7/15/2002:
鈴木宗男議員が逮捕されてから,かなりの日にちが経ちました.足寄町出身ということで,町民全体が悪者であるかのようにマスコミが報道したり,あるいは時に私のところにも匿名で町民を侮辱するような内容のメールが届きます.鈴木さんが足寄町に対して,ある意味で貢献をしたのかもしれませんが,それが報道のように,違法な行為であったのなら,それをお願いした町民も同じように,罪を感じて反省しなければいけません.しかしここで考えてみてください.公共事業で得をするのはだれですか?実は町民のごく一部でしかありません.直接関係があるのが,土建会社.他の大部分の町民は,なんら恩恵を受けることはありません.できた施設を利用する町民も,恩恵を受けていると言われるかもしれません.しかしそんな施設は,町民ももともと望んでいなかったりします.このHPに出てくる農家のおじいちゃん,おばあちゃんは,政治がたとえどうなっても,自分たちの生活を変えることは,いや変わることはないでしょう.それは足寄町に連綿と存在し続けてきた,広大な自然と同じような気がします.そんな人々そのものが,自然そのもののようにさえ,私は見えてしまいます.そして私もそのような人たちと同じように生きて行きたいと思います.だから意味がよくわからない農道の舗装工事を残念と思ったり,数十億という巨費を投じて計画されている,商店街再編計画に対して疑問を持つわけです.アンフェアな形で自分たちの利益を追求することが,結果的に自分達の大事な生活そのものを奪ったり,変えたりしてしまうことを,私を含めて町民全体が,いや国民全体がもう一度確認する必要がありそうです.
足寄町の自然を愛し,自然の中に自分の存在を自覚し,生活している大部分の町民の皆さん,胸を張って,前を向いて未来に向かって歩いて行きましょう.そして今回のことで失敗した皆さん,反省してまた一緒に町を良くするためにがんばっていきましょう.元気に行きましょう.人間気がめいっては何もできません.たとえどんなことがあっても,この町の自然は変わらずにすべてのことを許して受け入れてくれます.
3/10/2000:
3月7日の朝早く,愛犬のモルが眠るようにして息を引き取りました.その日の晩は茶の間のストーブの前に寝かされていました.夜中に2回ほど苦しいのか鳴いていましたが,口の中に水を入れてやると,また眠りにつきました.そして最後のときを静かに迎えたのでした.仲のよかった猫のミミも,時折モルの頭をなめってやったりして,心配をしていました.野良犬だったころに拾われて,家に来てから16年.私たちに実にたくさんの思い出を作ってくれました.昨年の夏,私の子供を連れて帰省したときには,子供がもともと好きなモルは大喜びでいっしょに遊んでいました.遺体は町の焼却炉で焼いてもらい,骨は箱に収められました.春が来て,土が見えるようになるまでは,家の中で生前の写真と,好きだった缶詰を供えて祭っておきます.そして春になると庭の土に返されます.足寄で生まれたモルは,足寄の土に帰るのです.そしてその土からはまた新しい生命の息吹が生まれてきます.
2/8/2000:
愛犬のモルです.実は老衰もあって,昨年末肺炎になり,一時危険な状態になりました.現在17歳でおそらく人の年齢になおせば80歳以上でしょう.幸い抗生物質が奏効したのか,今はまずまずの状態になっています.毎日,犬小屋の中に湯たんぽと毛布に包まって寝ています.お正月に私が実家に帰宅して,近くに行っても犬小屋からまったく出てこようとはしません.目もあまり見えず,耳はほとんど聞こえていないようです.体に触ってやるとやっと気が付き,うれしそうに出てきます.今では1km散歩するのがやっとの状態です.それでも私が札幌に帰ろうと車に荷物を積み始めると,目も耳もほとんど利かないはずなのに,気配を察知したのか,犬小屋から早々と出てきて,鼻をくんくん鳴らして甘えてきます.なぜ私がこれから帰ることがわかるのでしょうか?私が思ったように,犬もこれが私と会うのは最後かもしれないと思ったのでしょうか?幸いのことにモルはまだ健在です.毎日まだ,私の両親といっしょに,よたよたと500M程散歩もしているようです.でも,最近めっきり食事も摂らなくなりました.野良犬でいたところを,私の家で生活するようになって17年.家族の大事な一員です.一日でも長く生きて,せめて寒い冬を乗り切って欲しいと今,思っています.
12/31/99:
今更言うほどのこともないのですが,今日は1900年代最後の日です.Y2Kのために私は今,病院に泊まり込みです.札幌は雪が降り始めました.静かな夜です.本年もHPを閲覧いただきましてまことにありがとうございます.一年間に6000回ほどのアクセスで決して多くはありませんが,これからも細く長くやっていこうと思いますので,おつきあいよろしくお願いいたします.それにしてもY2Kは大丈夫なのでしょうか?足寄でも電気が切れても良いように,皆さん石油ストーブを用意していると言う話を聞いています.電気がなかった開拓の頃の先人達は,こんなことで恐怖を感じている我々をどのように見ているのでしょうか?とにかく何事もなく年を越すことができるように祈っています.
4/8/99:
実は,足寄町に住んでいる私の父が一月下旬に交通事故に遭い,現在も病院に入院しています.事故は網走で起こり,その時に自宅には誰もいなかったので,私たち家族への連絡が遅れ,なおかつ正確な情報が伝わってこなかったので,事故直後は大変心配しました.幸い命には別状がなかったのですが,これから長いリハビリテーションが必要です.今回のことで,本当に町の人々にお世話になりました.まず母は父の看病のために,自宅を長期留守にすることになりましたが,その期間の我が家の犬,モルの世話は,隣に住んでいる人が快くしてくれることになりました.猫も近所の人が面倒を見てくれることになりました.犬の世話は大変です.毎日散歩をしてやらないと,病気になってしまいます.町から遠いのにも関わらず,毎日たくさんの人達がお見舞いに来てくれました.中には何度も足を運んでくれる人もいます.周囲との関係が希薄な都会暮らしでは,今回のような援助を受けることは決してなかったでしょう.おかげで父は精神的に落ち込むこともなく,順調に回復しています.ありがとうございました.事故の知らせを受けて,単身,長距離を運転して病院に向かった時,父が心配で,いてもたってもいられないと言う気持ちと,反面,医師として冷静に今後の治療について戦略を考える自分が同居して,何とも言えない複雑な心境でした.(数年前,私の祖母は,私が自分で治療をして,その最後を見取りましたが,この時も同じような気持ちでした.)父のベッドサイドに二晩付き添って,私も仕事に復帰しました.今回,私は医療を受ける家族の立場になり,患者や家族が病院に対してどんな要望を持っているかが良くわかりました.今回の経験を,今後の私の仕事に生かしていこうと思っています.
5/9/98:
写真は私の実家に生息する猫です.私達兄弟が独立して子供が家にいないためか,両親の寵愛を受けて育ったため,わがままになってしまいました.家の中ではやりたい放題です.神棚の上に知らないうちに上がって,供えてある水を飲んでいました.足寄神社の神様もたじたじです.この猫は実は自分の家だけではなく,近所の皆さんの所へもしょっちゅうおじゃまして,勝手に家に入り込んで食べ物をもらったり,子供と遊んだりしています.私の実家は20年程前から整備が始まった新興住宅地にありますが,私が子供の頃は畑だけしかありませんでした.今はこれほどたくさん新しい家が建ち並んでいるのに,町の人口がそのころと比べて5000人以上が減っているというのは驚きです.大きな原因は,若い私達の世代が町を離れていることによります.大きな立派な家がたくさんあるのに,住んでいるのは65歳以上の方たちばかり.町の老人人口は22%にも達しています.過疎はどこの町でも抱える問題ですが,若い人たちが働ける場を確保することが町では難しい以上,根本的な解決は無理でしょう.しかし過疎の町でもすばらしいところはたくさんあります.昔ながらの近所づきあいが今もここにはあります.この人々のつながりがこの街を形作っているのだと思います.家の猫もそんな近所の皆さんとのつながりの中で,のびのびと生活させていただいています.過疎は確かに大きな問題ですが,ここには昔からある日本の町の姿がまだ残っているのです.
1/17/98:
水は生活するのに必須なものですが,飲用に耐えうる水道水が供給されている町が減ってきています.北海道のあちらこちらで生活,さらに東京,ロサンゼルスと住むところを転々としてきた私は,数々の水道水を飲んできました.ロサンゼルスでは水道水は飲めません.東京でも浄水器をつけなければ飲用に耐えませんでした.先日旅行で訪れたメキシコでは,水道水を洗顔やうがい用に使うこともできませんでした.ところがここ,足寄町の水道水は本当においしい.これはお世辞抜きに実感できます.夏でも蛇口をひねれば冷たい水がすぐに出て,コップに注いで風味を味わいながら飲み干すことができます.これも山間部の綺麗な川から供給される豊富な水と,たくさんの人が苦労して浄水設備を維持運営してくれているためなんでしょうね.
12/13/97:
今年も残り少なくなってきました.外国に長く住んでいますと,来年が平成何年で干支が何でと言った日本人の常識は,遠い忘却の彼方に消え去ってしまっています.でもいくらこちらの生活に順応しても,この季節になると思うのはお正月の日本の風景です(決してクリスマスではありません).しめ縄,門松,みかんの飾り,神棚にお供えしたお酒など,少し記憶が薄くなっていますが,懐かしくいい風景です.日本にいる頃大晦日に足寄の町が一望できる
平和
の高台に夜行ったことがあります.殆どの家が煌々と明かりを灯し,煙突からはまっすぐに煙が上っていました(真冬の足寄は夜になると無風で,空気が澄んでいることが多くなり,こんな日の朝は放射冷却のために気温が零下20度以下になります.煙は見事にまっすぐに空に上がっていきます).なんだか心が洗われる風景でした.あの明かりの一つ一つに各々の生活があって,また各々が集まってこの町を作っているのです.当たり前のことですが,大晦日の町の灯りを見ているとそんなことが頭に浮かびました.月明かりと雪でとても明るい夜でしたが,帰り道農道を歩いているとぽつぽつと山の中に農家の明かりが見えました.小高い山の中腹に神社があり,今日は参道もきちんと除雪されています.町の神社にはあふれるばかりの人が参拝に訪れますが,この神社にはいったい何人の人が初詣に来るのでしょうか?私は畑のあぜ道を通ってこの神社に行ってみました.まだ人が見あたりません.それでも粗末な社奥ですが,きれいに手入れされて,たくさんの灯りもともっています.少し経つと近くの農家の人たちが集まってくるのでしょう.この神社は開拓の頃からこの地域の人たちを見守ってきたのでしょう.またこの地域の人たちも昔からこの神社を信仰のよりどころとして,新年の息災を祈って今日のようにこうして社奥の手入れを続けてきたのでしょうか.私はそっと手を合わせてから参道の階段を降りました.身が凍るような気温とは裏腹に,なぜか気持ちはとっても暖かな夜でした.
10/25/97:
足寄町には,今都会ではほとんど見られなくなったいわゆる昔ながらの職人がいます.私がよくお世話になっていたのは,靴の修繕のお店の職人さんで,もう70歳代のご老人です.店は狭くそしてお世辞にもきれいとはいえませんが,靴の修繕技術はすばらしいです.私は毎日トレーニングのために20Km程ランニングするため,ランニングシューズがすぐにいたんでしまいます.新しいのを買うとなると,1万5000円程の出費となるので,おいそれと新調できるものではありません.ランニングシューズの寿命はだいたい走行距離にして1000Km程度とされていますから,私なら2ヶ月も持たないことになります.それで靴底が摩耗したら,買い換える前にこのお店に修繕をお願いすることにしています.お店はこのご老人一人でやっていて,家族もいないようです.靴の修繕だけでなく,たぶん自分で作ったと思われる靴も20足程並べてありますが,何年も前からdisplayが変わっていません.全然売れていないのでしょう.私が店に行くと,しばらくしてからやっと店の奥からでてきます.こちらから話しかけるまでは一言も話しません.靴を見せて,ここを直して欲しいとお願いすると,老眼鏡をかけて,じっくりと靴を見て,「こんな色の靴底はないから,このゴムを使って直していいんだったら引き受ける.色が違うから見栄えは悪いぞ」.だいたいはこんな風に言います.しかし出来映えはいつも最高です.靴底もすべてを張り替えるのではなく,摩耗している部分のみを張り替え,穴があいているところも糸で繕ってくれます.修繕費は安いです.しかも,値段は適当です.その時その時の気分で付けているかのようです.「足と腰が悪くて病院に通っているのに,さっぱりよくならない.どこが悪いかもわからない.全く今の医者はひどいもんだ」.そんな悪態を吐きながら,少ない仕事をやっている姿を見ていると,いつまでもお元気で立派な仕事を続けてくださいと祈らずにはいられません.帰国したらまた靴を持って伺います.
10/4/97:
私は故郷足寄町を離れて20年ほどになりますが,離れると言っても一年に全てをあわせると数週間は帰省しています.(現在はロサンゼルス在住なのでそんなことはありませんが)足寄町は私にとってとても大切なところです.
1995年,東京のある大学へ派遣されていたとき,そこでの生活が私がやりたいこととかけ離れていて,やりがいを感じることができず悩んでいました.そしてこのままでは私は自分自身がだめになると考え,ここを辞めて北海道に帰ってきました.この時ひどい挫折感を味わいました.これからどうすればよいのか?私には色々ことを考える時間と休息が必要でした.家族を家内の実家に残し,単身足寄町に帰ってきたのがその年の夏でした.足寄に続くふるさと銀河線の列車の車窓から見る風景は,昔と変わっていませんでした.足寄に着いたとき,なんだか本当に自分の居るべき所に帰ってきたと感じました.町が私を親のように暖かく迎えてくれ,私の全てを受け入れてくれるようでした.その後私は町の色々な風景を見ながら,これからのことを考えました.そして今後の決心が付きました.かねて念願していた米国留学を実行に移すことです.失敗など恐れずに進んでいこうと考えられたのは,どんな時でも足寄の町が私を暖かく受け入れてくれると言う思いでした.そして今からちょうど1年前の10月4日(1996年),単身アメリカに飛び立ちました.その日は朝からひどい雨でした.私は早朝起床して,雨の中を走りました.町中に感謝の意とこれから出発することを報告するために.
本日はそれからちょうど一年.来年私は帰国する予定です.さてその時,町はどのように私を迎えてくれるのでしょうか.
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足寄町のマスコット"あゆみちゃん".足型がラワンブキを持っています.