2002年5月8日 西日本新聞掲載
九州は祖先からの故郷であるからか、九州に関する團伊玖磨さん(1924〜2001)の音楽は多い。2年前から團さんに頼まれて、團さんが九州を題材にして作曲した作品の編纂をしているが、昭和26年に作曲した『久留米市の歌』が契機となり、九州各地から委嘱されて書いた作品は大小合わせ50曲に近い。一人の作曲家がひとつの地方にこれだけ数多くの作品を書いているというのはきわめて珍しい。特に「うた」を伴う作品が際立つ。
「僕の作曲の原点は白秋」と言い、北原白秋を敬愛してやまなかった團さんは、13歳の時白秋の「あかき木の実」(邪宗門)に曲をつけた。後に歌曲集「五つの断章」に収められ、昭和21年に戸田敏子によって初演された。
15歳の時、作曲家山田耕筰の激励を受け、作曲を生涯の仕事にすることを決めた團さんは、耕筰を通して白秋を深く知ることになった。 昭和22年には白秋の詩碑建立のため
柳川を訪れた。火野葦平、檀一雄、長谷健、原田種夫ら九州の文人達と出会い、交友を深め、九州が作曲の拠点となっていった。九州をテーマにした作品が数多くあるのは、
ここからはじまったのである。
なかでも、詩人・丸山豊(1915〜1989)との出会いはその後の團さんの作曲活動に大きな影響を与えた。明善中学在学中に北原白秋賞を受賞するなど、詩才は群を抜いていたという丸山と團さんは久留米の校歌や記念歌を数曲作った後、合唱組曲『筑後川』へと進んでいった。
團さんは合唱曲を書くとき、信頼できる詩人に合唱に適した詩を書いてもらい、それに作曲していく手順を踏んでいる。しかし『筑後川』で丸山に出会うまでしばらくは、合唱の分野で寡作の時期がある。團さんが期待する詩にめぐり合わなかったからであった。
「今生まれたばかりの川・・・と全く普通の言葉で書いてある。しかも律もそろっていない。しかし、よく読むと詩人の考えたフォルムが底にある。」と言う團さんは、丸山の心の中から出たフォルムを探りあてるのに苦労したが、交響楽の作曲の体験から出た構成や、オペラ「夕鶴」や「花の街」に見る叙情豊かなメロディーとしての才能などとあいまって、團さんの音楽の魅力を余すところなく表わす合唱曲へと創り上げていった。「『筑後川』は大きな転機になった曲」と語るように、丸山との出会いは團さんに福音をもたらした。
『筑後川』の後、二人は『海上の道』(73年)『大阿蘇』(78年)『玄海』(84年)と5年毎に合唱組曲を書き下ろしていった。團さんの作品の中でオペラと合唱曲はその柱ともいえるが『筑後川』を契機に合唱曲の作家・團のイメージを強めていった。
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