中弛みを誘う水曜日の昼休み時、図書室はいつも閑古鳥が鳴いている。
 木・金は週末に向けてお目当ての本を借りてゆき、月・火はその返却というパターンに皆乗っ取って行動しているらしく週の真ん中に訪れる生徒は極端に少ない。
 よって、この曜日を担当する図書委員はラッキーである。
 なにしろこなすべき仕事というものがほとんどない。
 作業に追われることなく、休み時間をゆったりのんびりと過すことが出来るのだ。

 運良くは、その最も気楽とされる水曜が当番であった。
 しかしお約束のように思われていた特権「のんびりさ」など、これまで一度も感じたことがない。
 確かに、水曜に図書室へと足を運ぶ生徒の数はごくわずかである。
 その数少ない利用者も大半は静かに読書にいそしんでおり、カウンターに座る図書委員に声をかける者などいないに等しいのだが。
 問題はそのカウンターの奥
―― 要するに一緒に当番をつとめているもう1人にあった。

 1学年下の、日吉若。
 無口である。
 口下手というより、必要最低限以外は口を開きたくないという感じである。 
 背中に物差しでも入れられてるのかと思うほど、いつも背筋が伸びている。
 そして、いつも不機嫌そうである。

 ちょっとご機嫌ななめ、とかではない。  
 だいぶ傾斜が激しい。 
 どんだけ進行した虫歯なんですか?と尋ねたくなるほどの面構えである。
 最初はずいぶん恐ろしい奴と組んでしまったと及び腰だったのだが、彼は一度も欠かさず当番をこなし、が用事で行けなかった時もその不機嫌な顔のまま「別に構いません」と一言呟いただけで、それ以上責めたりはしなかった。
 その潔さと誠実さには安堵を覚え、サボることの多い他の男子よりも日吉と組む方がずっと良いと考えをあらためた。
 顔は確かに怖い。
 声なんてかけたら怒鳴られるんじゃないかという印象だ。
 しかし、生まれつきそういった表情の人も世の中には大勢居る。  
 きっと日吉も元の顔がああなのだろう、とはそう思ったのだが。
 
 日吉と同じ当番になってからしばらくたったある日、は教室の窓からテニス部へと歩く日吉の姿を見かけた。
 広い校舎内とはいえ同じ学校に通っていれば、互いに会うことなど珍しくはない。
 だが、その時目撃した日吉の顔が珍しかった。
 いつも図書室で目にする、あの強烈に不機嫌な顔つきではなかったのである。
 いや、窓から見たそれも決して穏やかとは言えない表情ではあったが、あの顔よりはなんぼかマシだ。
 毎度見ているあの凶相が日吉の常だと思っていたにとって、これはかなりショックである。
 そんなの出来るならいつもあんな顔すんなよ!と訴えたくもなるというものだ。

 ただ、日吉のこれから向かう先が部活であることがを少し落ち着かせた。
 以前、部活に打ち込んでいるということを本人の口から聞いていた為である。
 普段は返事以外ポツリポツリとしか喋ってくれない後輩だが、テニスに関してだけ妙に饒舌になる。
 そのご執心な部活へと向かう道のりはさぞかしテンションも上がることだろう。
 相好を崩すのも(あんまり崩れてないけど)無理はない、と。

 しかし。
 しかしである。  
 その後同じように、休み時間や放課後、移動教室の際など何度か日吉を見かけるが、いつもあの顔なのである。
 あの顔とは、窓から見かけたなんぼかマシなあの顔である。
 図書室のヘビー級仏頂面ではないのである。
 は疑問に思った。
 なんで見かけるたび、あんな顔をしているのか。
 なんでいつもの不機嫌顔じゃないのか。
 そしてついに気付いてしまった。
 が見かける時、たまたま機嫌が良いのではなくその顔こそが日吉のいつもなのであるということに。
 そう、逆だったのである。 
 図書室での険しさが、彼の規格外だったわけだ。

 この事実が判明してから、カウンターの席で感じるの緊張感は更に重さを増した。
 今まではその表情の鋭さから生まれる威圧感に少々押されていたくらいだが、現在はそれに日吉の「あんた嫌いです」オーラが加わっている。
 直接言われたわけではないが、あんなあからさまな違いを見せられてはそう受け取るほかない。
 顔に出るのを押さえられないような好き嫌いが生まれるほど親しくしていた覚えはないのだが。
 週に一度わずか30分かそこらの時間に、肩を並べていただけである。
  
 嫌いな人から嫌われるのは別に構わない。
 ある意味それも両思いだとは思う。
 だが、一方的に嫌われてしまうのは思った以上に堪えるらしい。
 そして、複雑な人間関係の事情を汲み取ろうともしない当番という制度が更にを苦しめる。
 どれほど嫌われていようが、厭そうな顔をされそうが、週に一度は必ず顔を合わせねばならないのだ。
 図書委員1番人気を誇る当番日のはずがにとってはのんびりとリラックスどころか、気疲れの水曜日なのである。
 



 
 
 はいつものように、カウンターの奥で広げた書物に目を落としていた。
 大きさゆえに毎回収納する場所に困るそれは、色鮮やかな表紙が目を引く人気シリーズである。

 『ウォーリーを探せ』
 
 当番の日には必ずこれ、とは2年の時から決めていた。
 休み時間いっぱい、メガネの彼を探し続けるのが習慣なのだ。
 だからといって、は本を読まないわけではなく自ら図書委員を選ぶくらいであるから、けっこうな読書家である。
 しかし、昼休みにもうけられた時間などたかが知れている。
 じっくり没頭して読みたいとしては、そんなわずかな時間での読書は好ましくなかった。
 どっぷりとその本の中に入り込んでも、あっという間に不粋な鐘の音で現実に引き戻されてしまう。
 その為、心から楽しみたい本は寝る前の布団の中で、というのがのモットーである。
 しかし、最初で述べたように水曜の当番はやるべき仕事がない。
 そうなると手軽で、意外と楽しめ、ストーリーが存在しないのでどこまで読んだっけ?ということに陥らずに済むウォーリーは最適なのである。
 



 「………先輩、右ですよ」

 そう静かに言った日吉は、大きく息を吐いた。
 喋るついでに溜息を吐いたのか、溜息のついでに口を開いたのか。
 判断しかねるような、呆れた声である。
 顔は相変わらず通夜が3つ重なったくらいの縁起の悪さだ。
 
 「え、右のページにいるのは偽ウォーリーのオズローじゃ…」
 「オズローだか何だか知りませんが、とにかく右ページです」

 ピシャリと言い放った日吉は、手の中で開いている「新耳袋」に再び視線を落とした。
 別の本読んでたくせに、一体いつの間にウォーリーを…
 不思議に思いながらもは素直に右ページに目を移し、放浪癖の激しいメガネを探し始めた。  
 あっさりと忠告に従うのは、日吉が一度も間違った指摘をしたことがないからである。
 が30分もかけて見つけられない場合でも、日吉はものの30秒ほどで探し出してしまう。
 が相当遅い部類なのもあるが、日吉の速さは驚異的である。
 ある意味、すごくウォーリーに向いていない人と言えるかもしれない。
 作者側にしてみれば、相当嫌な読者だろう。
 ウォーリーを隠すため佃煮みたいにおびただしい人数を一生懸命書き込んだだろうに、そんな難なく見つけられてしまってはやる気もなくすというものだ(いや知らんけど)
  
 「…あ」

 紙の上を滑っていたの指が、ピタリと止まる。
 子供じみているとは思うが、この瞬間がたまらない。
 やはり日吉の言うとおり、右ページの隅に奴は潜んでいた。

 「いた…!」

 思わず、は満面の笑みで日吉へと顔を上げる。
 そしてすぐに、しまったと思う。
 
 「そうですか」

 予想通り、眉間に皺を寄せに寄せた日吉はチラリとこちらを振り返り、すぐに本へ目を戻した。
 やばいやばい、とは小さく息を吐く。
 嬉しさでうっかり一瞬、嫌われているという事実を忘れてしまった。
 下手したら「俺に声かけないで下さい」とバッサリやられそうである。
 しかし、あんな顔しながらもウォーリーのアドバイスをしてくる日吉にも責任があると思う。
 ついつい、見つけた喜びを伝えたくなってしまうではないか。
 こういう馴れ馴れしさや、読書中に声をかけてしまう無神経さが嫌がられる原因なのかとは反省した。
 
 本日この図書室についてから約15分、同じ場面で止まっていたはようやく次のページに進むことが出来た。
 今回が特別遅いわけではなく、普段からこの程度のペースである。
 新しい地で行方不明になっているウォーリーを探そうと腕をまくりをしている(張り切りすぎ)の隣から、パタンと本を閉じる音が聞こえた。

 「懲りませんね、先輩も。そんなに下手でもまだやるんですか」
 
 さぞかし今、日吉の顔は凄まじく険しいことだろう。
 わざわざそれを見てダメージを受けるのも馬鹿らしいので、は顔を本へ向けたまま動かさず、うん本当に探すのは下手なんだよね、と口を開いた。
  
 「苦手なんだけどさ、でもそれ以上に好きなんだよねー」

 呟きながら、は色とりどりの人ごみを目で追った。
 溢れかえる仮装行列の中、ウォーリーの姿はない。 


 「……………それはよくわかる気がします」


 会話が途切れるには充分なたっぷりの沈黙を、日吉が静かに破った。
 
 「俺も、そうですから」

 沢山の子供たち。
 ウォーリーはいない。 

 「……?見つけるの早いじゃん、日吉君」

 屋根の上で開かれた宴。
 ウォーリーは見つからない。

 「……いえ、ウォーリーではなく」

 トゲも毒もなく。
 初めて耳にする、日吉の震えるような掠れ声。 
 ウォーリーはまだ見つかっていないというのに、はつい顔を上げてしまった。

 そこには、見たことのない顔の男子生徒がいた。
 いつも見ている、仏頂面でもなく。
 窓から見た、あの起伏のないすまし顔でもなく。
 謝ろうとしている子供ようないじらしいまでに真剣な顔。
 彼特有の高潔さはそのままだが、目に宿る光がほんのりと甘い。
  
 それを目にしたは滑稽なほど驚いてしまい、返事をするのも忘れて呆然と見つめた。
 金縛りにあったように、日吉から目を逸らせない。 
 穴が開くほどの視線を投げられた日吉はわずかに目尻を赤く染め、瞳を伏せた。
 が、膝の拳を強く握り、すぐさま顔を上げる。
 前髪が流れて、綺麗な顔立ちがあらわになった。

 「苦手なんですよ……どうしていいかわからなくなるんです」

 でも、それ以上に。

 そう言って今度は、日吉がに逃げを許さない視線をぶつけてきた。

 「先輩は、どうなんですか」   
 
 どうなんですか、と言われても。
 『わからない』とか『困るよ』とか、あやふやな言葉が脳裏に浮かんだが、とても口に出す気にはなれなかった。
 その熱っぽい双眸にまっすぐ見つめられてしまっては、適当に誤魔化すことなど出来はしない。

 の脳はメリーゴーランドのように回り始める。
 一体、日吉は何を求めているんだろう。
 耳を溶かすような声に、余裕のない瞳、そんなものを向けられては。
 まるで、愛の告白に聞こえてしまう。 
 そんな馬鹿な。
 そもそも、彼は自分を毛嫌いしていたではないか。
 常に向けられた険しい視線は嫌悪感の塊であったはずだ。
 では、今この場の彼のまなざしはどう説明したらいいのか。
 いつもならば、目も合わせてくれないというのに。 

 ひどく嫌われていた、と。
 疎まれている、と。
 ずっとそう思って、勝手に傷ついていたのに。
 
 ……傷ついていた? 
 は自分の思考に戸惑いを覚えた。
 なぜ傷つかねばならないのだろう。
 たかが図書委員の後輩の1人ではないか。
 の日常を脅かすような影響力などまるでないはずだ。
 だというのに、あんなに心が痛かったのはどうしてのなのか。
 それはの前でだけ、あんな嫌そうな顔を見せるからだ。
 それほど会いたくなければ、他の図書委員に頼んで曜日を交代してもらうことも可能だったはずである。
 水曜の当番ならば、みんな喜んで代わってくれるだろう。
 しかし、日吉はそれをしなかった。
 不機嫌そうな表情を貼り付けて、毎週欠かさず彼はやってくる。
 そして、は胸の奥で傷つき続けた。 
 だが、もまた他の曜日担当への移動を考えなかった。
 日吉もも、決してこの当番の席を手放さなかったのである。

 どうして、彼は。
 
 どうして、自分は。

 水曜の担当が惜しかったかと問われると、答えは否である。
 では委員としての責任か。
 そうではない。
 少なくともにとって、そんなものは理由にならなかった。
 心を捕らえていたのは、もっと別のものだ。
 そう、重要だったのは。

 ひたすらぐるぐると回り続けたの脳は、どんどんと余分なものを排除し、やがて揺ぎ無い事実をひとつポツンと残した。




 「に、苦手は苦手だけど、その……多分それ以上に」




 好きだったのだろう、日吉が。 
 どんなに拒絶されても疎まれても、この一緒にいられる時間をは失いたくはなかった。
 相手の嫌いに対して同様の感情を返せないのは、その人に好意を抱いてるからに他ならない。
 やっとの思いで答えたの声に黙って耳を傾けていた日吉は、逆光でもないのにまぶしそうに目を細めた。
 
 「……ウォーリーではなく?」
 「ウォーリーでは……なく…」

 は猛烈に恥ずかしくなってしまい、立てたウォーリーの絵本の間に顔を突っ込んだ。
 今まで気付かなかった自分の気持ちを突然引っ張り出され、あまつさえその感情と今すぐに向き合うなんて行為はにはまだ荷が重い。
 しかし一度鉄仮面をはずしてしまった日吉は、なかなか許してはくれなかった。
 あの仏頂面は、彼なりのストッパーだったのかも知れない。
 
 「先輩」
 「た、頼む、勘弁して」
 「先輩、こっち向いてください」
 「いま顔すごい赤いから…!」
 「それは俺も同じです」
 「も、もうちょっと時間を……!」
 「先輩、俺……!」



 
「あの、返却お願いできますか」


 

 カウンターの向こうには、本を持った男子生徒が白けたような顔をして佇んでいた。










 明らかに動揺の跡が見られると日吉は、2、3回操作をミスするという普段なら考えられない見事な手際の悪さを見せ付けつつ、なんとか返却作業を終えた。
 図書当番2人が揃いも揃って赤い顔をぶら下げながらぎこちなく作業をする姿はさぞかし不審だったことだろう。

 男子生徒が図書室から完全に姿を消したのを確認した後、とてつもない気まずさがを襲った。
 それは日吉の方も同じだったようで、いつもの落ち着きに綻びが見える。
  
 「……珍しいですね。水曜に返却が来るのは」
 「え?!ああ、そ、そうだね、いつもはこんなカウンターまで誰も来ないもんね」
 「そうですよ、あんな時に限…ッ……い、いえ、なんでもありません」
 「あ、う、うん」

 大変中途半端なところで途切れた恋愛模様の空気はこれまた中途半端にその場に残っており、なかなか顔のほてりを消してくれない。
 図書室はいつもの水曜日と変わらず寒々としているが、カウンターの奥だけが妙に生暖かった。

 「……つ続けないんですか?ウォーリー」
 「あ…いや、やや、やるよやるよウォーリーやるよ」
 「…………」  
 「…………」 

 緊張感に包まれながらそれぞれ本に視線を落とすも、当然集中できるはずもない。
 結局休み時間が終るまで隣からページをめくる音が聞こえてくることは一度もなく、のウォーリー捜索もまるで成果をあげられなかった。

 当人達だけしか理解できない事情によって、更にのんびりしていられない状況に陥ってゆく水曜日の図書当番である。