ここにいて頂戴、と女が云った。
 成熟しきってもう食べ頃は過ぎた果実の顔で。
 けれど愛しい男を見る顔で。
 そう。
 己の息子を慈しむ顔などではない。
 惚れた男に縋って媚びる、あれは女の顔だった。


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 楽しそうに笑う男が、今日の夕方は暇かと耳打ちした。
 バルグラム・ランカンは頭に疑問符を浮かべながら頷く。
 暇であろうが無かろうが、最終的には引きずってでも付き合わされるのだろう。
 ここに来て間もないが、そのことは早々に学んだ。
 楽しそうな男、ノイド・ヴェルマクは大層我儘な冒険者だ。
 しかし彼の都合でさんざ引っ張り回されるものの、それはそれで嬉しいのである。
 よく喋り、行動力があり、知らないことには何でも説明をくれる。
 一緒にいて飽きない。
 いろいろなものを見聞きして教わると、自分も頭が良くなったように感じる。
 一対一なら喧嘩も強い。手合わせでは勝てたことがない。
 それらを全部ひっくるめて、バルグラムはこの冒険者が好きだった。
 彼が自分を見出し目をかけてくれることが、純粋に嬉しい。
「そうか、暇か」
 小声で云って、ノイドは満足そうに笑む。
 夕方に何かあるのかと訊くと、黒い眼を輝かせながら。
「デバガメだ」
 とても楽しそうに答えた。


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 長居するつもりは無かった。
 全く記憶にない母親がこの騎士団というところにいると、昔ちらりと父から聞いたことがある。
 立ち寄ったのは、ただそれだけの理由だ。
 ただの好奇心。
 ほんの一時期父を捕え、俺を産み、父曰く俺が似ているという母の顔をいっぺん拝んでおきたかった。
 けれどほんのちょっと顔を出すつもりが、随分とだらだらすることになってしまったものだ。
 会った途端に別れを告げる息子に、あの女は泣いたのだ。
 ここにいてくれと。
 それをせめて、母の顔で云ったならまだ良かったものを。


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 空が美しく茜に染まる。
 沈みかけた太陽が街並みを金色に染め、その中を歩く寄り添って二人の影もまた同じ色に包まれていた。
 色の薄い髪を高く結んだ長外套の青年と、似たような色の髪を結って帽子の下に隠した神官衣の娘。
 そんな輝かしい二人を、別の影二つがこそりと追う。
「どこ行くんすか、あの二人」
 顔の下、屈んだ戦士がこそこそと問う。
 何やら罪悪感を滲ませて。
「俺が教えた行先に」
 二人の影を目で追いながら答える。
「どこすかそれ」
 それだけじゃ分からないといった口調で戦士が云う。
「行きゃあ分かるって」
 ちらと視線を落とし、困惑をいっぱいに浮かべた若者に笑ってみせる。
 まだ少年の戦士は大仰に首を傾げた、


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 しがらみなんて真平だ。
 繋がれるなんて御免だ。
 けれど逃げようとした俺の背に、母は弩を突きつけた。
 そうやって、行かないでと。
 捕まるのは勘弁だったが、こんなところで射ち殺されるのはもっと厭だった。
 死ぬのはこんな妄執だらけの女の部屋じゃなく、何も遮るもののない空の下と決めていた。
 けれどあの女の云うなりになるつもりもない。
 だから俺は条件を出した。
 ここに在籍はする。だが俺が旅に出るのを邪魔するなと。
 女はそれだけで喜んだ。
 騎士団に所属していると、そんな屁でも吹き飛ばせるような手続きで、俺を縛れると思っていた。
 馬鹿な女だ。手枷足枷でもつけたつもりなのか。
 俺はいつでも逃げられる。
 ついでに、私の後を継いで団長にならないかとまで勧めてきた。
 冗談じゃない。
 そんなしがらみ、これ以上俺の周りに立てないでくれ。 


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 煌めく風が、若い二人の髪をなぶる。
 沈む太陽を背景に、逆光で輪郭を染めながら向き合っている。
 きれいだ、とバルグラムは思った。
 王都の街並を見下ろせる高台で、若いサムライと若い神官は静かに見つめあう。
 自分たちはそれを、植え込みの陰から覗き見る。
 何だかものすごくいけないことをしている気分だ。
 かといって立ち去るのも勿体ない。
 複雑な気分をよそに、先輩の冒険者は佇む二人を嬉しそうに眺めている。
 その横顔が、少し緊張しているように見えるのは何故だろうか。
 ただの野次馬のくせに。
「セルエル」
 先に、青年が口を開いた。
 娘がまっすぐにその目を見る。
 それだけで青年は、夕日よりも頬を赤く染める。
 幾度か視線を忙しく彷徨わせてから、意を決したように拳を握る。
「その」
 声の端が震える。
「これからも……目付役としてではなく、その」
 泣きそうな顔で、娘の顔を見る。
「伴侶として、共にいてくれぬか」
 髪の先まで緊張した青年は、そのまま動きを止める。
 無言の時。
 ややあってから、花が咲くように娘が微笑んだ。
「喜んで」
 途端。
 緊張の限界に達したのか、それともそれが緩んだのが原因か。
 青年がほろほろと泣き始めた。
 そんなに泣かないで、と娘がそれを拭う。
 大の男があっさり泣くのを目にして、覗いている戦士は奇妙な気分になった。
 女々しい。
 けれど、彼なら許せそうな何か。
 自分の気持ちに説明がつかず、困ってちらりと冒険者を見る。
 拳を握って小さくガッツポーズを決めているのは予想通り。
 しかしその表情は、幼子を見守る父親にも似た、柔らかい笑顔をしていた。
 戦士はますます変な気持になった。


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 初めて会ったときの彼は、ほんの子供だった。
 母親に似た黒目がちの大きな目が、廊下の角に身を隠すように覗いていたのだ。
 つい先刻初めて会った母から聞いた僅かな説明と、自分によく似た顔立ちから、それが己の異父弟だと気付いた。
 目が合うと、怯えを隠すように笑ったのが印象的だった。
 彼の生い立ちは、師たる既婚者の魔女が、珍しく言葉少なに話してくれた。
 冒険者の夫が三つの息子を連れて去った後、慰めたサムライとの間に儲けた子供。
 再び失うことを恐れてか、騎士団本部の外へはけして出さなかったという。
 団長になること、自分の後を継がせることだけを教え、他の団員からの干渉すら嫌って監視を敷いた。
 それでも表向きは優しい母親を、息子は慕っていた。
 心の底では冒険者を忘れられない妻に倦んだ父親は、寡黙さに磨きをかけて、子供とはほとんど関わらないまま亡くなった。
 求められたのは団長としての責務を負うことだけ。
 愛されることは愛されたのだろう。
 たとえ他の道を選べなくなるほどの一本道の上を歩かされているのだとしても。
 母の妄執を全て、純粋に愛情だと受け取って。
 それはそれで幸せなのかも知れない。
 少なくとも本人は幸せいっぱいに育ったと信じているだろう。
 けれど自分にはそう思えなかった。
 だから、積極的に関わろうと思った。
 見ず知らずの異父兄である自分に、幼いサムライはほどなく心を許した。
 あの女も特に何も云わなかった。うるさくして俺に去られるのが嫌だったのだろう。
 俺が妻を娶ったときも何か云いたげにしていたが、無言で睨むとすぐに去ったものだ。
 それはともかく。
 彼は表情の少ない子供だった。
 異常なまでに、笑顔の比率の多い子供だった。
 子供らしくけらけら笑うのではない。
 自分のように痩せ我慢を自覚して笑うのでもない。
 何もかも受け入れて、空気に溶けるように笑う。
 俺にとっては怖気を震うような、純粋すぎる笑顔。
 関わるうちに表情は増えていった。
 嬉しさと楽しさを、違う笑い方で表すようになった。悲しければ泣き、叱られればしょげ、負の感情も示すようになった。
 怒り方だけはどうしても上手く出せなかったようだが。
 そんな変化に、あの女は気付かない。
 俺に父の影を見ることに全精力を傾けている。
 息子を放任することはないが、接する態度は仮面を被ったようで、不気味な違和感を醸していた。
 ただ代わりに監視が甘くなって、他の団員を触れ合う機会を得たのは良いことだ。


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 求婚を見届けた帰り道。
 なんとなく大回りをして街を廻り、本部の方に向って歩き始めたのは日が暮れてしまった後。
 最後の坂道は緩い勾配で、風は涼しく気持ちが良い。
 若い戦士は初めて見たプロポーズに興奮したのか、足取りも軽く饒舌だ。
「なんかほんと、すごかったっすよね。なんかこう、真っ赤で」
 だからって自分まで赤くならなくても良いだろうに。
 笑いながら見ていると、戦士は目をぱちぱちさせてこちらを見た。
「先輩が教えたって云ったっすよね、あの場所。すんげえきれいな場所」
「ああ」
「よく知ってますね。ここ、王都って広ぇのに」
「大陸丸々に比べりゃ狭いぜ。俺は冒険者だぞ?」
「いやそうっすけど、あんなとこ、先輩のとっておきっしょ?」
「まあそうだな」
「団長に教えたの、なんですか? 自分だけの秘密とか考えなかったんすか?」
「あんなの他の誰かも知ってるだろうよ。隠したって別に何もなんねーだろ」
 笑いながら答えてから、ふと、目を細める。
「まあ、あいつは俺の弟だからな。これくらいはお膳立てするさ」
 何故か沈黙。
 見ると、少年の顔をした戦士がぽかんとしている。
「……なんだよ」
「団長と先輩って、兄弟だったんすか?」
「お袋だけ同じな。お前気付いてなかったのかよ。似てるだろ顔」
「や、だって全然態度違ぇし」
「なんだ? 俺の方が男らしいってか? そりゃお前ほめすぎでもないぜ」
 からからと笑って、戦士の背中を勢いよく叩く。
 痛えと喚く若者を置いて、そのまま走る。
 追ってくる足音がする。
 追い付けるかな、と考える。
 足は自分の方がまだ少し速かった筈。
 追い付かせる気は全くない。


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 時はさらさらと流れ去り。
 小さかったサムライは成人して騎士団への入団が認められ、女が指名した若い神官が彼の目付についた。
 執心の塊が選んだ娘は意外にも良くできた普通の娘だった。
 団長になった彼につかず離れず、知らないことは教え、倒れそうになると影のように支える。
 幼さの残るサムライが、彼女に惹かれていくのは道理だったろう。
 その頃には、あの女は息子にほとんど興味を失っていた。
 息子だけではない。
 この世の全てに興味をなくして、夢の中に生きるようになっていた。
 職位を譲ってからは団長家の本宅で過ごし、つい先日眠るように亡くなったという。
 死に目には会っていない。
 皆、遠征に出ていたからだ。
 旅をする者にはよくあることで、そもそもあんな女のことはどうでもいい。
 団長も随分泣いたが、目付の神官のお陰であまり長くは悲しまなかった。
 そうだ、彼の傍にはもう彼女がいる。
 兄があれこれ手を出す時期はもう終わった。あいつはもう大人だ。
 元の旅路に戻ろう。
 戻ろうと。
 そうしようと思えば出来た筈なのだが。
 またつい、子供を拾ってしまった。
 ちょいと磨けばとんでもなく輝きそうな原石を。
 自分が学んできたものを、この若いのに吸わせてみるのも面白そうだ。
 こいつは冒険者じゃあないけれど。
 それに愛しい妻もいる。
 一緒に旅をしようと誓った妻が。
 遠征以外ではあまりその約束は果たせていないが、いつかは出来る筈だ。
 その時が来るまでじっとしている気は毛頭ないけれど。


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 走る足がうずうずしている。
 旅がしたいと文句を云う。
 広いといっても所詮はただの街、一歩外に出たところの大平原にあっさり見劣りする。
 求婚も見届けたし、挙式の日取り次第で発つ日を決めよう。
 足が踊る。
 心が躍る。
 頭の隅で言葉が浮かんでふっと消える。

 どうか彼が、幸せになりますように。