日田での合唱組曲『筑後川』演奏記録

『筑後川』作曲の頃、日田、九重の山あいを歩いた、と團伊玖磨はエッセイに書き、その折、日田で出会った「日田木挽唄」を自作に取り入れることを構想した。亡くなる直前のことだったが、幻の交響曲となった。 『筑後川』の第2章「ダムにて」では「非情のダムにせきとめられ」と歌われるが、夜明ダムの前にじっと佇んでいた團は、巨大な壁に行く手を阻まれた川を青年の愛の叫びとしてあらわした。 1968年に作曲、初演された『筑後川』は川の水が溢れ出るように瞬く間に全国に広がり、楽譜は15万部の版を重ね、わが国合唱界のヒット作品となっている。 日田で『筑後川』が最初に歌われたのは久留米で初演されてすぐのことだった。『筑後川』に取り組んだ日田市民合唱団は、昭和50(1975)年11月29日、第1回演奏会(日田市民会館大ホール)で渕みずえ指揮、ピアノ伴奏佐藤芳子により全曲演奏を行なった。初演から普及活動に力を注ぎ、流域合唱団へ少なからぬ影響を与えた久留米の精神科医で合唱指揮者の本間四郎が、奥村日田病院に非常勤医師として勤務していたこともあって早くから歌われた。流域コンサートは團と共に本間の遺志でもあった。また日田市民合唱団の指揮者であった渕は、本間が指揮する合唱団に所属していた。日田市民合唱団のコンサートや竹田混声合唱団との共演などで“わがまちのうた”として歌われ、日田市民会館「パトリア日田」の開館(2008年1月)を祝ってのコンサートでも『筑後川』が歌われた。 日田市民合唱団は、團の遺志を継いで2002年から開催された團伊玖磨記念『筑後川』流域コンサートに最初から参加し、大分の合唱仲間へ参加を働きかけるなど流域コンサートの中心母体となっている。 そして團伊玖磨記念『筑後川』流域コンサートのセカンドチクルスの3年目(通算8年目)はダムのまち、水郷日田 に600名を超す人が集い開催される。 (文中敬称略)