が、告白された。



 その第一報は鳳長太郎からもたらされ、宍戸の口を通じて忍足に伝わり、向日の手によって拡散された。古来より、噂の足は矢よりも早いとされる。携帯電話などの連絡ツールが発達し普及した世においては尚のこと加速し、それは瞬きさえも凌ぐだろう。
 実際、放課後が訪れ、いつも通り部活が始まる頃にはレギュラー陣のほとんどが知るところとなった。当然頂点におわす部長の耳にもそれは平等に届けられている。平等とは時にして正義であり残酷である。

 ドアを開けた瞬間、を迎えたのは壁のように立ちふさがって待ち構えていた跡部の姿だった。いつからこの態勢でお待ちになっていたのだろうか。とにかく、行く手を遮られそれ以上進めないことと、すでにご面相が柔らかく言えばご機嫌斜め、わかりやすく言うと憤怒、で占められていることから、はすぐにドアを閉じた。ばたん。そして閉じるが早いか踵を返して走り出す。ほとんど無意識に足が動いていたといってもいい。これといった根拠があったわけでなく、どうも日が悪い、逃げたほうがいい、よくわからないけどそうした方が絶対いい、と己が鳴らした警報に従ったまでだ。いわゆる野生のカンというものだが、極めて精度が高いと言えよう。
 しかし敵もさるもの。弾くがごとく猛然とドアが開いたかと思えば、の行動など見通していたかのように間髪いれず追っ手が飛び出し、走り去るを弾丸のように追い始めた。言葉も合図もないまま逃走劇の幕は切って落とされる。逃げる、追う跡部。どこかで見たような懐かしい光景。繰り返すか、また繰り返してしまうのか、いつかの日をほうふつとさせる虎がネズミをおいかける宿命の一戦の再現か!
 だがいくら頭に血が上っていても、跡部には同じ過ちは犯さない知恵があった。過去惜敗している相手だけに、追いかけっこは分が悪い。跡部は全力で駆けながら、抱えていたテニスコートのネットをめがけて放った。空中で舞うように大きく広がった網目が獲物に襲いかかり―――たまたま目撃した通りすがりのテニス部員そのAは思った。
 
 あ、投網漁法だ。



 漁は成功し、魚は網にかかったまま部室に水揚げされた。
 地べたに座らされて、長さを持て余すように椅子の上で足を組んだ跡部に見下ろされる。他の部員たちは害が及ばぬ程度の遠巻きから、それを興味津々という目つきで眺めていた。床に正座。上から跡部。並々ならぬ緊迫感。これまた否が応でもあの日あの時を思い出させる光景である。
 なにこれ? 再放送?
 しかしあの日と大きく異なるのは、には思い当たる節がない点だ。跡部に靴をぶっこんでもいないし、それに該当する無礼も今のところ働いていない。たぶん。おそらく。自信がないのは日頃の行いが悪いのではなく、跡部の怒りのツボが読みきれないせいである。とはいえ、こうまで厳格に扱われる筋合いはないのではないかとは網に巻かれたまま思った。
「……洗濯ネットに絡まった洗濯物みたい」
 ぶふっ
 の姿に対してぽつりと滝がもらした感想に、ほとんどの者が吹き出しかけたものの、当の跡部が全く笑っていないので彼らはそれを飲み込むのに四苦八苦せねばならなかった。無論、笑ってないのはも同じで、やかましいわと野次馬を睨みつけてやりたい気持ちはあったが、頭上から注がれる視線の重さに四肢を押さえ込まれてとても身動きが取れない。下手に動く気になれないというべきか。
 跡部は銅像のように動かない。連れてこられてというもの、じっと見下ろすばかりで一言も言葉を発しておらず、それがますます不安を煽った。いっそ怒鳴り散らしてくれた方がどんなに楽なものか。
 助走は長ければ長いほど、遠くに飛ぶ。弓は引けば引くほど、矢の威力を増す。注射の針は焦らされれば焦らされるほど、恐怖に光る。待ち合い室の時間は短いに限る。
 がうっすらと冷や汗に額を濡らしつつ、羊の数を数えていると、椅子がわずか軋む音がした。それを契機に、床に落としていた視線をおっかなびっくり持ち上げる。つりあがった青い眼とぶつかった瞬間、ソフトクリームのコーン部分を持つ要領で顎をつかまれた。
「……どこの、男だ……?」
 溜めた間合いが恐ろしくて、返事の代わりにの喉からはヒュー……と空気が漏れた。美しい顔ばせの左右を飾る眼がぼこぼこと静かに煮えたぎっている。お叱りを受けるのは慣れているが、瞳の底で燃える暗い炎にはあまり見覚えがない。手元が狂って、つるっと地獄の蓋を開けた感じだ。顎をホールドされたまま、瞬きを繰り返しているに、跡部は再び口を開いた。
「聞こえなかったか。一体、どこの、男なんだァ……?」
 リピート。さらに語尾に小さい「ァ」の出現。声のボリュームこそ控えめだが、高品質のスピーカー並に重低音が感じられ、皮膚も震えた気がした。
「どこの、男の、おはなし、でしょうかァ……」
 言葉尻が似てしまったのは、リスペクトしたつもりでもなんでもなく、発声に力がなくよろめいてしまったせいである。途端、囚われの身にある顎にぐっと力が加わった。
「往生際悪くすっとぼけやがって。俺が何も知らねえと思ってんのか?」
「少なくとも私は何も知りません……」
 いよいよ顎に加えられる力が強くなる。
「ちょっ、顎が! 砕ける!」
「小顔になれるぜ」 
「ヒェー……そんなバランスの狂った小顔効果ほしくないです」
 うるせえ、と怯える子羊を一蹴した跡部は、目線を標的にぴたりと合わせたまま唇だけを動かす。まるで獣の息遣いだ。生まれ落ちてせいぜい14、5年の浅い月日をどうやって生きればこのような迫力をまとえるのかと不思議で仕方がない。
「今日、お前の身に起きたことを言ってみろ」
「り、理不尽にも顎を中心にいびられています」
「今じゃねえ」
 この24時間以内に、普段とは違う何かがあっただろうが。
 跡部にそう凄まれ、は緩慢に首をひねる。さて何かありましたかな、と過ぎ去ったばかりの鮮度の良い記憶を頭の中で順々に引っ張り出し始めてすぐ、「あっ」と短く声を上げた。
「そうだ、五時限目に、いきなり教室に乱入してきて」
 跡部が目を剥く。
「なにっ?」
「少し開いてたドアの隙間から入ってきて大騒ぎに」
「男がか!?」
「のら犬が」
「犬!?」
「いやー佐々木君の上履き噛んで噛んで、そのままくわえて持ってっちゃってもう」
「教室まで入り込むとか犬すげーガッツあんな」
 ここにきて初めて口を挟んできたのはソファに身をあずけながら傍観していた向日である。もそれこそネットに絡まれた洗濯物のごとき格好のままで、ごく自然に頷き返した。
「校庭あたりじゃよく走り回ってたけど、まさか校内に侵入するとは」
「なんか妙に二階がやかましい思うたらそれだったんかいな」
「そういえば階段に犬みたいな足跡があったね」
「白っぽいやつか? 最近このあたりで見かけるんだよな」
「ああ、あの人懐っこそうな大きい犬ですよね? 確かに最近見ますよねよく」
「白っていうにはくすんでたけど。汚れた中華饅頭みたいな、」
 床板を割るように地響きが轟いた。跡部がその長いおみ足を振り上げて、床を踏みしめたと気づくまで一秒も要らない。ぴたりと姦しい声が止み、彼らは一様にそっぽを向きながら薄情なまでの引き際の良さで見物人に戻った。急に一人置き去りにされた肩身の狭さを感じつつ、は跡部の顔色を見上げてぼそぼそと喋った。
「ええと、奪われた上履きは階段の踊り場で見つかったそうです……」
「上履きの顛末なんぞどうでもいい」
 日頃よりあまり褒められたものではない目つきが、いよいよ据わってきた。としては十分に日常を揺るがす「事件」に値すると思うのだが、跡部の求める回答ではなかったらしい。ちなみに犬は最終的にソーセージをまいておびき寄せた榊太郎によって捕らえられた。
「お前にはもっと、報告すべき事柄があるだろう」
 這うような低音とともに、凄みをはらむ美貌が上からに近づく。
「言いたくないなら代わりに教えてやろうか」
 あ、じゃあお願いするっす、と言える雰囲気でもないし、A川J郎でもないのでそこまで神経も太くない(このただならぬ中、彼は爆睡している)。応答かなわずごくりと喉を鳴らすと、勿体ぶるようにゆっくりと跡部が告げた。
「……昼休み、男に呼び出されたそうだな」
「…………えっ、」
 その言葉にぱちくりと目を開くのも束の間。思い至った次の瞬間にはの口から悲鳴にも似た声が。
「なんでそれを!?」
 の反応を前に、跡部は口元は片方だけすうっと上げて、たちの良くない笑い方をつくった。間者の正体を暴いてみせたマフィアの首領みたいに。
「誤魔化せると思ってたか? あいにくだが世の中お前みたいに甘くない」
「ごまかすとかじゃなくて、何の話かぴんと来なかっただけで……」
 鋭い眼光に気圧されたはもぞもぞとした口調で弁解を並べ始めたが、途中で我に返ったように言葉を切って見返した。 
「っていうかどこから、まだ誰にも言ってないのに」
「はい! 俺です」
 場に似つかわしくない溌剌とした挙手で応えたのは、遠巻きの群れの一人、鳳長太郎だった。後ろめたさゼロ。実に気持ちよく爽やかな自首である。
 お前か……!
 抗議を意味を込めてきつい眼差しで出処を睨んでみるも、「てへへ」みたいな微笑みの先方には悪びれる素振りもなく、尖らせた視線は春風のようにその体を通過するばかりであった。虚しい。
さん、昼休み校庭裏にいたでしょ?」
「うん……」
さんからは見えなかったかも知れないけど、俺もちょうど居合わせてて」
 の顔が見事なまでに引きつった。
 見間違いであるはずもなく、鳳が見たのは本人である。彼の目撃証言通り、は昼休みも終わろうという頃、男と二人で会っていた。
 話があるからと呼び出された先で、待っていたのは見知らぬ男子生徒。姿をみせるやいなや彼は口を挟む隙を与えないほど一方的に、そして熱っぽく喋り倒したのち、「考えておいて欲しい」と締めくくってさっさと立ち去ってしまった。嵐のような一連の出来ごとに「なんだったんだ今のは」と呆然にも似た感覚を、校舎裏に取り残された時には確かに抱いていたのだが、その後発生したワンワン大乱闘事件の騒ぎのせいで、の頭からすっとんでしまったのだ。
「なんで、鳳君があんなところに」
 ただの問いかけも、自然と恨みがましい声になる。 
「ちょっと、女子に呼び出されてて」
 鳳が少しばつ悪そうに告げると、途端に一同、あっそうでしたか、と白けた顔になった。容姿端麗ながらも近づきがたい雰囲気を持たない鳳は、跡部とはまた違う人気を集め、人あたりの良さも手伝ってかやたらと女子から言い寄られている。取り柄は身長か顔かどっちかにしろ、と日々個人的なやっかみを募らせているのはもっぱら向日である。
「用が済んで、ちらっと覗いたらさん男の人に熱心に口説かれてたみたいだから、これは報告しないとと思って」
「なんで!」
 なんでみんなでシェアしようとしちゃうんだよ!
「知らせる必要あるかな? あるかな? ないと思うな? 無駄に個人情報やり取りするのやめてください!」
 ひた隠しにするつもりはなかったが、全て筒抜けというのもまたぞっとしない話だ。
 両手が自由ならば頭を抱えているところだが、ネットによるいましめがそれをさせず、は頭を激しく揺するなどして可能な範囲で抵抗を示した。
「無駄っちゃ無駄やけど、おもろいからええやん。どないな男か興味あるわ」
 なあ? とにやにやとした笑みを上っ面に乗せた忍足が横に目をやると、頬杖をついてた向日も好奇心を覗かせながら応じてみせた。
「勇気は認めてやってもいいんじゃね? いい度胸してんじゃん。フツー手出そうと思わねえもん」
「まあな。並の男なら腰がひけるだろ」
 宍戸に同意を示す滝や鳳などが揃って罪人もかくやという扱いを受けているに視線を送った。今でこそ「無難」とは一線を画す奇抜な姿を晒しているものの、という生徒は、単体で考えればとりたてて目立ったところはない。よくよく付き合いを深めればまた違った評価も下されようが、世間的には平均的な小娘の一人である。
 しかし、跡部景吾の存在を加味して考えれば、話は変わってくる。派手で人目を引くきらめきの塊には、いつなんどきも他人の興味がつきまとうものだ。氷帝において、圧倒的な認知度を誇る跡部も例に漏れず当てはまる。
 当人が意識しようがしまいが、その一挙一動に人は関心を寄せていて、ネクタイの結び目がいつもと違うだとか、ジェット機で来ただとかヘリで来ただとか馬で来ただとか、常に真偽不明な噂は絶えない。そんな綺羅星のごとき男が特定の誰かに執着を見せ、日々追い掛け回していれば、徐々に相手に好奇の目が向けられるようになるのは当然といえば当然である。
 つまり跡部の影がちらつく彼女に堂々と色目を使おうとする輩は、骨のある命知らずか、事情を察していない知らぬが仏かの二種類。が、通りすがりにナンパしたわけあるまいし、思いを打ち明けるに至るほど恋慕を募らせている男が、彼女を取り巻く様々なものに無関心でいるわけがない。跡部との関わりを知っていながら尚、果敢に挑んだ勇者とみなすのが妥当、というのが彼らの推測だ。
 涼やかな声が少しの喧騒を割る。
「で、結局、相手は誰なの?」
 滝が美しい髪をなびかせ、ごくナチュラルに核心に迫った。しばし大人しかった跡部の目が険しくなる。序盤から、何度となく詰め寄られた問いの繰り返しに過ぎないが、何を聞かれているものかわかってもいなかった先ほどとは違って話が明瞭となった今、の口はさしてためらいもなく開いた。
「三年生の、えーと……名前は忘れちゃったんですけど」
「ひでえ!」
「こいつ名前も覚えてねえ!」
「俺がそいつやったら泣くわ……」
 信じらんない! みたいなテンションで、名も知らぬ彼への同情とに対する非難に外野が湧いた。本題に入る前での思いがけず派手なリアクションにつまづき、は少しばかりたじろいだ。
「え? あ、すいません?」
「心ない安い謝罪やわー……」
 憐れみをにじませた調子で忍足は首を振る。取り合うのも面倒で、人でなしを見るような目線から身をかわしたは、先を促す跡部の方を向いて言葉を続けた。
「陸上部の、確か副部長だって言ってました」
 ぶつけるように熱意を伝えてきたその人の日に焼けた肌を瞼の裏で思い浮かべた。一つ年上で、目を輝かせて、全くの初対面。ずいぶん体温の高そうな人、という印象だった。

――三年で、陸上部の副部長をつとめる男。

 相手の素性が割れたことにより、椅子の上で固まっていた男の瞳が剣呑に発光し始める。さながら点滅を始めた時限爆弾。
「えっあいつ?」
 爆弾が動き出すより先に、向日から意外そうな声が上がった。いくつもの視線が自然と彼に集まる。
「知ってる人ですか?」
「クラス同じだもんよ」
 向日は言いながら、ふーん、と両手を頭の後ろで組む。猫のような瞳がくるりと動いて、面白そうにを見た。
「結構モテるぜそいつ。そこそこイケメンだったろ?」
「あー……そうですね、うん、イケメンでしたね」
 薄くなりつつある記憶を、は必死に呼び起こして頷いた。言われてみれば、精悍でなかなか整った造作だったような気がする。だいぶモヤがかかっているが。
 とその時、がたがたっと穏やかでない騒音が部内を賑わした。見れば、跡部が荒々しく椅子から立ち上がって、仁王立ちしていた。
「陸上部に討ち入りしてくる」
 そう言って表情のないままゆらりと歩き出したので、そこに居た全員が力ずくで止める羽目になった。話し合いという建前すら用意できないような精神状態で誰が部のトップを行かせられようか。離せこのやろう、人のもんに手を出したらどうなるか身をもって教えてやるとかなんとか言って散々跡部は暴れたが、多勢に無勢。元通り、の前の椅子に座らされた。どう考えてもネットで簀巻きにすべきは跡部の方だと思うのだが、そこまで冒険心に富んだ行動はさすがにためらわれたし、なにより余っているネットはもうなかった。また再び乱心した跡部が陸上部目指して動き出したら、部員が防波堤になるしかない。
 攻防戦という名の内輪もめによって、全員が肩で息をしているさなか、遅れて部室の扉が開いた。入ってきたのは常に目つきのよろしくない二年生、日吉である。彼は訝しげにくたびれた様子の部員をぐるり見渡したあと、網らしきもので簀巻き状にされ真ん中に置かれているに目を止めた。
「…………今度は何したんだお前……」
「知らん……こっちが聞きたい……」
 痛ましいものでもみるような顔つきの日吉に、鳳は携帯を振ってみせた。
「あれ? 日吉、メール届いてない?」
「メール? そもそも昼から携帯見てないからな」
 怪訝そうに目を眇めながらも制服のポケットから取り出した携帯を開く。しばしの沈黙ののち、画面から目を離した日吉は、やや呆気に取られた面持ちでを見おろした。
「……世の中、物好きは多いもんだな」
 鳳発信の情報が共有されていることは把握したものの、実際どんな内容がやり取りされているものか、当事者でありながらは知らない。が、日吉の反応が失礼な部類であるのはなんとなく察した。我が身に課せられたお白州に引っ張られた下手人のような扱いへの苛立ちも手伝い、八つ当たりに噛み付いてやろうと振り仰いだの勢いをすました顔がくじいた。
「お前、家庭科の教師から説教受ける予定でもあるのか? さっき校内放送かかってたぞ」
「ぎゃあ」
 開いたの口から出たのは悪態でなく悲鳴。実習で作った枕カバーを今日までに提出しなければ大きく減点と担当教師に脅されていたのは今朝のこと。帰りまでには絶対出します、と胸を張って答えていたのに、まんまと忘れて今この有様である。ちら、とは上目遣いで跡部を伺った。
「あの、すいません、ちょっと、抜け出して学校の方にですね、」
「ああ構わないぜ。ただし、話が全部終わってからだがな」
「へい……」
 交渉の余地を感じない声音を前に、しゅるしゅるとはあとに続けようとした文言を引っ込めた。彼の中で話とやらが一刻も早く終わってくれることをただ願う。
「陸上部の副部長なあ……」
 生あたたく見守っていた忍足の口から、跡部とには聞こえない程度に絞られた低い声がもれる。それを耳にして振り返った滝も、忍足と束の間目を合わせてから、得たりとばかりに口の端を持ち上げてみせた。
「オチは読めたで」
「たぶんね」
 同じく忍足の発言に反応した宍戸や向日は、なんのことだかわからず不可解そうに首をかしげているが、それに答えるわけでもなく忍足と滝は薄く笑うばかり。
 そんな周囲をよそに、渦中の二人は相変わらずキリキリと空気を締め上げるように緊張感を保ち続けている。威圧に耐えかねたが俯いている分、跡部がものすごいとしか言いようのない執拗さで見ている。もう超見てる。ずっと見てる。今にも石になりそうなほど見てる。情熱の出力が狂うと恐ろしいなあと他者に実感させる高貴な碧い瞳は現在、絶賛青春迷宮入りだ。
 天井と床と壁がたっぷりと沈黙を吸いこんでから、すう、と空気を飲み下す音がした。

「……そいつと俺と、どっちがイケメンだ」

 重々しく問うた跡部は一片の取りこぼしなく真顔だった。

 は? 

 目を丸くしたのはだけではない。その場すべて、あたり一面、つい口を半開きにしてしまう総ポカン状態に束の間陥った。日頃からが絡むと極端に賢さが目減りする男ではあるものの、仮にも女性ファンをメス猫呼ばわりする誇り高い絶対的カリスマが、よりによってこの大人げない対抗意識! 男としてあまりに小さい!
 問われたはというと、幾度か瞬きを繰り返したあと、迷う素振りも見せず事も無げに答えた。
「そりゃもちろん跡部先輩ですよ」 
 さして面食いではないだけで、の審美眼は狂ってはいない。初対面の彼の人格やその他を跡部と比べて審査するのは難しかろうが、顔のつくりだけならたやすく評価を下せる。10カラットを超える天然ダイヤモンドの美貌を前にすれば、たいがいの輝きはかすむというものだ。
「……そうかっ」
 跡部の声は安堵に満ちていた。どうも抑えようと努力したらしいが、隠しきれない喜色が染み出ている。壁画のように動かなかった呪われし顔面にはみるみる内に生気がよみがえり、白磁の肌にうっすらと赤みが。
「出し抜けに春が来よったで」
「あんな簡単でいいのか人として」
「さっきまで氷河期だったくせに……」
 河の流れすら凍らせていた彼の背景は、今や野花が咲き始めている。何も言うまい。何も言うまい。彼が勝ち抜いたのはあくまで顔部門だけであるとは今は言うまい。
「はっ、そりゃそうだ。考えるまでもねえ、当然の判断だ。時々お前は目が曇ってんじゃねえかというような事を口走るからな、少しばかり試してやったまでだ。そこまで節穴じゃないと知れて安心したぜ」
 押し黙って不穏な気配をばらまかれるのも迷惑千万だが、復活すればしたで鬱陶しい。能面みたいな顔をしていた男がよくもまあ恥ずかしげもなく、と一同は呆れと憂いと微笑みの入り混じった眼差しを彼に送った。

 
 が口説かれていた旨のメールを目にした時、跡部は激しい怒りに燃えた。それはそれは燃えていた。
 どこの馬の骨のとも知れぬ男が人の目を盗んで、人のもの(あくまで跡部の主観)に横恋慕し、あまつさえ奪い取ろうとしていた(あくまで跡部の主観)のである。正直、色欲にまみれた不純な目でを見る男(あくまで略)の存在自体、我慢ならなかったが、そこまでの排除はいくら跡部でも及ばない。できることと言えば、ひたすら睨みを利かし、寄り付く悪い虫を地道に手荒に蹴散らすくらいで、いずれも彼は怠らなかった。その甲斐もあってかこのテニス部においてはにちょっかいをかけるような命知らずはひとりもいない。心臓とクセの強い一部レギュラーを除いては。
 ぶっちゃけ男受けするタイプじゃねえし、そんな目光らせなくても平気だろ、とは向日の弁である。彼のみならず他の部員達からも似たような言葉はこれまで何度となくかけられている。が、跡部は同意できない。に感じる抗いがたい奇妙な引力――人はそれを魅力というのだが――に、自分以外気づくことはない、自分と同じように惹かれることはないと、どうして言いきれる? 
 跡部は類まれなる自信家である。だからこそ、己の感覚が選び取った女にも自信を持っている。確かにパッと見で判断できるようなわかりやすい美点には欠ける為、ちょっと珍味寄りというか、一口ではその旨みを語れない種類の味わいかも知れないが、跡部の中では彼女が最上で、手放す気も譲る気も毛頭ない。ゆえに周囲からなんと言われようと、決して油断しなかった。しかし世の男すべてに発信機をつけること等到底かなわず、本日忌々しくも度を超えた接近を許してしまった。
――気に入らねえ
 つらつら並べ立てたが、まあ、要約すれば単なる嫉妬である。俺の女を触るな見るな口説くなというだけの話である。おとなげない自覚は、一応あったかも知れない。しかし悋気は理性を凌駕するもので、大いに動揺した跡部は彼らしさを欠いていた。欠いていたどころか、封じられし闇の跡部様が顔を出しそうになった。
 の口から、その言葉を引き出すまでは。
 もちろん尋ねた本人だ、彼も理解している。この選択が「男として」という前提ではないことを。が、そうと分かっていても竹を割くがごとくの即答が返れば、これは気持ちがいい。自然と口の両端が持ち上がり、ほのかな余裕が跡部の内で息を吹き返した。余裕が生まれれば、いくらか冷静にもなれる。一旦さようなら、闇の跡部様。

 不可解な面持ちを晒しているに、跡部は改めて眼差しを向けた。もう病気の死神みたいな不吉な色はなく、顔にはいつもの不敵さが戻りつつある。様子の変わった跡部に、はわずか身じろぎしたものの、視線から逃れることはしなかった。
 跡部は言った。声のこわばりは消えている。
「そいつみたいな顔が好みか?」
 面食らいながらも、は素直に首を振った。
「え? いえ」
「じゃあ他に気に入るような部分は?」
「特には……というか、声でかいな、くらいしか正直よく覚えてません」
「その声に惹かれるものは感じたか? お前にとって美声に入る部類か?」
「うーん? 至って普通、だと思います」
 意図の読めない質問攻めに、は訝しそうに肩をすくめる。対して跡部は返事のたびに機嫌を立て直していった。何事も顔に出やすい質のはとても隠し事に長けているとは言い難い。よくよく観察せずともその素っ気ない言動や態度から、件の男にさして興味を抱いていないことは明らか。それどころか犬に負ける程度の存在感の薄さである。敵ではない。おそるるに足らない。跡部は刺々しさをまとっていた先程までの自分が馬鹿らしくなってきた。
 不毛な問答に蹴りをつけるつもりで、跡部は最後の問いかけを唇にのせる。
「つまり、応じる気は起きなかった、お前の心はひとつも動かなかった、ということでいいな?」
「びっくりはしましたけど。そんなこと言われたの初めてだったので」
 初めて。そこで、穏やかになりつつあった跡部の眉間に皺が刻まれた。
 悠然と構えていたはずの跡部が再び剣呑な目つきで身を乗り出してきたので、は思わず体を後ろに引こうとした。が、素早く肩を取られてしまい叶わなかった。
 をとらえた跡部の口から漏れたのは舌打ちと、吐き捨てるにも似た、人の耳には聞き取れない程度の呟き。
「くそ、先を越された」
「はい?」
 それには答えず、跡部は手に力をこめて迫る。
「その野郎になんて言われたか教えろ」
 と言ってから、すぐに跡部は「いや」と言葉を翻した。 
「今ここで、お前がされたように俺にやってみせろ」
 は目をぱちぱちとさせながら、真剣そのものの跡部を探るように見上げた。
「言われたことを、ですか? 私が?」
「そうだ」
「跡部先輩に向かって?」
「そうだ」
 跡部の意思は岩のように固くあることが伝わってくる。なんでそんな事せねばならんのか、と釈然としないものは当然渦巻いてはいたのだが、ただならぬ気迫に押され、とうとうは観念した。
「私がその人、先輩を私……に見立ててやればいいんですね?」
 厳かに跡部は頷く。
「なんかいっぱい言われたんで、ところどころしか覚えてないんですけど……」
 覚えてる範囲でいいと促され、は緩慢な動きでその場に立ち上がった。巻き付いたネットがいましめとなって手が自由にならない為、跡部に緩めるようお願いすると、ハサミを使ってあっさりとそれを解いた。久々の開放感を喜ぶ間もなく、は記憶を思い返しながら待ち構えている跡部に近づく。そして、校舎裏で自分がされたのと同じように、跡部に手を伸ばした。
 急に両手を取られた跡部はどきりとした後、果てしなくイラッとした。手なんか握ったのかあの野郎、と鎮火したはずの悋気に再び火がつく。
 相手が不穏な思いをふくらませているとは知らず、は握った手を胸ほどの高さに抱え、できる限り生真面目な顔をつくった。気合を入れんと、大きく息を吸い込んで、は腹の底からの声を出した。
「君は知らないだろうけど、ずっと君を見てましたっ」
 予期せぬボリュームに一瞬跡部が怯む。構わずは続けた。
「急にこんなこと言われて戸惑うかも知れないけど、どうか聞いて欲しい」
 ええと、とは思い出すように宙を仰ぎ、すぐに役をつとめる跡部を射抜くにも似た強さで見つめる。
「君が必要だ。君が欲しい。君は自分の価値を知らなすぎるんだ」
「何を今更と思うだろう。その通りだ、もっと、もっと早く告げるべきだったと後悔を覚えている」
「いま結論は出さなくてもいい、すぐに心が決まるとは思ってない。ゆっくり考えてくれて構わない。でも忘れないでほしい。君を迎え入れる準備はいつでも出来ている」
「もしも、もしも君が応じてくれるなら、こんなに嬉しいことはない」
 当初、肌に覚えた苛立ちを、跡部はもう感じてはいなかった。見知らぬ男が発した腹立たしい文言の数々であることも忘れかけていた。むしろ自分が命じた、ただの再現であることさえ、若干忘れていた(大問題)
 やわらかい手による懇願にも似た拘束を受け、の姿と声で熱っぽい告白を聞いてるうちに、跡部は思いの丈を打ち明けられた乙女のような胸のときめきを覚え始めていた。相手が違えばこうも深く響きはしなかったのだろうが、目の前で真摯に愛を訴える(演技に徹している)のはほかでもなくである。やけくそなのか何なのか、照れやバカバカしさを一切含まず、その顔も声も真に迫っている。跡部は頭の芯がしびれてきた。知らず、ぼうっと聞き入ってしまう。
 いや待て違う、この台詞を垂れ流したのは陸上部とやらの男で、それで口説かれたのがで、のんきにキュンとしている場合ではない。とは思うのだが、情熱的な文句とともに健気な瞳で見上げられると、どうしても言葉に詰まった。なんかもっと聞きたいぞ。録音すれば良かったぞ。
「……だから、もし君さえ良かったら」
 滝のように続いていた声が酸素を求めて一度途切れた。俯いて空気を吸い上げたの顔がすっと上がり、手がことさらに強く握られる。跡部は、思わず喉を鳴らした。

「陸上部に入りませんか!」

 大きく空気を震わせた声は隅々まで響き渡った。残響が潔く引いていったあとも口を開くものはなく、保たれた静けさの中、ふう、と息を吐いて、は跡部の手を手放した。
「こんな、感じでした」
 様子を伺うべく見上げるも、跡部からの言葉はない。表情らしい表情もない。
「ちょっと熱心でしたけど、たかだか勧誘を報告する必要もないかな、と思ってたんですが……今更部活に入る気もないので断るつもりでしたし」
 やや怖気づいたは、取り繕うように今さらの言い訳を並べてしまう。それでも跡部は固まったままだ。聞こえてはいるのだろうが、反応らしい反応が見られなかった。試しにひらひらと目の前で手を振ってみても、瞳は動かず、やめろとも言わない。代わりに跡部の向こう側から声が上がった。
「なんだそれ!」
 まぎらわしいんだよ! と肩をいからせて向日がどすどすと距離を詰めてくる。宍戸も脱力したように帽子をかぶり直してを一瞥した。
「人騒がせもいいとこだな……」
「こんな下らないことに時間を取られたと思うと腹立たしいを通り越して情けない」
 そう言って日吉はなんとも言えない顔で短く息を吐いたあと、ウエアを抱えて更衣室へと向かった。それをちらりと目で見送った忍足が、口を尖らせているパートナーをなだめるべく背を叩く。その顔には見透かしたような笑みだけがあった。
「やっぱりなあ、どうせこんなことやろうと思ってたわ」
「あ? お前気づいてたのか!?」
「陸上部って聞いた時点でぴんと来たんや」
「ここ数年、短距離に関して不作だって聞いてたからね。スカウトに躍起になってたみたいだよ」
 おっとりと笑いながら滝が付け加えた。だったら最初から言えよな! と誰にいうでもなく向日が吠えて、それから鳳をきっと見据えた。
「だいたい長太郎がガセなんて流すから、」
「あのーなんなんです? ガセって?」
 肩を落としたり、したり顔で頷き合ったり、憤慨したりと、部員たちのばらばらな態度に違和感を覚えたが小競り合いの真ん中に割って入る。途端、揃えたように全員が口を閉ざした。自身、鳳の早とちりによって生まれた誤解について、何一つ気づいていない。ただ、人目を盗んでの勧誘について咎められたとしか思っていないのである。
 真実を正直に伝えたところで、馬鹿にされるか激怒されるか冷ややかな視線を頂戴するか、いずれにしろ知らないのであればそのまま真実は伏せておくが互いのためだろうと彼らは目配せし合った。耳に入れないほうが穏便に済むこともある。合言葉は保身。
 その不自然な様子に対し、不審の色がの目には浮かび始めていたが、それをいち早く見て取った滝が、彼女の目の前に餌をぶらさげた。
さん、家庭科の先生に呼び出し受けてるんじゃなかった? まだ間に合うんじゃないかな?」
 狙い通り、はハッと面白いように全身で反応し、すぐにドアの方へと走り出そうとした。しかし思い直して、凝固している跡部の元に駆け戻り、おそるおそる彼を見上げた。今日の跡部は明らかにおかしい。もとより正しいか言われれば、それはまた別のお話……と目を伏せて締めくくりたくもなるが、冷静と情熱の間もなにもあったもんじゃない一連の様子から異変をきたしているのは間違いなかろう。ここでほっぽり出して、あとでしこたま怒られるのはまっぴらだ、という想いが彼女を慎重にさせていた。
「先輩、ちょっと抜けてきてもいいですか?」
 今度ハッとするのは彼の番である。虚空を見つめていた眼差しに正気が差し込んだ。ようやく我に返り、許可を得るため大人しく待っているを無言で見下ろす。なんのてらいもなく見つめ返してくる黒い目に、虚脱した自分の姿が映りこんでいるのを見て、跡部の口からは、はあ……と疲労のにじむ溜息がもれた。
「……ああ行っていい。用がすんだら戻れよ」
「はいー」
 腑に落ちない何かをどこかで感じていながらも、頭はすっかり枕カバーでいっぱい。間延びした返事を残し、は床に広がったままのネットに足を引っ掛けそうになりながらも部室をあとにした。
 扉が閉じる音が響いて、投げ出された跡部の体を貧弱な椅子が受け止める。背もたれに体重を預けた跡部はさきほど向日がしたのと同じく、隅で突っ立っている鳳を恨みがましく睨んだ。彼はびくりとその大きな体躯を震わせた。
「長太郎てめえ……誰が告白されたって……?」
 口調こそ物騒ではあるが、早とちりな後輩に対して仕置きを与える気力は跡部に残っていない。禍々しく光ったかと思えば蠱惑的に濡れるなど、実にせわしない変化を見せていた彼の瞳も、いまは気が抜けた炭酸のごとく威勢に乏しかった。
 面白おかしく鑑賞していた部員たちも、暇つぶしになったとか期待して損したとか勝手な感想を口にしながら支度にとりかかる。祭りに立ち止まっていた普段通りの時間が、徐々に部室に戻り始めた。
 ただの勘違いじゃねえか、あほらしい。
 笑っていいのか暴れたいのかよくわからない。跡部はくたびれた安堵を持て余し、自らの手で髪を乱した。
「まあいい、次から情報は確かなものだけにしろよ」
 もう流すなと言わないあたり、案外懲りない気性である。部長らしく威厳を持って言い捨てた跡部に、鳳は眉根を寄せ、言うか言うまいかといくらか迷う素振りを見せていたが、やがておずおずと口を開いた。
「でもさんは気づいてなかったみたいですけど、あの人、部員同士としてでなくとも個人的に君と仲良くしたいとか、望むなら手とり足取り個人レッスンも辞さない、とかそういう事も言ってたんで、あながち誤解でもないと……」 
 一瞬の間ののち、椅子を引き倒すような物音が再び日常を裂いた。


「討ち入りだ」


 お役御免となって打ち捨てられていたネットは、荒ぶる帝を封じる手段として有効にリサイクルの道を歩んだ。
 枕カバーを無事提出し胸を撫で下ろしているは、このあと部室で目撃する簀巻き状にされた跡部の姿に衝撃と既視感を覚え、今度はなんの再現だと目をこする事になるのである。








■後日のおまけ■
「……いいか、よく聞け。目標は陸上部の部室だ。副部長だぞ副部長、しくじるなよ。うまく任務を果たせたら俺の屋敷に仕えることを許す。匂いは覚えたな? そう、よし。いい子だ。靴を噛むのは得意だな? お前ならきっとできる、行け」

 校庭の目立たない場所で、白い野良犬に懸命に話しかけている跡部様の姿が目撃されました。