体を支えるのがやっとに思えるほど空気が重い。
梅雨時の空のように実に鬱陶しく絡みつき、動作の全てを封じんとしている。指を1本動かすにも、そこにかかる重力の存在を感じずにはいられない。
それでも何か言わなければと、は重苦しく沈殿した空気を思い切り吸い込んだ。が、肝心の「何か」がまるで見つからない。せっかく胸いっぱいに吸い込んだ息は、次の瞬間何の言葉も持たず無駄に吐き出された。
なぜだか、ここで何を言っても全部裏目に出るような確信めいたものがあった。
「溜息つきたいのはこっちの方なんですけど」
その確信は早速というにもほどがある早さで的中した。
空振りに近い形で外に放り出された息は、あてつけの溜息と受け取られたらしい。
お返しとばかりに正真正銘の溜息が大袈裟に吐き返され、を取り巻く重力が一段と増した。
「日吉」
「なんですか」
「ごめん」
「謝るくらいなら最初からしなければいいでしょう」
なんという慈悲のない正論。
それを言ってしまったらこれから許しを請うつもりの人間はどうしたらいいのか。貴様の前では土下座すら無力か。
長椅子に腰掛け、立ち尽くす先輩を見上げる形になっていた日吉は視線を一旦落とした。しばらく無言でシューズの紐を神経質なほどに何度も結び直していたが、結局結び目が完成しないまま日吉の手は紐を放り出した。
「困るんですよそういうの」
私だって困るんですよ!
腹の底から訴えたい気持ちをぐっと堪え、己の手に握られているひらひらと浮れた物体を忌々しく睨んだ。


混乱していた。とてつもなく混乱していた。噂に聞く、頭が真っ白という状態に人生で初めて陥るくらい、その時は混乱していた。
突如目の前に闇討ちの如き身のこなしで女生徒が現れたことだとか、こっちの意思を完全に無視して手の中に手紙を握らせた力強さだとか、その手紙がまたハートマークで封をしてある漫画のようなラブレターだったとか、色々と仰天する部分は数あったものの、そういうことが原因だったわけではない。
の脳を小爆発させたのは、女生徒が手紙を託す際に告げた名前だった。
彼女は言った。
木の実をついばむ小鳥のような唇を動かして、日吉君に渡してください、と。
ここでも負けずに答えるべきだった。
天使が聖歌をさえずるように精一杯可憐な声で、いやです、と。
しかし元々あまり出来が良くないというのに、半壊しているこの状態の頭脳が快活な返事ができるはずもない。は拒否どころか「え」とも「は」とも一言も発することが出来ず、呆気にとられたまま、あははうふふと小鳥が飛び去ってゆくのを見送るしかできなかった。
色素の薄い柔らかそうな髪が、遠くなる背中の上で弾んで揺れていた。その様がまるで笑い転げているように見えて、憤りらしきものが遅れてどっと噴き出した。
顔も名前もとんと覚えがない。
敬語を使っていたところをみると恐らく下級生であろうことは察したが、とにかく初対面である。だというのに、あの有無を言わせぬ強引さは何事か。
一体私を誰だと心得てるんだこのやろう、と勢い余って口走ってみたものの、じゃあ誰なんだと問われると特に誰でもない。ただのしがないマネージャーである。それなりに長く務めていながら、これといった艶っぽい噂は一度も湧いたことのないマネージャーである。2日に一度は寝癖をつけているマネージャーである。
ファンからすれば安全パイに思えるは恰好の橋渡し役だったのかも知れない。しかし、しがないマネージャーにも五分の魂。
決して表舞台に立つことはない黒子の役割を担ってはいるが、飽くまでそれは部と選手の為の裏方であって、別に町の便利屋さんではないのである。みんなのパシリでもないのである。
声を大にして言いたい、そんなもんお断りだと。
だがもはや手遅れだった。いや言うには言えるが、気張って声を大にしたところで聞いて欲しい相手はもう走り去った後。捜し出して突き返そうにも、手紙には冗談のような赤いハートマークが生々しく情熱を訴えるばかりで、差出人も宛名も何ひとつなかった。

日吉君に渡してください。

はにかんだ笑顔がくるりと踵を返して、再びに迫る。
色が白くてふわふわして、綿菓子みたいな女の子だった。囁く声もまるでざらめのように甘い。
それだけでも充分脅威に値するというのに、ふわりと鼻先をかすめた可憐な香り。
あろうことか、敵は良い香りまで放っていたのである。
コロンだかシャンプーだかわからないが、埃っぽいグランドの空気が鮮やかに見えるほど芳しくて、不覚にも一瞬恋しそうになってしまった。
なんてことだと愕然とした。
試しに自分のジャージに顔を寄せてみたが、袖口から香ったのはファブリーズの匂いだった。愕然とした。


「そもそも、マネージャーの業務とは関係ないんじゃないですか」
「…か…関係ないですね」
「だったら首突っ込まないで下さい」
「ご、ご迷惑でしたか」
「迷惑に決まってるでしょう」
日吉は普段の仏頂面が可愛く思えるような苦々しい顔をして、あたり一面に苛立ちを撒き散らしている。手紙の事を切り出した瞬間からずっとこの調子だ。
日吉の性格からして、あまりいい顔はしないだろうとは予想していた。しかしまさかここまで機嫌を損ねるとは思わなかった。人を介してという回りくどい手段が気に食わないのか、はたまた本気で色恋の気配を疎んじているのか、それともただ単に虫の居所が悪かったのか。
「とにかくそれは返しといて下さい」
「それが、返そうにもどこの誰なのか顔も名前も」
「知らないんですか?」
「う、うん」
「誰かわからないのに預かったんですか?」
預かったというより無理矢理捻じ込まれたという方が正しいのだが、その通りなので頷くほかなかった。
日吉はこれ以上はないというくらいに渋い顔をして押し黙った。
言葉で語らずとも、目は口ほどに物を言う。どくどくと注がれる責めるような視線には身が縮む思いだった。
緊迫した空気など素知らぬ顔で、皺ひとつなくお高くとまっている手紙が憎い。恐らく中身は恋心と募る想いをしたためた完全無欠のラブレターだろう。まさかこのわかりやすい見てくれで、実は果たし状ということはあるまい。いや。いや待てよ。確か日吉の家は古武術の道場じゃないか。日吉自身も日々せっせと技を磨きをかけているというし、もしかするともしかするかも知れん。と、現実逃避したいばかりにポジティブにもほどがある仮説を立ててみたものの、我ながらあまりに苦しいと4秒で気付き、がっかりしながら頭から消した。
はあ、と再び日吉は溜息を吐いた。今度は肩を上下させるというわかりやすいアクション付きだった。
「わかりました」
「え?」
「とりあえず受け取りますよ。それでいいんでしょう」
を刺し殺さんばかりだった鋭い眼差しは消え去っていた。
日吉の手が初めて手紙に伸びる。呆れや怒り、諦めと虚無感、色んな類の感情がでたらめに混ざり合ったような顔だった。
「先輩」
「はい」
「何してんですか」
「え」
「手、離してくれませんか」
本来受け取るべき者の手に渡ったのだから運び屋はもう袖に引っ込んでも良さそうなものだが、は手紙を離さなかった。
封筒の端を日吉が握っている。その反対側をも握っている。
奉行所で子を取り合った二人の母よろしく、一通の手紙を引っ張り合う格好になった。
天下の大岡裁きでは先に手を離してしまった方に軍配が上ったものだが、残念ながら今この場に大岡越前の守はいない。咎める者がないのをいいことに力の限り引っ張り合ったならば、真ん中からビリリと破れる悲惨な結果が待っているだけである。
それを危ぶんで、両者とも強く引き寄せることが出来ない。かといって、するりと力を抜くこともしない。
「先輩。話聞いてますか」
「聞いてる」
「離してくれって言ってるんですけど」
「ああ。うん」
「うんって、全然緩んでないんですけど」
「気のせいだろうよ」
「ますます強く掴んでませんか」

綿菓子から託された手紙は、ただの紙きれだというのに持っているだけでひどくしんどかった。
本当なら今すぐ手離してしまいたい。
なんだってこんな己を切り刻むような親切を焼いてやらねばならないのかと、悔しさと情けなさが胸の内でとぐろを巻いている。
やろうと思えば、こうして日吉の前に晒すことなく破り捨てることだって出来た。しかしそんな昼ドラの仇役みたいな真似は死んでも御免だった。にも最低限のプライドと良識というものがあったし、そういう役回りの奴はたいてい話の中盤あたりで死ぬか狂うか路頭に迷うのである。観てる分には大変スッキリするが、そこに自分の身を落としたくはない。
けれど、の指は手紙にしっかり吸い付いたままだった。
悪役になりきる覚悟がないなら、強引でも不意打ちでも、預かってしまった時点でには一つしか選択肢が残されてないというのに。そのたった一つの選択肢も、今になってはねつけようと躍起になっている。往生際の悪さには我ながら驚いた。
と、その時、日吉が手紙を解放した。
手離したというより、ほとんど突っぱねるような仕草だった。
「馬鹿にするのもたいがいにして下さい」
今までの底冷えしそうな怒気とは打って変わって、その目は炎を飲み込んだように激情を孕んでいる。ぎらぎらとを見据えた。
「なんで、なんで簡単にこういうこと出来るんですか」
その掠れた声は芯を貫く一本の針となった。
が必死で奥底に沈めていた、触れれば弾けそうな水風船が一気に破裂した。

「ふざけんな!」

「簡単なんて簡単に言うな!」

「本当に簡単に思ってるんなら、いちいち聞きもしないでロッカーにでも押し込んでおくわ!」

正確に発音できていたかは定かではない。呂律も回っていたかどうか自信はない。でも噛もうが詰まろうが、一旦噴出したものは空になるまで吐き出さないと気が済まない。
「人がどんな気持ちでここにいると思ってんの?!何の前置きもなくいきなり押し付けられて、逃げるようにさっさと立ち去られて、でも捨てるわけにもいかなくて」
これが跡部や忍足に宛てたものなら、こんなことにはならなかった。葛藤など何ひとつ起こらず、いつも通り心穏やかに菩薩のような微笑みで部活に励んだことだろう。
「日吉だから、」
息が震えた。
「相手が日吉だからこんなに困ってんじゃん!これが他の誰かなら、顔色も伺わないし手に汗もかかないし泣きたくもならんわ!アホ!」
休みなくまくしたてたせいで、すっかり息が上がっていた。長い階段を一気に駆け上った時のように全身が脈打っている。恐らく髪もそこはかとなく逆立っていることだろう。菩薩どころか夜叉である。
忙しない息継ぎに追われながらも、は奮然とアホだの馬鹿だの椎茸だのと思いつく限り日吉を罵り続けた。その間もずっと手紙にしがみついたままだった。
剣幕に押されて言葉を失っていた日吉は、の声からすっかり覇気が失われても尚黙ったまま立ち尽くし、時折途切れ途切れに飛んでくる悪態も甘んじて受けていた。その沈黙には相手を追い詰める重々しさなど微塵もなく、ただ静かなだけだった。は自分が十にも満たない子供になったような気がした。
やがて荒れに荒れていた呼吸が落ち着きを取り戻した頃、日吉はおもむろにに近付き、手紙を取り上げようとした。
「先輩」
「いやだ」
「いい加減離して下さい」
はぶんぶん首を振った。ここまで来ると、命とられても渡してなるものかと半ば意地になってくる。
大きい駄々っ子に息を吐き、日吉は宥めるようにもう一度「先輩」と囁いた。
「渡してくれないと、手紙の相手に断りの返事もできません」
至極当然といったその物言いに、は思わず耳を疑った。
「こ、断わるの?」
「いけませんか」
日吉は憮然と答えた。
「いけなくない、全然いけなくない。けど。だって、その、まだ誰かわからないのに」
「誰かはわかりませんが、誰かじゃないことははっきりしてるんで」
不可解そうな顔で瞬きを繰り返すに、日吉は少し間をおいてから言った。
俺も他の誰かならこんなに腹を立てません。
日吉にしては珍しく早口だった。
ぶっきらぼうさは日吉そのものだった。

「…………かわいい子だったよ」
「そうですか」
「なんかふわふわしてたし」
「へえ」
「それに、いい匂いもしてた……」
だからとても敵わないと思って悲しかったよ。
弱々しく呟いて、しおしおと崩れるようにうなだれたの頭のてっぺんを、触れるか触れないかのおぼろげな感覚が通り過ぎた。ずいぶんと控えめな感触だったので、日吉が頭を撫でたことにはすぐに気付けなかった。
「先輩の方がいい匂いですよ」
ファブリーズだよと答えると、そんなのはどうでもいいですと怒ったように日吉は明後日の方を向いた。
綺麗に伸びた首筋が赤く色づいてゆくのを目をしばたかせながら眺めた後、はようやく手紙から手を離した。




 タイトルはサンボマスターの曲名から