團伊玖磨記念『筑後川』 IN 柳川2011

「柳川」 開催の意味

團伊玖磨作曲の混声合唱組曲『筑後川』(作詞・丸山豊)は 1.みなかみ 2.ダムにて 3.銀の魚 4.川の祭 5.河口 の全5章から成り、九州一の大河筑後川が、阿蘇外輪のふもとに生まれ、筑後平野を横断し、悠々として有明海に注いでいく姿を著している。 そこに織りなすロマンを、あるときは清らかに、あるときは激しく、そして最後は平和と人の命の幸せを祈りながらおおらかに歌い上げられた名曲である。 1968年に作曲者 自身の指揮で初演され、42年を経た今も全国で歌い継がれ、楽譜は15万部の出版を重ねている。

祖先を九州にもち、筑後川をこよなく愛していた團伊玖磨は、1968年に『筑後川』を作曲する時、また10年後に『大阿蘇』を作曲する時、筑後川、阿蘇山を幾度となく訪れ、 流域を歩き、時には川に舟を浮かべ、時には空から阿蘇山を眺め曲想を練った。
 『筑後川』作曲にあたり、筑後川の上流から河口まで何度も歩き、筑後川への思い入れが深かった團さんは「この曲は僕の原点」と言い、流域の合唱団と全国の仲間達による 『筑後川』の合唱を構想していたが、2001年5月17日、日中交流で訪れていた中国・蘇州市において夢半ばにして急逝した。

團伊玖磨の生前の思いを引き継いで、2002年に筑後川の最上流「みなかみ」である熊本県・小国町に325名の『筑後川』ファンが集い、團伊玖磨記念『筑後川』演奏会がひらかれた。 翌2003年には吉井町に460名が、2004年には第3章「銀の魚」のまち・城島町に600名が、そして4年目は佐賀市文化会館に510名が、2006年、5年目「河口」のまち・大川市には650名の参加のもと開催された。5ヵ年で参加者は延べ2500名を数えた。
  「河口」のまち大川では250名の人たちが筑後川昇開橋に集い、「有明海に沈む夕陽を背に『筑後川』を歌おう」と語っていた團さんの夢を実現させた。
 さらに「有明の海を経た筑後川の水はやがて東シナ海で揚子江の水と合体する」と語り、中国の地で『筑後川』の演奏を夢見ていた團さんの思いを、2007年1月20日、 終焉の地・蘇州に200名が集い実現させた。『筑後川』の中国初演(指揮・現田茂夫)でもあった。大川の夕陽コンサート、蘇州での中国公演は参加者に強い印象を与えた。

小国町から預かり、2500名の『筑後川』ファンと共に川を下った“バトン”をお返しする感謝コンサートを開こう、『筑後川』を歌い続けようと再度小国町に400名が 集う開催となった(2007年)。「川は河口で終わらない、海へ向かう新しい門出」と語っていた團伊玖磨の思いを継ぐ形になり、セカンドチクルスの2年目は初演から40年 歌い継ぐ朝倉市に530名が、2009年には「ダムのまち」日田市に600名が集い開催された。また同年秋には、九州での『筑後川』コンサートに参加した東京・江戸川混声合唱団が、團に委嘱した組曲『川のほとりで』(詩・江間章子)が初演から20周年を迎え、『筑後川』との〜團伊玖磨記念「ふたつの川の合唱組曲」〜が東京・江戸川文化センター大ホールで開かれた。

そして2011年には團の歿後10年を記念し、祥月命日(5月17日)に近い5月22日に福岡県柳川市で開かれた。
柳川は詩聖・北原白秋の故郷。白秋を敬愛し、幼い頃から白秋の詩に作曲した團伊玖磨。念願だった柳川での演奏会「白秋のまちの音楽会」(2001年3月28日)が、60年にわたる團の音楽生活の最後のコンサートとなった。
 「河口近くの大川や柳川の鄙びたまちまちを訪ね歩いた作曲中の思い出は、いまさら僕の胸の中に楽しく、美しく残っている」と『筑後川』作曲の頃をエッセイに書いている。

柳川の地では合唱団「うぶすな」が、1979年、96年と二度にわたり『筑後川』全曲演奏し、ゆかりの深い街でもある。『筑後川』作曲を契機として『西海讃歌』、『北九州』、『筑紫讃歌』、『交響詩・ 伊万里』、『筑後風土記』などが誕生し、團伊玖磨の九州をテーマにした作品はおよそ50曲に及ぶ。團作品と縁のある地域の人々、流域の人々と全国の『筑後川』ファンが歌い継ぐコンサートであり、流域の合唱団と全国の『筑後川』愛好者のハーモニーが響くコンサートである。  

本番に先駆けて・・・

御花・松濤園で歌う『筑後川』

                250名が集い国指定名勝・松濤園で合唱組曲『筑後川』の大合唱

本番を1ヵ月後に控えた4月17日、柳川市民会館に現田茂夫先生を迎えて1ヵ月前の合同練習が柳川市民会館で行なわれました。この「本番1ヶ月前練習」は毎回行なわれるもので、全国から参加する人は本番の前日に3時間、当日の本番前に1時間半という限られた時間の練習しか出来ませんので、柳川の会場に近い合唱団や個人参加者が集まって本番の演奏の「精度」を上げるために行なう練習です。
そして、練習が終わった後、柳川市民会館から團伊玖磨さんの最後の宿泊地となった「御花」に移動して、名勝・松濤園で『筑後川』を歌い團先生を偲びました。


国指定名勝・松濤園を前に、旧柳川藩主立花家の別邸大広間の縁側に並び、『筑後川』を歌う合唱団の人々。大感激!!




写真中央の4階建てがホテル「松涛館」。2001年3月28日、「白秋のまちの音楽会」を終えた團先生はこのホテルの
  308号室にお泊りになり、その50日後に中国・蘇州で逝去されました。

「北原白秋 と 團伊玖磨」 展

また團伊玖磨記念『筑後川』IN柳川2011のテーマ「北原白秋と團伊玖磨」の関連企画の一環として、 「白秋と團」ふたりの係わりを、70点の資料や写真により紹介するパネル展が4月7日より5月22日まで北原白秋記念館で開催され、柳川を訪れた方や、北原白秋のまち柳川の方がパネル展を見て、「白秋と團」の関係に驚いたり、感心したりしていました。
  北原白秋を敬愛し13歳の頃、北原白秋の詩集『思ひ出』の詩に作曲した團伊玖磨。亡くなる77歳の時、白秋の『邪宗門』を題材にした声楽付き交響曲『邪宗門』の作曲に取りかかっていた。 「作曲の原点は白秋」と語り、オペラ『夕鶴』や合唱組曲『筑後川』などをのこした團。 作曲の始まりは「柳川」だったのです。


パネル展のページ