ビンテージ・シルキーのマウスピースについて

ビンテージ・シルキーという定義について

 バック(V.Bach)やジャルディネリ(Giardinelli)など歴史のあるマウスピース・メーカーは、製造時期や工房の所在地によって区別されることがよくあります。これに対し、シルキー社のマウスピースが「ビンテージ」あるいは「非ビンテージ」というような区分をされることは一般にありません。しかし、ここではあえてシルキー社のマウスピースを「ビンテージ」という視点によって、その変遷を具体的に考察していくことにします。というのも、かつてのシルキーのマウスピースには一貫したクオリティーの高さと、共通する洗練された響きがあると私は信じて疑わないからです。

 では、「ビンテージ・シルキー」という定義はどのようなものなのでしょうか。私は「1980年代初期(1981〜1982年頃?)までのマウスピース」を「ビンテージ・シルキー」と認識しています。そのうえで、「1980年代初期までのマウスピース」をさらに3つに区分をすることが可能だと考えています。この3つの区分をもとに、それぞれの時期のマウスピースとその差異や特徴などについて述べていくことにします。

 なお、このコンテンツ内における文章は、私が所有するマウスピースと資料をもとに記したものです。作者は現在も製造を続ける「シルキー社(Schilke Music Products)」と日本国内総発売元の「(株)グローバル社」と一切関係がなく、全て独自の解釈であるということを再度明記しておきます。また、写真の使用等については事前にご連絡をくださいますようお願いいたします。

@1960年代前半

 シルキーの創設者であるレノルド・シルキー(Renold Schilke)は、1956年頃に「シルキー社(The Schilke Company)」を設立します。会社を設立する以前からマウスピースの制作を手掛けていたことは周知の通りですが、これ以降、楽器とマウスピースの生産を本格的に開始するようになります。1959年にシカゴ市内に工房を移転するまで、制作活動はレノルド本人の自宅で行われていたといいます。

写真1

 写真1のマウスピースは、1959年〜1960年に制作された「R」です。これはシカゴ交響楽団に在籍した経験を持ち、レノルドとはプレーヤーとして同僚の立場にあったロバート・グロコック(Robert Grocock)氏の生徒が、彼を通してオーダーしたマウスピースです。この「R」は現行の「18」に相当します。刻印の「SCHILKE」の文字は大きく、かつ浅く掘られています。モデル名となる「R」の文字は、「SCHILKE」とは異なる手打ち用の刻印工具によってほぼ同じ大きさで深く彫られています(写真2)。シャンクは、かつてのニューヨーク・バック、オールド・ジャルディネリ、キャロル・パービアンス(Carroll Purviance)、ジョン・パーデューバ(John Parduba)、ドミニク・カリキオ(Domenick Calicchio)、バート・ヘリック(Burt Herrick)のように極めて薄く作られています(写真3)。写真4は1960年代前半〜中期に制作されたと推測されるコルネット用マウスピース「B」です。1950年にレノルド・シルキー自身の手によって制作されたカスタム・マウスピースの写真を在米トランペット奏者のご好意で手にすることができました。写真で判別する限り、マウスピースの刻印は写真1と同様に大きく、かつ浅く掘られています。

 写真5のマウスピースは、1960年代初期にレノルド本人が仲の良い友人のために、ビンセント・バック(Vincent Bach)氏と共同で制作した「2 1/2C」です。このマウスピースはマウントバーノン・トランペットにマッチするように設計されたものであると言われています。外形は当時のマウントバーノン期のマウスピースと共通している部分とシルキーのオリジナリティーが混在しています。ここで興味深いのがマウスピースの長さです。マウスピースとリードパイプとのギャップの長さについて、レノルドは極力ギャップをなくすべきであるという考え方をしていたといいます。これに対して、ビンセントは多少のギャップがある方がよりよいというコンセプトであったようです。このマウスピースの全長はシルキーのマウスピースよりも若干短く作られています。具体的にどのマウントバーノン・トランペットにマッチするように設計されたかが判明すれば、ギャップに関してどのようにセッティングしたのかがわかります。しかし、残念ながら最初の所有者であったトランペット奏者はすでに他界してしまい、その詳細を知ることはできません。

 なお、現在でも、このようなシルキーのラベリング方法ではないバックのラベリング方法によるマウスピースは、シルキー社にカスタム・オーダーをすることで入手が可能です。実際に正規輸入元のグローバル社を通じて受注生産という方式で、「バックタイプ」のマウスピースとして国内でも流通しています。この現行の「バックタイプ」のマウスピースには、「シルキーと全く変わらない外形のもの」と図3のような「バックスタイルの外形をしているもの」との2種類のシェイプが少なくとも存在します。また、通常のシルキーのモデルであるにもかかわらずバックスタイルのシェイプをしているマウスピースも存在します(現在でもオーダー可能かは不明)。

A1960年代後半〜1974年頃

 1960年代後半になると、1960年代前半に多く見られる「B」や「K」のようなイニシャルで表されていたモデル名は、番号によるモデル名で表されるようになります。現行のラベリング方法は、1964年にシルキー社を退社後シカゴ交響楽団で副首席奏者として長年にわたり活躍することとなるウィリアム・スカーレット(William Scarlett)氏によって開発されたことから、1964年以前には現在の番号のラベリング方法によるモデルが生産されていたと推測されます。これを裏付けるように、1965年7月のシルキー社のインボイスでは、マウスピースのモデル名は現行のラベリング方法で記されています。また、1967年上半期(ワバッシュに移転する6月1日以前)に発行されたシルキー社のマウスピースカタログを確認したところ、イニシャルのモデル名ではなく、現行のラベリング方法によるモデル名によって表記されています。その一方で、1966年に制作された「MODEL H」、刻印の形状(1960年代前半〜中期の刻印とは異なり、刻印が低めの位置にかつ若干深く刻まれており「SCHILKE」と「A」との刻印との間隔がほとんどない)から1970年代前半に制作されたと推察される「A」の存在が確認されています。また、現在確認中ですが1973年頃、師事していた先生を通じて「H」を購入したというアメリカ在住のプレーヤーからの情報も寄せられています。このことから、1964年前後にラベリング方法は現在の番号による表記へと移行したものの、オーダーによってはイニシャルのモデルが入手可能であり、イニシャルのモデルと現行のラベリング方法によるモデルとが共存していた期間がしばらくあったという推論が成り立ちます。ところで、シルキー社の工房の設置の時期と刻印の変化には強い関係があり、制作時期を推測するひとつの材料になりうるという仮説があります。これをふまえると、1963年に工房をウエストレークへ移転が現行のラベリング方法へと移行する契機となった可能性は否定できません。

写真7

 写真6のマウスピースは、1960年代前半〜中期に制作されたと推定される「MODEL B」です。写真4の「B」とは異なり、「MODEL B」と「MODEL」という文字が刻印されています。「SCHILKE」の文字は写真1と同様に大きく、かつ浅く彫られていますが、文字の位置は若干低めに位置します。刻印の「B」は写真4の「B」と微妙に異なることから、手打ち用の刻印工具が変わっていることが確認できます。

 写真7のマウスピースは、1968年に購入された「18」です。シルキー社は1963年、1967年と工房を移転しますが、このマウスピースが1967年の工房の移転前、あるいは移転後のどちらで作られたかは定かではありません。刻印の「SCHILKE」の文字は同様に大きく、低めの位置に彫られています(写真8)。また、この刻印は写真1と比較すると若干深く刻まれています。モデル番号に関しては「SCHILKE」の刻印と間隔をあけて記されています(写真9)。この間隔についてですが、1973年制作の「13A4A」(写真10)では間隔が狭まっています。この点をふまえると、当初は「SCHILKE」とモデル番号とは間隔があったが、のちに間隔がなくなったというように推察されます。また、モデル番号の数字の「1」の刻印は1968年のマウスピースと1973年のマウスピースでは明らかに異なる刻印工具で彫られていることから、刻印の「1」の違い(具体的には「1」の下の部分)を見ることは、制作時期の判断材料のひとつとなり得ます。

 写真11のマウスピースは、1975年に購入された「20」です。刻印の「SCHILKE」の文字は同様に大きく、低めの位置に彫られていますが、かなり浅く彫られているのが特徴的です。モデル番号は今までと同じく深く掘られていますが、上記したように「SCHILKE」の刻印との間隔はそれほどありません。1976年に制作されたマウスピースの刻印は小さくなっていることから、大きな刻印から小さな刻印へと変わる過渡期のマウスピースと思われます。ここで興味深いのがシルキー社の工房の推移です。シルキー社は1974年から1981年まで、1967年に移転してきたワバッシュの工房とは別にウィンフィールドにも工房を持ち、作業を行っていました。この工房の設置の時期と刻印の変化がみられる時期とが重なるのは単なる偶然ではなく、何らかの因果関係があるのではないかと推測されます。また、この「20」が制作されたのは、実際には1974年であるという可能性も十分にあります。以上のことから、1974年頃に刻印が大きなものか小さいものへと変わり、工房の増設がその変化の契機である可能性が高いと考えるのが妥当と思われます。「The Schilke Loyalist」には、楽器本体の第2バルブケーシングの刻印(四角の枠の有無)によって、制作時期が1989年のメルローズパークへの移転の前か後かを判断することが可能である、という指摘があります。このことからも、シルキー社の工房の設置の時期と刻印の変化には強い関係があり、制作時期を推測するひとつの材料になりうるということが裏付けられます。

B1974年頃〜1982年頃

写真12

 1974年頃を前後して刻印は現行のように小さいものになりますが、1980年代初期までのマウスピースには現行のマウスピースとは明らかに異なる点があります。それは、ビンテージ・シルキーのマウスピースに一貫して共通しているシャンクの薄さです。写真12のマウスピースは1977年に制作された「16」です。このマウスピースのシャンクは、これまでのマウスピースと同様に大変薄く作り上げられています。しかし、1980年代初期にはこのシャンクの薄さが失われてしまいます。シルキー社の工房の設置時期と刻印が大きく変化した時期との関連性についてはすでに指摘したとおりですが、ウィンフィールドの工房が閉鎖される時期、すなわち1981年が大きなターニングポイントとなっているのではないかと推察されます。とはいえ、創設者であるレノルドが存命中に、品質が大きく変わるということは考えられません。1982年9月にレノルドは息を引き取るということを考慮すると、少なくともこの時期までは変わらぬクオリティーであったと判断するのが妥当です。以上のことをふまえると1980年代初期、具体的には1982年頃までがビンテージ・シルキーであると定義することができます。

 この時期の刻印は全て現行と同様に小さいものですが、時期によって微妙な差異があることを指摘できます。写真13のマウスピースは1976年に制作された「6A4A」です。写真12の「16」とは異なり、若干刻印が浅く、細いことが確認できます。1974年頃に小刻印に移行後、当初は刻印が浅く小さかったが、それ以降は現行に近い刻印となったと判断することができます。

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