夕 暮 れ ロ マ ン ス 「の字は綺麗じゃの」 放課後の教室で日誌を書いていると、そんな声が降ってきた。 顔を上げると、目の前に小狡そうなキツネ顔。 「仁王」 椅子に逆向きで跨ったそのクラスメイトは、背もたれに手をかけて静かに微笑んでいる。 背中に日暮れを背負った彼の銀髪は、夕陽が染み込んだように明るい。 「どーしたの、部活は」 「ん、ちょいと用があってな」 そーなの、とは別段不思議にも思わず手にしたシャープをカチカチと鳴らした。 この男が気まぐれにウロウロと徘徊するのは、いつものことである。 「は日直かの」 「うん、日誌書いて終わり」 秋は日が落ちるのが早い。 それほど長く教室に残っていたわけでもないはずだが、もうずいぶんと帰るのが遅くなってしまった気がする。 実際は仁王が部活に行かずフラフラしていても、鬼副部長の鉄拳がとばずに済むような時間だというのに。 瞳を焼くほどの夕暮れは実に美しいものだが、沈む太陽に多少、心を急かされる。 しばらく仁王は首を窓側へ向けて口笛を吹きながら下校する生徒達の姿を眺めていたが、カリカリとシャープの芯が走る音に呼ばれるようにの手元に視線を投げた。 「なんやいっつもがソレ書いてる気がするのう」 「そー、田村のやつ毎回押し付けて部活行っちゃうんだよ」 田村とは、の隣の男子である。 達のクラスの日直は2人1組で、必ず隣の席とペアだった。 しかし怠慢な担任のせいで進級してからというもの席替えが一度も行われないこのクラスは、日直のパートナーも毎回同じ相手というかなり新鮮味のないサイクルが続いている。 「今日こそ、と思ったら秒速で教室飛び出して行ったよアイツめ」 「しょうのない奴じゃの」 悪態をつきながら、仁王はの隣 ―― 田村の椅子に軽く蹴りを入れた。 「制裁を加えておいたきに」 「田村、今頃けっつまづいてるかもよ」 「いい気味じゃ」 詐欺師はこんな時、ニコリではなくニタリと笑うのでなかなか怖い。 田村、怪我すんなよ。 「でもさ、仁王もいっつも日誌書かされてない?」 の前の席の彼は、どう見てもサラリと(ここポイント)仕事をかわしそうタイプ見えるのだが、意外にも日直が回ってくる度に日誌を手にしているのは仁王である。 軽薄そうな飄々としたその雰囲気に堅苦しく四角張った日誌は笑いを誘うほどちぐはぐだ。 まあ仁王の日直の相手は彼よりもずっとそういった雑務が似合わない男なのだから、仕方ないのかも知れないが。 「……ブン太も、逃げるんが上手くてのう」 「しょうのない奴じゃの」 さっきの仁王の台詞を口にしながら、も斜め前の丸井ブン太の椅子を突付く程度に蹴飛ばす。 ニシシと笑うと、仁王も笑顔になった。 でも、今度はニタリとは笑わなかった。 「ブン太もコートでずっこけてるかの」 「うわ、ずっこけって!久し振りに聞いたよ」 そんな軽口を叩きながら、は日誌に目を落とした。 握ったシャープの先は『今日の連絡事項』。 は帰りのHRに渡された進路調査表を思い出し、その提出日を書き込んだ。 「うん、やっぱり綺麗じゃ」 たった今書かれた文字を、仁王は工場見学の小学生のように真剣に眺めていた。 そこまでじっと見られると、書きにくいのだが。 「そんな、褒められるようなもんじゃないですよ仁王さん」 「いんや、褒められるようなもんデスヨさん」 椅子の背からの机へと組んだままの腕をずらし、仁王はそこに顎をうずめた。 切れ長の瞳だけが、の方をむいている。 上目遣いで見るのはよしてほしい。無駄に色気が漂う。 「俺の字見てみてみんしゃい。ミミズがわんさかはっとるきに」 はそんなことないって、とフォローしようと仁王が日直だった前日のページをめくったが。 「……オゥ」 ちょっとフォローできなかった。 「な?」 「あーうん、まぁ…」 昨日の日誌は、お世辞にも美しいとはいえない文字が並んでいた。 並ぶ、というか踊っていた。 糸ミミズの激しいダンスである。 しかし、これは字が汚いというより。 「かなーり雑にお書きになっておりませんか?」 走り書きいうか書き流しというか。 とっとと書いて部活行っちゃろかい(何弁)という勢いで書かれている。 「まーどうでもいいことは、適当な奴じゃからの俺は」 そう言って、仁王はカラカラと笑い飛ばした。 確かに、学級日誌なんぞを丁寧に書き込むようなキャラには到底見えない。 ダブルスを組んでいる柳生君あたりなら、定規で線を引いたような律儀な字を書くのだろう。 そういえば、一度ノートを借りた真田君は筆圧が強すぎて、裏面が妙にボコボコしていた。 まさに字は人格を現すものだ、と深く納得しながら、書きかけである今日の日付に戻ろうとしたが。 ある一点の異変に気付き、頁をめくるの手は止まった。 居眠りをしながら書かれたかのような仁王の字体。 読みにくいことこの上ないその文字は、仁王の本質そのものなのかも知れないが。 その判読が難解な記号で埋め尽くされた世界の中、ひとつだけ異質な存在感がそこにはあった。 他の乱雑な雰囲気に比べ、それだけが文字としてしっかりと成立している。 まるで、それだけが尊い言葉であるかのように。 同じ人物の筆跡とは思えないほどの、圧倒的なこの違いは何だろう。 むしろ、これが本来の仁王の字なのだろうかと思えてくる。 「あのさ……今まで丸井君に日誌やらせたことある?」 「いんや、全部俺じゃ。アイツは一文字も書いたことなかよ」 仁王の返事を耳だけで受け取りながら、は日誌を遡る。 前回の日直の時も。 その前も。 その前の前も。 すべて、日誌に書き散らされた字はミミズが引きつっていた。 そしてすべて、あの言葉だけが整った文字の姿をなしていた。 ” どうでもいいことは、適当な奴じゃからの ” ――――― では、「これ」は彼にとっての「どうでもよくないこと」なのだろうか? 「……におう、」 『次回の日直』 「うん?」 他の字と同様の書きなぐりのような「田村」の隣の名前。 「なんの用事で、戻ってきたの」 「……ああ」 すっかり全身が夕焼け色に染まってしまったを前に詐欺師は、 あからさま過ぎるほど丁寧に綴られたその文字―――― 『』を、愛しむようにゆっくりと撫でた。 「愛の、告白じゃ」 |