飲む者に飲まれる者、そして飲まない者。  
 宴も中盤にさしかかると、参加者は大抵この3つに分類される。
 酒の席で我を忘れ、失態を演ずる酔っ払いが多数を占める中幸いは最後の「飲まない」に該当していた。

 は酒が苦手である。
 しかし全く飲めないわけでなく、日本にいた頃は未成年ながら、何度かアルコール類は口にしている。
 今時お酒は二十歳になってから、という国のお約束事を守り通している者もそういまい。
 なので、は全くの下戸というわけでもないのだが、こちらの酒は現代のカクテルのようにジュース感覚で飲めるような気軽な代物ではない。
 独特のクセがあり、一口舐めただけで胃が熱くなるほど度数も高い。
 小娘がたしなむにはいささかキツイ飲み物なのだ。  
 その為はこういった席では、毎度漂う酒の匂いだけで酔いそうになりつつただひたすら点心などを食べるだけである。
 意外と紳士な将が多い魏では、無理やり飲めない酒を勧められることは少ない。
 いい塩梅にできあがってしまった君主と、樽でラッパ飲みを始めた泥酔女王様に近付かなければ、何とか無事にやり過ごすことが出来るのだ。

 用意された豪華な食事も綺麗に食べつくされた宴席で(ほとんど許チョだが)は食後のお茶を飲みほし、そっと席を立った。
 そろそろ、宴は第3段階に入る頃である。

 第一段階は、始まったばかりということもあり、やや雰囲気に堅さが残った状態。
 砕けた食事会といった感じのほろ酔いムード。
 互いに戦での手柄を称えあったりして、まともな大人の会話が成立している。
 第二段階、社交辞令の合言葉のような「無礼講」が、本気で実行され始める。
 上司にタメ口、あまつさえ空手チョップ等の暴挙の嵐。
 目の焦点が合っておらず、もはや理性も風前の灯火である。
 そしていよいよ第三段階。
 理性どころか人間としての尊厳も危ぶまれる。
 茶器などが飛び交ったり、いきなり豪快な男泣きが始まったり、美しいおみ足から殺人キックが繰り出されたりするのもこの段階から。
 とてもシラフで居られる場ではない。  
 巻き込まれる前に、こっそりフェードアウトするのが一番である。
     
 いつもは、身の危険を大いに感じるこの第三段階手前でトンズラしているためこれ以上の宴の惨状を知らない(別に知りたくない)
 甄姫の旦那は翌日必ず病院送り。
 曹仁など心に傷を負って鬱状態だ。
 実は第三段階で終わりではなく、まだまだ序の口なのである。
 伝説の第五段階では付近の住民に避難勧告が発令されるという。
 誰が発令してるんだ、という疑問はまあ置いといて。

 悲劇宴は続くよどこまでも。

 さて、大いに盛り上がっている会場を後にし、は薄暗い廊下を歩いていた。
 正面の扉から堂々と出入りしては、誰か彼かに見つかって宴へと強制送還される恐れがあるので裏の通用口からコソコソと宴会場を抜け出し、裏庭から部屋へ戻るつもりである。
 多少遠回りにはなるが、酔っ払いから後ろ回し蹴りを食らわされることを考えれば100倍マシだ。

 度を越えて賑やかだった酒の場とはうって変わり、夜の庭は不気味なほど静まり返っている。
 太陽の下で咲き誇っていた花々も、今は闇へと紛れて鮮やかな姿を見ることはできない。
 ポツリポツリ置かれている足元灯とわずかな月の光を頼りに、石畳の上を進んでゆくとちょうど庭の真ん中、休憩用に用いられる亭のあたりに何か黒い塊が見えた。
 暗闇の中、目をこらしてよく見てみると塊の正体は人のようだ。
 冷たい石の床の上、大の字になって寝転んでいる。
 どこの誰かとは忍び足でその者の足元まで近付いてみた。

 「・・うっ」

 小さいながらも、思わずは声を漏らしてしまった。  
 だらしなく寝転んでいたその人物が、彼女の予想の大幅範囲外の人間だった為である。

 「し、司馬懿様・・」

 まさかこの人が、こんなところで適当にひっくり返っているとは。
 しかも大の字。
 魏軍中、最も大の字で寝ッ転がるという行為が似合わない男である(次点張コウ)
 そういえば彼の宴での席は、勿体無くもこの国一番のVIPの隣であった。
 要するに曹操の横。
 これはもう罰ゲーム並みに苦しいポジションである。
 殿と席をご一緒できるなどありがたいことこの上ない、などと素直に感じられればいいのだが
 なにしろ曹操は酔うとしつこい。
 水のように酒を飲むのはいいのだが、それ以上に人へ勧めるのだ。
 相手の杯がわずかでも空けば、すぐさま酒をなみなみと注ぐ。
 というか、空かなくても注ぐ。
 酒が減ってようが減ってなかろうが、かまわず注ぐ。(溢れても知らん顔)
 押し売りわんこそば状態である。
 通常ならば「やめんかこのクソジジイ」と右フックでもかましてやるところだが、相手は腐っても曹操様なので流石にそうもいかない。
 そんな調子で仕方なく、ガンガンに飲まされてしまうのである。

 酒に強いのんべえならばそう問題もなかろうが、いかんせん司馬懿は弱かった。
 飲めば飲むほど、青白くなる。
 耳の先まで真っ赤な曹操とプール上がりの小学生かと思うほど唇まで青い司馬懿。
 赤と青の見事なコントラストが、場の恐ろしさを物語っていたという。
  
 月明かりの下、死体のように横たわる司馬懿の瞳は、閉じていた。
 顔色はすこぶる悪い。
 本当に死んでいるんじゃないかと心配になったが、わずかに胸が上下しているところを見るとどうやら呼吸をしているようだ。
 きっと司馬懿ものように裏口から逃げ出してきたクチなのだろう。
 自室へ帰る途中、このあたりで夜風に当たるつものだったのかも知れない。
 しかし元々酒が得意ではないというのに、あれだけ飲まされた後である。
 休むどころか、そのまま力尽きて倒れこんだのではなかろうか。

 は、床に寝転がりながらも黒扇はしっかり握っている司馬懿を気の毒に思う。
 自分と同じく酒を苦手としている彼が、今夜はずいぶんと頑張って曹操の相手をしていた。
 「すごい司馬懿様、偉い」と端っこの宴席から密かに尊敬のまなざしを向けていたである。  
 季節は夏で、頬に感じる夜風は生暖かい。
 この気温ならば風邪を引くこともなかろうが、は一応小声で囁いた。  

 「寝てるんですかー・・?」
 「寝ている」

 矛盾した返事が返って来た。

 「うわっっ!!起きてる!!」

 墓場のキョンシーさながら司馬懿の目が突然開き、は盛大に驚いた。

 「・・・騒ぐな、頭に響く」

 一瞬首を上げ、起きる素振りを見せたものの、司馬懿はすぐにまたひっくり返った。
 潰れているところを見られて恥ずかしいのか、ゴロリと寝返りを打つ。
  
 「床が固くて、寝たくても寝られん」

 に背を向けたまま、独り言のように司馬懿は呟いた。

 「部屋で寝たらどうですか」  
 「…それができれば、とっくにそうしている」
  
 浴びるほど飲んだ酒が、そう若くもない司馬懿の足腰に来ているらしい。
 とても立って歩けるほどの元気はないようだ。
 かと言って、非力なが(不健康とはいえ)大の男を背負って部屋まで運ぶのは無理がある。
  
 「ああじゃあ枕と布団でも持ってきます」

 にはそれぐらいしか思いつかない。

 「…いらん」
  
 振り向きもせず、司馬懿は答えた。  

 「え。だって、眠いんでしょう司馬懿様」
 「眠い。だが床が固い」
 「だから、いま枕を」
 「持ってこんでいい」
 「いや、それは」

 このままいつまでも不毛なやり取りが続きそうな雰囲気であったが。

 「いいからこっちへ来い…馬鹿めが」

 司馬懿はそんな呟きで、の言葉をさえぎった。
 酒のせいだろうか、例の口癖がなんだか弱々しい。
  
 訝しく思いながらも、いつもの命令口調で呼びつけられたはそそくさと駆け寄った。

 「座れ」

 が自分の傍へやって来たのを横目で確認し、司馬懿は扇で促した。
 素直に頷き、ペタリとは床に腰を下ろした。

 「・・・ひぇっ」
 「へっ、変な声を出すなっっ!」

 びっくりして声を出したくもなる。
 座った途端、司馬懿がの膝の上へ頭を乗せたのだ。
 これは、いわゆる。
 膝枕≠ニいうものでは。

 「・・・お前が枕代りになれば問題なかろう」

 そう言って司馬懿はフン、と鼻をならした。
 相変わらずそっぽを向いたままだが、月光に照らされた彼の耳は赤みを帯びている。

 「司馬懿さま、耳赤い」

 思わず口に出してしまったの言葉に、膝の上の司馬懿は慌てたように弁解する。
    
 「なっ・・!さ、さっき、酒を飲みすぎたせいだ!それ以外に何がある!」

 酒のせいとは、ずいぶんと無理がある言い訳だ。
 一口ごとに青ざめていた者の台詞とは思えない。
 さっきまで、死人の如き顔色を浮かべていたくせに。   
 そうしてワァワァわめいている間にも、司馬懿の耳はますます赤くなってゆく。 
  
 「わかりました、わかりましたから落ち着いてください」
 「わ、私はいつでも落ち着いているっ」  

 誰がどう見ても余裕ゼロの軍師は、黒羽扇で顔を隠した。
 照れている。
 そして、拗ねている。
 ふてぶてしい物言いはいつも通りだが、その仕草はまるで子供のようだ。 
 
 『うわ・・・可愛い』

 は、昔飼っていた猫のことを思い出した。
 ツンとすましていながら、どこか抜けていて、ちょっと気難しい黒い猫。
 いつもは手招きしてもこっちをチラリと見るだけで寄ってこないくせに、時々思い出したように膝の上に飛び乗ってくる。
 素直じゃないくせに、ひどく寂しがりやなのだ。
 甘え下手で、高慢で、それでも憎めない。
 司馬懿様に、よく似ている。  

 はついつい、このふてくされた猫を撫でてやりたい衝動にかられてしまったが
 また真っ赤になって騒ぎ出すであろうことは目に見えていたので、どうにかこらえた。
 見れば、司馬懿はまだ扇を被ったままである。
  
 「・・・今夜は災難でしたね」
 「まったくだ」

 労わるように小声でが囁くと、ボソッと司馬懿が返事をかえした。

 「抜け出して大丈夫なんですか?曹操様は?」
 「後釜に張コウ将軍を据え付けてきた」

 うわぁ。
 曹操VS張コウ。
 さぞかし今頃、色んな意味で宴は盛り上がっていることだろう。
 見てみたいような。決して見たくないような。
 は膨らんでゆくおぞましい宴会場の想像を振り払い、そういえば、と口を開いた。

 「よく今回、曹操様の隣なんて承諾しましたね」
  
 いつもならば、絶対断っているはずである。
 多少酒に自信のある者でも、翌日必ず酷い二日酔いに悩まされてしまう魔の席。
 司馬懿など、自ら死地に飛び込むようなものだ。
  
 「曹操さま直々のご指名だったんですか?」
 「……」
  
 司馬懿は答えない。

 「司馬懿様?」

 寝てしまったかのかと、は司馬懿の顔を覗き込んだ。

 「…攻撃は最大の防御なり、だ」
  
 いつの間にか表情を覆い隠していた扇は外されていた。
 あらわになった司馬懿の瞳がこちらを向いている。
 鋭く、冷たいイメージのあるまなざしだが、今夜は心なしか柔らかい。

 「防御なりって、こんなに酔い潰されちゃって」

 全然防ぎきれてないじゃないですか、とは困惑した声で抗議をする。
 だが、彼女のそんな言葉など聞こえていないかのように、司馬懿は目を閉じた。

 「意味わかんないじゃないですか司馬懿様………司馬懿様?」
  
 は何度も呼んでみたものの、狸寝入りか、本当に眠ってしまったのか
 司馬懿からはそれっきり、返事はかえってこなかった。

  
 「あら、おはよう
 「あ…おはようございます」

 翌日、しびれ気味の足をひきずりながらが歩いていると妙にスッキリした顔の甄姫と出くわした。

 昨晩、死屍累々とした中で最後まで飲んでいたはずのこのご婦人。
 寝不足の雰囲気や疲れた様子など微塵もなく、いつも通りの見目麗しさである。
 片手で夫の首を絞めていた暴虐ぶりなど、とてもこのたおやかな姿からは想像できない。

 「二日酔いとか…大丈夫そうですね甄姫様は」 
 「あれくらいではね、ふふふ」

 そうっすよね失礼しました。
 女王様の底無しさ加減に、なんかもう謝ってしまいたくなるである。
 本当は、昨夜は一体何人の猛者を沈めたんですか?などと聞いてみたいものだがそんなことは口に出さぬが花であろう。  

 「そういうは、例によって途中で抜けたのね」

 あの騒ぎの中目立たないようにしたつもりだが、どうやらバレていたらしい。
 思わずは肩をすくませた。
 甄姫は目を細め、口元をほころばせた。

 「でも、命拾いしましたわね」
 「え?」
 「宴の席のことよ」
 「席?」

 甄姫の台詞に、はキョトンとした顔をする。

 「まあ、知らなかったの?殿たっての所望で、昨日の隣席、本当は貴女が座るはずだったのよ」
 「ええ?」

 初耳である。
 昨夜は宴会場についた時、何の説明もなく端っこの卓へと通されたのだ。

 「でも、いつもは絶対に酒の相手をされない司馬懿殿が進んで付き合うとおっしゃったから、曹操様それはそれはお喜びになって……」

 は洗礼を免れたの、と甄姫はクスクス笑った。

 不機嫌そうにそっぽを向いた昨夜のあの背中が、のまぶたに浮かび上がる。
  
 
『攻撃は最大の防御なり、だ』  

 司馬懿が本当に守りたかったもの。
 体を張ってまで、青ざめてまで、守り通したもの。
          
 「………、どうなさったの?顔、真っ赤よ?」


 さすがに「酒のせいです」とは、誤魔化せなかった。