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  最近の事務局へのメール』より転載  2008.03.03
 
2008年01月13日   高橋 尚志   
新年あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。
4〜5年前から「戸塚茶畑会」として、毎月第3水曜日に一高卒業者(6回〜12回卒 12名程)で飲み会を行っています。新たに、10回生を何人か誘いたいと思います。そちらに進藤舜一郎さんのメールアドレスが登録されておりましたら教えてください。戸塚茶畑会の件、開催の状況、10回メンバー氏名等後日あらためて、ご報告します。とりあえず。
(2月3日鹿野よりの返信)
お久しぶりです。1月の9〜31日まで病院に入っていまして、返事が遅れてすみません。退院してみたら、下の息子が留守中にカミサンのために何かやろうとして、逆に俺のパソコンをぶっ壊してしまったようです。今日、馴染みのパソコンアドバイザーと相談して、新規購入を発注したところです。このメールは、予備のノートパソコンから送っていますが、日常のデーターは、壊れたほうのパソコンに入っています。従って進藤君のアドレスは、壊れたデータを復活しないと、お送りできませんのでお許しください。じっかいメンバーのアドレスは、当方に80名ほど登録になっているので、併せてお知らせします。なお、入院中のため、メルマガが出せなかったのですが、粥川君が1月22日頃に亡くなりました。情報は、高橋保雄君がわかっています。
戸塚茶畑会は、いずれ我がパソコンが復活次第、メルマガで皆さんにお知らせします。

2007年11月13日   高橋 保雄   
鹿野さん、東京の出先にまで電話して失礼しました。実は私、明日14日は終日留守になるのでメールします。先ほど、同期の御代田君より来る11月15日(木)の件について電話にて問い合わせがありました。従い、当日(旧日の出ビル5F)デユッカにて18時より仙台支部総会あり。その後、サロンどじっかい(彩香)の予定である旨話をしておきました。一応電話では彼はどちらにも出席したいようでした。
 尚、私は残念ながら当日は都合悪く欠席することは、伝えてあります。
(11月14日鹿野よりの返信)
なんども、電話を頂いてすみません。横浜で、小樽の同期会(卒業45年)の真っ最中でした。
御代田さんの件、わかりました。
  2008.03.03
 慎んで、ご冥福を祈ります。(訃報)

 粥川 明彦 君  逝去 平成20年1月 22日
 
 

  最近の事務局へのメール』より転載  2007.10.27
 
2007年10月11日   高橋 武雄   
毎度、メルマガ配信ご苦労様です。有難うございます。
石黒さんのこと、とても残念です。彼とは宮城野中学校三年のとき、進藤舜一郎さんとともに、同じクラスでした。今年は恩師の傘寿にもあたるので、10月にクラス会を計画し、案内状を発送したばかりでしたが、その日は奇しくも亡くなられた日だったのです。それだけに想いも強く、会を代表し彼の中学時代の思い出も入れ、お悔やみのお便りをいたしました。何かと大変な折にも拘らず、わざわざ奥様から”覚悟はしていたがぽっかりと穴が空いたようです”との丁寧な礼状をいただきました。そして先日開かれたクラス会で黙祷の後、皆に披露いたしました。

 ところで、藤村 ”草枕” 詩碑里帰りのニュースを掲載していただき有難うございました。本件にも関連した近況報告です。小生、大学卒業後宮城県庁に勤めこれまでずっと仙台に住み、自然の成り行きとして今後もここで終えるつもりでした。が、仕事を離れこの齢になるとなかなか自分だけの想いや意思だけでは事は済まないもの。本意ではないが今後のことも考え、老いては妻や子の意見に従うこととし、長男の職場に近く、次男とも行き来し易い宇都宮市に転居することにしました。10月下旬を目標に引越を予定しており、今てんやわんやです。幸い、じっかいの亀掛川良宣、野口忠男の大兄も居られる由、心強いものがあります。
3年前仕事を辞め、とにかくのんびりしたいと思っていた処、小生が生まれ育った宮城野の言霊に呼ばれたのか、自分の父や榴ヶ岡の図書館時代の縁もあり、仙台東ロータリークラブから頼まれ、じっかいホームページでも紹介して頂いた”詩歌の里 こころの宿 宮城野”なる冊子の企画編集、執筆をしました。今回はその時の縁もあって、青葉城天主台の奥であまり人目に触れることも少なかった島崎藤村の「草枕」の詩碑を、藤村が下宿していた名掛丁のゆかりの場=仙台駅東口、藤村広場=に移転しようとの委員会メンバーの一人に加わりました。そして、”心の宿の宮城野よ  乱れて熱きわが身には……  ”の碑の説明文の起草や記念パンフの編集委員長を仰せつかり、9月2日無事、式典、イベントを終えました。
一高時代、国語の時間に感激した ”遂に新しき詩歌の時は来たりぬ。そは美しき曙の ……”の発端の地が宮城野、仙台の地であることをこの齢になってあらためて再認識しました。そして地元の人にも、もっと誇りにして欲しいと思います。小生にとっては仙台最後の思い出深いボランテア活動になりました。何かの折、藤村広場の碑やその説明板を見てやって下さい。
転居先:・TEL・メールアドレス=略(必要な方は鹿野まで)

 2007年09月30日   佐藤 千秋   
千葉じっかい楽しかったですね。その後開かれた、銚子での会合の報告を送ります。      日時;  平成19年8月31日、9月1日                                  参加者; 遠藤将一、田口晴夫、玉造貞一、佐藤千昭                          趣旨; 遠藤君が千葉科学大学に来て3年も過ぎ、1年後にはもう京都に戻るので今のうち銚子及び彼の大学の見学とお互いの息災を祝うこと。また、玉造君が急性膵炎を無事切り抜けた快気祝い。                                                   宿舎;犬吠埼にある老舗温泉旅館「ぎょうけい館」、犬吠埼灯台を間近に見る海岸沿いの景色の良い落ち着いたところ。食事は銚子名物の魚料理。全て遠藤君の手配。            夜; ひたすら飲み話合い、一高時代を思い出す雰囲気でした。特に遠藤君は元気で深夜3時頃まで田口君と話込んでいました。佐藤と玉造君は傍で寝ていました。              翌朝;遠藤君のアレンジで、犬吠埼灯台、ヒゲタ醤油工場、千葉科学大学及び遠藤教授室近くの名洗い港とマリーナ、玉造君の要望で風力発電施設、等を見てから銚子港の観光センターで昼食を取り解散。田口、玉造、佐藤の3人は車で帰路につく。                   帰路;玉造君の立派な自宅に寄ってコーヒーを頂き一休みしたが、 実は彼が約1年間苦労して組み立てた賢いロボットを見てもらうことが目的と判明した。パソコンからもリモコンで操作できる優れもので、さすが技術士の資格をとる人の趣味は高級なものと感心。興味ある人は直接メールで連絡して下さい。
写真は田口君から送られてきたものです。 また、玉造君自慢のロボットは動画も見れるようなっていますが省略します。(ご希望の方にはURLとパスワードをお送りします)
  (追伸2007.9.30) 10/15の仙台「じっかい」が賑やかになるよう期待しています。

 2007年09月22日   玉造 貞一   
  連絡有難うございます。
今回は都合により欠席させていただきますが、来年5月の秋保での総会を楽しみにしています。当方は急性膵炎の入院で衰えた体力もほぼ以前のレベルまで快復し、昨日も堀江君と一緒にゴルフを楽しんできたところです。皆様によろしくお伝え下さい。

  2007.10.27
 慎んで、ご冥福を祈ります。(訃報)

 阿部 敏彦 君  逝去 平成19年6月 26日
 角田 幸一 君  逝去 平成17年2月 11日
 高平  力 君  逝去 平成12年12月 10日
 
  最近の事務局へのメール』より転載  2007.09.19
 今回は、先にお知らせした石黒君の訃報に寄せられたメールを転載します。

2007年08月19日   福留 靖浩   
暑い暑い日々が続いています。日頃より「じっ会」の連絡幹事役
ご苦労様です。
今回の訃報、残念なことです。まだ若かったのに。
彼の早稲田には、慶早6連戦でやられてしまいました。
社会人になって、後楽園での都市対抗野球では、彼は日本製鉄
八幡の選手として、こちらは日本石油の応援リーダーとしてダッグ
アウト上から手を振り合った仲です。後日、小生、日石の野球部長
として東京ドーム通いをした頃は、八幡の顔は既に無く、石黒君に
会うことは出来ませんでした。
一高在学中の練習で頭にボールを受け、東北大医学部で手術を
受け心配をしましたが、無事快復、頑健な体で野球一筋だった彼に
こんなに早い訃報とは、人の世の無常を知らされるとともに誠に残
念です。静かにご冥福を祈るばかりです。
近年の異常気象・異常世相の中で、お互い健康に留意して、熟年を
エンジョイしていきたいものです。ご自愛専一に。

2007年08月19日   樋口 龍雄   
毎日新聞の記事から改めて石黒君の活躍ぶりが
わかりました。
生前もっと彼の人生、それと人生観を聞いておけばよかった
の思いです。結局人生何だったのか、彼なら何か思うところが
あったに違いありません。
ご苦労様でした。ではまた。

2007年08月19日   玉造 貞一   
 お手数深謝。
あの石黒君が亡くなられた由にて驚いています。
6年くらい前に守屋君と八幡に行き石黒君と一緒に食事したときには
元気な様子でしたが早すぎますね。
甲子園野球真っ盛りですが東北大会で彼が代打で出るたびに長打を打ち
大活躍したシーンを思い出します。
心からご冥福をお祈りする次第です。

2007年09月03日   岡崎 圭一   
 前略 酷暑もやっと治まり凌ぎ易くなりました。
皆様ご健勝のことと拝察申し上げます。
この度小生のメールアドレスを次のものに変更いたしましたので
お知らせいたします。 草々(メールアドレス略)
  2007.08.18
 慎んで、ご冥福を祈ります。(訃報)
 石黒 行彦君  逝去 平成19年8月 14日

 (以下 2007.8.15付け 毎日新聞より要約)
 石黒行彦さん 67歳(元八幡製鉄野球部監督)14日肝硬変のため逝去。
 葬儀は16日近親者のみで行われた。
 仙台一高から早大を経て八幡製鉄(後に新日鉄八幡)入社、早大時代は外野
 手で中軸打者として1960年
秋の早慶戦6連覇で活躍、ベストナインにも選ばれた。
 八幡製鉄では63〜65年に3年連続都市対抗出場、65年には四強入し、大会優秀選手
 (外野手)に選出された。翌66年から監督として5年連続で都市対抗にチームを導き、
 68年 にはベスト4に進出した。

  最近の事務局へのメール』より転載  2007.04.12
 今回は、一高15回生の後輩から、メールが届いているので紹介します。

2007年04月10日   但木 壮夫   
 “じっかい”のHPには、一高生がどこかで置き忘れてきた大切なものを、そこかしこに
発見することがあるので、何度も繰り返して開いてしまいます。
小生は、特に、“せんだい寸景”のファンですが、5才も年のはなれた先輩の学校時代の
体験が僅かではありますが、自分の学校時代の想い出と重なり大変親しみを感じており
ます。
今後も、後輩たちへのメッセージとして、“一中一高の文化はこうだ!”というような内容
豊かなHPになりますことを期待してやみません。(高15生より)
  2007.04.12
 慎んで、ご冥福を祈ります。(訃報)
 北村 潮 先生  逝去 平成19年2月 26日

 (先に、メールでお知らせしましたが、このホームページでも改めて、
 皆様にお知らせします。じっかいでは、お花と弔電をささげております。
 なお、通夜、ご葬儀には10数名のじっかい生が、参列させて頂きました。)
  最近の事務局へのメール』より転載  2007.02.14
 今回は、年賀状から2通ほど転載します。
2007年01月01日   野口 忠男   
 久しぶりで国内で新年を迎えました。 新年を迎えることは、目出度くもあり目出度くも
なしですね。 「じっかい」の皆様には永らくご無沙汰をしています。
 「じっかい」の会合にはあまり出席していませんが、多忙と言うことも理由の一つでした
が、もう一つ高校時代の無思慮で愚かだった自分を思い出す事にも抵抗があったからで
す。2年生で初めての執行委員長になったことも懐かしくもあり恥ずかしくもある思い出
です。50年も経つと殆ど忘れていることも多いのですが。この年齢になればあまり関係
の無いことかもしれません。この年齢と言いましたが、我々男性はあと10年が精々です。
 せめて残りの10年を豪快に過ごしたいと密かに考えています。とは言ってもまだ現役で
仕事をしていますし5つ6つの役職もついていますので、これらから全て開放されて自分
の思うままの生活が夢なのです。体力はままだと思いますが、意欲の低下に気づくと年
だなあと感じます。では皆様のご健康ご活躍を祈念します。 

2007年01月01日   鹿野 敏秀 
 この師走は、持病の心の臓の不全で半月ほど病院で過ごした。その窓から、
築後半世紀の鉄筋コンクリートの旧棟が取り壊される様を眺め続けた。
甲虫が木の葉を喰い尽すように、巨大な機械が壁面を噛み崩す作業はまさに
壮観であった。形あるものは崩れる。ギリシャ・ローマの遺跡も三内丸山も
人間が数千年をかけて造っては壊し続けてきた営みの残照を留めている。
地球に負荷をかけながら廻り続ける、人類の歩みの業を見るようでもある。
 けれど人間は同じ場所を廻るだけではなく、フランスの人権宣言や日本の
憲法九条のように、社会の未来を啓く素晴しい前進も成し遂げてきた。
わたし個体としての「命」は何年かずつの生を刻んで行くのだろうが、
教育基本法の改悪のように歴史の歯車を1世紀も巻戻すような、負の遺産を
次代に引き継ぐことは、してはならない。
  最近の事務局へのメール』より転載  2006.12.29
 2006年10月14日   佐藤 幸則   
 いつも メルマガ「じっかい通信」を配信いただき、ありがとうございます。
 2ヶ月前に仙台から埼玉県深谷市に転居しました。
 私事で恐縮ですが、60年前に分かれた実母が深谷で一人暮らしをしていて、86歳になり健康状態もあまりよくありません。以前から田舎に住んで晴耕雨読の生活も悪くないと思っていたものですから、仙台と深谷とを行き来するよりは、この際深谷に移り住もうと決心し、細君も田舎で花やハーブを栽培しながら、染色や竹細工などの手工芸をしたいからと、深谷移住に賛成してくれました。小学生時以来住み慣れた仙台を去ることには寂しい想いがありましたが、思い切って転居しました。
 東北大学創立百周年を記念する「東北大学百年史」編纂が7年前からはじめられ、私は所属部局(科学計測研究所)を代表してこの編纂事業に携わってきました。定年退官後もその仕事が続いていましたが、科研創立以来の沿革と研究活動を記述する原稿の最終稿を今年の6月に漸く書き終わりました。また科学技術振興機構の援助を得て定年退官後も引き続いて行っていたプロジェクト研究「量子波束を光の位相で制御する研究」も今年の4月に終了しました。仙台での役割も段落がついたと考えたのが、この際仙台を離れることにした理由です。
 高崎線深谷駅から寄居・長瀞方面への県道を7キロ程度、関越自動車道の花園インターからは車で15分程度のところ、周囲は野菜畑や植樹園が広がる田舎です。母の家と200坪の空き地を隔てた隣に中古家付きの土地を購入しました。遠くに秩父山系が見えます。
 こちらに来て生活スタイルが一変しました。家の内外の整備に連日汗を流しています。荒れた庭に大きな杏の木が6本あり、背丈よりも高い雑草が茂っていますが、今はこれを整備してガーデニングを楽しもうと、連日百姓や土方のような仕事でくたびれています。アメリカシロヒトリなどの害虫にも悩まされています。書斎の書棚を自作しながら、これまでの研究のファイルや講義ノートなどを眺めつつ、これらを整備しようかなとも思いますが、現在は庭造りが先行している状況です。私の性格から、過去に学んだことを整理するよりも、未知の分野の勉強をしたいという好奇心が強く、量子計算と量子エンタングメント、量子論と相対論との統一理論の試み、紐理論などを趣味的に勉強して、少しでも理解を深めることを楽しみたいと思っています。 
 文部科学省管轄のある学術財団の理事長、理化学研究所の研究嘱託、日本化学会の論文審査委員などボランティアの仕事はあまり負担にならない程度で続けています。今は家の内外を整えることに没頭して、外との交流は当面は控えたいという気持ちですが、庭の整備が一段落したら、皆さんにもついでの折には是非お立ち寄り頂きたいと思います。
 新住所・電話・メールアドレス(略)
2006年12月25日   柿沼  
今回フレッツひかりに変更したのでアドレスがつぎのように変ります。よろしくお願いします。新しいアドレス(略)
2006年11月13日   阿部 光衛 
プロヴァイダをかえました。(略)
2006年10月 7日   加藤 寛二 
メルマガ「じっかい通信」NO.19号、ありがとうございました。
元気で忙しく働いています。又会える日まで。
  2006.10.05
 慎んで、ご冥福を祈ります。(訃報)
 今野紀男君  逝去 平成17年10月 7日

 (高橋武雄君から下記のようなお知らせがありました)
 2006年9月20日   高橋武雄   
「メルマガNO.18」ありがとうございす。メールをもらって気づきましたが、情報があります。
今野紀男君の訃報です。彼とは一高、福島大で一緒で、日立家庭電器販売(株)へ入り
東京勤務となったことまではおぼえていますが、その後直接お話したことはありませんで
した。また福島大の同期会などでもお会いすることはありませんでしたが、盛岡市に移ら
れていることは聞いておりました。最近、盛岡にいる大学時代の友人から「彼が亡くなっ
たことを死亡広告で見た」と、知らされました。そこで前に「じっかい」でもらった同期生
名簿で電話し、奥様から直接伺いました。
昨年(平成17年)10月7日、胃癌だそうです。癌と診断されて6ケ月とのこと。奥さんから
「皆様に世話になったこと」に、感謝の言伝がありました。
蛇足ながら、前述の盛岡の友人から、奥さんはNHKの民謡のど自慢で日本一になった
方だと聞いています。
   最近の事務局へのメール』より転載  2006.10.05
 2006年9月23日   亀  義和   
 おひさしぶりです、覚えているかな?
 じっかいのホームページ、楽しく読ませてもらってます。
先日の東京じっかいには出席できなくて残念でした。進藤君のすばらしいレポートを読み
感激した次第です。
仙台にはあまり帰ることもありませんが、先月は武田儀郎の墓参りをしてきました。
三原レポートにもあるように、花、酒が供えてあり、人柄が偲ばれました。
三原君は、メールでは近況を伝え合ってます。私も、準会員か除名会員になりそうなほど
出席率のよくない者ですが、四十数年の年月を経て、やっと青春時代を懐かしむ心境に
なってきたと言えそうです。次回には出席するようにします。
じっかいホームページも、皆さんの尽力で続けられているそうでご苦労様です。
これからも、楽しい記事を期待してます。
   2006.09.16
最近、じっかいにも幾つかの訃報が寄せられ、残念のきわみですが、友の訃報についての対応(弔電などについて同期会として考え方を、整えておいた方が良いという意見があります。近く、世話人会を開いて相談することになりました。何か、意見のある方は、メールなり電話なりでお知らせください。
   最近の事務局へのメール』より転載  2006.06.21
 
2006年5月15日   村上悌二郎   
 ご無沙汰しております。
メルマガ通信毎回懐かしく、楽しく拝読しております。幹事さんには本当にありがとうござ
います。年に2〜3回は仙台に行く機会があるので(家人も仙台出身故)、一番町の例の
店の方にも顔をだしてみたいと思っております。
 メールアドレスを変更しましたので、ご連絡致します。(略) よろしくお願いします。                                       
 2006年5月4日   赤沼俊次
ご苦労様です。
いつも元気でメルマガ楽しく読まさせてもらっています。 ただ、最近知っている人の訃報で気が滅入ることが多くなり、残念に思います。
京都の田舎に住み着いてから、もう40数年になりましたが、仙台にもいつしか足が遠のいています。 兄弟とか親戚が未だおりますので、行く機会があれば、「じゅっかい」の集まりにも出席したいとおもいます。 その時はよろしくお願い致します。
追伸:私の近況写真2枚添付。 先月、孫の春休みにあわせて始めて家内と娘と孫と一緒に中国を観光した時のものです。子供に合わせて、個人的にスケジュールを組んだので、四日間で @ 中国の南京にある動物園 (日本の動物園と違い、ちょっとしたサーカスなみの動物のショーがあるー虎が15匹くらい出てきて高いところを歩いたり、熊が10匹ほど逆立ちして通ったり、高いところに張ったロープの上のオートバイに熊が乗って動く等) A 蘇州の寒山寺(月落ち烏鳴き、霜天にみつーーで有名な寺、行くと必ず日本からの観光客がいる寺) 等へ行きました。
☆ また、小学3年の孫は中国の料理(黙って食べてると分かりにくいのですが、鳩、亀、アヒルの舌、蛙、たにし、蛇、ちょう鮫、スッポン、フカヒレ、アワビ等。 日本では高くて、またそんなものを食べられるかと言うことで、滅多に食べられないものを多く) を腹一杯食べていきました。
  
 2006年4月29日    佐藤統夫
拝啓 音なしのままで本日までやってきましたが、そこそこに元気でやっております。
コンサルタントという名の自営業を始めて3年目、これまでの知合いとの連絡口程度の
つもりで開店したところ意外にも内外からの引き合い多く、忙しくなったりしてこの辺は
計算違い。仙台には法外に長生きしている母を見舞うため月一回は行きます。そのう
ち皆さんの集会場所、何て言いましたっけ?に顔を出したいと思います。会いたい人は
いっぱい居るけど清野秀樹君は元気ですか?高橋保夫君はいかがですか?お声を聞
かせてください。
 2006年5月1日    高橋保夫
統夫さん 暫らくです卒業以来ですね。お母さんがお元気でおられるとのことなにより
です。学生の頃お宅にお邪魔したときスイカをご馳走になったのを思い出しました。
そして又、窓の無い雨天体操場で授業をサボり相撲やらバスケットボールに興じた
こと、桜の木に登りさくらんぼを食いシャツを真っ赤に染め先生に小言をもらったこと
など思い起こします。かって一緒に遊んだ半田君に貴兄の消息を聞いたことがありそ
のときは貴兄は海外(アメリカ?)にいってるとのことでした。月一仙台に来ているの
なら是非連絡ください。待っています。又、来月6月10日(土)の仙台一高東京じっか
い芝公園には出席するつもりでいます。尚、清野秀樹君は昨年までは毎月のサロン
の集まりで会ってましたが高齢の両親を抱え奥さんの体調もあまりよろしくないとの
噂で、暫らく会っていません。但し 貴兄の来仙を聞けばあるいは出て来るかもしれま
せん。 では一報を待っています。
 この後佐藤(統)君とは、清野君、高橋(保)君、鹿野の4人で、仙台の彩香で
 40数年ぶりに会い、大いに飲みました。(「飲み会報告」に載せることですが
 こちらに そのときの写真を掲載しておきます。)


  2006.04.26
慎んで、ご冥福を祈ります。(訃報)
荒川義清君  逝去 平成18年 3月 18日
(工藤氏が弔辞)
  2006.0211    十文字いまムカシ   YM  

 太田正好さん、ご無沙汰御免。お元気そうですね。第一回全校ロードレースで「あだやづ、追い越せ!」の声援のおかげで大兄に勝てたMです。あんとき、たしかに沿道の三年生が騒がしかったねえ。貴兄の思い出話であの光景がまざまざと蘇えってきましたよ。「せんだい寸景」では亡き人を偲ぶ趣旨でしたから順位などいっさい触れませんでした。あのシリーズに真正面から反応してくれたのはお二人だけ。で、やはり当事者としてもひとこと触れておきたいこともありまして蛇足ながら一筆。
         □□□□
 距離10Kmのロードレースは校門を出ると成田町から控木(ごうらぎ)、西新丁、南小泉と進み中倉にかかるころは田畑が広がり、蒲ノ町を過ぎ荒浜街道を東進して十文字で折り返すコースだったよね。「全校」とあって二年生以下全員参加、苦手なヒトにはさぞ難儀なことだったでしょう。大会前の体育時間は学校周りをあれは10周だったっけ、練習走があって、塚田宗弘は初めの一周を走ると連坊通りの貸本屋にはいって一服、時々顔だして「あと何周や?」そして最後の一周ふたたび走る、それも先頭切ってゴールするもんだから田中センセ「おいツカダ、汗もかかないんだナ」なんて冷やかしていたっけ。
          □□□□
 さて当日だが、なにせ700人という人数が一斉に駆け出す。芋のこ洗う如き大雑踏となるわけで、小生あれが大嫌い。スタートはみんなが出たあとゆっくり、マイペースというやつだね。南小泉過ぎてようやく長い長い一本の列になるあたりから徐々にスピードを上げ折り返しを目指す。荒浜街道は田んぼ道、七郷堀に沿ってつづく。のどかな風景が走る苦痛を忘れさせてくれたものだ。十文字では三年生が机を出し、折り返すランナーの手に毛筆で墨汁をつけたんだったよなあ。
          □□□□
 復路にかかるあたりでようやく先頭集団に追いつき、やれやれひとやすみ。だれかの後ろにつけて呼吸を整える。あとはのんびり走ってラストに備える。ところがそんな目論見知るよしもない、コース整理に配置された三年生が喧しいこと「ハヤグヌゲー!」「ほだやづにマゲンナ」沿道いたるところ、走れど尽きぬワメキ声「俺はヤ、追いついたばかりで疲れてんだ」言い訳するヒマなんかないわけでして、貴兄がおっしゃる「ずっと後ろで」休んでるつもりがあまりにもうるさく催促される。しかたない、ラスト勝負の予定を繰り上げてのロングスパートとなったようなわけでした。あとあとまで「いらぬ催促で余計な走りを強いられた」小生は被害者意識でいたものです。いやあ、貴兄もまた被害者だったわけだ。ま、三年生が小生に声援送ってくれたのには理由があったのです。ご存知のとおり小生は29年入学組、つまり沿道の連中はかつての「同期生」にエールを送ってくれたんだね。落第生へのアタタカイ励ましというところですか。有難いものです。被害者だなんて言えません。
          □□□□
 十文字の十字路には道しるべ石が立っていた。もちろん大方の生徒は見覚えなんぞないでしょう。いま、このあたりは様相が一変して往時を思わせるものは皆無。大規模な街区整備で住宅街が広がるだけ。大型道路が縦横に走りあの十文路など消えてしまったんだもの。ようやく探し当てた道しるべ石は若林区荒井大場伝の十字路に移されていました。昔の場所から200mほど北になりますか。四面の文字をなぞると「大正九年十二月、七郷村青年団中央分団」「右 七郷小學校?四丁」「左 笹新田を経て荒濱貞山橋?一里七丁」「右 伊在を経てつつじがをか?一里八丁」「左 七郷村役場?四丁」―と読めます。
 この十文字の東隣に長喜城(ちょうきじょう)というところがあって、ここにも住宅が押し寄せて変貌著しいわけですが政宗時代の開田で誕生、繁栄を願って命名されたという由緒ある集落で、ここが陸上部主将大泉栄三の生まれ在所なんだね。旧家を囲む大きい林は居久根(いぐね)と呼ばれ厳しい季節風から家屋を守る役割をするわけで、この林のある光景が実に美しい。季節ごとに楽しむ自転車散策の定番コースでして、ここら走るとつい、十文字や大泉のことが頭をかすめるーという次第。
          □□□□
 太田さんは大会のあと、陸上部に勧誘されたんですか。こちらにはそんな話しはなかったのですが同年秋、第一回県下高校駅伝が開催されハム先生が担当役員とかでイチコーが出ないと俺の顔がタタネーと先生に口説かれ第一区の県庁〜高砂間10Kmを走るはめになりました。陸上部プラス各部から動員の編成だったね。太田さんのことは覚えてないなあ。走ったの?いつものことで走る練習なんかしないで出たんですが、大泉主将が「走りかた教えっから」小生「なにこの、オメなんて俺より遅いっちゃ」悪いこと言ったよなあ。コースも中継点も知らない小生に山田良雄マネージャーが自転車で伴走して教えるーということだった。
 さて走ってみると自転車の山田がかなり後ろにいてコーチ役にならない。スパートのしどころが分からないままに中継点へ。全チームの中よりちっと上でたすきを渡した。山田に文句言ったら「んだって、あんでも精一杯だったんだ」いま思えば自転車の性能も悪かったんだろうね。最後尾から大会役員車で来たハム先生「アンダの姿見えネがら、棄権したがと思ったや」だと。
 9回生の庄司豪さんは東北大会でも活躍した陸上選手だったが、彼が「こいづはぐど1分は記録縮まるぞ」って愛用の競技パンツ貸してくれた。そういえばあのころ皆、木綿のゴワゴワしたトレパンだったものね。小生が走った区間の復路を大泉・野球部浅野の二人で走った、合計タイムは小生より遅かった。
「ミロ、コノ大泉」教えるからやの言葉が引っかかっていたようだ。

          □□□□
 大泉は同志社大に行ったきり一度も顔見てない、住所すら分からない。牧師になったという話だった。どうしているんだろう。若いころの「暴言」を詫びたい気持ちだ。山田マネージャーといえば東野政道とは大の仲良しだったよね。彼の遺族どうしてるの?彼の晩年の様子書いてくれないか。全校ロードレースは10年ほどで秋保温泉までの32Km競歩大会に変わり現在も続いている。道路事情が理由だったようだ。「ホデナシごと」を長々と、いやご免。これも老化ですな。ほんでマズ、お達者で。

 2006.01
慎んで、ご冥福を祈ります。(訃報)
梅津理和君  逝去 平成18年 1月 9日
清水正雍君  逝去 平成17年11月13日
渡邊紘二郎君 逝去 平成17年 9月15日
長らく病気療養中の松沢建夫君(水晶堂)が、平成17年8月13日に逝去されました。
我々は、また一人の友を失いました。慎んで、ご冥福を祈ります。
 最近の事務局へのメール』より転載  2005.08
2005年8月16日 13:13  大立目 弘
  またまた大きな地震が起きましたね。様子を知りたくて電話をかけたのですが込み合っていて通じません。メールも通じるのかわかりませんが、取り敢えずメールでお見舞い申し上げます。
 小生は、昨8月15日に行われた中学のゴルフコンペ(富谷カントリー)に誘われていましたが、このところ連続で仙台に行ったので断りましたが、もし参加していたら多分今日(16日)も仙台に居たことでしょう。
 何はともあれ、じっかい諸兄、貴君ならびにご家族に何事もないことを祈っております。
2005年8月8日 13:32  玉造貞一
暑中お見舞い申し上げます。
暦の上では昨日立秋だったので本来残暑見舞いとなるようですがまだとても残暑の気分にはならない位暑い日が続きますので暑中お見舞いと致しました。
先日対馬や五島列島の人と懇談していたら最近は南洋の色鮮やかな魚が増え従来のような旨い魚は獲れなくなったと嘆いていましたが、地球環境の変化がいたるところに表れているようで心配ですね。銚子のいわしも極端に漁が減ったとのことですが
三陸近辺も魚が獲れなくなっているらしいですね。今後急激に環境問題への関心が高まり政治にもビジネスにも大いに影響を及ぼしてくるような予感がします。
このたび「じっかい通信」NO.10送付いただき有難うございました。じっかいサロンにはなかなか顔出す機会がなくて申し訳ありませんが、このような場所を設けて頂いているだけで心の拠り所となるので感謝しております。また時々送付いただく三原氏の名文も感心しながら興味深く読ませてもらっています。
今年も納涼大会に参加できませんが、当方はお蔭様で元気にやっておりますので、じっかいの皆様によろしくお伝え下さい。盛会を祈っております。
酷暑の候、お体に気を付けてご活躍されますように。
取り敢えずの御礼まで。                
 2005年8月6日 11:32 加藤 寛二
 メルマガNO.10受領しました。お忙しい中ありがとうございました。
機会があったら、「彩香」に立ち寄りたいと思います。猛暑の折、
ご自愛下さい。
2005年7月15日 19:48  加藤 昭
こんにちは。メルマガ送付戴き有難うございます。今回は写真はなかったですね。
 
2005年6月10日 20:43  富澤  信義
 じっかい幹事さんへ
 早いもので、昨年秋の集まりから今は初夏、少々の菜園の植え付けも終わり、成長を心待ちに眺める毎日です。チャンスを見て上仙したいと思っております。
 じっかい情報、いつもありがとうございます。
2005年6月7日 17:45 加藤 昭
 じっかい幹事こんにちは。久しぶりのメルマガ有難うございます。楽しく見させていただきました。それに仙台風景も懐かしく見る事が出来ました。これからも楽しい便りを載せてください。
 最近の事務局へのメール』より転載  2005.06
2005年5月26日 17:46 門馬 章
 じっかい幹事ご苦労様です。メルマガ「じっかい通信」などお送りいただき有難うご  ざいます。今回、メールアドレスを下記のとおり変更しましたので、よろしくお願いし ます。
 
(事務局の註:個人のメールアドレスについては、基本的にこのHPへの掲載を省略 
 します。別途、最新のメルマガの添付書類としてアドレス一覧をお送りします。)
2005年5月16日 9:29  尾崎 宏邦
 じっかい幹事さんへ
 お元気のことと思います。いつも<じっかい>へのお世話と、送ってくださるメッセー ジを嬉しくも感謝して拝見しています。
 さて、当方のアドレス次のように変更しました。(省略)
 小生事、昨年65歳の誕生月末(9月)をもって会社 ( American Bureau of
  Shipping)  を定年退職しましたが、非常勤契約で週2−3日くらいのペースで、  倉敷中心に仕事を継続しています。普段倉敷で過ごし、週末に妻と二人で普段留  守の広島に自宅に帰っています。ちなみに倉敷の住所は下記の通りです。(省略) 広島の自宅の住所は変わりませんが呉市との合併で呉市音戸町となりました。
 お近くへお越しの時は声をかけてください。今後ともよろしく、お元気で。
2005年4月5日 0:03  柿沼 茂
 じっかいの季報いただき、なつかしく拝見しました。当方、時には仙台に帰ることも  あるのですが、まだ会社勤めの身なのでなにかとあわただしく、いつのまにか時間 が過ぎてとんぼ帰りということが多いように思います。うまく予定が合えば”ざくろ”  に顔を出せればとも思っています。
 現在、趣味として今年から70坪の菜園を耕し始めました。今までも20坪くらいはや っていましたが、さらに貸してくれるというので増やしました。今の時期は土つくりと 種まきの時で土曜、日曜は畑で過ごしています。始めたばかりの頃は、鍬をふるっ たり、水を運んだりした翌日、翌々日は体中が痛みましたが、今はもう慣れて痛む  こともなくなりました。売り物になるような大きさのものはできませんが、無農薬で安 心して食べられるのが強みです。虫食いだらけでもキャベツ、にんじん、大根など、 生で食べてみると甘さの違いがよくわかります。子供が独立して夫婦二人では食べ きれないため、半分は人にあげているような気がしますが、喜んでもらえているの  で励みになります。これからも健康第一にがんばりたいと思ってます。よろしく
2005年3月24日 22:51 浅野 拓也
 事務局の皆様には何時も大変お世話になりありがとうございます。
 「じっかい通信」いつも楽しみにしています。
 今朝の日経で永野 為光君の東北放送社長就任を知りました。小生のように退職 して5年になるもの、これから社長になるもの、じっかい生もまさに多様です。

 新アドレス (省略) 
2005年3月16日 9:32 加藤 寛二
 じっかい事務局 様 
 ご無沙汰しております。先日、「じっかい」2005早春号と「じっかいインざくろ」の
 ご案内を受領しました。季報発行の甚大なる手間の上に貴重な同期会員の情報を 得ていることを心から感謝しております。取り急ぎ御礼とメールアドレスをお知らせ  します。(省略)
2005年3月10日 10:56  塩沢 信行
 いつも楽しい会報、ご連絡ありがとうございます。
 今度機会を見て是非「ざくろ」にお邪魔したいと思っています。以前の「ほんじょう」  には何回か中村君や高橋保さんと行ったことがありましたが楽しい雰囲気でした。  ちょうど仙台へ行く機会とマッチングすればよいのですが・・・。
 こんど4月24日小学校(つつじヶ岡小学校)のクラス同窓会を仙台でやるそうです。
 東京から私と皇君と小林良明君らが参加の予定です。総勢15〜16名程度の模様 です。
 小生はここのところ40年ぶり以上でスキーをやってます。今年は志賀高原、白馬な ど年甲斐もなく遊びまわっています。体力の不足はどうしようもありませんが、銀世 界の山並みを見ていると、高校時代の山岳部の頃を思い出し若返った気がしてま  す。とりあえずの近況報告と御礼まで。
2005年2月7日 20:58 望月 良平 (再掲)
 じっかい会員の望月です。ご無沙汰しておりますが、皆様お元気のことと思います。
 いつも「じっかい通信」を懐かしく読ませて頂いております。
 さて、「じっかい通信NO.6」「せんだい寸景 NO.8 恩師の背中」での小牧美夫先生 の記事で先生が亡くなられたとのこと。私事ながら、くしくも日産自動車の開発部門 で数年間、昭和40年代前半、小牧先生と同じ屋根の下で仕事をしておりました。
 小牧先生を偲びつつ当時の思い出をひとつふたつ書いてみました。
 お読みいただければ・・・。まだまだ寒さが続きます。皆様、飲み過ぎには、失礼、  お身体には十分お気をつけ下さい。
2005年1月20日 18:11 太田 正好
 ルマガ、ご苦労様です。小生、皆見ていて、いつかは何か書いて送ろうかと思い ながらなかなかその気になれず、いわば「見る」役割を見事(?)演じてきていまし たが、今日は、書きたくなりました。
 まず、小生ごとき田舎(船岡中学校出身)から通っていたものなど知っている人が  少ないのではないかと思いますが、こちらとしては、同じクラスになった人はもちろ  ん、様々な意味で有名な方々のお名前は存じ上げていますので、「じっかい」のメ  −ルは楽しく拝見させていただいております。
 1年3組、2年は辰つぁんの組、3年は、エトさんの組だった太田正好です。以後よ  ろしく。
 総会には仕事の関係で出られませんでした。申し訳ありません。文学部英文科を出 て、いったん東京の外車デイラ−に勤め(3ヶ月)、戻ってきて教員を続け12年3月 長町中の校長を最後に退職。その後、仙台大学の講師を一年やっているうちに、  町(柴田町)の教育長にという話すがあり、柄にもなく現在までその職にあるという のが主な経歴。
  今日これを書こうと思った最大の理由は、第1回ロ−ドレ−スの写真を見たからで す。あのとき小生は、折り返しからしばらく間で先頭を走っていたのですよ。遙か後 ろにいたのが三原さんです。先頭を走っている小生の耳に入る様々な声のうち、小 生を励ましてくれたのは、一級上の庄司豪さんだけでした。電車で一緒に通ってい たこともあって、小生のは知っている姿を何枚も写真にとっていただきました。一昨 年だったでしょうかお亡くなりになり大変残念に思います。
  庄司先輩の声のほかは、「あいつ誰や」、「三原がんばれ、あだやづおいごせ」な  ど、小生を罵倒せんばかりの声ばかりでした。あのときは、本当に悔しい思いをしま した。結局、最後は、そんな声に負けて(?)三原さんに追い越され、一高のグラン ドに入ったときは、第2位でした。誰にも声をかけられず、なんとも面白くない思いを しましたが、表彰式で、恵美さんから第2位の賞状を頂いたときはさすがに嬉しい気 持ちになりました。 賞状授与の写真も庄司先輩が撮ってくれました。
 その直後からしばらく、陸上部からのお誘いがありましたが、「放送部の名アナウン サ−?」ですから、皆お断りしました。ロ−ドレ−スで2位になったのには理由があ ります。何しろ、毎日船岡、仙台往復で、駅と学校の間を下駄で全力疾走でしたか ら、10キロぐらいは当時は軽いものだったのです。
 しかし、いつの頃からかは同郷の阿部剛君と東口を出て学校にはお昼ごろつくとい う生活もだいぶ長く続けました。学校に行ってみると、誰もいないという苦い思い出も何回かありました。余計なことをして(?)授業を繰り上げていただき、小生が学校にたどり着いたときには、その日の授業は皆終わっているという次第でした。こんな 思い出は小生のみならず結構多くの同期生が経験したことではないでしょうか。
 孫が夕食だと呼びに来たのでこれでやめます。十回仲間のご健勝を祈りつつPCを 終えます。長くなりました。皆さんからの、何らかのお便りが楽しみです。
 『Re: メルマガ「じっかい通信」NO6』より転載 2005.02
 じっかい事務局様
 じっかい会員の望月です。ご無沙汰しておりますが、皆様お元気のことと思います。
 いつも「じっかい通信」を懐かしく読ませて頂いております。さて、「じっかい通信 NO.6」
 「せんだい寸景NO.8 恩師の背中」での小牧美夫先生 の記事で先生が亡くなられたと
 のこと。 私事ながら、くしくも日産自動車の開発部門で数年間、昭和40年代前半、小
 牧先生と同じ屋根の下で仕事をしておりました。小牧先生を偲びつつ当時の思い出を
 ひと つふたつ書いてみました。 お読みいただければ・・・。
 まだまだ寒さが続きます。皆様、飲み過ぎには、失礼、お身体には十分お気をつけ下さ
 い。   (川崎市在住)

          小牧美夫先生を偲んで

 物理の授業はさておき、小牧先生とは校外での思い出ばかりです。当時、仙山線の八ツ森スキー場に、日曜日のたびに良く出かけていました。先生もご常連で首から愛用のカメラ(たぶんライカだったと思いますが)をぶら下げて「君、スキーはスピードじゃないよ」とばかりマイペースで悠々と滑っておられました。その延長線上に晩年の中央アルプス北麓の生活があったのでしょう。  一高を卒業して数年経ったある日、就職先の職場でバッタリ顔をあわせてしまいました。昭和40年頃、私は横浜の鶴見にある日産自動車の設計部で初代サニークーペの車体構造を設計していました。ある日廊下で小牧先生とバッタリ顔をあわせお互いびっくり。「君はここにいたのか。わたしはね、今度日産に入り、振動や耐熱の実験をやっているんだよ。面白いものがあるから実験室においで」と言われてノコノコとついてゆきました。先生は、自動車のエンジンルーム内の空気の流れを解析するためのアルミの粉を浮かべた回流水槽を本当に楽しそうにいつまでも説明してくれました。その雰囲気はいかにも小牧先生らしく思えましたし、後年の「キャンピングカーでの三度の日本一周」とか「セスナの操縦練習をしようと思う」を聞いても違和感がありません。
 先生と一緒に鶴見にいた頃、日産の国内営業担当取締役(のちに副社長)は先生のお兄さんでした。仕事の上で何回かお会いしましたがそっくりでした。
 サニークーペ発売直後のクレー対策確認のために設計室を訪れた取締役から「君、これなら大丈夫かネ ? 」と直接聞かれ、「絶対大丈夫です」と 胸をはって答えたことは、若さにまかせた怖いもの知らずとはいえ、冷や汗ものの思い出です。先生の業務と私のプロジェクトとは直接の関係がなかったものの、何回か実験室にお邪魔しては色々と教えて頂きました。その後、先生は追浜工場の検査部に異動された後、日産を離れ、筑波の日本自動車研究所に行かれました。一時期は日産の販売会社におられたこともあったとか。私の方も、鶴見設計部から追浜、栃木、厚木、銀座の本社と転々と勤務地が変わりお付き合いが途絶えて残念に思います。
 マイペースで人生を生きた先生は、やはり先生のファイナルプラン通りに平成106月、長崎鼻上空から南下するサシバの群れを追うように愛機とともに消息を絶った。丁度「星の王子さま」の作者 サンテグジユペリが、19447月第二次世界大戦欧州戦線でコルシカ島の基地から単機フランス本土上空の偵察飛行に出撃し消息を絶った、と同じように。とは書き過ぎでしょうか。
 小牧美夫先生のご冥福をお祈り申し上げます。

   『Re: メルマガ「じっかい通信」NO6』 より転載   2005.1.23
「じっかい通信」拝受致しました。毎度のご尽力に心から感謝致しております。
更新したホームページも拝見しましたが、見やすく楽しい構成になっており素晴らしいものです。
結構時間に余裕のある人も増えたので、これを機会に多くの人が投稿してホームページを盛り上げるようにしたいものですね。小生も心しておきます。
寒さ厳しい折お体に気をつけてご活躍下さい

                     玉造 貞一 (千葉市在住・技術士事務所)
 こんにちは。メルマガを送っていただき有難う御座います。
仙台から離れるとなかなか情報に疎くなるのですが、宇野校長の知られざるエピソードを興味深く読ませていただきました。
今後も仙台の近況を含めてメルマガを送ってください。

                    加藤 昭 (神奈川県綾瀬市在住・大学講師) 
著書紹介

 宇野量介先生著「新犬棒録」(じっかい出版会編) 5000円(在庫極小)
筆者80歳記念の著書。母校創立100周年の年の刊行。

大槻文彦没後六十年に思う・神林星(wナシ)斎の生涯・松井秀二をめぐる人々を収む。(230項 紺紬地装丁版)

Date:2001/01/02
笹森 紀男
仙台一高「じっかい」事務局の皆さま
日頃の「じっかい」運営ご苦労様です。今、ネットサ−フィン中「じっかい」のHPにたどり着き懐かしく拝見させていただきました。
小生、昭和53年より角田市で整形外科を開業し今年で早21年になります。
「じっかい」の方はご無沙汰していますが、武澤、沼倉、柘植君とは弘前大学医学部で同級でしたので毎年のように会っています。
皆さんの会運営のご苦労も省みず会費滞納となっていましたので近日中に送金させていただきます。
暇にまかせ8年ほど前よりパソコンをいじっておりますが、メイル・アドレスも知らせろとのことですので、以下に記します。今後ともよろしくお願いします。                                       
URL  http://www3.ocn.ne.jp/~drsa/
Date:2001/01/02
岩渕  上
昨日「じっかい」を受領、ホームページを開設していることを初めて知りました。同期生のHPなどそういっぱいある訳ではないでしょう。大変なエネルギーと敬服している次第です。
宇野量介校長(やはり我らが「校長」ですよね)の逝去の記事を見ながら、45年前を思い出しております。小生すっかり東京に落ち着いております。興銀から日東紡に移って7年余、不況下それなりに忙しく過ごしています。
実家は仙台にありますが、ひとり暮らしの老母も体調を崩し札幌の妹のところに一時的に行きましたので、今は帰仙することもありません。今回は時間がないので、これまで、またMailします。以上
Date:2001/01/02
阿部 陽一
じっかい事務局御中
埼玉在住の阿部陽一です。
このようなホームページがあることを始めて知りました。
以前の「じっかい」にも出ていたのかもしれませんが、気が付きませんでした。申し訳ありません。とりあえず、ご依頼の名簿資料をお送りします。以前のものと変わってはおりませんが、項目が増えているようなので改めてお送りいたします。
近況
 今年3月をもって、大学を定年となりました。
現在、嘱託として引き続き勤務しております。給与が嘱託給与となり多少減ったほかは、持ち時間その他まったく変わりません。
 家族一同元気でやっております。子供は二人とも社会人ですが、結婚のケの字も無し。
Date:1999/09/08
鹿野 敏秀
じっかいメンバーのEメール・アドレス(私的なアドレスを、お知らせください。だんだんと充実していきたいと思ってます)

メールはこちらへ、JHP事務局・鹿野宛