例えばここが学校だとしたら、朝礼があるのは珍しくはない。その朝礼のさなか、生徒が倒れるのもお約束だ。
 しかし朝礼の壇上で話を聞かせる立場の者が倒れたとなれば、これは珍事中の珍事といえる。
 今朝の本丸は、まさにその状況が降りかかった。
 
 朝一、身支度を整えた刀剣は、遠征や出陣で留守をしている者以外、大広間に集合するのが常だ。
 そこで内番や編成について審神者から指示を受ける。新たに迎えた刀剣を転校生のように改めて紹介されることもある。一日の始まりの、飽かず繰り返す日課のひとつだった。
 今日もいつもと同じように朝礼は幕を開け、いつもと同じように居並ぶ刀剣を前に主は出陣の編成を読み上げていた。昨日と同じ、なにひとつ変わらぬ朝の風景。
 が、指示が第二部隊の編成に差し掛かった頃、それまで朗々と響いていた主の声は途切れた。
 そして次の瞬間、審神者は倒れた。
 
 これまで低血圧だからと左文字がふらふらしていたことはあった。立ったまま寝ていた獅子王が、後ろに崩れ落ちたこともあった。
 が、それが主となれば事情が違う。
 朝礼で言えば生徒に語り掛けていた校長が話のさなかにぶっ倒れるようなものである。
 当然だが、騒然とした。
 何しろ、あ、と思う間もないほどの待ったなしの勢い。さながら山崩しの棒のような潔さで前へと。
 彼女の顔面が畳にめりこまずにすんだのは、ひとえにそばにいた岩融の咄嗟の身のこなしのおかげである。時に鴨居を痛めつける大きな体は、その時ばかりは主を守るクッションとして任を全うした。
 事なきを得たものの、それが新たな火種となったのもまた事実だった。
 その身で主を抱き留めた岩融は、鼻をぴくりと動かして呟いたのだ。

「血の匂い……」

 その一言でますます場は荒れた。
 陸奥は主が銃弾に倒れた、ジョンレノンじゃ、と大騒ぎしたし、短刀らと清光、それから安定は水という水を鼻と目から噴出させ、石切丸は憑き物の仕業だッ! と塩をまこうとした。
 完全に暗殺ムード一色。朝の爽やかさはどこへやら、本丸には怒号とすすり泣き、殺気と哀切が入り乱れ、頭をやられたヤのつく事務所にも似た壮絶さが充満していた。こんな時に限ってこんのすけは、朝も早よからブックオフに行っていて不在。誰もいさめる者がいない。
 だから、蚊の鳴くような審神者の「死んでない……」を岩融の耳が拾っていなければ、誰が仇かもわからぬままの、勢い任せの弔い合戦が開幕するところだった。もうそれは刀剣とか言う前に、ただの山賊である。



「あるじさま、ゆたんぽですー」
「主君、上掛けをもう一枚お持ちしました」 
 
 短刀が恭しく差出す品々を審神者は、少し身を起して受け取った。
 場所はすでに大広間から離れ、審神者の私室である。病人のように敷かれた床に寝かされ、気遣わしげな刀達に囲まれている。
 あの後、主の生存(そもそも死んでない)を知った刀剣らは、それまでのお通夜の空気から一転して、甲子園優勝くらいにまで盛り返し、あわや胴上げという勢いだったが、その顔色の悪さに気付いてまたも凍り付き、担ぎ上げて床だ薬だ医者だ祈祷だと騒ぎながらここに運び込んだ。祈祷はいわずもがな石切丸である。彼は今頃部屋にこもって、大麻を懸命に振っていることだろう。

「女の人がこんなに大変なものだと思わなかった」
「ごめんね主。男ばっかりで全然気が回んなくて」
「いやいいんだ。かえってすまなかったな、心配をかけてしまった」

 安定も清光も、もう泣いてはいないが案じる瞳が痛々しい。審神者は笑顔をつくって応えたが、体調が邪魔してうまくいかなった。重石のような痛みと、例えようもないだるさは、女の身でない彼らに伝えるのは難しい。

 実を言えば、審神者自身、違和感は朝から感じていた。
 起きた瞬間から、尋常ではない下腹部の鈍痛。このところ忙しく、あまり食事もとらず仕事を片付けることもあれば、寝る間を惜しんで書物を読んだ夜もある。疲労がたまっていたところに、定期的に女性であることを思い知らせる、月のものが遅れてやってきた。もともと軽い方ではないがその日は更に重たく、審神者は軽く絶望した。腹に凄腕の殺し屋がいる、と。
 本人がそう感じていたのだから、暗殺されたという刀剣たちの解釈はある意味間違ってはいない。
 常備している鎮痛剤に頼ったものの、半分が優しさでできているせいか、殺し屋は滅することはできなかった。よくて半殺しだろうか。凄腕なので半分でも与えてくるダメージは甚大だ。
 本音を言えば起き上がるのもつらかった。
 しかし朝は刀剣たちに一日の指令を与える大事な職務がある。それだけは全うしようと、審神者は朦朧としながらも、冷や汗と脂汗を拭って広間に立った。そうして、そこで殺し屋が牙を剥いてしまったのだった。意識はそこからない。気付いたら布団に寝かされていて、ぐるりと見慣れた顔が不安そうにこちらを覗き込んでいた。

「こんなに騒ぎになるとは思わなかった」

 枕に頭を預けた審神者が弱々しくそう言うと、枕元に正座していた今剣が巨躯の相棒を横目で見上げた。

「血のにおいなんて、いわとおしがいうからですよ」
「仕方なかろう、嘘をついたわけでもない」

 一瞬だけ決まり悪そうな顔をした岩融は、あぐらをかいて今剣と同じく枕元に陣取っている。倒れた審神者を受け止めたのがこの男なら、ここまで運んだのもまたこの男だ。薙ぎ払うことを至上の喜びとするこの刀は、戦場の血に馴染んでいるせいかはたまた生まれついての嗅覚か、やけに鼻が利く。おかげで騒ぎは二倍になった。

「長谷部いなくてよかったな」

 足元に座っていた獅子王が、ちょうど24時間遠征で留守にしている打刀の名を上げた。その向かいに座している左文字が控えめに相槌を打つ。

「主に血を流させたとなったら、彼は腹を切っているでしょう」 

 そうなると彼は月一で切腹しなければならなくなる。

「そんな大げさなものじゃない、今日はたまたま優れなかっただけで」
「しかし男子には耐え難いほどの痛みとききます」
「うん、男なら即死だって」

 血肉を得て人の体を授かったとはいえ、所詮は男の身、しかも長生きしていても元は刀である。女体の仕組みの知識はあるようでない。知っていても浅い。もしくはてんで的外れ。
 悪いことに、燭台切や薬研など、保健体育の科目で満点をとれそうな面子は、軒並み長谷部の24時間遠征に同行している。誤りを正してくれる者はいない。
 五虎退が小刻みに震えだした。

「そ、そんなに痛いんですか?」

 左文字が儚げに目を落して答えた。

「……以前、鼻からスイカが出るほどの痛みと聞いたことがあります」

 全員が震え出した。
 これは飽くまで出産の痛みを例えた話なのだが、それに気づく者はなし。しつこいようだが誤りは正されない。
 ちなみに審神者は、これまで審神者としての教育を受けてはきたものの、そういった方面には疎いので、皆と一緒に震えていた。むしろ当事者なので誰よりも震えていたと言ってもいい。
 そうなのか、今でも痛いというのに世の中には月に一度そんな想像を絶する痛みに耐えている女性が、と気絶しそうである。
 
「主様、顔色が」
「だ、大丈夫だ。病気じゃないから」

 あまり大丈夫ではないが、審神者は一度倒した体を気丈にも起こそうとした。鈍い痛みが鼓動よりも存在感を持って身を穿つ。思わず顔をしかめた。

「主、起きるな」

 浮いたはずの背中が再び敷布団に受け止められた。審神者を床に戻したのは大きな黒い手だ。もともと敵うような力ではない。今ならばいよいよ抗うこともままならない。
 熱いのか冷たいのかよくわからない裸の頬を風が打つ。審神者は刀達ごしに見える外の風景で、時刻をうっすらと察した。太陽の位置は、すでに朝ではないことを示している。
 ふと、左に控えていた短刀と目が合った。
 双子のように隣同士で座っていた前田と平野は、大人しく身も小さいが、主の意を汲むのことに長けた忠義者である。目線の動きで、主が何を言おうとしたか察したのだろう、二人同時にすっくと立った。

「そろそろ皆さんお勤めに参りませんか」
「お傍にありたいのは僕も同じですが、大人数で取り囲んでは主の気も休まりません」

 二人は品の良い佇まいで刀達の顔を見回したあと、主に視線を戻した。審神者は、枕に頭をつけたまま微笑んで頷いた。幼い顔が安堵したように柔らかくなり、それから凛々しく引き締まる。
 小さな優等生に促され、おのおのが立ち上がろうかという空気になった中、清光が布団の端をつかんだ。

「やだ俺は残る!」
「馬鹿お前は第二部隊の隊長だろ」
「だって皆行っちゃったら、誰が主のお世話するんだよ!」
「こんのすけは?」
「まだブックオフから帰ってない」

 長谷部は日常的に、某O田の文献を見つけては買いこむのだが、すぐに癇癪を起してはこんなもの見たくもないと絶叫して紐で縛り上げるので、こんのすけはいちいちそれを売りに行っている。もう八回くらいこれを繰り返している。

「案じることはない。世話なら俺がしよう」

 あぐらを崩すことなく、どっしりと岩融は腰を下ろしたままそう言った。
 世話……?
 お前が……?
 ちょっと放置したらいびきかきだすような奴が……?
 もの言いたげな目線が各所から薙刀の化身にお届けされた。
 とはいえ、表だって反対はできない。彼が堂々とそう主張できるのは、近侍であるからだ。それも今日たまたまではなく、ほぼ毎日その任を請け負っている。遠征や編成など特別な事情がない限り、岩融が主の傍を外れることはない。
 ただ、がっはっは俺が恐ろしいかあ! の豪快さは戦場では頼もしいものの、主の世話を任せるには不安ではある。

「平野と前田置いて行った方がいいんじゃね……」
「だめだ今日の遠征は短刀じゃないと」
「だって岩融だけじゃ不安だろ、急につわりとか来たらどうすんだよ」
「つわり来るの? まじで? お湯わかしたほうがいい?」
「早くない? それはまだあとじゃない?」

 繰り返すようだが誤りは正されない。 
 頭上のやり取りを聞いていた主は、掌をひらひらと降った。

「少し眠るだけで楽になるから大丈夫、行きなさい」
「ほんとに大丈夫? つわりは?」
「来ない……おそらく……」

 いつもより朦朧としているせいで、審神者も今なら保健体育は赤点レベルなのである。清光は最後まで枕元で念を押した。

「ほんとに岩融で大丈夫?」
「がっはっは大丈夫だ!」
「あんたの返事はきいてないよ!」

 いいから行け行けと岩融にまとめて追い出され、騒がしい刀達は戦場へ、内番へ、遠征地へと散っていった。
 部屋が狭く思えるほどの人数が一気に退くと、舞い降りる静けさは際立つ。先ほどまでかき消されていた庭の水面の音、草木の囁き、それから近侍の衣擦れが審神者の耳を優しく打った。
 
「主、寒くはないか」

 荒々しさが嘘のように凪いだ音が降りてくる。

「湯たんぽのおかげで温かい」
「何か足りぬものがあれば言え」
「わかった」

 審神者は先ほど不安そうに出ていった刀達の顔を思い出して少しだけおかしくなった。彼らは知らぬのだろう、荒くれな見た目をした戦好きが、案外甲斐甲斐しいことを。図体に似合わず機微に聡いことを。放つ声などまるで、吐息で伝えるような気づかわしさだ。
 飲んだ薬が今頃効いたのか、痛みがほんの少しだけ和らいできた。
 ほう、と楽になった息を吐く。
 そうなると浮かんでくるのは、本来片付けるべきだった今日の雑務だ。審神者の頭の中で、あれは明日でいい、これも急ぎではない、あれとこれだけは始末しておかねば、と仕分けが始まる。任務を終えた申請をしなければ、資材が支給されない。戦が激化するであろう先を考えると刀装はいくらでも欲しいところだ。
 喉元過ぎれば熱さを忘れる。あれだけ苦しんでいたのに、机仕事なら問題ないだろうと、過信して審神者はゆっくりと身を起こした。
 羽織に袖を通そうとしたのを、近侍を務める刀が制した。

「岩融」
「寝ていろ」
「少し楽になった」
「少しでは楽な内に入らん」
「何度も言うようだが、これは病気ではなく」

 まだ喋ってるというのに、背中は寝具を感じていた。この有無を言わさず戻される感じ、デジャヴ。確実に二度目。起きるたびに倒されて、審神者はおきあがりこぼしになったような気がした。

「主は知るまい、今もその顔色は健やかとはいえんが」

 黒い指が五本。視界を覆うように近付いて来た。鋭い爪があたらぬように、指の腹が頬をなぞる。

「倒れた時は、雪よりも白かった」

――心臓に悪い。

 命のやり取りを楽しむきらいのある薙刀の現身がどんな顔をしてそれを言ったのか、あいにく審神者は目にすることができなかった。降りて来た五本が目隠しになっていたせいだ。
 眠れということか、見るなということか、床に伏す審神者には答えは出せない。
 主の目を塞いだまま、近侍は語りかけた。穏やかさすら与える響きをもって。 

「命じられれば十でも百でも敵の首を狩ってこよう。力仕事でも荷物持ちでも望むのであれば、いくらでもこの身を使え」

 だが、と暗い視界に声だけが落ちる。目隠しは外れない。

「主の身を休めることは主しかできぬ」

 目隠しが与えた闇はあたたかく、審神者の瞼をゆっくり溶かした。本分は鉄であるというのに、冷たい自分の指先よりもよほどぬくぬくとしている。
 冷えは何物も強張らせ、熱はそれをとかす。
 起きよう、仕事を果たそう、気張ろう。審神者の意識に居座っていたそれらを、手袋越しの指の体温が柔らかくほどいていく。

「今日は寝て過ごせ」
「……うん」

 そこでようやく掌は遠のいていった。暗闇ではなくなったが、光が一気に溢れたせいで、結局岩融の表情を知ることはできなかった。それにもう、審神者の瞼は眠りに近いところまで沈んでいた。
 布団を引き上げながら、滑らかに動かなくなってきた唇をゆっくりと開く。

「岩とおし、お願いがある」
 
 子供のような声が出た。

「眠るまでそこにいてほしい」

 すっかりと閉じた瞼にもう一度体温が触れた。指なのか、はたまた別のものなのか、眠りに運ばれつつある審神者にはわからないことだった。
 
「そこは起きるまで、と言え」
 
 小さな寝息を撫でながら近侍は笑った。

 障子の隙間から、石切丸の祈祷の声が風に乗って届いた。