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最近の事務局へのメール』より転載 2008.03.03 2008年01月13日 高橋 尚志 新年あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。
(2月3日鹿野よりの返信)4〜5年前から「戸塚茶畑会」として、毎月第3水曜日に一高卒業者(6回〜12回卒 12名程)で飲み会を行っています。新たに、10回生を何人か誘いたいと思います。そちらに進藤舜一郎さんのメールアドレスが登録されておりましたら教えてください。戸塚茶畑会の件、開催の状況、10回メンバー氏名等後日あらためて、ご報告します。とりあえず。 お久しぶりです。1月の9〜31日まで病院に入っていまして、返事が遅れてすみません。退院してみたら、下の息子が留守中にカミサンのために何かやろうとして、逆に俺のパソコンをぶっ壊してしまったようです。今日、馴染みのパソコンアドバイザーと相談して、新規購入を発注したところです。このメールは、予備のノートパソコンから送っていますが、日常のデーターは、壊れたほうのパソコンに入っています。従って進藤君のアドレスは、壊れたデータを復活しないと、お送りできませんのでお許しください。じっかいメンバーのアドレスは、当方に80名ほど登録になっているので、併せてお知らせします。なお、入院中のため、メルマガが出せなかったのですが、粥川君が1月22日頃に亡くなりました。情報は、高橋保雄君がわかっています。
戸塚茶畑会は、いずれ我がパソコンが復活次第、メルマガで皆さんにお知らせします。 2007年11月13日 高橋 保雄 鹿野さん、東京の出先にまで電話して失礼しました。実は私、明日14日は終日留守になるのでメールします。先ほど、同期の御代田君より来る11月15日(木)の件について電話にて問い合わせがありました。従い、当日(旧日の出ビル5F)デユッカにて18時より仙台支部総会あり。その後、サロンどじっかい(彩香)の予定である旨話をしておきました。一応電話では彼はどちらにも出席したいようでした。
尚、私は残念ながら当日は都合悪く欠席することは、伝えてあります。
(11月14日鹿野よりの返信) なんども、電話を頂いてすみません。横浜で、小樽の同期会(卒業45年)の真っ最中でした。
御代田さんの件、わかりました。
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2008.03.03 |
慎んで、ご冥福を祈ります。(訃報) 粥川 明彦 君 逝去 平成20年1月 22日 |
最近の事務局へのメール』より転載 2007.10.27 2007年10月11日 高橋 武雄 毎度、メルマガ配信ご苦労様です。有難うございます。 石黒さんのこと、とても残念です。彼とは宮城野中学校三年のとき、進藤舜一郎さんとともに、同じクラスでした。今年は恩師の傘寿にもあたるので、10月にクラス会を計画し、案内状を発送したばかりでしたが、その日は奇しくも亡くなられた日だったのです。それだけに想いも強く、会を代表し彼の中学時代の思い出も入れ、お悔やみのお便りをいたしました。何かと大変な折にも拘らず、わざわざ奥様から”覚悟はしていたがぽっかりと穴が空いたようです”との丁寧な礼状をいただきました。そして先日開かれたクラス会で黙祷の後、皆に披露いたしました。 ところで、藤村 ”草枕” 詩碑里帰りのニュースを掲載していただき有難うございました。本件にも関連した近況報告です。小生、大学卒業後宮城県庁に勤めこれまでずっと仙台に住み、自然の成り行きとして今後もここで終えるつもりでした。が、仕事を離れこの齢になるとなかなか自分だけの想いや意思だけでは事は済まないもの。本意ではないが今後のことも考え、老いては妻や子の意見に従うこととし、長男の職場に近く、次男とも行き来し易い宇都宮市に転居することにしました。10月下旬を目標に引越を予定しており、今てんやわんやです。幸い、じっかいの亀掛川良宣、野口忠男の大兄も居られる由、心強いものがあります。 3年前仕事を辞め、とにかくのんびりしたいと思っていた処、小生が生まれ育った宮城野の言霊に呼ばれたのか、自分の父や榴ヶ岡の図書館時代の縁もあり、仙台東ロータリークラブから頼まれ、じっかいホームページでも紹介して頂いた”詩歌の里 こころの宿 宮城野”なる冊子の企画編集、執筆をしました。今回はその時の縁もあって、青葉城天主台の奥であまり人目に触れることも少なかった島崎藤村の「草枕」の詩碑を、藤村が下宿していた名掛丁のゆかりの場=仙台駅東口、藤村広場=に移転しようとの委員会メンバーの一人に加わりました。そして、”心の宿の宮城野よ 乱れて熱きわが身には…… ”の碑の説明文の起草や記念パンフの編集委員長を仰せつかり、9月2日無事、式典、イベントを終えました。 一高時代、国語の時間に感激した ”遂に新しき詩歌の時は来たりぬ。そは美しき曙の ……”の発端の地が宮城野、仙台の地であることをこの齢になってあらためて再認識しました。そして地元の人にも、もっと誇りにして欲しいと思います。小生にとっては仙台最後の思い出深いボランテア活動になりました。何かの折、藤村広場の碑やその説明板を見てやって下さい。 転居先:・TEL・メールアドレス=略(必要な方は鹿野まで) 2007年09月30日 佐藤 千秋 千葉じっかい楽しかったですね。その後開かれた、銚子での会合の報告を送ります。 日時; 平成19年8月31日、9月1日 参加者; 遠藤将一、田口晴夫、玉造貞一、佐藤千昭 趣旨; 遠藤君が千葉科学大学に来て3年も過ぎ、1年後にはもう京都に戻るので今のうち銚子及び彼の大学の見学とお互いの息災を祝うこと。また、玉造君が急性膵炎を無事切り抜けた快気祝い。 宿舎;犬吠埼にある老舗温泉旅館「ぎょうけい館」、犬吠埼灯台を間近に見る海岸沿いの景色の良い落ち着いたところ。食事は銚子名物の魚料理。全て遠藤君の手配。 夜; ひたすら飲み話合い、一高時代を思い出す雰囲気でした。特に遠藤君は元気で深夜3時頃まで田口君と話込んでいました。佐藤と玉造君は傍で寝ていました。 翌朝;遠藤君のアレンジで、犬吠埼灯台、ヒゲタ醤油工場、千葉科学大学及び遠藤教授室近くの名洗い港とマリーナ、玉造君の要望で風力発電施設、等を見てから銚子港の観光センターで昼食を取り解散。田口、玉造、佐藤の3人は車で帰路につく。 帰路;玉造君の立派な自宅に寄ってコーヒーを頂き一休みしたが、 実は彼が約1年間苦労して組み立てた賢いロボットを見てもらうことが目的と判明した。パソコンからもリモコンで操作できる優れもので、さすが技術士の資格をとる人の趣味は高級なものと感心。興味ある人は直接メールで連絡して下さい。 写真は田口君から送られてきたものです。 また、玉造君自慢のロボットは動画も見れるようなっていますが省略します。(ご希望の方にはURLとパスワードをお送りします) (追伸2007.9.30) 10/15の仙台「じっかい」が賑やかになるよう期待しています。 2007年09月22日 玉造 貞一 連絡有難うございます。 今回は都合により欠席させていただきますが、来年5月の秋保での総会を楽しみにしています。当方は急性膵炎の入院で衰えた体力もほぼ以前のレベルまで快復し、昨日も堀江君と一緒にゴルフを楽しんできたところです。皆様によろしくお伝え下さい。 |
2007.10.27 |
慎んで、ご冥福を祈ります。(訃報) 阿部 敏彦 君 逝去 平成19年6月 26日 角田 幸一 君 逝去 平成17年2月 11日 高平 力 君 逝去 平成12年12月 10日 |
最近の事務局へのメール』より転載 2007.09.19 今回は、先にお知らせした石黒君の訃報に寄せられたメールを転載します。 2007年08月19日 福留 靖浩 暑い暑い日々が続いています。日頃より「じっ会」の連絡幹事役 ご苦労様です。 今回の訃報、残念なことです。まだ若かったのに。 彼の早稲田には、慶早6連戦でやられてしまいました。 社会人になって、後楽園での都市対抗野球では、彼は日本製鉄 八幡の選手として、こちらは日本石油の応援リーダーとしてダッグ アウト上から手を振り合った仲です。後日、小生、日石の野球部長 として東京ドーム通いをした頃は、八幡の顔は既に無く、石黒君に 会うことは出来ませんでした。 一高在学中の練習で頭にボールを受け、東北大医学部で手術を 受け心配をしましたが、無事快復、頑健な体で野球一筋だった彼に こんなに早い訃報とは、人の世の無常を知らされるとともに誠に残 念です。静かにご冥福を祈るばかりです。 近年の異常気象・異常世相の中で、お互い健康に留意して、熟年を エンジョイしていきたいものです。ご自愛専一に。 2007年08月19日 樋口 龍雄 毎日新聞の記事から改めて石黒君の活躍ぶりが わかりました。 生前もっと彼の人生、それと人生観を聞いておけばよかった の思いです。結局人生何だったのか、彼なら何か思うところが あったに違いありません。 ご苦労様でした。ではまた。 2007年08月19日 玉造 貞一 お手数深謝。 あの石黒君が亡くなられた由にて驚いています。 6年くらい前に守屋君と八幡に行き石黒君と一緒に食事したときには 元気な様子でしたが早すぎますね。 甲子園野球真っ盛りですが東北大会で彼が代打で出るたびに長打を打ち 大活躍したシーンを思い出します。 心からご冥福をお祈りする次第です。 2007年09月03日 岡崎 圭一 前略 酷暑もやっと治まり凌ぎ易くなりました。 皆様ご健勝のことと拝察申し上げます。 この度小生のメールアドレスを次のものに変更いたしましたので お知らせいたします。 草々(メールアドレス略) |
2007.08.18 |
慎んで、ご冥福を祈ります。(訃報) 石黒 行彦君 逝去 平成19年8月 14日 (以下 2007.8.15付け 毎日新聞より要約) 石黒行彦さん 67歳(元八幡製鉄野球部監督)14日肝硬変のため逝去。 葬儀は16日近親者のみで行われた。 仙台一高から早大を経て八幡製鉄(後に新日鉄八幡)入社、早大時代は外野 手で中軸打者として1960年秋の早慶戦6連覇で活躍、ベストナインにも選ばれた。 八幡製鉄では63〜65年に3年連続都市対抗出場、65年には四強入し、大会優秀選手 (外野手)に選出された。翌66年から監督として5年連続で都市対抗にチームを導き、 68年 にはベスト4に進出した。 |
最近の事務局へのメール』より転載 2007.04.12 今回は、一高15回生の後輩から、メールが届いているので紹介します。 2007年04月10日 但木 壮夫 “じっかい”のHPには、一高生がどこかで置き忘れてきた大切なものを、そこかしこに 発見することがあるので、何度も繰り返して開いてしまいます。 小生は、特に、“せんだい寸景”のファンですが、5才も年のはなれた先輩の学校時代の 体験が僅かではありますが、自分の学校時代の想い出と重なり大変親しみを感じており ます。 今後も、後輩たちへのメッセージとして、“一中一高の文化はこうだ!”というような内容 豊かなHPになりますことを期待してやみません。(高15生より) |
2007.04.12 |
慎んで、ご冥福を祈ります。(訃報) 北村 潮 先生 逝去 平成19年2月 26日 (先に、メールでお知らせしましたが、このホームページでも改めて、 皆様にお知らせします。じっかいでは、お花と弔電をささげております。 なお、通夜、ご葬儀には10数名のじっかい生が、参列させて頂きました。) |
最近の事務局へのメール』より転載 2007.02.14 今回は、年賀状から2通ほど転載します。 2007年01月01日 野口 忠男 久しぶりで国内で新年を迎えました。 新年を迎えることは、目出度くもあり目出度くも なしですね。 「じっかい」の皆様には永らくご無沙汰をしています。 「じっかい」の会合にはあまり出席していませんが、多忙と言うことも理由の一つでした が、もう一つ高校時代の無思慮で愚かだった自分を思い出す事にも抵抗があったからで す。2年生で初めての執行委員長になったことも懐かしくもあり恥ずかしくもある思い出 です。50年も経つと殆ど忘れていることも多いのですが。この年齢になればあまり関係 の無いことかもしれません。この年齢と言いましたが、我々男性はあと10年が精々です。 せめて残りの10年を豪快に過ごしたいと密かに考えています。とは言ってもまだ現役で 仕事をしていますし5つ6つの役職もついていますので、これらから全て開放されて自分 の思うままの生活が夢なのです。体力はままだと思いますが、意欲の低下に気づくと年 だなあと感じます。では皆様のご健康ご活躍を祈念します。 2007年01月01日 鹿野 敏秀 この師走は、持病の心の臓の不全で半月ほど病院で過ごした。その窓から、 築後半世紀の鉄筋コンクリートの旧棟が取り壊される様を眺め続けた。 甲虫が木の葉を喰い尽すように、巨大な機械が壁面を噛み崩す作業はまさに 壮観であった。形あるものは崩れる。ギリシャ・ローマの遺跡も三内丸山も 人間が数千年をかけて造っては壊し続けてきた営みの残照を留めている。 地球に負荷をかけながら廻り続ける、人類の歩みの業を見るようでもある。 けれど人間は同じ場所を廻るだけではなく、フランスの人権宣言や日本の 憲法九条のように、社会の未来を啓く素晴しい前進も成し遂げてきた。 わたし個体としての「命」は何年かずつの生を刻んで行くのだろうが、 教育基本法の改悪のように歴史の歯車を1世紀も巻戻すような、負の遺産を 次代に引き継ぐことは、してはならない。 |
最近の事務局へのメール』より転載 2006.12.29 2006年10月14日 佐藤 幸則 いつも メルマガ「じっかい通信」を配信いただき、ありがとうございます。 2ヶ月前に仙台から埼玉県深谷市に転居しました。 私事で恐縮ですが、60年前に分かれた実母が深谷で一人暮らしをしていて、86歳になり健康状態もあまりよくありません。以前から田舎に住んで晴耕雨読の生活も悪くないと思っていたものですから、仙台と深谷とを行き来するよりは、この際深谷に移り住もうと決心し、細君も田舎で花やハーブを栽培しながら、染色や竹細工などの手工芸をしたいからと、深谷移住に賛成してくれました。小学生時以来住み慣れた仙台を去ることには寂しい想いがありましたが、思い切って転居しました。 東北大学創立百周年を記念する「東北大学百年史」編纂が7年前からはじめられ、私は所属部局(科学計測研究所)を代表してこの編纂事業に携わってきました。定年退官後もその仕事が続いていましたが、科研創立以来の沿革と研究活動を記述する原稿の最終稿を今年の6月に漸く書き終わりました。また科学技術振興機構の援助を得て定年退官後も引き続いて行っていたプロジェクト研究「量子波束を光の位相で制御する研究」も今年の4月に終了しました。仙台での役割も段落がついたと考えたのが、この際仙台を離れることにした理由です。 高崎線深谷駅から寄居・長瀞方面への県道を7キロ程度、関越自動車道の花園インターからは車で15分程度のところ、周囲は野菜畑や植樹園が広がる田舎です。母の家と200坪の空き地を隔てた隣に中古家付きの土地を購入しました。遠くに秩父山系が見えます。 こちらに来て生活スタイルが一変しました。家の内外の整備に連日汗を流しています。荒れた庭に大きな杏の木が6本あり、背丈よりも高い雑草が茂っていますが、今はこれを整備してガーデニングを楽しもうと、連日百姓や土方のような仕事でくたびれています。アメリカシロヒトリなどの害虫にも悩まされています。書斎の書棚を自作しながら、これまでの研究のファイルや講義ノートなどを眺めつつ、これらを整備しようかなとも思いますが、現在は庭造りが先行している状況です。私の性格から、過去に学んだことを整理するよりも、未知の分野の勉強をしたいという好奇心が強く、量子計算と量子エンタングメント、量子論と相対論との統一理論の試み、紐理論などを趣味的に勉強して、少しでも理解を深めることを楽しみたいと思っています。 文部科学省管轄のある学術財団の理事長、理化学研究所の研究嘱託、日本化学会の論文審査委員などボランティアの仕事はあまり負担にならない程度で続けています。今は家の内外を整えることに没頭して、外との交流は当面は控えたいという気持ちですが、庭の整備が一段落したら、皆さんにもついでの折には是非お立ち寄り頂きたいと思います。 新住所・電話・メールアドレス(略) 2006年12月25日 柿沼 茂 今回フレッツひかりに変更したのでアドレスがつぎのように変ります。よろしくお願いします。新しいアドレス(略) 2006年11月13日 阿部 光衛 プロヴァイダをかえました。(略) 2006年10月 7日 加藤 寛二 メルマガ「じっかい通信」NO.19号、ありがとうございました。 元気で忙しく働いています。又会える日まで。 |
2006.10.05 |
慎んで、ご冥福を祈ります。(訃報) 今野紀男君 逝去 平成17年10月 7日 (高橋武雄君から下記のようなお知らせがありました) |
2006年9月20日 高橋武雄 「メルマガNO.18」ありがとうございす。メールをもらって気づきましたが、情報があります。 今野紀男君の訃報です。彼とは一高、福島大で一緒で、日立家庭電器販売(株)へ入り 東京勤務となったことまではおぼえていますが、その後直接お話したことはありませんで した。また福島大の同期会などでもお会いすることはありませんでしたが、盛岡市に移ら れていることは聞いておりました。最近、盛岡にいる大学時代の友人から「彼が亡くなっ たことを死亡広告で見た」と、知らされました。そこで前に「じっかい」でもらった同期生 名簿で電話し、奥様から直接伺いました。 昨年(平成17年)10月7日、胃癌だそうです。癌と診断されて6ケ月とのこと。奥さんから 「皆様に世話になったこと」に、感謝の言伝がありました。 蛇足ながら、前述の盛岡の友人から、奥さんはNHKの民謡のど自慢で日本一になった 方だと聞いています。 |
最近の事務局へのメール』より転載 2006.10.05 2006年9月23日 亀 義和 おひさしぶりです、覚えているかな? じっかいのホームページ、楽しく読ませてもらってます。 先日の東京じっかいには出席できなくて残念でした。進藤君のすばらしいレポートを読み 感激した次第です。 仙台にはあまり帰ることもありませんが、先月は武田儀郎の墓参りをしてきました。 三原レポートにもあるように、花、酒が供えてあり、人柄が偲ばれました。 三原君は、メールでは近況を伝え合ってます。私も、準会員か除名会員になりそうなほど 出席率のよくない者ですが、四十数年の年月を経て、やっと青春時代を懐かしむ心境に なってきたと言えそうです。次回には出席するようにします。 じっかいホームページも、皆さんの尽力で続けられているそうでご苦労様です。 これからも、楽しい記事を期待してます。 |
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最近の事務局へのメール』より転載 2006.06.21 2006年5月15日 村上悌二郎 ご無沙汰しております。 メルマガ通信毎回懐かしく、楽しく拝読しております。幹事さんには本当にありがとうござ います。年に2〜3回は仙台に行く機会があるので(家人も仙台出身故)、一番町の例の 店の方にも顔をだしてみたいと思っております。 メールアドレスを変更しましたので、ご連絡致します。(略) よろしくお願いします。 |
2006年5月4日 赤沼俊次 ご苦労様です。 いつも元気でメルマガ楽しく読まさせてもらっています。 ただ、最近知っている人の訃報で気が滅入ることが多くなり、残念に思います。 京都の田舎に住み着いてから、もう40数年になりましたが、仙台にもいつしか足が遠のいています。 兄弟とか親戚が未だおりますので、行く機会があれば、「じゅっかい」の集まりにも出席したいとおもいます。 その時はよろしくお願い致します。 追伸:私の近況写真2枚添付。 先月、孫の春休みにあわせて始めて家内と娘と孫と一緒に中国を観光した時のものです。子供に合わせて、個人的にスケジュールを組んだので、四日間で @ 中国の南京にある動物園 (日本の動物園と違い、ちょっとしたサーカスなみの動物のショーがあるー虎が15匹くらい出てきて高いところを歩いたり、熊が10匹ほど逆立ちして通ったり、高いところに張ったロープの上のオートバイに熊が乗って動く等) A 蘇州の寒山寺(月落ち烏鳴き、霜天にみつーーで有名な寺、行くと必ず日本からの観光客がいる寺) 等へ行きました。 ☆ また、小学3年の孫は中国の料理(黙って食べてると分かりにくいのですが、鳩、亀、アヒルの舌、蛙、たにし、蛇、ちょう鮫、スッポン、フカヒレ、アワビ等。 日本では高くて、またそんなものを食べられるかと言うことで、滅多に食べられないものを多く) を腹一杯食べていきました。 |
2006年4月29日
佐藤統夫 拝啓 音なしのままで本日までやってきましたが、そこそこに元気でやっております。 コンサルタントという名の自営業を始めて3年目、これまでの知合いとの連絡口程度の つもりで開店したところ意外にも内外からの引き合い多く、忙しくなったりしてこの辺は 計算違い。仙台には法外に長生きしている母を見舞うため月一回は行きます。そのう ち皆さんの集会場所、何て言いましたっけ?に顔を出したいと思います。会いたい人は いっぱい居るけど清野秀樹君は元気ですか?高橋保夫君はいかがですか?お声を聞 かせてください。 2006年5月1日 高橋保夫 統夫さん 暫らくです卒業以来ですね。お母さんがお元気でおられるとのことなにより です。学生の頃お宅にお邪魔したときスイカをご馳走になったのを思い出しました。 そして又、窓の無い雨天体操場で授業をサボり相撲やらバスケットボールに興じた こと、桜の木に登りさくらんぼを食いシャツを真っ赤に染め先生に小言をもらったこと など思い起こします。かって一緒に遊んだ半田君に貴兄の消息を聞いたことがありそ のときは貴兄は海外(アメリカ?)にいってるとのことでした。月一仙台に来ているの なら是非連絡ください。待っています。又、来月6月10日(土)の仙台一高東京じっか い芝公園には出席するつもりでいます。尚、清野秀樹君は昨年までは毎月のサロン の集まりで会ってましたが高齢の両親を抱え奥さんの体調もあまりよろしくないとの 噂で、暫らく会っていません。但し 貴兄の来仙を聞けばあるいは出て来るかもしれま せん。 では一報を待っています。 この後佐藤(統)君とは、清野君、高橋(保)君、鹿野の4人で、仙台の彩香で 40数年ぶりに会い、大いに飲みました。(「飲み会報告」に載せることですが こちらに そのときの写真を掲載しておきます。) |
2006.04.26 |
慎んで、ご冥福を祈ります。(訃報) 荒川義清君 逝去 平成18年 3月 18日 (工藤氏が弔辞) |
2006.0211 十文字いまムカシ Y・M |
太田正好さん、ご無沙汰御免。お元気そうですね。第一回全校ロードレースで「あだやづ、追い越せ!」の声援のおかげで大兄に勝てたMです。あんとき、たしかに沿道の三年生が騒がしかったねえ。貴兄の思い出話であの光景がまざまざと蘇えってきましたよ。「せんだい寸景」では亡き人を偲ぶ趣旨でしたから順位などいっさい触れませんでした。あのシリーズに真正面から反応してくれたのはお二人だけ。で、やはり当事者としてもひとこと触れておきたいこともありまして蛇足ながら一筆。 |
2006.01 |
慎んで、ご冥福を祈ります。(訃報) 梅津理和君 逝去 平成18年 1月 9日 清水正雍君 逝去 平成17年11月13日 渡邊紘二郎君 逝去 平成17年 9月15日 |
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最近の事務局へのメール』より転載 2005.06
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『Re: メルマガ「じっかい通信」NO6』より転載 2005.02 じっかい事務局様 じっかい会員の望月です。ご無沙汰しておりますが、皆様お元気のことと思います。 いつも「じっかい通信」を懐かしく読ませて頂いております。さて、「じっかい通信 NO.6」 「せんだい寸景NO.8 恩師の背中」での小牧美夫先生 の記事で先生が亡くなられたと のこと。 私事ながら、くしくも日産自動車の開発部門で数年間、昭和40年代前半、小 牧先生と同じ屋根の下で仕事をしておりました。小牧先生を偲びつつ当時の思い出を ひと つふたつ書いてみました。 お読みいただければ・・・。 まだまだ寒さが続きます。皆様、飲み過ぎには、失礼、お身体には十分お気をつけ下さ い。 (川崎市在住)
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