「遅え」  

  
彼の機嫌は、もうすでにかなり斜めに傾いていた。  



いつの世も試験と名の付くものは、多くの学生を悩ませる厄介なイベントである。
しかし中には一般的という枠組みから抜け出す人種が必ずいるもので、
ここ氷帝学園では、跡部景吾がその例外に該当していた。
全科目が得意教科と臆面もなく言ってのけるこの男には、試験もテストも(おそらく受験も)
どうってことない年間行事の一つに過ぎないのである。
本人いわく、「頭の出来が凡人とは違うんだよ」。

そんな彼にとって、今さっき終わったテストの解答や手ごたえなど考えるに値しない。
返ってくる際の点数までが予想可能な試験結果なんかよりも迎えの車の到着が遅れていることの方がずっと重要であった。  

いつになったら来やがるんだよ…!

苛つきながら何度も連絡をとってみたが、「もうすぐ出ます」「今出ます」「今出ました」とそば屋の出前みたいな返事ばかりを返されて、跡部はもう半分キレかけていた。いい加減、待っているのも馬鹿馬鹿しくなってきて、歩いて帰ろうかと思っていたその時である。
あの靴が吹っ飛んできたのは。
痛いの何のより、一瞬何が起きたのかわからなかった。
後頭部に走った強い衝撃。 
    
しばらく頭が真っ白だった跡部だが、ようやく自分に降りかかってる状況が飲み込めた瞬間先ほどのイライラも手伝って、いきなり怒りの沸点を超えた。
しかも振り向いた先には誰も居らず、跡部アングリーゲージは更に上昇。

  
「…ッテメェ待てコラァ!!!」
  
怒気をあらわにすぐさま跡部は追いかけたのだが、犯人が逃げたと思われる前方には
  
変な生き物が居た。
  


片足で校門へと駆けて行く。
しかも、信じられないくらい速い。
常識外の動きである。
 
あれは……本当に人か?

跡部は走りながらも、目の前のおかしな映像に戸惑っていた。
どう考えてもふざけてるようにしか見えない走りだというのに、まったく追いつけない。 
自慢ではないが…いや、自慢だが、
跡部が得意なのは勉学だけではない。
名門テニス部の部長であり、関東屈指のプレイヤーだ。
当然、身体能力には自信がある。
強豪揃いである運動部が乱立する氷帝学園で、1、2を争う練習量に耐えてきたのだ。 
陸上部にもひけをとらない脚力だと、跡部は自負していた…はずなのに。
そんな跡部のプライドなどお構いなしに、ケンケンの女は遠ざかってゆく。
  
ありえねぇ…何故だ!  
俺様の全速力だぞ?  

跡部は、悪夢を見ている気分だった。
  

「なんなんだオメェは
――――!!」

追いかけても追いかけても、届かない存在。
砂漠のオアシス状態である。

あれはなんなんだ。
新種の動物かなんかか。
それとも地球外生命か。
そういえば、あんな片足の妖怪いたよな…唐傘?日照り神?ヒトツダタラ?
跡部の頭の中を様々な憶測が飛び交う(結構マニアック)

脳内がぎっしり不可思議な未確認生物情報で埋まっている間に、その女の姿が見えなくなった。
目の前には、暑苦しい坊主の集団。
野球部の行列が作る壁に前方を防がれたのだ。
 
「どけよ坊主ども!」

しかし、野球部聞く耳持たず。
というか、全く聞こえていないらしい。

「どけってこの!てめぇら俺様を誰だと思ってやがる、コラ!部ごと潰すぞ!!

くじけることなく跡部は怒鳴り散らすが、それ以上に野球部の声が大きすぎた。
思いっきり、かき消される。  

「…チクショウ!!おい女!これ過ぎるの待ってろよ!絶対逃げんじゃねぇぞ!今行くからな!!」

跡部は坊主の向こう側にいるであろう謎の女へと、はりさけんばかりの大声でそう叫んだ。


ファィッオーファィッオーファィッオーファィッオーファィッオーファィッオー

  
だが予想通りというか、当然というか、野球部の列がすべて通り過ぎたあと、彼女の姿はどこにもなく。
跡部様ともあろう者が、なすすべもなくまんまと逃げられてしまった。
この日ほど、野球部を憎く思えた日は無い、と彼は後に語る(誰に) 

「…チッ」

一気に力が抜けたのか、彼の全身をかつてない疲労感が包みこんだ。
荒い息をととのえようと、跡部は近くのベンチへ腰掛ける。
どうも限界を超えていたらしく、アキレス腱が震えていた(かなりヤバイ)  
宍戸風にいえば「激ダサ」な有様だ。

これまで、体力が底を尽くほど懸命に走った記憶など、ただの一度もない。
どんな強豪相手の試合でもジュニアの合宿時も、疲れは感じたものの立っていられないということはなかったというのに。 
  
思えば、彼にとってその日は初めて尽くしの一日だった。
頭に靴を投げつけられたのも初めてならば、ケンケンのまま本気で走る生き物を見たのも初めてで。    
そして、女に走り負けたのも、生涯初めての経験だった。
敗北のない人生を送ってきた跡部にとって、その衝撃は計り知れない。
彼はこの数十分の短い時間の中で、常識を、そして自分自身を大きく覆されてしまった。
  
胸ポケットの携帯がブルブルと震え、運転手からの電話を知らせていたが、跡部は無視した。
頭の中には、さっき自分から逃げた女の残像がくっきりと色鮮やかに残っている。
 
見覚えのない後姿だった。
2年だろうか、1年だろうか。
いや、3年かも知れない。
目を閉じて、記憶の中からわずかでも、と少女の手がかりを探る。
    
…手がかり?

ふと、跡部は無意識に右手で握り締めていた存在に気付いた。
最大の手がかり。犯人が残していった、痕跡。
型破りなシンデレラが置いていった黒のローファー。

「…・いくら何でも、こんなもんじゃ…」  
   
探し出せねぇだろ、と靴をひっくり返しながら、言いかけた跡部だったが。
それを見た瞬間、言葉を失った。




 ・ (右)





ものすごく堂々と書かれている。
マジックで書かれている。
しかもマッキーの極細ではなく、極太タイプの方で力強く書かれている。


  
「………っっっ」

  
馬鹿だ。

ものすごく馬鹿な女だ。

あんなに逃げておいて、名前書いた靴置いてきやがった。
この歳になってまで靴に名前書くかよ?
今時、小学生ぐらいだろ?せいぜいそれも低学年までだろ?
しかも右って何だ?右靴ってことか?
なんでそんなこと書いてんだコイツ…!
…もしかして、右と左、間違えて履くってのか??
そんな馬鹿がいるのかこの世に?





「なんなんだコイツ…なんなんだよ本当に」




  



そう呟くのが精一杯だった跡部景吾は、その時、本日4つ目の「初めて」を体験していた。




  




彼を襲った、4回目であり最大の初体験。






かなり恥ずかしい話だが、それは





「ときめき」、である。
(本当に恥ずかしい)







常に多くの女子生徒から、トキメかれる存在であった跡部景吾。
彼はいつもどんなときも想われる側であり、自分がそちらの立場にまわることなど今まで、考えたこともない。
だが跡部は今、半分馬鹿にしていたその「胸を高鳴らせる」という浮かれた現象が、生まれて初めて自分の身に降りかかってきたことを感じていた。
無礼をはたらかれたことへの腹立たしさ。
常識を超えた走り方への驚き。
逃げられたことへのショック。
  

交じり合った様々な感情を処理しきれず、持て余していたその矢先にあのアホな名前入りローファーである。  


  
脱力だ。
 
毒気を抜かれる。

あまりにも迂闊で、幼稚で、馬鹿馬鹿しい。
   
跡部はもう、怒るとか苛立つとか憎いとか、そんなものすべてすっ飛ばして
なぜだか

「…笑わせるじゃねぇか」

と、頬を緩ませてしまった。
素人には不可解すぎる跡部のツボ。
その靴の持ち主は、見事にど真ん中を突いてしまったらしい。



人の好みなど、千差万別。
恋をする瞬間も、十人十色。
人生いろいろ。
男もいろいろ。
女だっていろいろ咲き乱れるのである(某演歌)

そうなると「もう一度会いたい」と思うのは当然の心情。
だが、会いたいと願うだけでは終らないのが跡部景吾という男であった。
  
絶対…見つけ出してやろうじゃねぇか。
どんな形でも、手に入れてやる。
この俺様から、そう簡単に逃げられるわけねぇだろ?なぁ、樺地?  
  
いまだ鳴り続ける携帯を手に取った跡部は、かかってきた電話をブチリと切った。
完全に切れたことを確認した後、そのまま携帯を素早く操作し、選ぶアドレス帳は

【テニス部レギュラー】
  
「…忍足か?俺だ…ああ?いいから、これから俺の言う事を一語一句聞き漏らすなよ」
  
  
左手に靴・右手に携帯をたずさえ、まだ見ぬシンデレラ姫に思いを馳せる王子様・跡部。
  
そう、お楽しみはこれからだ。