建物名称 鴨池マリンパーク
所在地 鹿児島県鹿児島市
高さ 塔本体高57.08m 設置水深9.7m
竣工 1972(昭和47)年
営業中止 1993(平成5)年
現状 1993(平成5)年度解体撤去
TF式分類 第1種 I類
概要

鹿児島市中心部を流れる甲突川河口の南側、現在の住居表示で与次郎一丁目・二丁目に相当するエリアは1966(昭和41)年から72(昭和47)年にかけて実施された与次郎ヶ浜公有水面埋立事業によって誕生した土地である。一帯は1972年の太陽国体開催に合わせてスポーツ・レクリエーション・観光の拠点として整備され、県営の陸上競技場と野球場のほか、宿泊施設や商業施設などが集積している。
この与次郎ヶ浜の護岸堤防は錦江湾と桜島を望む景観を損ねないよう高さを抑える目的で二重構造が採用されたため、外側護岸と内側護岸の間には幅47.5m・長さ1573mの長水路が出現することとなった。鴨池マリンパークはこの長水路のほぼ真ん中に存在した展望塔である。埋立の事業主体である鹿児島開発事業団が設置して市に移管したもので、市の委託を受けて第三セクターの鹿児島国際観光株式会社が運営にあたった。建物全体の設計施工者は芙蓉海洋開発。各種文献ではしばしば「鴨池公園水中展望所」との表記が見られるが、これは条例上の名称だったと思われる。
建物は海面下9.7mを設置面とし、本体は鋼板被覆鉄筋コンクリート造である。エレベーターシャフトとその周囲を取り巻く螺旋階段を収めた直径7.7mの円筒形の塔体を軸とし、おおむね地平レベルとなる海面上6.7mの位置を1階として入場口を設けた。入場口は内側護岸から連絡橋が接続する。
海面上16.58mの2階は直径約16.8mの展望スペースで、屋内をティールームとし、外周にはオープンエアの回廊をめぐらせた。そこから上の塔体は鉄骨鋼板構造で円錐状となり、頂上部には直径6.8m・重さ16トン・32面体のアルミ製の球体オブジェが据え付けられた。このオブジェはシンボル球と呼ばれ、昼間は太陽光線を受けて、夜間はライトアップによってミラーボールのように光り輝く効果を狙いとした。塔頂部の海面からの高さは47.38mである。
水中部は2層建ての矩形の建物(幅27.6m×奥行19.1m)となっており、外側護岸側の長辺に沿って設けられた各階64席・計128席のレストランと残る3辺に沿った回廊が鴨池マリンパークのメイン施設であった。建物の周囲は最大貯水量7000立方メートルの巨大な遊漁槽となっており、熱帯魚7000匹とブリ・ハマチ5000匹など計1万3000匹(開業を報じる南日本新聞の記事による。鹿児島開発事業団史の記述は80種6000匹と大きく異なる)が放たれ、来場者の目を楽しませた。厚さ76mmのアクリルガラスを嵌め込んだ水中窓は上階を四角形、下階を円形としてそれぞれ36ヶ所に設け、水中照明灯を複数個所に設置して夜間の観望にも対応した。
開業は1972年10月で、当時の入場料は大人200円・小中学生100円。営業時間は10時〜21時だった。当初は国内でも珍しい水中展望塔とあって人気を博したが、1973年度の約30万人をピークに年々入場者は減り続け、1983(昭和58)年度は5万7000人にまで落ち込んだことから84年3月限りで営業を終了した。しかし同年10月からは再び鹿児島国際観光が建物の1階と2階を借り受けて入場無料の展望施設としてオープン、喫茶店の営業も開始している。この再開にあたって市の広報誌「かごしま市民のひろば」に掲載された告知記事はわずか数行しかなく、すっかり他の記事に埋もれているが、その記述から察するところでは鴨池マリンパークという名称はこのとき鴨池展望所に改められたようである。また、南日本新聞の記事によると鴨池展望所ではクラゲ・イソギンチャク・サンゴなど約30種を水槽で展示したというが、事業団史には遊漁槽は老朽化して漏水があるため閉鎖したとの記述があることから、生物の展示は2階の展望スペースで小規模に行われたものであり、水中部は再開しなかったと解釈するのが適当と思われる。1991(平成3)年の入場者は約11万人と盛り返したが、1993(平成5)年3月をもって鹿児島国際観光が喫茶店の営業から撤退するとともに完全閉鎖された。建物は腐食が激しく放置するのが危険と判断されたため同年度内に解体撤去されている。
なお、晩年はエレベーター機械室より上部の塔体が切断され、シンボル球を失った哀れな姿を晒していた。切断した時期を特定する資料を発見できていないが、1985(昭和60)年に九州に上陸して猛威を振るった台風13号の被害を受け2ヶ月にわたり休業した記録があることから、このときではないかと推測される。

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