(ヤバい……破滅への輪舞曲だ……)

 は、途方に暮れていた。












呼 称 に お け る 考 察 お よ び そ の 見 解  〜 彼 女 の 場 合 〜












 テニス部の見事な連携プレーにより、跡部景吾のマネージャーと成り下がって早一週間。
 練習中に部室で彼の制服を畳んだり、指が鳴ったら樺地と交代でタオル渡したり
 【20時・ギリシア人講師による本場ギリシア語講座の後・ティーブレイク】とかいう、
 わけわからん跡部のプライベートまでスケジュール帳で管理させられたりと、の下僕ぶりもなかなか板に付いてきた頃。
  
 今日も今日とて、は朝のHR終了後、跡部のクラスへと赴き本日のスケジュールを確認していた。
 無理やり契約をさせられてから、毎日行っているお仕事のひとつである。
 簡単そうに聞こえるが、この広い敷地をほこる氷帝で学年の違う教室に毎朝通うのは、かなり根性の要る日課だ。
 これまで通学路をダッシュで乗り切ってきただが、いまは登校後も休む暇なく校舎内を走り込まねばならない。
 (もたもたしてると、ご主人様と担任からの叱責というダブル攻撃が待っている)
 ただでさえ化け物呼ばわりされるほどのの俊足。
 この習慣により、今後更なるレベルアップが見込めそうである(そんなこと望んでないのに)

 ことの発端は、その朝の恒例行事・跡部とのやり取りでのことだ。
 昨日は到着の遅れを理由に跡部からお叱りを受けてしまっただったが、HRが早く終ったこともあり今朝は普段より早く跡部の元へ辿り着くことが出来た。  
 「今日は早いじゃねぇか」などとあの跡部が褒めていたぐらいである。
 かなり順調な滑り出しだったといって良い。
 そう、滑り出しは。

 「
―― で、部長会議後、テニス部練習に合流…となってます」
 「部長会議は何時だ?」
 「えーと、4時15分です」
 「4時15分な、了解だ。今日は特にスケジュールに変更無しでいいぜ」

 特に問題になるような用事もなく、実にスムーズに業務が終了しそうな気配が漂っていた、その時。

 「あ、生徒会の方は中止になったってことでいいんですよね?跡部様」

 途端に、跡部の顔つきが変わった。
 今まで普通通りの、いやが来るのが早かった分、いつもより1.3倍くらい(微妙)機嫌が良さそうだった跡部の表情が、瞬間的に邪悪なものへと化学変化である。

 「……あ゛?今てめぇなんつった」
 「へ?……せ、せ、生徒会が…」
 「そこじゃねぇよ」
 「部長会議……?」
 「なんでそうなる」

 一体何がお気に召さなかったのか、にはさっぱり見当もつかない。
 怒られるのが嫌なのでとりあえず謝ろうかと思ったが、「それは何に対しての謝罪だ」などと鋭い切り替しが返って来そうだ。
 そこでが「さぁ…」などと言おうもんなら、ますます火に油を注ぐことになる。
 そうこうしているうちに、跡部からゴゴゴゴという怒りの効果音が響いてきた。
 見れば、閻魔大王も度肝を抜かれるほどの凄まじい背景を背負っちゃっている。
 爽やかな朝を吹っ飛ばす、この毒々しい雰囲気。
 こころなしか、周囲の生徒が二人から遠ざかってゆくような。
 あの、ここは災害地ですか?
  
 この危機的状況をどう回避すべきかと考えあぐねていると、授業開始を知らせるチャイムが鳴った。
 にとって救いの鐘の音である。
  
 「わ、わたくし授業が始まりますので!これにて御免!!」

 これ幸いとばかりに、は跡部のインサイトを振り切って、自分の教室へと逃げ戻った。
 跡部が何か言っていたようだが、怖くて一度も振り返れなかった。

 そんな風に、なんとかその場は授業を言い訳に逃げてきたわけだが、だって分かっている。
 授業の時間が終れば、放課後は部活なのだということ。
 その部活に、跡部が参加する限りも残らなければならないということ。
 そして部室にて、再び跡部に詰め寄られるであろうということ。

 目の前の現実に苦しみながらも、結局跡部がキレた理由などにはわからず。  
 残酷に時間は流れ、現在に至るというわけである。  

 ああ…こうしてる間に、時が一刻一刻と…!!
  
 頭を抱えながら、は部室前でへたり込んでいた。
 今頃、部長会議に出席しているであろう跡部は、遅くても5時には部室へやってくる。
 なにはともあれ、まずはご主人様の怒りを静めなければ。
  

  ・ シミュレーション ・


 「あの、今朝はどうもすいませんでした」
 「何が悪かったのか分かってんのか?」
 「…………さあ……?」

 
…………ゴゴゴゴゴゴ





 
全 然 だ め だ 






  
 これじゃ朝とまったく状況が変わっていない。
 むしろ時間を置いてる分、余計に危険である。
 かといって、このまま無視して帰宅するわけにはいかない。
 明日どんな目に遭わされるか、想像するだに恐ろしい。  
   
 「何やってんだ?」
 
「!!お許しを!!」

 反射的に謝ってしまっただったが、呆れ顔でこちらを見ていたのは宍戸だった。

 「…宍戸先輩じゃないですか…やめて下さいよ、本当にもう」
 「やめろってお前……何もしてねーよ」
  
 まったく人騒がせなとブツブツ言いながら口から出そうだった心臓を押さえ、深く溜息をついた。
 
 「そういえば、跡部まだ来てねーのか?」

 今一番聞きたくない名前を出され、再び心臓が喉を登って来そうになる。

 「……只今、部長会議にご参加中であらせられます」
 「……なんでお前そんな変な顔してんの」

 苦虫を50匹ぐらい噛みに噛んだような顔をしているに、宍戸はややたじろいだ。
  
 「聞いてくださいよ、実はですね…」

 タイムリミットがジワジワ近付く中、藁にもすがる思いでは宍戸に事情を話し始めた。

 「……というわけで、私の命は風前の灯火なのです」

 部室にも入らず、木陰でしゃがみ込んでコソコソしている2人。
 不審極まりない。
 面倒がりながらも、最後までの話を聞いていた宍戸(いい人)は頭をかきながら、意外な一言をもらした。  

 「跡部の怒った理由は、なんとなく予想がつくぜ」
 「え!!なんで!!」

 一通り事情を話しただけであっさりそう告げられ、は本気で驚いた。
 今まで悩んでいた自分の時間は何だったのか。

 「、お前…跡部様っつったんだろ?」
 「言いましたよ」
 「それじゃねーか?多分」
 「何がいけないんですか?」

 日頃から自分のことを『俺様』と語る人に対して、様づけで呼ぶことに何の問題が。

 「…ハッ!!まさか、様付けごときでは、あの人の自尊心は満足させられない……?」    
  
 『親愛なる我らが跡部閣下』ぐらいの勢いでお呼びしなければ納得しないのか、などと本気で考えているのオデコに、「そうじゃねーって」と宍戸は軽くチョップをかました。
  
 「逆だろ逆。お前がサマなんか付けて呼ぶからキレたんだろ」
 「だ、だって周りの人がみんなそう呼んでるから」
  
 自分のクラスの友達も、試合の応援に来る沢山の女の子達も、規則のように誰もが跡部様と呼んでいる。
 それを聞き慣れたが、刷り込まれたように「跡部様」と言ってしまっても不思議ではない。
  
 「もう何というか……『跡部様』がひとつの苗字状態に」
 「苗字ってお前……」
 「いや本当に。あれですよ、ほら、アグネス・チャンみたいな」
 「それは違うだろ」

 いい加減、しゃがんだままの態勢に疲れた(足プルプルしてきた)宍戸は大きな溜息をつきながら地べたに腰を下ろした。

 「ま、とにかくよ。群がる取り巻き連中と同じように呼ばれたのが、ムカついたんじゃねぇかと思うぜ」 

 常日頃の跡部景吾を知る者ならば、という女生徒に対する彼の態度は驚くべきものである。  
 練習が終るまで待つように命じたり、自分専用のスポーツドリンク作らせたり、「酔わせてやる」と言って、監督の隣という超特等席に座らせたり (その間ずっと、は石像のように固まっていた)(その気の毒な姿は皆の同情を集めた)
 過去数え切れないほどの女と付き合っていたが、誰一人として部室にすら入れようとしなかったあの男が、だ。
 伊達に3年近く同じ部で過ごしてきたわけではない。
 他人の色恋に興味のない宍戸の目から見ても、跡部がに特別な感情を抱いているのは明らかだった。
 そんな相手から「跡部様」と他人行儀にされたのが相当気に食わなかったのだろう。  
 しかしつき合いが長い宍戸であるからこそ気付くことが出来たわけであって最近捕獲された知り合ったばかりのに、同じようにそれを察しろというのは酷な話だ。
 それでなくても跡部は普段から脅迫めいたことを口走り、をおおいに脅えさせている。
 自分から離れないよう必死なのはわかるが、どう考えても逆効果だ。
 この調子だと、横暴で愛情表現が下手なご主人様の想いが、召使い()に届くことは一生あるまい。
 まぁ他人の口から伝えても何の意味もないことなので、忠告する気もないが。
 激ダサだな跡部、と宍戸は鼻で笑った。

 しばらく放っておいても面白いかと思ったが、不機嫌なまま部活の来られるのはちと厄介である。
 跡部に八つ当たりされるもいい迷惑なので、宍戸は助け船を出してやることにした。

 「もうちょっと、砕けた感じで呼んでやったらいいんじゃね?」
 「はぁ、砕けた感じ……」

 何だかよくわからないであったが、とりあえず頷いておく。
 まったく手だてがない今、とにかく従うほかない。   

 「例えば、景吾さんとか」 
 
「絶対無理です本当に無理ですやめて下さい」
  
 断固拒否。
 はバターになりそうな早さで首を振った。
 あの方相手に「景吾さん」とは、神をもおそれぬ馴れ馴れしさである。
  
 「大体不自然ですよ、私がいきなり下の名で呼ぶのは」

 そうか?と宍戸は帽子を被り直す。 
  
 「そしたら他にどんなのがあんだよ」  
 「『跡部殿』とか、どうですか」
 「そっちの方が不自然じゃねぇか」
 「じゃ、『跡部』?
 「お前それは流石に殴られるだろう」

 なかなかこれといった呼称が浮かばない。
 が難しい顔をしながら草をむしり始めた頃、さすがにもう部室に入りたくなったのか宍戸はカバンを背負って立ち上がった。  

 「俺はもう部活行くからな、頑張って考えろ」
 「そんな…!もう少しお力添えを、宍戸先輩!!」

 はすがるように、シャツの裾を掴む(必死)
 足止めを食らった宍戸は、切羽詰まった様子のを振り返った。

 「……今みたいに呼んでみりゃあいいんじゃねぇの?」

 思わず、シャツを握っていたの手から力が抜けた。
 強く握られて裾にシワが寄ったことなど気にする様子もなく、宍戸は再び歩き出す。

 「……そんな普通でいいんですかね」

 独り言のようなの問いかけに、宍戸は背を向けたままぶっきらぼうに答えた。  
   
 「普通がいいんだよ、普通が」  

 背中で語る男。
 格好いいな宍戸先輩、とちょっと感動してしまっただったが。  
  
 「……っ!そうだ、おいっ!この件に関して、
俺の名前は出すなよ!絶対出すなよ!」
  
 巻き添えは御免だとばかりに、大慌てで振り返った宍戸。
 そのあまりに真剣な様子は妙な哀しさを呼び、せっかくの男気も台無し感溢れるものとなった。    
 





  


 部長会議も無事終了したらしく、跡部は遠くからでも分かる黒いオーラを撒き散らしながら部室へとやってきた。
 今朝、を恐れおののかせた背景を、彼はまだ背負っていた。
 いや、むしろ更に禍々しく成長している。
 迫力負けしそうな自分を必死で励まし、は入り口前で跡部を待ち構えた。
 それに気付いた彼は、の目の前で立ち止まる。
 跡部は何も言おうとしない。
 ただ、じっとを見つめていた。
 無言はやめて欲しい。  
 余計に圧力を感じてしまう。
 の体感重力、およそ10G(普通死ぬ)  

 強烈な圧迫感を受けながらも、宍戸からのアドバイスを信じるしかないは当初口にするはずだった謝罪の言葉を飲み込む。
 「ごめんなさい」という呪文では、この魔王を破れない。
 うつむき、賭けに出るような気持ちで、は唱えた。
  
 「会議お疲れさまでした……あ、あ…あああ跡部先輩」

 とりあえず魔法が跳ね返された時の為に、いつでも逃げ出せるような態勢をとっておいたのだがの頭上に怒鳴り声もゲンコツも落ちてこない。    
  
 「……ま、お前にしちゃ上出来だ」

 代わりに、そんな台詞とともにポンポンと優しい手のひらが降ってきた。
 驚いて見上げると、さっきまでこのへん一帯を蝕んでいた毒のオーラはすべて消えうせご満悦な跡部がを見下ろしている。 

 会 心 の 一 撃……!
    
 見事、ボスの呪いを解除することに成功したの心の中は歓喜の声で沸き返っていた。 
 おめでとう勇者ありがとう勇者!
 たくさんの自分がそんな風に祝福してくれている(病んでいる) 
 ここは素直に喜ぶよりも、こんな状況に身を置いてることに対して嘆くべきのような気もするが。
 抗えない不幸よりも、ささやかな幸福を見出すことが人生を上手く生き抜くコツである。
 効果的な呪文を伝授してくれた師匠(宍戸)に深く感謝し、思わず手を合わせてしまう
 今日もまたひとつ危機を乗り越えて、召使としての経験値を稼ぐのであった。
  
  
  
  
  
 「おい、宍戸」
 「…うぉっ跡部……!なななな、なんだよ」
 「たまには俺が相手してやる」
 「…お、おう」


 青春と汗と若さが溢れるテニスコートに、2人の力強いラリーの音が響き渡る。 

 いつ火の粉が飛んでくるかと、戦々恐々の宍戸。
 何も気付かず、ひたすら上機嫌の跡部。
 それぞれの思惑が混沌と渦巻く空の下、緊張の糸が切れたはのんきに居眠りをこいていた。
 窮地を脱した安心感に包まれ、さぞかしいい夢を見ていることだろう。  
 
 今日も氷帝テニス部(の表面上)は平和である。