「……どうしたんだ今日は」
「なんですか。どうもしてませんよ」
「妙に感じるのは気のせいか?」
「気のせい。それは気のせい」

 答えてからすぐに、こほ、と咳がひとつ審神者の口からこぼれた。吐息に近い小さなそれを、目の前の刀剣は見逃してはくれない。

「大将、風邪か」

 審神者は苦笑いで口を押えた。それきりもう咳は出ない。ずり下がった羽織を思い出したように片手で直す。

「ゆうべ夜風にあたって体を冷やしてしまったのかも」
「それはいけねえな。後で薬を届けるから今日は早く寝てくれ」

 人に手入れされながら言う台詞としては説得力に欠ける。体中に刀傷をつくっていようとも、ボロボロの身なりであろうとも、薬研藤四郎は常にこちらを案じる側だ。己の中傷より主の咳ひとつを重く見る。
 消毒液に浸した布を手に近付くと、薬研は身を引いた。審神者はもう一度口を押えてから笑った。

「刀剣にはうつらないらしいので大丈夫ですよ」
「そんな心配はしてない」

 訝しげな視線とあえて目を合わせない。切れ長の目の追ってをするりとかわして審神者は手を動かした。
 頬に走る戦の跡に布巾を当てる。見るからに浅い傷ではない。相当しみるだろうに、薬研藤四郎は顔をしかめることもしなかった。痛覚がないわけではなく、彼の矜持がそうさせている。
 痛いとも言わない。泣くこともしない。
 だから審神者は、えらいえらいと頭を撫でた。子どもに飴を与えるように優しく、母の様な手つきを意識して。
 傷の痛みには動きもしなかった眉が、その時ばかりは大きくしなった。

「大将」

 なんなんだ? と薬研は尚も主を問いただした。


――薬研君にもですか?

 あれは、数人の短刀が縁側で昼寝をしていた時のこと。寝ぼけていたせいもあって、甘え方に遠慮がなくなった今剣に膝を枕として貸してやった。それを見て、いいなあ、と秋田藤四郎が桜色のふわふわとした髪を揺らしていたから、審神者は言った。
 こんなことならいつでもしてあげますよ。
 秋田藤四郎は目を輝かせながら、いいんですか、と審神者の羽織の裾を引いた。その仕草がなんとも愛らしくて、審神者は口元をほころばせた。
 脇差以上の刀剣はすでに男として育っているが、短刀はまるで童子そのものだ。見た目のみならず振る舞いも幼くいたいけで、戦に投じるうしろめたさの分だけ甘やかしてやりたいと思う。
 うん、秋田や今剣のような短刀達には特別です。
 だからそう告げたのだが、秋田はそのどんぐりまなこをくるりと動かして言った。
――薬研君にもですか?
 あれはきっと、本当に何気ない一言だったのだろう。世間話のほんの切れ端。口に運ぶお菓子の一つでしかない。
 それを証拠に、審神者が一瞬言葉につまっても気に留めた様子もなく、彼の関心はすぐにひらひらと舞う蝶の方に移った。
 気に留めたのは審神者の方だ。完全に置き土産だ。

 戦場育ちのせいか男気に溢れ、面倒見の良い兄貴肌の薬研藤四郎。見目は若干大人びているものの、色白で華奢でその体格は太刀や打刀に遠く及ばない。だが太刀や打刀に同等、時にそれ以上の頼もしさを感じさせる不思議な存在感がある。他の短刀の字体が富士ポップだとしたら、薬研ひとりだけ荒々しい筆文字だ。
 子供とも大人ともつかない。そのアンバランスさが審神者に一本の細い線を引かせていた。秋田がさらりと指摘したように、薬研への対応は他の短剣とは異なる。身に覚えがある。無意識のうちに彼を短剣の一括りから外していたと。
 薬研に膝枕ができるか。
 できなくもないが、今剣や秋田のように何の抵抗もなく差し出すのは難しいのではないか。一瞬でも躊躇が顔を出すのではないか。
 主として刀剣に平等でなければならないと就く前に散々念を押された。審神者当人また、そうあるべきだと思っている。
 では同じ短刀だというのに、その線引きは、平等の道から外れているのではないか?
 薬研を同じく短刀として扱うべきなのではないか?



「……なるほど。平等ねえ」

 事情を呑み込んだ薬研はごろりと膝の上で寝返りを打った。

「それで俺はこの待遇ってわけだ?」

 差別はいけない、他の短刀と同じように接しよう。
 そう心を砕いた結果、審神者がたどり着いたのは、自分の膝に薬研の頭をのせて手入れする、という甘やかし方だった。
 五虎退などはこうしてやると、大層安心して眠ってしまうこともある。刀とはいえ治療には痛みを伴うものだ。労いの意味もこめて、今本丸にいる短刀の手入れは、みなこのように行っている。だから戦で盛大に傷ついて来た薬研を見て、今だと審神者は思った。何が今だなのかは当人にもわかってはいない。

「差別は良くないかな、と……」
「ああ、いい心がけだ」

 今は堂々としたものだが、膝の上の薬研は、先ほどまで大層居心地が悪そうだった。
 のせている審神者も審神者で、最初からずっと今に至るまで非常に落ち着かないし気まずいものを感じていた。もしや誰も得してないんじゃないか、と途中で気づいたが引くに引けなかった。
 薬研は短刀である。半ズボンに身を包んだ、見た目だけならば自分より恐らく年下であろう刀剣男士である。
 だから平気だ、これでいいのだ、と言い聞かせて涼しい顔を貼りつけていたものの、正直のところやりにくくて敵わない。
 膝にのせて思い知ったのは、低い声が思いのほか響くことと体温が伝わること。それは他の短刀のように柔らかく胸を和ませるものではなく、いちいち呼吸を乱すような心臓に悪いものだった。
 膝を枕にした薬研がその目で審神者を下から舐め上げる。

「大将の温情じゃあ受けないわけにはいかねえな」

 意味深な目線と声色に、こほ、と咳が出た。
 本当は体など冷えてはいないし、夜風など浴びやしない。居た堪れなさと気恥ずかしさを誤魔化すための、できそこないの咳払いだ。
 素知らぬ顔をしたその元凶が、背中をぽんぽんと労わるように叩く。

「大丈夫か大将」
「薬研」
「手入れの続きを頼む」

 短刀の顔には、もう困惑の色はない。むしろどこか面白がるような、そのくせ短刀の悪戯とは思えない目つきで見上げている。べたりと吸いつけて目を離さない。
 主のやせ我慢を見透かしていたのか、それとも今見破ったのか、口の端に笑みまで滲んでいる。
 そもそも意に染まぬまま、大人しく膝にのっているような刀ではなかった。
 どうしてこれを捕まえて、子ども扱いしてやろうなど思ったのか。己の馬鹿な考えを今更ながら呪う。
 これ以上は、とついに審神者は白旗を上げた。

「薬研下りてください。すいませんでした」
「どうした大将、差別は良くないんじゃなかったか」

 戦は終わらない。白旗を上げたら降伏だという万国共通のルールも、百戦錬磨の刃には通用しない。
 すっとぼけた表情は短刀のあどけなさにも通じるが、その本質は似ても似つかないともう知っている。
 かろうじて貼りつけていた平坦な顔色など、すでに用をなしていない。べりべりに剥がれて見るも無残。審神者はたえられず手で顔を覆った。

「ごめんなさいごめんなさい」

 どちらが子どもだかわからないような反省の言葉を並べて、少しでも距離を取ろうと身を引く。
 この場面で耳により近く、触れるように囁いたのは、おそらく故意以外の何物でもない。楽しそうな低い声がした。

「安心しな大将、刀に風邪はうつらないんだ」