酸欠になりそうな人口密度。 先を争うように手を伸ばし、時には人から奪い取るように掴み取る。 ぼうっとしていれば足を踏まれて突き飛ばされ、慌てて動けば睨まれる。 見渡す限り長蛇の列が続き、気付けば四方を塞がれていた。 一体どれだけの人波を掻き分ければ、この地獄から抜け出せるのだろうか。 人の壁は、どこまでもどこまでも果てしなく続いている。 嗚呼、なぜこんなところに来てしまったのだろう――― 鼻をくすぐる甘ったるい香りの真ん中で、は呆然と立ち尽くしていた。 ◆ チ ョ コ レ イ ト 色 の 幸 福 ◆ 「やーさすがにすっごい人だね。でもなんとか売り切れる前に買えたよー。は?なんか買ったの?」 「え?いや…それどころじゃなくてさ」 戦場をかいくぐり目的の品を見事手に入れてきた友人は誇らしげに紙袋を掲げてみせたが、はそれを見上げる元気もない。 自動販売機の横に設けられた休憩所のベンチで、彼女は年寄りのようにぐったりと腰掛けていた。 目の前では、さっき何とか抜け出してきた乙女の群れが未だ店の前でかしましく騒いでいる。 「まさかこの時期、こんなことになってるとは…」 今年は勝負すると気合の入った友人に付き合わされる形で、生まれて初めて足を踏み入れた高級デパートのバレンタインコーナー。 毎年地元のスーパーで父親の分を買う程度で済ませていた適当なイベントだったにとって、そこは未知なる世界であった。 催事場に店が軒を並べているだけの、単なる菓子売り場などではない。 店頭に並んでいるのは味も見かけも大変可愛らしいチョコレート菓子だというのに、辺りには怖いほどの熱気と迫力が漂っている。 本番を明日に控えた休日などという最も賑わう日なんかに訪れたのがそもそもの間違いだったかもしれない。 そのごった返しぶりは5メートル先を目指すこともままならない程で、元旦の初詣クラスである。 会場全体に渦巻く数多の乙女心と鬼気迫る執念に、冷やかし半分でのほほんと来たは全くどうしていいかわからない。 ただオロオロと人込みを泳いでいたら、大量のチョコを抱えてレジに向かうOLに物凄くいい肘鉄を決められてしまったりして、危なく気を失うところだった。 「殺られる、と思って思わず逃げ出してちゃったよ」 「毎年こんなもんだってー。まぁちょっと今日は日曜だからいつもより混んでるけどね。せっかく来たんだからも買ってきなよ。あげるんでしょ?テニス部の跡部先輩とか」 「…あげた方が…いいよね、やっぱ」 のご主人様は、ああみえて意外とイベント好きである。 学校に寄付する勢いで金持ちなのだから、学生が参加するような行事如きではしゃぐとは到底思えないが、誕生日やらクリスマスやら結構重要視しているようだ。 そんな彼であるので素知らぬ顔でバレンタインデーを流してしまった場合、どんな難癖をつけてくるか知れたものではない。 これから平穏な学校生活を送りたいのならば、ここは大人しくチョコレートを渡しておくのが賢明であろう。 好意を示すというよりも、バレンタインで安全を買うといったところだろうか。もはや年貢を納める状態に近い。 とりあえず跡部には渡すとして、問題は他の部員である。 やはり彼らにも同じように配ったほうがいいのかどうか。 別には部のマネージャーでもなんでもないので、それほど気を遣う必要もないのだろうが、なにしろ相手はあの連中である。 黙って見逃してくれるとも思えない。 特に眼鏡をかけたあの人とか、オカッパのあの人とか、寝てばかりいるあの人とか。 こうして指折り数えてみると、なかなかどうして問題がありそうな人物が多い。 「あーやっぱレギュラー全員か」 諦め半分で溜息をついたは、ふと一番手前にある販売店のロゴを目で追った。 いかにも高級でございといった雰囲気の横文字で記されていたそれは、よく好んで食べると以前跡部の口から出たことのあるブランド名。 これなら味にうるさい王様でも文句なかろうとは軽い気持ちでショーケースを覗き込んだが、金額を目にした瞬間そのままの姿勢で絶句した。 10個入 \6,200 ありえない数字だ。 生きてゆく上で関わりたくない物価である。 驚くを通り越して、ややムカついた。 去年、彼女が父に買ったものは800円である。 それでも「チョコにしちゃあずいぶん高いな」と思っていたというのに、6200円ときた。消費税込みでもとんがりコーンが60個以上買える。 はブランド店のチョコレートには手を出さないことに決めた。 いや、正しくは出さないのではなく出せないのである。 の懐具合は今、とても裕福と言える状況にはない。 今といわず、いつも金銭面に余裕がない。常に金欠だ。ある時がない。 それゆえ、にとってはバレンタインなんてものはありがたくもなんともないイベントである。 しかも明日の2/14は、バレンタインであると同時に鳳長太郎の誕生日でもあることをは昨日カレンダーを見た際に気付いてしまった。 彼には何の罪もないが、なんて日に生まれてきてくれたのかと首を絞めてやりたい衝動に駆られる。 これまで散々、誕生日というものには数々苦しめられてきた。 気を遣ったり、すべったり、キレられたりと毎回いろいろな意味でドキドキなイベントだというのに、今回はバレンタインとダブルで更にそれが倍率ドンである。 「ああ、本当に勘弁して欲しい…」 金がない。 だが渡す相手はいる。 やたらいる。沢山いる。いなくていいのにいる。 でも金はない。 (ええい面倒くさい…!こうなったらお口でとけて手でとけないM&M’sでも一粒ずつ配ってやろうか…!) 相当思考が投げやりな方面に向かってきた頃、コートの袖口をグイグイと引っ張られは抱えていた頭を上げた。 「―― 、っ、ああいうのは?」 友人が指差した先は、バレンタイン会場の隅でピンクに飾られ『手作りコーナー』と看板が掲げられた一角。 お菓子作りの本や泡だて器だのゴムベラだのという調理器具などがずらりと並び、一番正面には大きなチョコレートが山のように積まれていた。 さすが製菓用。かじりつくのも一苦労することが予想されるようなカレーのルーの如き分厚さである。 その巨大な板チョコは隣のチョコ売り場の高級感とは程遠い大安売りな雰囲気で、これ見よがしに一枚500円と値段が表示されていた。 ……っこれだ!」 バシンッとは陥没する勢いで膝を打った。 「フーあっちぃー!」 コートのベンチに投げ出すように体を預けた岳人は、掴んだタオルを頭から被った。 季節だけで考えれば完全に冬真っ只中の寒々しい空気なのだが、激しい運動をこなした後の体温はそれを無視するように熱く身を包んでいる。 黙っているだけで額から汗が噴出し、流れるように落ちてゆく。 「誰か飲むもんくれー」 「はい、向日先輩」 「サンキュー!」 うずめたタオルから顔を上げることなく、差し出されたドリンクに手を伸ばす。 喉がカラカラに渇いていた彼は、ドリンクの中身も差し出した相手も確認することなく一気にそれを飲み干したが、その直後、岳人のオカッパは電流に触れでもしたかのように一気に逆立った。 「ッッ熱ッ――――!!!!」 彼の喉を通過して行ったのは、いつもの飲み心地爽やかな冷たいスポーツドリンクではなく、ドロリとした焼け付くような温度の、あたたか〜いを通り越してやたら熱い飲料であった。 「熱ッ!熱いッ!死ぬ!」 飛び上がった岳人は、コートの端に置いてるミネラルウォーターの元へと走り、ヒーヒー言いながら水を浴びるように被った。 この寒空に全身びしょぬれである。 どこをどう冷やしていいのかわからぬまま水を1リットル飲み干したところで、ようやく落ち着きを取り戻した岳人は、とりあえず誰だか知らないがこんなふざけた真似をした部の後輩に抗議の一つでもしてやろうと、水を滴らせながら背後を振り返ったが。 「何だよさっきの!なに渡したんだよ……………って、お前か―――!!」 「す、すんません!いや、でもいきなり飲みほすと思わなかったんですよ!!」 「あんなタイミングで出されたら、普通一気にいくっつの!!」 「そんな思いっきり信用しないで下さいよ!人生いつなにが起きるか判らないんですよ!!」 「いきなりテーマ大きくすんな!」 「なに騒いでんねや、お前ら2人」 小動物2人がギャアギャアと威嚇しあう中、個人練習メニューを終らせた忍足が眼鏡を曇らせながら近付いてきた。 「向日先輩に人を疑うことも時には必要だと…」 「え?なに岳人?詐欺かなんか引っかかったん?消費者センター行ったらええで、消費者センター」 「いや、そういう話じゃなくて…」 「あーそれにしても暑いわー。なんか飲むものくれへん?」 「はい」 「おっ、ありがとさん…………ッッ熱ッ――――!!!!」 「もー!なんだってみんな一気に飲むんですか!!!」 「お前そこで逆ギレかよ!」 自分同様の反応を見せた忍足に対して謝るどころか、むしろ責め立てる勢いのの姿に岳人は戦慄を覚えた。 「うっわ、もう喉ただれるかと思ったわ………アレ一体何なん?」 「何って、ただのホットチョコレートですよ」 そう言って、は抱えあげたポットを傾けて紙コップに注いだ。 チョコレート色の液体が白い器の中を満たすと同時に甘い香りと共に広がる。 「あっ鳳君、鳳くーん!ちょっとこっち、こっち来て」 軽くランニングを済ませた長太郎を手招きし、岳人達の時と同じようにその紙コップを差し出した。 ただ、その中身は2人の飲んだものとは多少異なっており、白い何かがプカプカ浮かんでいる。 「バレンタインおめでとう、誕生日おめでとうってことで鳳君のはマシュマロのオプション付きね」 「うわーありがとう!俺、まさかさんからチョコもらえるなんて思ってなかったからすっごく嬉しい!」 その「まさか」はの厳しい経済状態のことを考慮してのことだろうか。 なぜだかわからないが、長太郎はいつもの財布の中身を把握している。 「なんやお前……バレンタインチョコのつもりだったんか?」 フーフー吹きながら熱そうにすする長太郎を横目に、忍足はが抱えているポットに目を落とした。 「そーです」 あの日、はデパートで製菓用チョコを購入したが、決して可愛らしく手作りチョコを考えたわけではない。 手作りというものは一見安く仕上がりそうに見えるが、ひとつひとつのラッピングなど意外と金額がかさむ。 それが彼氏への本命チョコならまだ許せるが、あげる相手は部員相手というほとんどお歳暮状態の代物である。 手間暇かけた上に予算オーバーなんて、正直割に合わない。 安い予算で、しかも大量に―― そう考えた結果が、ホットチョコレートである。 なにしろ牛乳と豚汁を作るかのような大鍋さえあれば、いくらでも作れる上に、ラッピングの必要もない。 「大幅コストダウンが実現したわけですよ」 「……へー」 「……そらー良かったな」 非常に満足気というか得意気なだが、自分達への扱いが低コストだったことを知ってしまった忍足達としては素直に喜べないものがある。 まぎれもなく手作りであるはずなのに、こんなにも「真心」が感じられないのは何故なのだろうか(長太郎は能天気に喜んでいるが) 「さっき宍戸先輩と日吉にも渡してきたんですけどね、なんかすっごく微妙な顔して飲んでました」 「そりゃそうやろお前」 激しいトレーニング後という最も水分を欲している時に、アッツアツの甘ったるいホットチョコレートドリンクである。 どう考えても嫌がらせとしか思えない。 しかし文句ひとつ言わず飲み干したのだから、なかなか人間の出来た二人である。 さぞかし、乾き疲れた喉にじっとりと張り付くようなえもいわれぬ味だったことだろう。 「えーと、向日先輩と忍足先輩、鳳君と榊監督にもあげたし……うん、あと跡部先輩に渡したら終わりです」 指折り数えていたの口から出た部長の名前に、忍足はやや眉根を寄せた。 「うーん…跡部なぁ……」 「な、なんですか」 あまり怖がらせないでほしいとが思っていると、忍足は「いやいや」と手を軽く振りながら、頭をかいた。 「アイツ、甘い飲み物全然飲まへんねん。いっつもコーヒーブラック無糖、ってな感じや」 「あー確かに。砂糖ちょっとでも入ってたら口付けねーもん。カフェオレとか絶対飲まねー」 そういえば、とも今まで跡部が口にしていたドリンクやジュース類を思い返してみたが、スポーツドリンクは別として確かにコーヒー紅茶系はいつも無糖であった。 ミルクティーや糖分の入ったカフェイン系を飲んでいた記憶がない。 「うわー…どうしよ」 なにしろが持って来たのはホットなチョコレート。 当たり前だが、糖分がバリバリ仕込まれている。 しかもバレンタインのチョコ代わりに、と考えていただけあって、通常より甘ったるく仕上げてしまった。 普段ノンシュガーのご主人様のお口に合うわけがない。 一口飲んだ瞬間、邪悪に表情が歪むことだろう。 「でも、チョコを渡さなければ渡さないで、」 「何もよこさないってどういうことだコラァッ……ってことになるやろな」 「………とりあえず、ダメもとで行ってきます」 どっちにしても怒られるには違いなさそうだが「バレンタインの行事を無視した罪」の方が重い気がしたは、ポットと紙コップを力強く抱えた。 「なんだ、珍しく外なんかうろつきやがって」 振り向いた跡部は大いに驚いていた。 前置きもなく自分の背後にが突っ立っていた為である。 いつもの彼女ならば、部活が行われている間中、部室の暖房の前から動こうとしない。 呼び出さなければ決して自主的に外へ出ようとしないほどの寒がりだということを、跡部はよく知っている。 「いやまあ、その…アハ」 妙な愛想笑いを浮かべつつ、は素早く跡部の表情を伺い「ご機嫌度」のチェックに入った。 眉と目はつりあがっておらず、眉間にシワもない。ホクロも通常通りの位置である。 今のところはほぼノーマルといったところか。 とりあえずイライラ状態でなかったことに対して、は安堵した。 「きょ、今日は寒いですよね」 「例年よりずいぶん気温が高いっつってたけどな」 「でも、ホラ、風がひんやりと冷たく……」 「無風じゃねーか」 「や、心には一陣の隙間風が」 「なんなんだお前さっきから」 どうしても寒いと言わせたい。 空腹時は何を食べても美味しく感じるように、寒い時に飲む温かいものは味に対してジャッジが甘くなる。 もそのへんの効果を狙ってこの不自然なまでの誘導的発言なのだが、明らかに上手くいっていない。 むしろ寒いのは温度ではなくかみ合わない会話の方である。 このまま下手な話術を披露していたら、味云々とは別件でキレられそうな気がしてきた。 いくら慣れているとはいえ無駄なお叱りを受けるのはだって御免である。 彼女は早々に作戦を放棄し、手にしたポットからコップへホットチョコレートをなみなみと注ぎ始めた。 「お、おひとついかがですか」 「……あ?」 白い湯気が立ち上る熱い飲み物をいきなり目の前に出され、跡部は思いっきり怪訝な顔をした。 彼もまた、今飲みたいのは喉越しのいい冷たいドリンクである。 「熱々なホットチョコレートです」 「ホットチョコレート?」 「先に言っておきますが、奥歯が軋むほど甘いです」 飲んだ後で怒られるのを防止するため、は先手を打ってみる。 「でもチョコを削る時には頑張って金箔のように薄くしましたんで、なめらかな仕上がりです」 一応努力しましたアピールも忘れない。 「一応バレンタインのチョコレートとしてご用意したんですけど…」 甘いのダメですよね、とは続けようとしたが跡部はそれをさえぎった。 「……お前が作ったのか?」 キョトンとしながらもが頷くと、 「貸せ」 と跡部は、外気に触れて冷めかかったホットチョコレートのコップを彼女の手から奪い取り、ゆっくりとすべて飲み干した。 「ホントに甘ぇな」 吐かれた文句とは裏腹に、彼の手のコップの中身には一滴も残っていない。 「甘い飲み物、苦手…じゃ、ありませんでしたっけ?」 「苦手に決まってんだろ」 休憩終了の笛がコート全体に鳴り響く中、唖然としたままのから逃げるように顔をそらして立ち上がった跡部は、そのままコートの中へと消えていく。 冷たい北風に吹かれながら、は遠くなる跡部の背をただポカンと見送った。 「どうにか、乗り切れた、のか……?」 きっと彼女は気付くまい。 立ち去り際に呟いた跡部の声が、砂糖がたっぷり入れられたホットチョコレートよりもずっと熱く、とろけるように甘かったことなど。 そして昨年までは山のように届けられるチョコという名の愛の贈り物を当然のように後輩に部室に運ばせていた男が、今年は運ぶどころかすべて相手に突き返していた事実など。 果たしてその密やかな愛がいつか実を結ぶのか、はたまた悲しき一方通行がしばらくこのまま続くのか、今は定かではないものの。 それぞれが、それなりに、幸福なバレンタインである。 中途半端に時期外しましたけど、バレンタイン話。 |