『筑紫讃歌』について

                    写真は 筑紫讃歌特別合唱団

                                               
 2002年5月12日(日)福岡シンフォニーホールでの
                                                 團伊玖磨一周忌コンサート 『筑紫讃歌』演奏会
                                                 プログラムノートより 
                                               

                          團伊玖磨作曲 犬塚尭作詞
              ソプラノ・バリトンソロと合唱オーケストラのための『筑紫讃歌』(1989年)

〜作曲の経緯〜
團伊玖磨が九州をテーマにした最後の合唱曲で、作詞は84年に「H氏賞」を受賞した犬塚尭である。
−犬塚尭さんの優れて雄大な詩をいただいて、すぐに作曲に掛かった時、心に鳴り響いた音は、どんどん大きく変質して、一人の人間の父祖の地を乗り越え、飛び越して、 日本という東アジアの海に浮かぶ国の生い立ちとその生い立ちを与えた海の向うの国々と、そして、空の上により大きく広がっていた空、太陽の上に猶眩しくかがやいていた太陽、 そして、その下に活きた人々への讃歌となって立ち昇った。(團伊玖磨)−

父祖の地九州を愛した團伊玖磨の「九州作品」は50曲に及ぶ。合唱組曲『筑後川』、『海上の道』、『玄海』など東アジアの海を意識した作品を数多く書いてきた團は玄界灘を はさみ、古くから中国大陸、朝鮮半島と幾重にも歴史を織りなしてきた海の都「筑紫」を壮大な「人間讃歌」として描いた。8章、約55分に及ぶ大曲は、後のオペラ「素戔嗚」 (1994年)、「建・TAKERU」(1997年)への連関もうかがわせ、今後、團作品の内実を知る欠かせない作品となるに違いない。
開局35周年を迎えた九州朝日放送が、市制100年を記念して福岡市へ献呈。作曲者自身の指揮、九州交響楽団、筑紫讃歌記念合唱団、ソプラノ・金岡裕子、バリトン・ 山口俊光により1989年11月10日、福岡サンパレスにおいて初演された。その後、2002年5月17日に團伊玖磨追悼演奏会で現田茂夫指揮・九州交響楽団。現田茂夫指揮・神奈川フィルにおける演奏(2005年1月9日・神奈川県民ホール開館30周年記念コンサート)、現田茂夫指揮・九州交響楽団 2007(平成19)年3月4日。2009年10月4日には現田茂夫指揮・九州交響楽団、この日はソプラノソロ・佐藤しのぶ、バリトンソロ・青戸知で行なわれた。

この曲はオーケストラ伴奏、内容が難解ということでなかなか演奏されませんが、聞くほどに親しみを増してくる曲である。アジアへの玄関としての福岡ならではの内容で、末永く歌ってほしいものである。

                 
            

〜解説〜 
合唱組曲『筑紫讃歌』                                                       
歌は心の日記であり、仕事の故郷である、と語っていた團伊玖磨(1924〜2001)の合唱作品は、歌曲とともにその数は少なくない。2000年、9ヵ月間にわたって神奈川県を中心に全国で展開された「DAN YEAR 2000」の全31公演のなかで、7つの公演が合唱曲の演奏会であった。合唱作品は團の主要な作品群の柱のひとつとなっている。
なかでも全国で広く愛唱されているのが、混声合唱組曲『筑後川』(作詩・丸山豊)であろう。楽譜は13万8000部が販売され、日本の合唱曲としては異例のヒット曲となっている。この作品、なかでも終章の「河口」を通して團に親しみをもつ若い人が増えている。
1968年に作曲された『筑後川』は、團が合唱組曲の形で書いた最初の作品である。楽譜の冒頭に「筑後なる石橋幹一郎に」の献辞が付されていることからもわかるように、久留米音協合唱団創立5周年を記念して、福岡県久留米市を発祥の地とするブリヂストンの石橋幹一郎社長の委嘱によるものであった。同年12月に作曲者自身の指揮により久留米・石橋文化ホールで初演された。この年には「混声合唱のためのディベルティメント」(作詩・谷川俊太郎)も作曲されている。この作品に対し、同年の芸術大賞・文部大臣賞が贈られ、その知らせが入ってきたのが、『筑後川』初演の日で、二重の喜びを会場の人々と共に味わったことを憶えている。
『筑後川』は水が溢れ出るように、筑後の地からまたたく間に全国に広がっていった。そして團は、久留米の開業医で詩人の丸山とのコンビで、『海上の道』(73年)、『大阿蘇』(78年)、『玄海』(84年)と5年ごとに合唱組曲を作っていった。丸山豊の健康が衰え、作詩が難しくなったことから、5作目は、久留米に近い八女郡生まれで、劇作家で詩人の栗原一登と組み、『筑後風土記』(89年)を完成させた。『筑後川』作曲の時に44歳だった團は、65歳になっていた。その歳月は同じ合唱組曲の形式にあっても、内容面では大きな変化を見せている。

『筑後風土記』の作曲に従事していた頃、團は福岡市制100周年記念のための作品の依頼を受けた。開局35周年を迎えた九州朝日放送が制作し、福岡市へ贈呈されるものであった。
『筑後川』、『海上の道』、『玄海』など、東アジアの海を意識した作品を数多く書いてきた團は、玄界灘をはさみ、古くから中国大陸、朝鮮半島と幾重にも歴史を織りなしてきた海の都、「筑紫」を描いた壮大な作品の構想を温めていた。
團は、エッセイ集『パイプのけむり』に「新しい島影を求めて東アジアの海の道を漂流(さまよ)ってきた祖先の道に、僕は故里を感じる」と述べ、日本では珍しいその姓から、自らのルーツを遠く中国大陸からの漂流民に求めていたようだ。
1976年には、日本中国文化交流協会音楽家代表団団長として中国を訪問。以来、数10回にわたり往来し、九州を題材にした合唱組曲や交響詩を数多く書いていた團に、『筑紫讃歌』の作曲の依頼が舞い込んだのは1987年のことだった。
依頼を受けた團は、詩を受けもつ九州朝日放送の専務取締役で、H氏賞、現代詩人賞を受賞している詩人の犬塚尭と、玄界灘を味わうために、船で壱岐、対馬へ渡った。玄界灘を体験し、その先は巡視船で釜山が見えるところまで行った。二人は、韓国は近いということを実感し、博多湾と切り離せない元寇を詩にうたう部分は、中国でも演奏されることを考えて、神風史観を排し、異郷で死んだ元軍の戦死者の悲しみを、土俗的な子守歌(ララバイ)にとり入れた。

「ソプラノ、バリトンソロと合唱とオーケストラのための組曲『筑紫讃歌』」(後に合唱組曲『筑紫讃歌』)は、8章からなる。神代の夜明け、鴻臚館の栄え、海の女神の恋歌、博多の恋、海外に向かって開く未来―などを歌い上げている。西洋音楽に東洋的な素地を織り込んだ、團ならではの明快かつ雄大な曲想となっている。オペラティックな世界を構築しており、後のオペラ『素戔嗚』(1994年)、オペラ『建・TAKERU』(1997年)の響きをうかがわせる。日本の合唱組曲では珍しい叙事詩である。

1989年夏、初演に向けて合唱団は福岡教育大学教授・平島邦央の指導のもと練習に入り、同年10月にオーケストレーションも含め全曲が出来上がった。
『筑紫讃歌』の初演は、1989年11月10日、福岡サンパレスにおいて、作曲者自身の指揮で行われた。演奏は九州交響楽団、合唱は筑紫讃歌記念合唱団、ソプラノ・金岡裕子、バリトン・山口俊彦。
この日の開演前のステージで、作曲者としてのメッセージを求められた團は、「申し上げるべきことは、全部作曲の1音符、1音符の中に心をこめて書き記しました。従って、お話することは何ひとつありません。これからの演奏がすべてのメッセージです」と言い切った。

初演の後、『筑紫讃歌』について團が記した小文がのこされている。
    僕にとって福岡は父祖の地である。その福岡のために思いのたけを盛った曲を創る 〜この事は至福の行為だっ
    た。 犬塚 尭さんの優れた雄大な詩をいただいて、すぐに作曲に掛かった時、心に鳴り響いた音は、どんどん変質
    して、一人の人間の父祖の地を 乗り越え、飛び越して、日本という 東アジアの海に浮かぶ国の生い立ちと、その
    生い立ちを与えた 海の向こうの国々と、そして、空の上により 大きく広がっていた空、太陽の上になお眩しく輝い
    ていた太陽、そしてその下に生きた人々への讃歌となって立ち昇った。

團の「人間讃歌」ともいえる思いの作品で、『筑紫讃歌』への高鳴る鼓動が、直に伝わってくるようである。團にとって、福岡の地から玄界灘を通じ、古くからの海へのロマンを歌い、海に開かれて発展してきた過去と現在を描くことは「思いのたけを盛った曲を創る」に相応しい出会いであった。音楽と密度の高い接点を意識した詩は、團の合唱と管弦楽を駆使した格調高い作曲構想によって、一大叙事詩となってあらわれている。


第1章・序詩 
     輝く海と太陽を讃える「序詩」は、未来へ向かう筑紫を象徴するかのように、客席に配置した13本のトランペット
     によるファンファーレが高らかに響くところから始まる。     
    ♪海の上に海が鳴る/空の上に空がある/太陽の上にまた一つ太陽が昇ってゆく/心の上に新しい
     心を重ね/人はきわみない国を唱う                          合唱の逞しい熱き響きが満ちる。
    ♪筑紫(つくし)の日向(ひむか)/日に向って唱おう/太陽の上に太陽がまた/太陽が二つ/もっとたくさん/晴れ
     晴れ 晴れ 
     日向(ひむか)は古代、筑紫(九州)の南東部の呼称。全章を想起させるかのような感興を起し、第1章を閉じる。
第2章・安曇(あずみ)の磯良(いそら)
     渡来し、志賀の海を守る神となり、磐底(いわくら)に眠る安曇の磯良。磯良を招く神楽囃子が奏され、
    ♪鼓うてうて琴を弾け笛吹き鳴らせ/たんなりやと笛の音に/魚 烏賊(いか) 鯨(いさな) も踊ります
     /たんなりりやと磯良も踊る♪ (ソプラノ独唱―合唱の対話は、オペラの一場面を思わせる)
第3章・ヒコジとヒボコ
    ♪アシカビヒコジを讃えよう/葦の芽が萌えて出るように/柔らかな国土に現われた神/アシカビヒコジを讃えよ
     う♪
     国土がまだ浮遊していた時に「葦牙(あしかび)の如く萌え騰(あ)がる物により成った神」と古事記に記述されるア
     シカビヒコジ。
    ♪アシカビヒコジが歩けば/草にも木にも花が咲く/ホーレイ(豊麗)ホーレイ♪ 
     合唱とバリトン独唱、ソプラノ独唱。
     神話時代に、朝鮮の神々が日本にやってきた明朗さをイメージさせ、音楽の輪郭ともあいまって、艶やかな韻
     律を感じさせる。
     新羅の王子・天日(あめのひ)矛(ぼこ)を称え、朝鮮風の三拍子の音楽が奏でられ、天日矛が言ったとバリトン独
     唱唱で歌われる。
    ♪筑紫はみめよい女に満ちた国/月の光で子を妊む女たち/タンポポの穂のように舞う乙女達♪ 
第4章・鴻臚館(こうろかん)の栄え
    ♪八丈の舘(たて)うち建てよ♪
     と歌われる鴻臚館。福岡市中央区の元・平和台球場付近に所在した大宰府の鴻臚館は、7〜11世紀にかけて
     中国や朝鮮半島からの外交使節などを迎えた古代の迎賓館。
    ♪千年を隔てた土の下で/今も栄える鴻臚館/官人の歌が聞こえるか/羯鼓(かっこ)の音が聞こえるか♪
     と合唱とバリトン、ソプラノ独唱。官人は役人。羯鼓は中国から渡来した打楽器。昔を今に呼びおこすかのように
     巧みに表現された詩に勇壮な管楽器の演奏が絡む。
第5章・ムクリがくるコクリがくる
     博多や壱岐、対馬では子供を叱る時に「ムクリ(蒙古)がくる、コクリ(高句麗)がくる」と言ってなだめていた。
     ムクリの兵をまつる志賀の島の墓を、犬塚は博多の人の優しさとしてあらわし、團は子供を寝かせる母親の子
     守唄に仕立てた。合唱とバリトン独唱でララバイ風に、首塚の悲哀が奏でられる。
第6章・女神の恋歌
    ♪私が見えますか/私の歌が聞こえますか/筑紫の娘たち/一緒に愛を育てましょう♪ 
     とソプラノ独唱と女声合唱が歌う。
第7章・この橋わたれ
     バリトン−ソプラノ独唱に導かれ、「雲匂う築紫の夕べ、那珂川の水が海に帰る」と合唱が歌う。日本の演歌の
     淵源が韓国にあると言っていた團は、愛に充ちた平和な筑紫の夕べを演歌風に、豊かな旋律をもって描き、終
     章へと高まり持続させている。
第8章・終詩 
     ファンファーレの中に「波良波(はらは)、波良波―」と合唱の旋律ではじまる終章には、各章の主題が邂逅(かい
     こう)する。
    ♪筑紫よ筑紫みお筑紫/水脈(みお)は続け海のかなたの国々に/天の上にまた天があり/陽の上にまた陽が
     昇る♪
     永久に開けゆく筑紫を歌い上げ、「波良波」の言葉をくり返し、これからも更に開かれてゆく希望の海への願いを
     込めながら全曲を閉じる。


『筑紫讃歌』は、團が九州をテーマにして書いた合唱作品のなかで最後の作品となったが、「團伊玖磨と九州のかかわり」を、述べておこう。
團伊玖磨は東京で生まれたが、祖父の團琢磨と父・伊能は福岡で生を受け、母方は長崎の出身と、九州との縁は深いものがあった。伊能は九州朝日放送の社長(1957〜1961)をつとめ、琢磨は明治21(1986)年、国から払い下げられた三井鉱山(大牟田)の近代化を計った人としても知られている。
團は、父祖の地である九州の自然と風土、そして隣人をこよなく愛し、九州をテーマにした作品は、拙著『團さんの夢』(出窓社・2003年)にあるように、芸術的な作品から校歌や社歌などを含め、およそ50曲に近い。昭和26(1951)年に作った『久留米市の歌』が最初の作品である。
『筑後川』に代表される数多くの合唱組曲や、『交響詩・伊万里』や『交響詩・ながさき』のように、詩を伴う作品が際立つ。13歳の時に北原白秋の詩「朱き木の実」に作曲し、終戦直後の昭和22(1947)年に白秋の生誕地・柳川を訪ね、白秋ゆかりの詩人や作家と交流が始まったこととも、深い関係があるのだろう。丸山豊もそのひとりであった。
「もともと出身が福岡ですから、九州を訪ねているうちに『書きましょう』ということになって、たくさんの作品となりました」と團が語っていたように「合唱王国・九州」には優れた合唱団が数多くあり、これらの指導者と交友があったことも背景にあるようだ。
九州をテーマに多くの作品を書いた團は、急逝する数年前から、北原白秋の『邪宗門』を題材にした独唱付きの交響曲の作曲に着手していた。
「私の7番目の交響曲で、声楽の入った東洋的な作品です。前々からやりたかった白秋の詩集『邪宗門』の中から「天草雅歌」など5つの詩を選び交響曲の中に独唱曲として散りばめています。2002年9月22日に、九州交響楽団により佐世保で初演します」
自らが出演する最後のコンサートとなった、柳川での團伊玖磨トーク&ミュージック「白秋のまちの音楽会」(2001年3月28日)後の記者会見で語っていた。
『筑紫讃歌』の作詞者、犬塚尭が書いた『ふたつの海』も團の手元に届けられ、交響詩としての構想が温められていた。團の九州をテーマにした作曲は1989年に『筑紫讃歌』を発表した後も続いていた。

初演された後、翌年10月、福岡市民芸術祭のオープニングコンサートにおいて、九州交響楽団、合唱・福岡合唱連盟、ソプラノ・金岡裕子、バリトン・勝部太、指揮・團伊玖磨のメンバーで再演された。

2001年5月17日、中国で客死した團の没後、翌年5月12日には、一周忌追悼コンサートがアクロス福岡シンフォニーホールにおいて行われ、指揮・現田茂夫、演奏・九州交響楽団、合唱・福岡音楽団体連絡会合唱団、ソプラノ・足立さつき、バリトン・勝部太のメンバーで、12年ぶりに『筑紫讃歌』が演奏された。この日には、オーケストラ伴奏による『筑後川』も同じ現田の指揮で演奏され、合唱は筑後川流域合同合唱団であった。
『筑紫讃歌』の作詩者・犬塚尭(ぎょう)(1924〜1999)は佐賀県伊万里市出身。詩壇の芥川賞と言われるH氏賞を受賞した第一詩集「南極」、1984年には日本詩壇の最高賞、現代詩人賞を受けた第三詩集「河畔の書」など、広い視野から生まれるスケールの大きな作品で知られた。「南極」は朝日新聞記者時代の、1957年、第4次南極観測隊の一員として乗船した「宗谷」の船内新聞に半年間掲載したものを、帰国後発表したものであった。朝日新聞社から九州朝日放送に転じ専務取締役に就任。その時期に書いたのが『筑紫讃歌』であった。その後犬塚は、團伊玖磨と再びコンビを組み、95年には玄界灘と有明海をテーマに交響詩『ふたつの海』を作ることで、犬塚の詩は團のもとに届けられていたが、團の都合で完成するには至らなかった。                                    (中野政則)