ひたひた。 ひたひた。 耳に囁くようなそれは、果たして夜を踏む音か、月が光をふりまく音か。 |
月光の手を引いて |
「俺はそろそろ床につこう」 三日月は手にしていた湯呑を置いてそう言った。 その横で獅子王は携帯ゲーム機に夢中であったし、清光は剥がれたマニキュアの塗り直しに忙しい。短刀達は遊びと喧嘩の間くらいのテンションでじゃれ合い、江雪は世を儚みながらぽたぽた焼きを食っている。それ以外は皆はじめてのおつかい春のスペシャルを思い思いの楽な姿勢で鑑賞していた。 大広間は字のごとく広々として、城内の刀達全員を受け入れるだけの余裕がある。 相部屋とはいえ、自室はそれぞれ与えられているのだが、テレビはここにしかない為、自然と集まる。 三日月宗近が発したおっとりとした声は、さほど大きいものではなかった。しかし不思議とよく通る。がやがやとそれなりにやかましい空気の中、ただの独り言にしてはやけに響いた。 「あ、はい、じゃあ行きましょうか」 それに反応したのは、刀にまじって四歳児のおつかいの動向を見守っていた彼らの主だった。審神者である彼女の部屋にもまたテレビは設置されていないのである。 彼女は立ち上がって、まだ腰を下ろしたままの三日月の手を取った。うむ、とひとつ頷いた美しい太刀は促されてようやく立ち上がる。 「おやすみなさい三日月さん」 「三日月殿おやすみなさいませ」 「うむ。皆よい夜をな」 刀達からかけられる挨拶に、三日月はゆったりとした笑みで返した。そして引いて引かれての手を保ったまま、主と三日月は楚々とした風情で出ていった。 ぱたん、と大人しく障子が閉じて呼吸三つ分ほど経った頃。 「なんだあれ」 呆気にとられたように口に出したのは、今日本丸に迎え入れられた和泉守兼定だった。 「あれ?」 隣でくつろいでいたジャージ姿の堀川国広が問い返す。 「あれって、今のだよ。三日月が主と」 「ああ、あれね」 「あれか」 「あれはなんていうか」 「介護だな」 テレビを見ていた刀達が首だけで振り返り、彼ら二人の会話に嘴を突っ込む。 「介護ってお前」 「介護って言っちゃうと語弊があるけど。でも平たくいうとそうかな」 朗らかに言い切った堀川国広の言葉を追うように、獅子王がゲームから顔を上げた。 「じいちゃん方向音痴なんだよな。だから迷子になんねえようにって寝る時に連れてくんだって部屋に」 兼定は訝しげな顔をした。方向音痴って。確かにこの本丸は広いが。 「だからって毎日寝てる自分の寝所見失うかあ?」 「でも畑の内番の時、いくら待ってもこないから見に行ったら馬小屋で寝てたことあるし。はっはっは、ここはどこだとか言ってたし」 「この間なんて遠征のはずが万屋ついたとか言ってなかったけ」 「まじかよやべえじゃねえか。病院いけ病院」 保険証ないけどね、と堀川国広が至極冷静に付け加えた。 来たばかりの兼定には、知らぬことの方が多い。 知っているのは世に名高い天下五剣のうちの一つだということ。随一と言われる優美さを備えた太刀であるということ。 三日月宗近が度を過ぎた大らかさと忘れっぽさを持つ御仁で、懐に玉鋼を忍ばせたまま一週間過ごしたり、五虎退の虎にしょっちゅう噛まれていることは、まだ知らない。 「しっかし介護ねえ、そんな歳かよ。いや歳か。歳だな」 兼定は腑に落ちるものと落ちないもの、両方を手にして最後にひとつ首をひねった。 「でもなんで主なんだ?」 寝所に案内するだけなら、主である必要はない。ここには無為に寝転がっている刀がいくらでもいるのだから。尚も視線で問えば、金の髪をした少年は肩をすくめた。 「さあ? 俺が来た頃にはそうなってたぜ」 獅子王はそれだけ言ってまたゲーム画面に視線を戻した。他の刀剣たちも、そういえばそうだな、という表情を浮かべはしたが答えを出すことなく、また特に出す気もなく、おのおのの時間に戻って行った。発端の兼定もまた、結局テレビに関心を吸い寄せられて終わった。 彼もまた、じじいの徘徊よりも、四歳児のおつかいの結末のほうに気持ちの比重が傾いたのだった。 部屋と部屋をつなぐ本丸の廊下は長い。 数十名にもわたる刀剣を住まわせるには、ちょっとやそっとの広さでは追いつかない為だろう。敷地も、またそこに用意された城も広大だった。 三日月よりも低い背丈の若い後ろ姿が、彼の前をゆく。伸びた背筋は冴えた夜の空気と似ているが、彼女を形作る性質と彼を導く掌はとても柔軟にできている。 「桜はまだだろうか」 「そろそろ暖かくなってきましたからね。きっともうすぐですよ」 「それは楽しみだ」 「三日月は桜がすきなんですね」 「花見をするのだろう? うまい酒が飲める」 「酒はいつでもうまいって言ってたくせに」 はっはっは、と三日月は主の背中に向かって笑った。 ひたひたと歩く。長い廊下を歩く。 そのまま突き当れば、今宵の終着点にたどり着く。 「つきましたよ」 「すまんな」 「また明日も出陣お願いしますね」 「あいわかった」 おやすみなさいと頭を下げて彼の主はまた長い廊下へと消えていく。足音が遠のくのを聞きながら、三日月は体を横たえた。ひたひた。 帰ったと声をかければ、彼らの主はばたばたと足音を立てて迎えた。彼女がゆっくり歩いて迎えたことなど一度もない。時に手に筆を、時に菜箸を持ったまま、取るものもとりあえずという状態で駆けつける。安否を確認するために。 今日の負傷者は一名。錬度が上がって来たので随行させたが、少し早かったようだ。手ひどくやられた。 主の顔を見て緊張の糸が切れたのか、それまでこらえていた五虎退は泣きだした。 その小さな頭を撫でて労わりながら、主は部隊長である三日月を見た。 「他はみんな無傷で」 「あいすまん。俺がついていながら」 銃や弓はどうしようもない、と主は笑って首を振り、五虎退の手を引いた。幸い重傷には至らない。手入れはそうかからないだろう。 三日月はふと、かすり傷ひとつない己の身に視線を落とした。 月の名を冠した名刀。称えられるのは美しさのみならず、一振りで敵を地に返す武勇は畏怖に値する。今やこの隊で彼を凌ぐものなどいない。破壊力は複数を撫でつける大太刀には敵わないとはいえ、錬度は遥か及ばない。 矢も鉛の弾も礫も、今の三日月には吐息程度。しばらく怪我らしい怪我などしていない。だから手入れの必要も、ない。 三日月が本丸へやって来たのは、ずいぶんと前になる。恐ろしく入手の難易度が高いとされる稀少な太刀を、審神者となってまだ日も浅い彼女は呼び出した。天性の才か、はたまた一生分の運を使い果たしたかは定かではない。 その時の彼女が手にしていた戦力は、打刀一振と短刀がほんのわずかという実に乏しいもの。そんな中迎えた三日月は一同から熱烈に歓迎され、その日から部隊の大黒柱となった。 控えなどいない。全員が一軍であり主力。戦の度に怪我も負い、刀装も毎日のように失った。 悲壮感はなかった。彼女は毎日蒼い顔をしていたが、主が為に戦果をあげて戻って来るのは、三日月にとって悪い気分ではなかった。 怒涛のような手入れのあと、広々とした広間で皆で昼寝をするのは快くさえあった。昼寝の輪の中には、主も含まれていた。ひとりひとりに薄掛をかけてまわり、自分もそのままごろりと横になるのを三日月は薄らとした視界の隅で見ていた。 身をつつむ日差しよりも柔らかい。桜が舞う、春の日の面影だった。 遠征から帰っても、戦が長い引いても、鍛錬しかなかった何もない日であっても。 夜になれば、主は三日月の手を引いた。 三日月は手をひかれるまま主の後ろをついていく。 「今日のお八つの団子、あれは良かった」 「だめですよ大?利伽羅の分まで」 「いらないといっていた」 「強がりですよ強がり。すごいしょげてたじゃないですか」 「そうか。気を付けよう」 「五回目なんですけどね」 取るに足らない話をして、ひたひたと歩く。 毎夜毎夜。寝室にたどり着くまでのほんの短い夜を歩く。 「三日月、短刀の面倒を見てもらえるでしょうか」 ある日、主は少しすまなそうな顔でそう言った。 先日の錬度不足で怪我をした五虎退の件が審神者の中で尾を引いているらしく、編成を入れ替えたいとの申し出だった。育ちきっていない者の育成は、経験を積んだ者しかできない。 とはいえ育成を託されるということは、第一線を外れるということだ。主の顔が曇っているのはそのせいだろう。 空いた穴には最近迎えたばかりの大太刀が入るとのことだった。彼は短刀と見まごうばかりの小さい身から、考えられない強烈な一打を放つ。きっと強くなることだろう。 三日月は月も霞むような微笑みでこたえた。 「あい、わかった」 星の見える夜。風の冴えた夜。墨のような闇の夜。 どれだけ夜が入れ替わっても、主を守る刀が増えても、主は月の手を引いて歩く。月が、主を支える柱ではなくなっても。 「風が冷たいな」 「雨が降ってましたからね」 「雨の匂いは嫌いではないぞ」 「洗濯物が乾かないのは困ります」 「はっはっは、もし乾かなければ内番服で戦にいくか」 「いくらなんでもラフすぎやしませんか」 ひたひたと歩く。夜の音を鳴らす板張りの廊下を歩く。 いつか向き合って手入れをされていた時のように、世間話をつらつらと交わして歩く。 唯一人の手に引かれて歩く。 かつては、任を預けて交代できる刀などいなかった。 それゆえ三日月は日々戦に出た。手強い相手に斬りつけられ、矢を浴び、槍に貫かれた。軽傷を負った。中傷にもなった。時に重傷も。 そうして尽力している内に、少しずつ少しずつ刀の仲間が増えていった。 あれほど頼りなかった本丸は日に日に戦力を増して、戦いは楽になり、遠征にも足を延ばせるようになった。体をいたわる休日すら貰えるようになった。 当時から戦場を共にしていた打刀の陸奥は、心からそれを喜んだ。 活気があるのはいいことぜよ。主も嬉しそうじゃ。 三日月もそれに頷いた。 すかすかだった大広間は、今では常に笑いや諍いを混ぜたざわめきがひしめいている。刀が増えれば雑務が増え、主は執務室にこもることが多くなった。ここで、いつかのように共に転がって惰眠を貪るのは、もう難しいだろう。 ――どうしたんですか、迷ったんですか? あれはまだ三日月が来て間もない頃。 月光がやけに鋭い夜だった。庭先に佇んでそれを見上げていた三日月を、寝間着姿の主が見つけた。 実を言えば迷子でもあったし、迷子ではないとも言えた。厠に行った後、寝所を見失ったのは間違いではないが、恐らく一人でも戻ることはできたろう。 その日、三日月は主の執務室に呼ばれていたのだが、納屋に迷い込んで短刀達に捜索されるという失態をおかしていた。それを知っていた彼女は、三日月を見てすぐに迷子だとそう思ったのだ。 自分でじじいと名乗ったせいもある。徘徊扱いだ。そう間違いでもないが。 主は三日月が何か言う前に、その手を躊躇なく取った。 大丈夫、私が案内しますから。 そうしてそのまま手を引いて、三日月を寝所まで連れて行った。 私も来た頃よく迷ってて、未だによくわかんない部屋がいっぱいあるんですよ、二畳しかない謎の部屋とか。 前を進みながら背中は朗らかに語る。白い月光が照らしているのに、冷たさはまるで感じなかった。静かに光って、暗い夜に道を作っていた。 おやすみなさい。 三日月を寝所に届けた主は、小さく笑って廊下を戻って行った。ひたひたと音がした。 最初は、偶然。 二度目からは、わざと目につきそうな場所を選んだ。宵闇の中、親切で柔らかい手が導くのを待って。 本丸は広くて迷う。だから仕方がない。だから、そう。 三日月を寝床に届けるのは、主の仕事になった。 三日月の代わりを命じられた大太刀は、あれから誉に誉を重ねて、ぐんぐんと力をつけていった。熱心であるし、何より伸びしろがある。部隊長に任命される日も近いだろう。 三日月は縁側に腰掛けて、務めを終えた短刀達が庭先で戯れているのを眺めていた。桜のつぼみはまだ膨らまない。 ひたひたと歩く。夜の廊下を歩く。 桜が遠くなっても春の匂いがしなくても。 その時間だけは、ただ一振りの刀のものになる。 「じいちゃん」 「うん?」 「食まれてるけど」 「はっはっは、馬に好かれて困るな」 「ほんとに困ることになりそうだけどいいのか?」 三日月の髪を飼葉のように馬が食み続けるのを見かねて、獅子王がはがした。 三日月はよきかなよきかなと拭いながら笑った。 「俺さ、次から実戦出してもらえるって」 「それはめでたいな」 「でも隊長じゃねえんだって! 俺隊長がいいなー!」 ぶうたれる獅子王を見て三日月は目を細めた。 彼もまた、本丸に来て日が浅い。未熟さは逆を言えば、可能性の宝庫だ。主は経験の浅い者にも平等に機会を与える。 「誉を重ねればいずれ叶おう」 尚もこちらに首を伸ばしてくる馬に、三日月はブラシを入れ始めた。一頭を代わるがわる世話していた頃を思えば、馬もずいぶんと増えた。 一軍から外れると不思議なほど時がゆっくりと流れる。穏やかなひとときは、三日月の好むところだ。波風は立たない。そうありたい。 最初は子供のようなひ弱さが目立った短刀達も、ずいぶんと逞しくなった。このところで怪我を負うこともほとんどなく、太刀を相手にしても臆することがない。 その成長は主を大いに喜ばせた。短刀達もまた、戦功を誇らしげに披露して、褒めてほしいと主を取りかこむ。 ご褒美のつもりなのだろう、主は小さな包みの金平糖を袂から出してそれぞれ分け与えていた。 それを手に短刀達はわあきゃあと喜んで部屋へと駆けて行った。残ったのは三日月と主だけ。 報告を済ませて立ち去ろうとした三日月に、主は袂から金平糖を出した。 彼女は他の刀には内緒だと小さな声で囁いた。 世にあるのは月だけではないと三日月は知っている。 輝く太陽もある。空にはりつく雲も、地を彩る花も風も雨もある。 夜の時間こそ、星と空を分け合って存在を誇示しているが、陽が昇れば身を隠し月の姿は地上からは見えなくなる。 しかし輪郭を薄くして溶け込んでいるだけで、空にあることは変わらない。 昼も夜も月はある。雑多な世界に埋もれて霞んでしまっても、月からは見えている。見ている。光指す方を。 見上げる者にとって、世界を構成するただの一つでしかなくても。色とりどりの金平糖の中の一粒でしかなくても。 廊下をひたひたと歩く。手を引かれて歩く。 少し風が強い夜だ。背中にたらされた髪が、羽ばたくようになびくのを三日月はぼんやりと見ていた。 「体の方は、大丈夫ですか」 静かな声がしてふと目が覚める。振り向かない背中が問いかけて来た。 「ほう、このじじいを案じているのか」 「じじいだから案じているんですよ」 手は相変わらず柔らかい。握るように添えるように三日月を引いてゆく。 主は本当は何もかもわかっているのかも知れない。この時間がとうに必要のないものだと、察しているのかも知れない。手を引く理由はもうないと、気づいているのかも知れない。いつ背中が翻って、手が離れるとも限らない。 それきり言葉が途切れて、ひたひたと歩く。風が頬を弾くように叩いてゆく。ただひたひたと歩く。 と、ぴたりとその足がとまった。 いくらか間をあけて、背中が語った。 「……現在の一軍が三日月になんとか追いついてきました」 少しだけ掌が冷えた。 「それで、次の戦場に進もうと思うんです」 実力としての差はずいぶんありますけど、率いてもらいたいんです。 「三日月に」 気性を示すようなまっすぐな黒い髪が目の前で揺れる。月を見るのとも、星を見るのとも、桜を見るのとも違う心持ちで三日月はそれを眺めた。 返事は、考える前にするりと口から滑り出す。 「あい、わかった」 どちらともなく足が動いた。 いつものように、いつもの夜をゆっくり踏んで進む。風はもう頬を嬲りはしない。廊下は夜の全てを静かに吸い込む。 「本丸は広いな主」 「そうですね、未だに迷ってますもんね三日月は」 「はっはっは。もっと広くても良いぞ」 「これ以上迷う気ですか」 見えない背中にひとつ頷く。 もっと広くあればいい。遠くあればいい。 この板張りの廊下が、遥か彼方まで、それこそ月まで届くほど長くあればいい。 ひたひたと夜を歩く。 ひたひたと月が光る。 |