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かほく市の紹介-かほく市出身の偉人

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東 善作鶴 彬桜井 三郎左衛門  
かほく市の出身の偉人
東 善作〜三大陸横断に成功した日本のリンドバーグ〜  1893年〜1967年 出身地:かほく市中沼
東 善作
東 善作(あずま ぜんさく)
略 歴
1893年(明治26年)
石川県かほく市中沼に生誕

1916年(大正5年)
新聞記者から飛行家を目指して渡米。パイロットライセンスを取得後、自らをチャプスイ屋のオヤジ称する。

1923年(大正12年)
関東大震災時、救済ビラ「HELP JAPAN」をロス上空で愛機から散布。

1927年(昭和2年)
リンドバーグの「スピリット・オブ・セントルイス号」による大西洋無着陸横断飛行成功に刺激を受け、母国訪問飛行を計画。

1930年(昭和5年)
ロスから愛機の「東京号」でアメリカ・ヨーロッパ・アジアの世界3大陸を70日間、約18,000kmの単独横断飛行に成功。

1934年(昭和9年)
帰国後、飛行学校設立や航空機部品関連の事業展開。

1955年(昭和30年)
鳥取・岡山県堺の小鴨鉱山から日本初のウラン鉱脈を発見。

1967年(昭和42年)
74歳で生涯を閉じる。

昭和5年(1930)6月22日、小さな複葉機がアメリカのロスアンゼルス空港を飛び立ちました。

目指すはアメリカ・ヨーロッパ・アジアの三大陸単独横断。

無謀とも思われた、この大空の大冒険の主役こそ、
かほく市高松地区出身のパイロット・東善作です。

東の愛機「東京号」は一回の給油で10時間しか飛べない中古の飛行機でしたが、
アメリカの西海岸から東海岸までを飛行し、
大西洋は船で超えたものの、
ヨーロッパの空を横切り、
シベリアを渡って日本にたどり着きました。

全飛行距離は16000km。
最終目的地である東京の立川飛行場に無事着陸したのは8月31日の夕方でした。

世界を驚かせた東は、それ以降

「日本のリンドバーグ」

と呼ばれ、かほく市高松地区出身の代表的な偉人の一人として知られています。



苦学した少年時代

東善作は明治26年(1893)、
後に合併してかほく市となった羽咋郡南大海村中沼に生まれますが、
幼くして親類である羽咋の西教寺に預けられて育ちました。

その後、羽咋高等小学校を卒業後、朝鮮半島に渡り、
3年後に帰国すると京都中学校4年に編入学します。

しかし、1年で休学し、岡山県の私立関西中学校へ再入学しました。

そこには、「より高いレベルの名門校で学びたい!」という思いがあったと思われます。



記者時代の体験が生んだ大空への夢
関西中学を卒業後、東は石川県に戻り、
大学進学の学資を得るために、当時金沢にあった北陸毎日新聞へ入社し、
そこで東は大空への夢に出会います。

あるとき金沢へ、アメリカの曲芸飛行家アート・スミスがデモンストレーションに訪れ、
野村練兵場で操縦の妙技を披露しました。

東はその曲芸飛行に目を奪われ、

「自分も空を飛びたい」

という夢を膨らませたのです。



片道運賃でアメリカへ一人旅
明治36年(1903)のこと。
アメリカのライト兄弟が世界初の動力飛行機で飛んだ年から13年後、
大正5年(1916)の秋に、空の時代はまだ幕開け前だったものの、
東は早速、空を飛ぶ為に渡米をします。

 「日本民間航空史話」に、東はこう書き残しています。

 「アメリカのアクロバット鳥人アート・スミス君の名演技に魅せられ、
男子の往く所は空なり、我れも飛行家たらんことを決意し、
柳行李[ヤナギゴウリ]一つを携えて大正5年(1916)の秋渡米した」

※柳行李[ヤナギゴウリ]
背の低いヤナギの一種の枝で編んだ衣装などを入れておく(送る)用具。
箱型の入れ物。


働きながら民間のパイロット学校へ
渡米した東は働きながら民間のパイロット養成学校に通います。

第一次世界大戦が起きると学校は閉鎖されましたが、
今度はアメリカ陸軍航空学校に入隊して、さらに飛行技術を磨きました。

プロのパイロットとなった東は、ロスアンゼルスで遊覧飛行業を始めました。


大正12年(1923)、関東大震災発生の知らせを聞くと、
機体に「HELP JAPAN」と書いた飛行機を操って、
アクロバット飛行をしながらビラをまき、
復興への援助金800ドルを集めています。

このときに、やがて妻となる伊藤寿々と出会い、結婚した東は、
夫婦でチャプスイ(雑炊)などの中華料理店を経営し、
昼は遊覧飛行、夜は店の手伝いで忙しい日々を送るようになります。



友の遺志を受け継いでの挑戦
昭和2年(1927)、アメリカのリンドバーグが
単身では世界初の大西洋横断無着陸飛行に成功します。

同じころ、日本の航空界が欧米に比べて遅れていることを嘆いた東は、
飛行機仲間で、大分県出身の後藤正志と

「自分たちで三大陸横断飛行を成功させよう」

と夢を語り合っていました。

しかし、先に出発した後藤は、飛行中にロッキー山脈で遭難して亡くなってしまいます。

そこで東は、後藤が果たせなかった三大陸横断に挑むことを決意しました。

東は小型飛行機を購入して「東京号」と名付け、店を抵当に入れてまで資金を作ったのでした。



リンドバーグの3年後に三大陸横断飛行
こうした準備期間の後、東はいよいよ三大陸横断飛行に挑みます。

リンドバーグのニューヨーク〜パリ間無着陸飛行から、3年後のことでした。

無事に、立川飛行場に着陸したというニュースは、全国の新聞の紙面を飾りました。

飛行に成功した12日後、東は郷土・石川県に凱旋飛行しています。



人形峠でウラン鉱脈を発見
また、東は日本で初めてウラン鉱脈を、
鳥取県と岡山県の県境に近い人形峠で発見したことでも歴史に名を残しています。

昭和9年(1934)に帰国し、第二次世界大戦後は東京に住んでいた東は、
昭和28年(1953)アメリカの雑誌記事で、
知人のアメリカ人パイロットが飛行機で空からウラン鉱脈を発見したことを知ります。

それに刺激を受けた東は、すでに60歳となっていましたが、
さっそく外国から最新式のガイガーカウンター(放射能検知器)を購入すると、
ウランを求めて全国の山を歩き回り、2年後にとうとう探し当てたのです。

しかしその後、ウランは量が多く採れる外国産のものが使われるようになり、
人形峠のウランは試験的な採掘にとどまりました。



かほく市で東の夢にちなむ紙飛行機大会
生まれ故郷のかほく市高松では、夢に向かって挑戦し続けた東善作を記念して、
「東飛行士誕生之地の碑」をたて、紙飛行機大会が毎年開かれています。

不世出の飛行家・東善作は今もなお、紙飛行機と戯れる子供たちに、「夢」と「ロマン」を与えてくれているのです。

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鶴 彬〜戦争の時代に抵抗した川柳作家〜本名:喜多一二 1909年〜1938年 出身地:かほく市高松(上北町)
鶴 彬(つる あきら)
鶴 彬
 「軍国」の気配が国民生活に浸透していった昭和初期、
次第に幅を利かす軍国主義に敢然と立ち向かい、
反戦の意志を明らかにした人々が少なくありませんでした。

その中に、一人の川柳作家がいました。
その名は喜多一二[キタ カツジ]

かほく市高松出身の喜多は当時、気鋭の川柳作家として活躍し、
晩年の号である「鶴彬」の名前で広く知られています。

 多くの文化人・国民が戦争賛美に走るなか、
短い人生を駆け抜けた川柳人・鶴彬は戦争に反対する文化人として、
日本の川柳界に異色の足跡を残したことで語り継がれているのです。


進学の夢をあきらめ古本屋通い
喜多一二は明治42年(1909)元日、かほく市高松で父・喜多松太郎と母・寿ずの二男として生まれました。

8歳の年、細々と竹かご網の職人をしていた父を亡くし、母もまた東京で再婚した為、
一二は兄・孝雄と弟・一二三、妹・文子とともに伯父の養子になります。

伯父・喜多喜多郎は10人ほどの女子工員を雇う機場[ハタバ]を経営していましたが、
生活は決して豊かでなかったといいます。

実の両親との縁が薄く、伯父の家で暮らし始めた一二は、兄弟ともども肩身の狭い境遇だったに違いありません。

それでも高松小学校や、次に進んだ高等科でも学業の成績は常に優秀で、
高等科を修了して2年もしないうち、一二は専門学校入学者資格検定試験に合格はしたものの、
師範学校に進んで教師になる希望はかなえられませんでした。

進学の夢をあきらめ、伯父の仕事の手伝いを余儀なくされた一二は仕事を早く終えると、いつも近くの古本屋へ通いました。

そこで本を借りてきては、読書にふける多感な時代を送ったのです。



挫折感が生んだ既存文化への反抗
高等科を卒業するころ、近所で印刷業を営んでいた岡田太一から、川柳のてほどきを受けるようになります。

すでに教師への道をあきらめていた一二は、おそらく挫折感を心のどこかに秘めていたのでしょう。

やがて、伝統的な秩序や価値を否定し、既成の文化や制度にも反抗的な岡田の影響を受け、
次第に世間に背を向けるようになっていったのです。



新興川柳の中で確固とした位置
こうして川柳と出会った一二が革新派の川柳作家と交流を深めていくのは、
自然の成り行きでもありました。

一二は金沢で活躍した福村無一路と出会い、
同じく金沢にいた川柳革新派の柳人宮島竜二を知って、
革新的な川柳運動である新興川柳の世界にのめりこんでいきます。

次々と新興川柳志に投稿を始めた一二は、理論家として知られていた田中五呂八が主宰する「氷原」にも投稿し、
時に冷ややかに、時に繊細に詠む作品は田中の目に留まります。

その指導を受けるうち、挫折感にひたり、自信喪失に陥っていた一二は、
新進川柳作家として新興川柳の中に確固とした位置を占めるにいたりました。

大正14年(1925)ごろのことです。



自らを自画自賛する高慢さに批判も
しかし、自身に満ち、自らを自画自賛するようになると、次第に仲間の批判を浴びることも少なくなかったといいます。

ちょうどその頃、伯父が経営していた機場が不景気のため閉鎖されたのは、ちょうどそんな矢先でした。

生活に窮した一二は大阪の友人宅に転がり込み、小さな町工場で貧困生活を送ります。

それは、大都会の片隅で火の当たらない職工として汗にまみれ、
頭で考える以前に胃袋を満たすことが優先する、労働者の厳しい暮らしだったのです。

昭和12年(1937)すでに鶴彬の号を名乗っていた一二は、
その年の4月に刊行された川柳誌「火華」の第三巻第四号にこう書いてあります。

「パンを得なくして何の思索があらう。仕事につかなくて何の文学があらう」。



身に及ぶ危険のがれ「鶴彬」の号名乗る
一二が労働者階級、無産階級の視点に立ったプロレタリア川柳の作家という顔を鮮明にするのは、
大阪に出てからとみられています。

また「喜多一二」という名前を使わなくなったのは、昭和3年(1928)からです。

その年の4月、かほく市高松で一二が主宰するプロレタリア川柳研究会のメンバー3人が
「一二たちの考えは危険思想である」
とみなされ警察に検挙される事件が起きています。

その事件を境に、一二は最初の偽名を用い、同じ年の秋ごろから「鶴彬」の号を名乗り始めています。

それは、身に及ぶ危険から逃れるための改名でもあり、
それまでの柳人としての歩みをすべて精算し、
プロレタリア川柳に体を張る覚悟の現われだったとも考えられます。



川柳で社会の矛盾にメスを入れる
当時、プロレタリア川柳の旗手たちは、資本主義における労働者階級にとって、
芸術派救いでなければならず、矛盾に満ちた社会に入れるメスこそ自分たちの川柳であると信じていました。

一二もまた、こう主張する川柳作家の一人であり、
初めて「鶴彬」の名前で登場した昭和3年(1928)の柳詩『氷原』では次のような作品を発表しています。

  ・腕を組む仲間に鎖ぶち切れる   ・兵隊をつれて坊主が牢へ来る
  ・軍神の像の真下の失業者     ・稼ぎ手を殺し勲章でだますなり

こうした時代の流れに逆らう作風が災いして、鶴彬たちプロレタリア川柳派は、
多くの川柳雑誌からボイコットを受けます。

そんな逆風にあった鶴彬たちを拒まなかったのが、井上剣花坊が主宰する『川柳人』でした。

鶴彬は、その雑誌に昭和4年(1929)の12月まで作品の掲載を続けました。



「第七連隊赤化事件」で投獄
昭和5年(1930)1月、鶴彬は陸軍に召集され、金沢の第七連隊に入隊します。

そこで鶴彬は日本共産青年同盟の機関紙を隊内に持ち込み、
読者獲得のため同年兵に接近したとして、捕まってしまいます。

これが「第七連隊赤化事件」です。

昭和6年(1931)第九師団軍法会議は治安維持法違反による懲役2年の判決を下し、
鶴彬は大阪の監獄へ入れられます。

昭和8年(1933)刑期を終え除隊した鶴彬は、かほく市高松の生家にも、
養家にも戻れないまま、東京で創作に没頭していきます。



川柳にささげた短い人生
鶴彬の句碑
鶴彬の句碑
昭和12年(1937)12月3日朝、
鶴彬は、川柳雑誌『川柳人』に発表した作品が反戦的であるという理由で、警視庁に連行され、
翌年の8月、取調べ中に体調を壊して、豊多摩病院へ監視つきで入院します。

病は赤痢[セキリ]だったといわれ、鶴彬は9月14日、家族に看取られ静かに息を引き取りました。

享年29歳という若さで、川柳にすべてを捧げた短い人生でした。




 鶴彬の代表作
 ・枯れ芝よ団結をして春を待つ     ・万歳と挙げた手を大陸に置いてきた   ・手と足をもいだ丸太にしてかへし

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桜井 三郎左衛門 〜前田利家を勝利に導いた農民指導者〜
桜井三郎左衛門
桜井三郎左衛門の像
かほく市高松を語る上で欠かせない人物の一人に、戦国時代の末期、
佐々成政と激しい攻防を繰り広げた前田利家を道案内して手柄をたてた「桜井三郎左衛門」がいます。

桜井三郎左衛門は、前田利家の重臣・奥村家福が守る末森城が、
佐々成政軍に包囲された天正12年(1584)9月、
援軍に駆けつけた前田利家の軍勢を海岸づたいに密かに案内し、
末森城での合戦を勝利に導いた
恩賞として、
高松地区の地子銀(今で言う税金)の永代免除(宅地税の永久免除)
を許されたことで、歴史に名を残しています。

この税の免除は以来300年あまり続き、
かほく市高松の人々は明治8年(1875)までその恩恵をうけたのです。


戦国の乱世

桜井三郎左衛門が生きていた当時、日本はまだ戦国の乱世の様相を帯びていました。

織田信長によって国内の平定が進むかと思われた矢先、信長が本能寺の変で明智光秀に暗殺された直後のことです。

その頃、信長を討った明智光秀を滅ぼして急速に台頭し、天下統一をうかがう豊臣秀吉は、
織田・徳川連合軍を相手に、天正12年3月〜11月まで、美濃・尾張で激しい小牧・長久手の戦いに明け暮れていました。



佐々成政、前田利家攻略を計る

 まさに同じころ、
賤ヶ岳[シズガダケ]の合戦(豊臣秀吉と柴田勝家の戦い)を機に秀吉方についた前田利家と、
織田家への恩顧から徳川方についた佐々成政の間でも、
秀吉・家康の覇権を巡る攻防の縮図ともいえる合戦、小競り合いが行われていました。

中でも、末森城の合戦は、
前田・佐々両軍のいくたびかの戦いの中でも最も激戦であったと伝えられている戦であり、
前田家にとっては危急存亡のピンチをくぐり抜け、
後に加賀・能登・越中の三國を領有するまでの重要なステップとなる合戦だったのです。



佐々軍の包囲に孤立した末森城

佐々成政の
「鶴翼の陣形[カクヨクノジンケイ]」


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「戦上手」と言われる佐々成政は、
まず、密かに24,000の大軍を動員させて三隊に分け、
9月7日、5,000の兵には能登の国境を越えて勝山城を攻撃させ、
さらに他の一隊に6,000の兵を与えて倶利伽羅峠を越え、
加賀の鳥越城、朝日砦、松根砦を攻撃させて前田利家軍を揺動してきました。

かくして天正12年(1584)9月9日、
佐々成政は、能登と加賀の両翼から攻めてることで、
金沢城が手薄になっている隙を突き、自ら13,000の兵を率いて宝達山を越え、
加賀と能登の要所である末森城へと攻めてきたのです。

末森城は標高138メートルあまりの丘陵を利用した山城で、
前田利家は信頼の厚い重臣の奥村家福と千秋範昌を守将として入れ、約1500人の将兵が守備についていました。

多勢に無勢とあって、利家軍の戦況は不利。

このため家福は利家に援軍を求める使いを出しますが、
こうしている間にも城は佐々軍の猛攻に落城寸前の所まで追い詰められてしまいます。



前田利家の勇気と決断

金沢城にいた前田利家に
「末森城が佐々成政に攻撃を受けている」
との一報が入ったのは10日の夕刻になってからでした。

成政の作戦通り、そのとき金沢城にはわずかの兵しか残っていませんでしたが、利家はすかさず末森城の救援に出撃しました。

津幡城に到着したとき、松任の前田利長も駆けつけてきましたが、
それでも佐々軍の三分の一にも満たない、わずか2,700の兵しかいませんでした。

兵の数の差は歴然。

利家方の重臣たちは、みな声を揃えて
「秀吉公の援軍を待ちましょう」
と進言しますが、利家は
「将兵を見捨てられない」
と重臣たちを説き伏せ、夜半になってから決死の覚悟で津幡城を発ったのです。



桜井三郎左衛門の道案内

末森合戦要図

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佐々成政は能登街道を中心にして、海側の川尻、高松北、長柄野にかけて4,000の兵を配して、
末森城を救援に来る前田軍に対して、万全の迎撃態勢を敷いて待ち伏せていました。

そのとき高松宿の住人・桜井三郎左衛門は、近くの村落にまで佐々軍の伏兵が配置されたのを知ると、
「村が戦に巻き込まれるのを避けねば」
と、佐々軍の備えを詳しく探索しました。

そして、佐々成政はかほくの渚を兵馬が進軍できる砂浜であるということを知らないのか、
一人の兵も配置していないのを確かめると、
そのナンシャバタ(なぎさ道)からの進軍を勧めようと、
利家公に進言する為に走り出しました。

そして夜半に、宇ノ気川を渡っていた前田軍に出会った三郎左衛門は、
利家公に佐々軍の伏兵配置の模様を詳しく報告すると、
七窪から海辺へと案内し、人気のない渚道へと導きました。

そのときの前田軍のなかには、
桜井三郎左衛門が越前にいた時代に見知った仲のものがいた為、
前田利家も三郎左衛門の言葉を信じ、素早くかほく海岸への進軍に繋がったのでしょう。



勝利に貢献

末森城合戦の利家公の大勝利は、
2,700の兵馬が佐々軍の隙をついて無人の砂浜を一気に駆け抜けることができたこと、
またその時、馬の口にバイを銜えさせることで、鳴き声が間近に布陣する敵に気づかれなかったという
二つの幸運が招いた勝利で、
道案内をした桜井三郎左衛門と村民の協力が大きな役割を果たしました。

こうして前田家にとって、栄えるか滅びるかの分かれ目と云われた末森城合戦は、
桜井三郎左衛門の機知と村民の動きによって、利家公の大勝利となり、
その後、越中も手に入れた前田家は、
明治まで300年の間、加賀百万石の日本一の大名として栄えました。



地子銀栄免除

その時、利家公からの報償として桜井三郎左衛門は、
高松村の地子銀(土地税)の永代免除を願い出て許可され、
明治8年まで291年の間、高松村の住民は土地税無しで住むことができたからか、
村には多くの人が集まり、高松宿はおおいに栄えました。



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参考資料「たかまつ物語」  ご協力「ふる里タンク高松会」様
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