見ろ』 
 36の男がだよーん、とか、言うな!!
『やめとく?』
 ふふん、と鼻で笑われる。
 ウルフウッドが欲しいのだと、必要なのだと身体全部で伝えたくせに。
『アホ言うな。100なったら、110も変わらんわ』
 それでもちょっぴり引き算して言ってしまうウルフウッドだ。
『……そんな年まで一緒にいるつもりなんかよ』
 とんだ数字に、呆れた様子を見せたヴァッシュに、少しばかりウルフウッドは傷つく。
『なんやオンドレ、今だけのつもりやったんか』
 今だけなんて。
 どこからどこまでを今と言うのか、分からないけれど。
『そんな事・・・ないけど。君は若いし、なんていうか、前途ある、若者だし……』
 本格的に、ウルフウッドは拗ねた。
 なんやこいつ、ちぃとも分かっとらへんやないか。
 相手はオトナで、確かに自分は子供だ。
 でも年なんか、職業なんか関係なしに、ヴァッシュが知らない大事な事を知っている。
 けれど少なくとも、ヴァッシュは変わった。
 自分が変えたのだ。
 これからもっと、変わっていけばいい。
 そして変わらないものがある事を、いつか思い知るだろう。

                                                   END



◆ヴァッシュ争奪戦に勝つウルフ◆と言うお題をいただきました!実はこの後、エピローグがあったりなのですが、コピー本にもしておりまして、二人のお話としてはここでおしまい。長くて長くてごめんなさい・・・・