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八戸市の中心繁華街にほど近い長根公園は、全国でも有数の規模を誇るスケートリンクをはじめ、体育館、運動場、野球場、武道館といった各種スポーツ施設を備える約17haの総合運動公園である。市営体育館の南側、現在は芝生広場になっている一帯は、かつて民間会社が経営する「八戸ゆうえんち」があった場所で、メリーゴーラウンドや回転ブランコといった遊具が子供たちの人気を博した。八戸タワーはその八戸ゆうえんちに建てられた展望塔である。
このタワーの沿革を説明するにあたり、まずは遊園地を開設した八戸観光株式会社と、その創立者である熊谷義雄について述べておきたい。熊谷は八戸における水産業界の有力者として戦前から活躍し、1994(平成6)年に88歳で没するまでに八戸商工会議所会頭、八戸工業大学理事長、デーリー東北新聞社会長などを歴任したほか、1963(昭和38)年から1979(昭和54)年までは衆議院議員を務めるなど、長く地元政財界の重鎮だった人物である。八戸観光は熊谷が太洋水産社長だった1958(昭和33)年、八戸市を中心に八幡平、十和田湖、三陸海岸などの観光資源を開発して地方産業の振興に寄与する目的で設立した会社で、八戸ゆうえんちおよび種差海岸のホテルと海水プールが第1弾として計画された。
八戸タワーはオーソドックスなスタイルの鉄塔で、塔体はグレーに塗装されていた。展望台は高さ15mに設置された13m四方(51坪)の下部展望台と、高さ35mに設置された9m四方(25坪)の上部展望台の二段構えで、20人乗りのエレベーターが各階を結んだ。 下部展望台には食堂があり、オープン時にデーリー東北に掲載された広告では「100名収容の豪華レストラン」と謳われているが、厨房の存在を無視したとしても相当窮屈なレイアウトとなる計算なので、いささか誇張した表現だと思われる。完成時点では八戸市内で最も高い建物であり、鮫地区や湊地区の漁港、臨海工業地帯、高館地区の自衛隊駐屯地といった風景を一望できた。
八戸観光による遊園地とタワーの営業は1962(昭和37)年まで行われ、翌63年7月に寄贈というかたちで市に経営が移っている。同社についてはほとんど資料がなく、結局八戸ゆうえんち以外の計画が実現したのかも、その後の歩みもわからないが、何らかの事情で観光事業を諦めるに至り遊園地を手放したとみていいだろう。
1968(昭和43)年5月に発生した十勝沖地震では八戸市でも甚大な被害が生じ、タワーは46m付近で大きく折れ曲がってしまった。そのため上部を切り落として営業を継続していたが、エレベーターの老朽化や運営費の増大などが次第に大きな負担となり、1970(昭和45)年に営業を休止した。以降は廃墟として佇んでいたが1977(昭和52)年の「あすなろ国体」開催に向けてこの場所に弓道場を建設することとなり、76年10月に解体撤去された。遊園地はその後も営業を続けたが、1985(昭和60)年に廃止されている。
資料として主にデーリー東北の記事を参照したが、タワーの完成時と解体時では数値などの記述に若干の差異がみられる。たとえば上部展望台の高さは完成を報じる記事では35mとしているが、解体時の記事には「40m付近」とある。また、完成時にはタワーの高さを「避雷針先端まで70m」と明確に記述しているのに対し、解体時には「地上からの高さ約59m」とだけ記載されている。当サイトでは後者を完成当時の建物本体高を示すものと判断した。
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