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| 桜井三郎左衛門の像 |
かほく市高松を語る上で欠かせない人物の一人に、戦国時代の末期、
佐々成政と激しい攻防を繰り広げた前田利家を道案内して手柄をたてた「桜井三郎左衛門」がいます。
桜井三郎左衛門は、前田利家の重臣・奥村家福が守る末森城が、
佐々成政軍に包囲された天正12年(1584)9月、
援軍に駆けつけた前田利家の軍勢を海岸づたいに密かに案内し、
末森城での合戦を勝利に導いた恩賞として、
高松地区の地子銀(今で言う税金)の永代免除(宅地税の永久免除)
を許されたことで、歴史に名を残しています。
この税の免除は以来300年あまり続き、
かほく市高松の人々は明治8年(1875)までその恩恵をうけたのです。
戦国の乱世
桜井三郎左衛門が生きていた当時、日本はまだ戦国の乱世の様相を帯びていました。
織田信長によって国内の平定が進むかと思われた矢先、信長が本能寺の変で明智光秀に暗殺された直後のことです。
その頃、信長を討った明智光秀を滅ぼして急速に台頭し、天下統一をうかがう豊臣秀吉は、
織田・徳川連合軍を相手に、天正12年3月〜11月まで、美濃・尾張で激しい小牧・長久手の戦いに明け暮れていました。
佐々成政、前田利家攻略を計る
まさに同じころ、
賤ヶ岳[シズガダケ]の合戦(豊臣秀吉と柴田勝家の戦い)を機に秀吉方についた前田利家と、
織田家への恩顧から徳川方についた佐々成政の間でも、
秀吉・家康の覇権を巡る攻防の縮図ともいえる合戦、小競り合いが行われていました。
中でも、末森城の合戦は、
前田・佐々両軍のいくたびかの戦いの中でも最も激戦であったと伝えられている戦であり、
前田家にとっては危急存亡のピンチをくぐり抜け、
後に加賀・能登・越中の三國を領有するまでの重要なステップとなる合戦だったのです。
佐々軍の包囲に孤立した末森城
「戦上手」と言われる佐々成政は、
まず、密かに24,000の大軍を動員させて三隊に分け、
9月7日、5,000の兵には能登の国境を越えて勝山城を攻撃させ、
さらに他の一隊に6,000の兵を与えて倶利伽羅峠を越え、
加賀の鳥越城、朝日砦、松根砦を攻撃させて前田利家軍を揺動してきました。
かくして天正12年(1584)9月9日、
佐々成政は、能登と加賀の両翼から攻めてることで、
金沢城が手薄になっている隙を突き、自ら13,000の兵を率いて宝達山を越え、
加賀と能登の要所である末森城へと攻めてきたのです。
末森城は標高138メートルあまりの丘陵を利用した山城で、
前田利家は信頼の厚い重臣の奥村家福と千秋範昌を守将として入れ、約1500人の将兵が守備についていました。
多勢に無勢とあって、利家軍の戦況は不利。
このため家福は利家に援軍を求める使いを出しますが、
こうしている間にも城は佐々軍の猛攻に落城寸前の所まで追い詰められてしまいます。
前田利家の勇気と決断
金沢城にいた前田利家に
「末森城が佐々成政に攻撃を受けている」
との一報が入ったのは10日の夕刻になってからでした。
成政の作戦通り、そのとき金沢城にはわずかの兵しか残っていませんでしたが、利家はすかさず末森城の救援に出撃しました。
津幡城に到着したとき、松任の前田利長も駆けつけてきましたが、
それでも佐々軍の三分の一にも満たない、わずか2,700の兵しかいませんでした。
兵の数の差は歴然。
利家方の重臣たちは、みな声を揃えて
「秀吉公の援軍を待ちましょう」
と進言しますが、利家は
「将兵を見捨てられない」
と重臣たちを説き伏せ、夜半になってから決死の覚悟で津幡城を発ったのです。
桜井三郎左衛門の道案内
佐々成政は能登街道を中心にして、海側の川尻、高松北、長柄野にかけて4,000の兵を配して、
末森城を救援に来る前田軍に対して、万全の迎撃態勢を敷いて待ち伏せていました。
そのとき高松宿の住人・桜井三郎左衛門は、近くの村落にまで佐々軍の伏兵が配置されたのを知ると、
「村が戦に巻き込まれるのを避けねば」
と、佐々軍の備えを詳しく探索しました。
そして、佐々成政はかほくの渚を兵馬が進軍できる砂浜であるということを知らないのか、
一人の兵も配置していないのを確かめると、
そのナンシャバタ(なぎさ道)からの進軍を勧めようと、
利家公に進言する為に走り出しました。
そして夜半に、宇ノ気川を渡っていた前田軍に出会った三郎左衛門は、
利家公に佐々軍の伏兵配置の模様を詳しく報告すると、
七窪から海辺へと案内し、人気のない渚道へと導きました。
そのときの前田軍のなかには、
桜井三郎左衛門が越前にいた時代に見知った仲のものがいた為、
前田利家も三郎左衛門の言葉を信じ、素早くかほく海岸への進軍に繋がったのでしょう。
勝利に貢献
末森城合戦の利家公の大勝利は、
2,700の兵馬が佐々軍の隙をついて無人の砂浜を一気に駆け抜けることができたこと、
またその時、馬の口にバイを銜えさせることで、鳴き声が間近に布陣する敵に気づかれなかったという
二つの幸運が招いた勝利で、
道案内をした桜井三郎左衛門と村民の協力が大きな役割を果たしました。
こうして前田家にとって、栄えるか滅びるかの分かれ目と云われた末森城合戦は、
桜井三郎左衛門の機知と村民の動きによって、利家公の大勝利となり、
その後、越中も手に入れた前田家は、
明治まで300年の間、加賀百万石の日本一の大名として栄えました。
地子銀栄免除
その時、利家公からの報償として桜井三郎左衛門は、
高松村の地子銀(土地税)の永代免除を願い出て許可され、
明治8年まで291年の間、高松村の住民は土地税無しで住むことができたからか、
村には多くの人が集まり、高松宿はおおいに栄えました。
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