「おい、肘にケガしてっぞ」 後ろからそう声をかけられて、は慌てて自分の右腕を覗き込んだ。 なるほど、どこかに引っ掛けてしまったらしく、肘のあたりにほんの少し血がにじんでいる。 礼を言おうと思い、はそのまま振り返った。 「ほんとだ、ありがとうございま…すぅ――――!!!」 振り向いた瞬間に驚愕の表情で叫び声を上げられ、宍戸は大いにうろたえる。 「なっなんだよ!」「ししししし宍戸先輩、血、血、頭から血が!!」 「血?…あ?……うっおわぁ――――!!」 + タ フ ネ ス ハ ピ ネ ス + 「…何か、かえって世話かけちまったな」 「いえ、それは別に構わないんですけど…」 よく痛くありませんでしたね、とは血に染まったガーゼを眺める。 さきほどコントかと思う勢いで額から血が垂れ流しだった宍戸の傷は、見た目ほど深くはなく、少しの間押さえるだけで出血は治まった。 「長太郎のサーブがちょっとかすったかも知れねぇけど…直接当たった訳じゃねぇから気付かなかったんだよ」 「直接当たったら頭蓋骨ヘコみますよ!」 本当にこの人は生傷が耐えない。 いつも必ず、どこかしら痛めているように思う。 選手生命に関わるような大きな怪我ではないのですぐに治るのだが、練習のたびに新しい傷を負うので彼の体から絆創膏類が消えることは無い。 心配である。 怪我のしすぎでいつか痛点が麻痺するんじゃないかと、本気で気がかりだ。 「あいつのコントロール…未だに定まらないからな」 更に心配である。 宍戸のダブルスの相方、驚異的な威力でレギュラーを射止めた長太郎のサーブは本当にスカッドだ。 だがその球威ゆえか、コントロールにムラがある。まさにタマに傷。 あまり精度が良いと言えないその殺人サーブの最も餌食となりやすいのが、対戦相手ではなくパートナーの宍戸である。 その為はほかのどの選手の試合より、宍戸・鳳のダブルスの試合で手に汗を握ってしまう。 勝敗の行方はもちろんだが、なにより宍戸の脳天にアレがブチ当たらないかが一番の焦点であった。 「本当に気をつけてくださいね、宍戸先輩のまわり危険がいっぱいなんですから」 「んな、大袈裟なっ…っっ痛ぇ!!!!」 「うわっ出過ぎたっ!す、すいません!!」 額の傷を消毒しようと手にしたマキロンが思いのほか景気良く飛び出してしまい、宍戸の右目を襲った。 「…本当に危険って奴はいっぱいだな」 「…すいません…心底すいません」 「…ま、わざとじゃねぇし。そんな気にすんなよ」 とは言うものの、宍戸の右目は思いっきり充血している。 額は切れてるわ、眼球にマキロンは食らうわ、その目を洗いに行く際、焦ってつまずいて膝に新たな擦り傷が誕生するわで一気に宍戸、満身創痍。 治療のつもりが更に痛めつけてしまう結果となり、は申し訳なさそうにうなだれた。 「それよりお前の肘、先に手当した方がいいぞ」 「え?…あ」 宍戸に言われて、はさっきの自分の傷を思い出した。 指摘されるまで怪我の存在に気付かなかったくらいであるし、目の前に血まみれの人間が現れればそんなもの頭からすっ飛ぶというものである。 「これは別に後でいいですよ。大した傷でもないし」 「そんなのわかんねーだろ。そこから菌でも入ったらどうすんだよ」 「いやそんなこと言ったら、宍戸先輩の膝の方が結構イッてますよ?あっ血がダラダラ出てきた!」 「こんなもん出しときゃいいんだよ!余ってんだよ!いーからもう、貸せ!」 「ぎゃ!」 苛立ったように宍戸はの右腕をつかんで、傷ついた肘を引き寄せた。 そのまま片手で持った消毒液をブシュブシュとかける。 さっき爆発したせいか、今度は飛び出すことなく適量なマキロンが傷口に注がれた。 チクリとした痛みに、は思わず顔をしかめる。 「う…しみる…!」 「我慢しろ。こんなもんでしみるとか言ったら、さっきの俺はどうすりゃいいんだよ」 確かに。 痛みに強い宍戸じゃなければマジ泣きのレベルである。 忍足あたりなら、号泣するだろう(メガネ系は目関連弱そう) 「…あ、もう大丈夫ですよ」 消毒後、宍戸が傷をふさごうとガーゼを取り出したので、は手を引っ込めようとしたが。 「大人しくしてろって」 宍戸は腕を離さなかった。 「すいません…先輩にこんなことさせちゃって」 宍戸は選手であり年上である。 はマネージャーであり年下である。 どう考えても立場が逆のこの状況は、をこの上なく恐縮させた。 宍戸は一瞬顔を上げ、すぐに視線を落とした。 「別に大したことじゃねぇよ」 下を向いたまま、紙テープを歯で千切る。 手馴れた動きだ。 伊達にしょっちゅう傷をつくっていない。 「…それにお前、今ここで俺が無理矢理でも手当てしねーとそのまま放っとくだろ」 「う…」 腕のみならず、指や足に残された傷や痣。 注意力散漫なせいなのか、は自分でも気付かないうちに怪我をしていることが多い(多いといっても宍戸の比ではないが) たいてい今回のように大した深いものではないので、はいつも自然治癒力に任せていた。 要するに、宍戸が言うとおり放っとくのである。 なにしろテニス部は大所帯。部員が多ければ自然と負傷者も多くなるわけで。 そうなるとそちらの手当てを優先させねばならず、自分の擦り傷ごときにかまっていられないわけだ。 だが、それを宍戸が気付いているとは、にとって少なからず驚きである。 「忙しいのはわかるけどよ…って忙しくさせてる筆頭は俺か」 独り言のようにそう言って笑った宍戸の膝小僧からは、まだ血が流れている。 それを見ていたら、何故だか急に握られている右腕が熱くなった。 宍戸との距離の近さを、今更になって意識する。 片腕の自由を奪われている状態をどうしていいかわからずには黙ってうつむいた。 膝から溢れ出る血がすねまで滴っている。 …あれ…? ぼんやりとを流れゆく先を目で追っている内、は妙な違和感を覚えた。 「宍戸先輩…治ったところに、また傷作ったんですか?」 思わず、は疑問を声に出していた。 「あ?傷がどうしたって?」 「いや、ホラ、この右足のすねの…ここ治ったばっかりなのに、また擦り傷が」 が示した箇所には、新しい傷があった。 つい先日、かさぶたがとれたはずだったのに。 「あー…これこないだ、フェンスに引っ掛けてよ………ってお前、すげぇな」 何がですか、とは宍戸の顔を見上げた。 「部員の傷の場所まで完璧に把握してんだな、と」 「いやそんな、把握出来てませんよ」 「だって現に今言い当てただろ。すげぇってマジで」 「や、ホント全然なんですって、」 感心しきった様子の宍戸に、照れくさそうには首を振った。 「他の人の怪我なんかは覚えちゃいないし」 瞬間、宍戸の体全体が固まったのをその目では見た。 …いま自分は、何と言ったのか 何の気も無くサラリさらっと答えてしまったが、とても濃密なことを口に出してしまったのような。 「他の人の怪我なんか覚えちゃいない」である。 他の人なんかである。なんか呼ばわりである。 部員みんなを気に留めているわけではない、と遠回しには言ったわけで。 要するに宍戸先輩しか見ちゃいないよ、という大胆な発言である。 これが濃密と言わずしてなんと言おうか。 「や、あの…今のは…!」 無意識に飛び出した言葉の深さは、わずか数秒遅れてに襲いかかった。 恥ずかしさの大津波。 ビックウェーブ到来である。 誰か、今の時間を巻き戻してくれ…!! あと、出来たら編集もお願いしたい…!! は自分でも何をしているかわからず、椅子から立ったり座ったりを意味もなく繰り返していた。 しばらくオロオロと忙しなく動き続ける目の前の後輩を、呆気にとられるように見ていた宍戸だったが、 「なんつーかその…ち、違うんですっ」 焦ったように手を振るのその言葉で、表情を変えた。 「…違うのか?」 そう問われたは、更に言葉に詰まる。 「いや…あの、ちっ…違わないんですけど…」 ここで否定してしまえば、幾分か楽になるのだろうがに嘘はつけなかった。 宍戸を見ていたのは本当であるし、宍戸だけを見ていたのも本当である。 ボロボロになって特訓を重ねる姿には胸が詰まるような思いを覚えたし、レギュラーに戻れた時は涙が出るほど嬉しかった。 ほのかな想い――いわゆる片思いというものを宍戸に対して抱いていたのは揺ぎ無い事実である。 だがこんな、ちょっと手違いではみ出ちゃいましたよ、みたいな形で恋心を露呈させる気などまったくなかった。 言わば、にとって予期せぬ事故である。 観光バス横転、くらいの被害状況である。 「わっ…忘れてください!春風のいたずらだと思って、わたくしめの戯言などお忘れください…!」 自分の発言に対して否定もできず、かといって思い切った肯定(告白)もできないは、椅子に座ったまま許しを請うようにガバッと頭を下げる。 忘れろといっても忘れてもらえるはずがないのは百も承知だが、他にどうすることも出来なかった。 そうこうしている内に、宍戸の膝から噴出している血はどこまでも流れ落ち、床に赤いシミをつくる。 それが顔を下げたの視界にも入り、いい加減それ治療したらどうか、とわずかに正気に戻ることができた。 「…と、とりあえずその膝、消毒しましょうか…」 相変わらず下を向いたたまま救急箱の中を探るが、指の震えが更に緊張を呼ぶ。 右にマキロンを握り、昂ぶりを制しようと空いた左手で要らぬ脱脂綿をブチブチと千切り続けた。 落ち着け落ち着けと、心で唱える。 「……俺だってなぁ」 ふいに響いた絞り出すような声に顔を上げれば、視線から逃げるように天井を仰ぐ宍戸の姿。 「俺だって…他の奴の怪我だったら気付かねーんだよっ」 握り締めたマキロンが、祝砲のように手の中で暴発した。 氷帝一オットコ前な宍戸さん、誕生日おめでとう。 |