暦の上では夏の盛り。身を縮めて震える冬に比べ本丸の夏は風通しもよく過ごしやすいと言えるが、それでも寝苦しい夜はある。
 ここ数日、高い気温が続き、日が落ちても蒸し暑さが去らない。
 今宵もじとりと肌に張り付くような暑さが残っていた。

「暑い」

 てのひらをうちわのように仰いだ審神者が息を吐く。申請を出してはいるが、雅じゃないと不平の声をあげるものもおり、未だクーラーは導入されていない。
 暑さにあえいだ審神者が、垂らしていた長い髪を鬱陶しげに手でまとめ上げた時だ。
 近侍の長谷部が短い声をあげた。

「主、首元に」
「ん」
「虫に食われたあとが」

 長谷部の視線に従って、審神者も目を落とす。日にさらされていない白い首に、ぽつんと赤い点がみえた。

「……まあ夏だからね」

 審神者は軽くいなしたが、長谷部は「いいえ」と厳しい面をつくって首を振った。

「御身に傷をつけるとは許しがたい所業、捨て置けません」
「虫だよ」
「虫であろうとも」

 長谷部は数入る刀の中でも仕えて長い。
 最初から随分とお役目大事と主に尽くす刀であったが、時が経てば経つほどそれは顕著になり、主命とあらばいかな使命も全うし、時に主命でなくても主がためと突き進み、審神者よりも審神者に詳しいのではないかというやや不安な忠臣に成長を遂げた。今や近侍を外した瞬間に腹をかっさばきそうな勢いである。
 ゆえに主を煩わせる虫の一匹さえも彼は許さない。
 あまつさえ、その肌に跡をつけるなど言語道断。

「虫除けを増やしましょう」
「いやもう五つも置いてるから……」
 
 近侍の仕事は抜かりない。
 すでに審神者の寝所は、ぐるりと取り囲むように蚊取り線香が設置されている。何もそこまでとは感じていたのだが、害虫を死すべしという長谷部の執念に押し負け、何かの儀式の生贄じみた様相で毎夜眠りについていた。
 それでもやはり隙はあるもので、全ての虫を殲滅することは叶わない。
 寝所に刺客を許したかのような面持ちで長谷部は歯ぎしりをした。怨敵は検非違使でも歴史修正主義者でもなく、蚊である。

「主命とあらば十でも二十でも枕元に置きましょう」
「置きましょうじゃないよ置かないよ。煙で虫より先に私が窒息するよ。今でも結構むせるのに」
「では、主を如何にお守りすれば」
「お守りしなくていい。噛まれただけだ」

 遠巻きに静観、という発想のない刀である。常に全力を尽くそうとする様は死ぬまで泳ぎ続けるマグロと似ていなくもない。
 審神者はため息を吐くようにつぶやいた。

「ゆうべは体温も高かったし汗ばんだろうから、虫も寄ってきやすかったんだろう」

 その言葉に長谷部は一瞬首を傾げかけ、すぐに心得たように頷いた。
 昨夜は珍しく、短刀を除いた刀剣たちに主より酒が振舞われた。造り酒屋から樽ごと届けられたそれを、次郎初めザルの連中が喜ばないわけがない。日を跨ぐことなく、あっという間に空にした。
 審神者は酒飲みではない。あまり強い方ではなく、普段からほとんど口にしないが、その夜はせっかくだからと嗜む程度に付き合っていた。おかげで寝所に引っ込む頃には、酔いで肌の色は白から赤に。
 男所帯に色香は禁物。不埒な真似をせぬようにと周囲の刀を薙ぎ倒し、主を部屋まで送り届けたのは勿論この近侍(打刀/へし切長谷部/levelカンスト)である。
 酔いは体温を上げ、汗に酒の匂いを含ませる。肌を食む虫を誘うには充分な条件だ、刺されもしよう。
 しかしたかだか虫の悪さを、長谷部はよしとしなかった。

「そうは参りません、この長谷部が主を狙う輩を殲滅してご覧に入れます」
「どうやって」
「お許しいただければ寝所に侍り、この手で虫という虫を始末してみせましょう」
「人力」
「人力です」

 審神者は枕元に待機した長谷部が一晩中、虫を叩き潰している光景を瞼に思い描いた。
 パアンパアンパアン主命とあらばパアン。
 闇に響き渡る殺伐な手拍子。安眠できるわけがない。

「いや、いい……」
「何ゆえ」
「害とは思っていない」
「主はお優しくていらっしゃる」 
 
 長谷部の声はその口元に浮かんだ微笑みとともに一瞬だけ柔らかくなったが、すぐに固く引き締まった。
 
「しかしながら、この長谷部は主に狼藉を働くものを決して見逃しはいたしません」

 長谷部の目はその刀身よりもまっすぐ主に向けられている。濁りなき曇りなき忠誠を贄として差し出すかのようだ。
 健気とするにはいささか物騒な、しかしこの上なく一途な視線は重く、受け止めてやるには気力が要る。
 が、その日審神者はそれを避けるでもなくあしらうでもなく、ややしばらく真っ向から見つめ返した。
 見つめるのは得手であっても、自分がそうされるのは慣れてないのか、長谷部の顔に困惑に似たものが浮かぶ。
 審神者は首元の赤い跡に触れながら、一度目を落とした。

「長谷部、どうしても始末しなければ気が済まない?」

 問われた長谷部は戸惑いながらも、はっきり「ええ」と返事をした。

「お前は自分にも厳しいね」
「え?」

 長谷部の切れ長の目がわずか丸くなる。その視線の先にある顔が苦笑いをのせて持ち上がった。 

「覚えていないか?」

 ゆうべ酔っていたのは審神者ばかりではない。長谷部も隣に陣取った鶴丸に杯があくたび酒を注がれ、浴びるほど飲まされた。ほろ酔いと呼ぶには過ぎた量だったが、前後不覚に陥ってはいない、千鳥足でもなかった。
 だが記憶はどうだ。主を部屋に送り届け、障子を開いてから、その後の。

 長谷部は表情を凍り付かせたまま、ゆっくりと己の口を手でふさいだ。

 酒気で少しとろけた視界に入ったのはうなじの細さ。うっすらと赤く染まり、そこから立ち上る汗が思慕を煽っては虫を惑わせ、誘った。

――噛まれただけだ。

「できれば見逃してやって欲しいな。噛みつくだけ噛みついて飛んで逃げてしまうような意気地のない虫だけれど、私は頼りにしていてね。手打ちにされると困ってしまうんだ」

 長谷部は樽一杯の酒に浸してもまだ足りぬほど茹であがった顔面を伏せた。だから、虫の始末を語るにしてはひどく優しいその声が、どのような表情で語られているか、耳まで赤い打刀にはもう確かめようがない。
 畳と顔を突き合わせてたっぷりと三十秒。

「……主命と、あらば」

 ぽつりと返った蚊の鳴くような返事に、審神者は声を出さずに笑った。