まっすぐの力加減が苦手だ。だから単純な作業でしかない、印鑑はいつも緊張して結局綺麗に仕上げられない。閲覧を確認するだけの検印だから、掠れていても構わないのだけれど。 「お疲れ様でした」 伸びてきた近侍の手によって書類は綺麗にひとまとめにされた。終わったと思うと、どっと審神者の肩から力が抜ける。文や朱肉をざっと片せば、占領されていた机にもようやく隙間ができた。ふと喉が渇いていることに気づく。 「一期、」 「一息入れますか。お茶をご用意しています」 振り向いた時には一期一振は、すでに手を叩いて控えていた短刀にお茶の準備を命じていた。時刻をみればちょうど三時。おやつ時だ。今日はなんだろう、とそわそわと厚藤四郎が運んできたお盆を覗き込むと、彼はニッと笑って背に隠した。 「おーっとまだお茶も入ってないぜ? 主いやしいんだ」 「なんだと! 見るだけ! ちらっと見るくらい許されるでしょ!」 「もうすぐ口に入るのに待てねえのかよ」 「すぐ先の未来が知りたいの未来が」 手から逃れるお盆につられて追いかけっこのような形になったが、短刀はみなその機動の生かしてすばしっこい。足さばきが鈍くなる審神者の装いでは分が悪く、いいようにあしらわれた。 「こら」 小さな背丈に隠されていたお盆が、ひょいと高く位置に浮き上がる。あ、と短く言いながら審神者と厚がそれを視線で追うと、怖い顔をした一期一振と目が合った。 「厚、お世話の為に召したのに遊んでいてはいけないな」 めっと睨まれた厚はすぐに弟の顔つきになって肩をすくめた。やんちゃで威勢のいい彼も、兄の一喝にはずいぶんと素直に従う。逆らうと怖いのだそうだ。それは少しわかる気がした。 「わかったらお茶の支度を」 「はいはーい」 兄に促され渋々と準備にとりかかる弟を手持無沙汰で見送っていると、姿勢の良い背中が翻った。 「主も」 「へ、はいっ」 「そのような格好で走り回ると御怪我いたします。御身大事になさいますよう」 審神者はもう一度、へいっと返事をして姿勢を正した。 一期はやや厳しい、お説教にふさわしい表情をしていたが、そう見えるように作られているのだと審神者はわかっていた。それを証拠に、審神者が反省して裾を整えるとすぐにいつもの柔らかさをその顔に取り戻す。穏やかな微笑みは彼の常だ。 今のようにたしなめられたことはあっても、声を荒げて怒鳴られるようなことは一度もない。主従とはいえ、刀によっては遠慮のない荒々しさが目立つものもいる。一期一振は、言動に強弱をつけながらも感情的に決してならない。それでいて、差し出す忠誠は冷ややかではなく体温がこもっている。補佐として身近に控えているだけで、安心感を与えるような刀だった。 未熟であること自覚している審神者には、それが心地良く頼もしかった。空気のように傍らにあるのではなく、背を支えるようにそっとある。 「主、お茶の用意が整いました」 「ありがとう」 では書類を送る手はずを整えてまいります、と一期は部屋から下がろうとした。お茶をいれてくれた厚はすでに退出している。おやつを自室で兄弟たちと食べるのだろう。 「一期、一緒におやつにしよう?」 なんとなく自分だけで食べるのは味気ない気がして、審神者はつい引き留めた。一人になると、この部屋はずいぶんと広くて静かになる。落ち着くこともあるが、今は望むところではない。 下がる前の礼をとろうとした一期一振は、一度だけ目を瞬かせた。それからその口元に刃とは到底思えない丸みを帯びた笑みを浮かべた。 「お誘いは嬉しい限りです」 が、と一期は笑みに悪戯っぽさを含ませた。 「よろしいのですか?」 視線は皿の上に。 厚を追い立ててまで知りたかったおやつはカステラ。甘いものに目がない審神者の好物のひとつだった。それをそつのない近侍が心得ていないはずがない。 柔和な笑顔が、分けて下さるのですか、と囁いて試している。審神者はぐっと言葉につまって、眉間にしわを寄せた。 三切れしかない、黄色いスポンジとにらめっこして考える。平等に半分……いや一切れ、そのまた半分くらいならば譲っていいだろうかと審神者は寛大なようで相当に大人げないことを考える。 「申し訳ない。冗談です」 噴き出すような音がして、綺麗な笑顔がひといきで崩れた。そのまま出口から離れ、颯爽とした足運びで主の元へ。 「私はお茶を頂ければ。主の分まで取り上げたり致しませんよ」 まだくすくすとした笑いの名残をはりつけた刀は手早く茶を一杯いれ、斜めの位置に腰を下ろした。 「一期」 「すいません」 「すごい葛藤した」 「お心遣い痛み入ります」 今度は揶揄するようにではなく、心からこぼれ出るように笑うものだから、審神者は口を尖らせながらお茶をすするしかなかった。 審神者が今よりもっと未熟であった時に一期一振はこの本丸に現れた。 大太刀も槍もおらず、それどころかまだ短刀も揃いきらないような、お世辞にも充実したとはいえない環境だった。今でこそこうして優雅にお茶をたしなむ余裕ができたが、かつては資材も戦力も乏しく、目も回るような忙しさでひと息つく暇さえなかった。心折れることなくその時期を凌ぐことができたのは、当時から近侍として仕えていた彼の働きによるところが大きい。 相次ぐ出陣に主の補佐、血肉を得た刀とはいえ楽ではなかったろうに、彼は凛々しくも落ち着いた声音で主の憂いをはらい落とした。 弟たちを束ねるようなものですから、と。 「あ、ごめんみんなで食べる約束してた?」 早々に退いて行った彼の弟を思い出し、審神者は茶器から口を離した。 粟田口兄弟は数が多い割りに、だからこそというべきか仲が良い。長兄の一期一振をこの本丸に据えてから、多くの脇差や短刀を迎え入れる形になったのだが、そのたびに「弟です」「こちらも弟です」「私の弟です」と紹介され、用意しておいた部屋が粟田口兄弟で埋まる様は壮観だった。その後も行く先々で増え続け、結局一部屋では間に合わなかった。 今日は遠征も休ませ、珍しく粟田口の全員がそろっている。もしや長兄を引き留めたことで彼らの水入らずの時間を奪ってしまったのか。審神者はごくりと一切れ目のカステラを飲み込んだ。 「いえ心配無用です。今頃、私の分のおやつを元気に奪い合っていることでしょう」 茶器に手を添えた一期はふと目を細めた。刀でもない、家臣でもない、愛情に裏打ちされた兄の顔だ。 叱り説き伏せる時も、これが根底にあるゆえに、弟たちは恐れながら敬い慕う。この粟田口唯一の太刀に見守られることで生まれる安堵は、審神者もよく知っていた。 「一期は生まれついてのお兄さんだから、私のあしらいも上手いのかな」 厚を叱るのと等しく小言をもらった先ほどの光景を思い出してそう言った。目の前の刀はいつだって審神者である彼女に優しく厳しく、そしてあたたかい。それこそ出来のよくない妹を見るように。 一期一振は手にしたお茶を置いてから、口を開いた。 「主を弟たちと同じように思ったことはありませんな」 彼にしては不躾な視線の預け方だった。尖ってはいないが普段よりも力強い眼。それがふたつ、審神者を射抜く。 審神者はハッとして、それからばつがわるそうに笑って見せた。 「そうか。主人だもんね一応」 二切れ目のカステラを口に押し込む。空になる前に湯気をたててお茶が注がれた。本当に抜かりがない。 やっぱり残り一切れは、この忠義者に褒美としてつかわそう、とそんなことを思いながら審神者は咀嚼した。たいそう夢中だったから、その声はきっと届かない。 彼は兄ではない近侍でもない微笑みで小さくつぶやいていたのだ。 ――そういうことにしておきましょうか、今は |