團伊玖磨生誕85周年記念

                      佐藤しのぶ久留米公演に寄せて
                       團伊玖磨と久留米

                                           久留米公演プログラムノートより

世界に羽ばたくオペラ『夕鶴』は、團伊玖磨28歳の作品で日本を 代表する国民的オペラと称されている。昭和27(1952)年に大阪朝日会館で初演されて以来 650回以上の上演を重ね、わが国オペラ史上最多上演回数を誇り他の追随を許さぬものとなっている。その多くを作曲者自身指揮をとったが、没後は現田茂夫がその役を果たして いるように見える。
  初演から3年後の昭和30(1955)年11月20日、福岡県久留米市で「九州初演」が行われた。大谷冽子の「つう」、木下保が「よひょう」を歌い、管弦楽は東京フィル ハーモニー、指揮は團伊玖磨。当日の毎日新聞は次のように書いている。

  オペラ『夕鶴』   今日久留米公演
 わが国最初のオペラ『夕鶴』公演は各地で好評のうちに20日午後6時半から久留米市公会堂で毎日新聞、久留米音楽同好会共催、BSタイヤ後援で開幕する。『夕鶴』の 作曲家團伊玖磨氏にとっては感激の郷里公演で、特にBSタイヤ
ではこれまでの公会堂にはオペラボックスがないので椅子席の改装を行った。
後に團は「客席を取り外し、オーケストラのは居場所を確保した。工事費用はブリヂストンの石橋正二郎さんが負担してくれた。その後の『夕鶴』後援でも石橋さんにお世話に なった」と話していた。
 久留米でその後『夕鶴』は2回上演された。オーケストラピットに東京交響楽団が入った40(1965)年、石橋文化ホール開館3周年記念の「つう」役は伊藤京子だった。 昭和61(1986)年には鮫島有美子の「つう」を九州交響楽団が支えた。両者とも指揮は團で私はプロデュース面で関わった。
 『夕鶴』が初演された前年、「与ひょう」訳の木下保は、明善高校教諭の薮 文人から頼まれ「久留米市の歌」の作曲に團を紹介した.無名に近かった團に白羽の矢が立ったのは 、東京音楽学校(現・東京藝術大学)時代の同級生木下と薮の二人の関係から生まれた。久留米市が委嘱する「市歌」 の介在役に薮が当たり、全国公募された歌詞により「久留米市歌」は昭和26(1951)に作曲された。因みに同年に誕生した大牟田市歌は、古賀政男、服部良一とともに当時 有名作曲家であった古関裕而によるものであった。

 「音楽にはわき上がるものが必要で、九州には熱気溢れる風土がある。僕と九州はお互いに引き付け合っていた」と語っていた團は「久留米市の歌」を契機として九州を題材に した作品を書き続けた。その数は50曲を数える。ひとつの地方にこれだけ多くの作品を残した作曲家は他に類を見ない。 日本を代表する国際的音楽家、 團に「九州を愛した作曲家」の冠が付く所以だろう。
 團は東京で生まれたが、祖父の團琢磨と父伊能は福岡で生を受け、母方は長崎の出身、と九州との縁は深かった。詩人・丸山豊と組んで『筑後風土記』、『海上の道』、 『大阿蘇』、『玄海』と合唱組曲を5年ごとに作曲。矢部川を歌った『筑後風土記』、5市合併記念の『北九州』、福岡市制100周年の年に大陸との交流を描いた『筑紫讃歌』、 さらに『唐津』、『長崎街道』、交響詩の『伊万里』や『ながさき』、『都井岬の歌』も書き下ろした。佐世保市民に献ぐ、の献辞が付さた『西海讃歌』は團の葬儀会場で流れた。                                                      

 久留米大学、篠山、荘島小学校の校歌、「石橋文化センターの歌」、     久留米市民のためのファンファーレの 楽譜表紙(1992年)
「久留米市民のためのファンファーレ」と、半世紀以上にわたり郷土の 歌を書き続けた。筑後地方への愛着から生まれた「だご汁の歌」は毎年團の命日に黒木町で歌われている。
 なかでも流域の人々の讃歌を、と発意した石橋幹一郎(当時ブリヂストン社長)が詩を丸山豊に、作曲を義弟の團へ依頼し誕生した『筑後川』は、昭和43(1968)年、 久留米で初演、教科書にも載り15万部の楽譜が出版され、名曲として全国で歌われている。ドイツ、アメリカ、中国でも演奏され、「筑後川、海を渡る」とテレビ、新聞で紹介された。
        『筑後川』初演 丸山豊と團伊玖磨(1968年12月20日)
 
「人の命は滅びるが作品は何百年も歌われ生き続ける」と作曲し続けた團は平成13(2001)年5月17日に急逝した。中国での歌舞伎公演の夢を追って、日中文化交流協会の 会長として中村芝翫など日本歌舞伎界のひとと訪中していた蘇州での出来事だった。 團は77歳であった。
 團の遺志を継ぎ『筑後川』を歌い続ける200名の合唱団が、指揮の現田茂夫と共に終焉の地へ渡った2007年1月の蘇州市呉中区人民大会堂での『筑後川』中国公演は、精神性 の高い正に魂のコンサートであった。

現田茂夫指揮200名の『筑後川』訪中公演
 (2007年1月20日)
 
 蘇州市呉中区人民大会堂ホールに飾られた
   團伊玖磨先生の写真と佐藤しのぶ

この『筑後川』中国公演に同行した佐藤しのぶは2009年の新春メッセージに次のように書いている。
  2007年1月、團先生を偲んで九州の合唱団の方々が、先生のお亡くなりになられた蘇州市で『筑後川』を歌われるというお話を聞き、指揮を執った主人、現田茂夫と共に、初めて訪中し、先生とご一緒できたら、どんなに素晴しかったかと返す返すも残念でなりませんでした。でも合唱団の皆様の先生に対する思いが、歌声を通して蘇州に響き渡ったとき、私はひとつの夢を確信し、実現しようと決心しました。
 今年は團先生の生誕85年です。そのメモリアルコンサートを、来る5月に先生ゆかりの地、横浜、東京、大阪、久留米、佐世保、横須賀で連続して公演いたします。先生の遺された作品を歌い続けることで、先生の精神が人々の心の中に生きていくのだと感じたからです。そしてその思いが、次の時代の人々につながり、いつまでも歌い継がれていって欲しいと心から願っています。(日中文化交流協会誌2009年1月号より)

 『筑後川』中国公演に係わった者として喜びを禁じ得ない。そしてここに佐藤しのぶによる團伊玖磨生誕記念コンサートが幕をあける。
                                                                   (中野政則)