庭先から届く少しの風と、池の主が跳ね上げる水の音。鼓膜を叩くのは、ほぼその二つが占めている。 本丸の賑やかさの大部分を担っている短刀達は、珍しく皆遠征で出払ってしまった。主力である太刀や大太刀も資材集めがてら、先ほど出陣したばかりだ。留守を守る刀達は離れの道場の掃除でもしているのか、気配は聞こえてこない。 静かだ。 静かな、はずだ。 聴覚に限って言えば、机に向かう審神者を脅かすものは何一つないはずだった。 だが、集中力を逸らすのは、何も物音ばかりではない。空気を揺らさぬ無音だからこそ際立つものもある。先ほどからそれは、審神者の横顔をひしひしと刺していた。 「岩融」 「なんだ主よ」 「もし退屈なら、自室に戻っても構わないが」 「ん? 退屈などしておらぬぞ。主のそばを離れぬのが近侍としての務めであろう」 荒法師を思わせる装束の大男は、あぐらを組んだまま真面目くさった顔でそう言った。紫の袈裟が広がりながらその大きな膝を包んでいる。体が大きいせいで、傍に控えていると座っていても壁のようだ。 壁の懐には折りたたまれた半紙一枚。ぐしゃりと無造作に押し込まれている。何が書かれているか、審神者当人が書いたのだから当然把握している。札や紐、足袋や手ぬぐいなどの品と必要数がびっしりと並ぶ、いわゆる覚書の類だった。 まとまった時間がとれず、ここのところ買い出しにすらろくに行く暇もなかった。刀とはいえ男ばかりの大所帯。消耗品は日々消えていき、あれも要る、これも足りないと買い足す品を書き連ねている内におそるべき量に膨らんでいた。短刀達におつかいを頼む範囲はとうに超えていたし、ちょっとした合間に済ます用としては大仕事すぎる。 ――岩融、あとで万屋のお供をお願いできるだろうか。 普段から力仕事はまかせろと買って出るような気質だ。近侍の刀は二つ返事で応じた。むしろ、前のめりの姿勢で。 主よ、いつ参ろうか。昼餉のあとか前か。悠長に構えていては日が暮れてしまうぞ。 岩融にとっても戦場と本丸以外の地を踏むのは久しぶりのことだ。ただの買い出しとはいえど、気晴らしには違いない。荷物持ちを頼んだその時から、そわそわとした空気が大きな体のそこかしこから零れ落ちていた。 審神者は少し苦笑いをしたが、体格に似合わぬ無邪気を微笑ましく感じただけで厭うはずもない。 今日は万屋に赴くのを念頭に、ほとんどの仕事は片づけてある。が、先ほど届いた文の返事という作業がひとつ残っていた。 だから、審神者は待ちきれない様子の刀に言い置いた。 これが済むまで待っててくれないか。 岩融はこれに文句もたれることなく頷いた。荒々しい見た目の割に、案外気は長い。おおらかと言うべきか。少しでも話しかけずに放っておくと、やがていびきをかいて眠ってしまう。 きっと今日も、いくらも経たぬうちにそうなるものと高をくくって、審神者は文を認めていた。 が、筆を進めても、いびきは一向に聞こえてこなかった。それどころか寝息すら感じられない。ふと、目線だけで様子を窺うと、あぐらをかいたままの岩融がこちらを見ていた。昼間の猫のように絞られた瞳が、じっと動きを追っている。筆を走らせる動作や息遣い、その一挙一動まで見逃さぬよう。 プレッシャー。これをプレッシャーと言わずしてなんと言おう。 岩融は急かす文言など口にしてはいないし、忙しなく体を揺するでもない。だが降りかかる圧は無視できるほど軽くはなかった。例えるならば片側だけ楊枝で連打されているような。落ち着けという方が無理。 押し負けて、つい筆を止める。 途端、飛びかかるようにして声が上がった。 「済んだか?」 「いや、取りかかったばかりだ」 審神者が首を振ると、そうか、と岩融は浮かした腰をいささか残念そうに畳に下ろす。飛び上がった威勢を思えば何とも弱々しい。 再び、薙刀の現身は元の位置に。先ほどと同じく膝をくずし、待ての姿勢に戻った。 とはいえ、目は口ほどに物をいう。 審神者に注がれる視線には、まだかまだかという声なき声がやはり見え隠れしていた。 終わった、の一言をどんなにか心待ちにしているか、尋ねるまでもなく伝わってくる。 その様子は飼い主に必死に従う獣にも似て、可愛らしくもあったが、同時にお預けを食らわせてるような居た堪れない心地もした。 早く片付けてやらねば。そう思いながら手を動かしていたが、焦る心はしくじりを生む。あ、と短く声を上げてしまった。 すかさず横から覗き込むような気配がした。 「どうした」 「問題ない、墨を落としてしまっただけだから」 声の方に顔を向けることなく、紙を新たに机上に広げた。もう文面は固まっているのだから、そのまま写すだけで済む。今度は慎重に、けれど素早く筆を走らせる。かすれる前に硯に筆を浸して、一呼吸。 「まだか」 「あと少し」 声がすっかりと焦れている。苛立ちではなく、しょぼくれた犬の催促の鳴き声だ。これはそろそろ限界が近い。審神者は一心不乱に、腕の筋肉の限りを尽くして筆を動かし続けた。一文字でも多く綴ることに意識を傾けていた。 だから、すぐには気づかなかった。 「主、」 「わ……わかった、わかった待て」 振り向けば、鼻先が触れるほどの近さに岩融の顔があった。声などほぼ息の形で肌に触れる距離だ。 薙刀の化身はその蛮勇にまかせて戦では本能のままに刃を振るう。ひとたび城に戻れば蛮勇は豪快さに入れ替われるものの、本能に従う性根は変わらない。 己の心が思うまま感じるまま岩融は動く。今もそうして動いた。職務にあたる審神者を追い立てるのは本意ではない、けれど待ちきれず跳ねる心に蓋もできない。 その焦れる波風が素直に彼の背を押して、審神者に言葉ではなく身を寄せた。 「待たせてすまない。もう終わる、終わるから」 だから離れろ、と審神者は言ったつもりだった。しかし本能に導かれて生きる獣は、主の言葉を受け止める前に、ぱちりと目を瞬かせた。それから尚も近付いて、鼻をひくつかせた。 「良い香りがする」 からかうでもなく、色めく物言いでもなく、何か大きな発見でもしたように、近侍をつとめる男は真顔でそう告げた。告げられた審神者は、一体何の報告なんだ、と顔色を赤だの青だの白だのと何重にも染めながら愕然とするしかない。 「髪に花でも練り込んでいるのか」 「ただの石鹸だ。皆と変わらない」 「腑に落ちん」 「そ、そう言われても困る。落ちてくれ」 もはや近いという距離ではない。岩融の鼻は審神者の髪をかき分けるように侵入して、くんくんと忙しなく香りを吸い上げている。振り払うべきなのだろうが、その手つきにはまるで色がなく、よからぬ雰囲気は微塵もない。無邪気な好奇心で嗅ぎまわっているようにしか見えないからこそ、審神者を迷わせた。 これは犬だ。獣だ。しかし相手が犬でも獣でも、こちらはそうではない。岩融から見れば女性という括りには届かぬ小娘かも知れないが、わきまえてもらわねば困る。 それを伝えようと審神者が口を開こうとしたとき、岩融が急に身を引いて離れた。 「すまんすまん、女人に断りもなくする振舞ではなかったのう!」 がっはっは、と尖った歯を見せて笑い飛ばす。湿度の一切ないあっけらかんとした態度は、いつもの岩融となんら変わらず、審神者はほっとして肩から力が抜けるのを感じた。 まったく困った男だ。審神者は様々な感情が混じったため息をひとつ吐いた。腹立たしさは覚えるものの、結局毎度怒りと呼べるまでは育たない。 ともかく早く終わらせよう。これ以上野生を知る獣に待ては酷だ。 審神者は休ませていた筆をとった。 同時に、肩に柔らかな重みが降った。重みは黒く大きな手の形をしていた。さっき離れたはずの獣の手によく似ていた。 「断りを入れてからならば良かろう?」 間近に迫った猫の目は無邪気を保ったまま、戦でもないのに爛々と輝いていた。 文は完成一歩手前にして、またしても墨で汚れた。 |