まず、真っ先に目に飛び込んできたのは寄り添う一組の男女だった。
対面する形で置かれたパイプ椅子に、それぞれ膝をつき合わせるようにして座っている。なにをしているか思えば、男の両手がしっかりと女の右手を包み込んでいて、要するに手を握り合っているらしかった。
神聖な部室でいちゃつくとは時と場所をわきまえない不届きな行為だが、跡部景吾にとって論ずるべきはそこではなく、問題は件の男女があろうことかと芥川慈郎という点であった。

なぜか想像力というものは悪い方へと働く時ほど活発なもので、人より頭の回転の早い跡部の能力はこんな時でも如何なく実力を発揮した。
二人が仲睦まじく愛をささやき合ったり、一つの飲み物を2本のストローで飲んだり、長いマフラーを巻いたり、パフェをアーンと食べさせあっこしたりというシーンが次々と鮮やかな画質で脳内再生されるまで約0.08秒。背景色はもちろんドピンク、ハートマークが乱舞して四方に薔薇が狂い咲くなど今時なかなかお目にかかれない、安さ古さベタさ総決算の演出付きである。
跡部は全身の血という血が脳天へと駆け上がってゆく音を聞いた。
勝手に捏造しておいてなんだがそれはそれは跡部にとって不愉快極まりない映像の数々で、今にも血管がパンと軽快に弾け飛んでも不思議ではなかった。
「跡部、違うから」
小刻みに震え出した肩を背後から掴んだのは岳人だった。
「何が違う」
「とりあえずお前が想像してるようなのとは違うってことだっつーの」
跡部はまだなにも言ってはいないが、なにを考えたかくらいは岳人にも読める。読む気はないのに。読みたくないのに。
いちいち面倒くせえんだよお前らと日夜うんざりはしているものの、ボヤは出しても大火は防げのスローガンの下、今日も岳人はいち早く火元(跡部)の鎮火にあたる。今日もテニス以外で忙しい。

吐き出す用意の整っていた怒声を跡部は一旦引っ込めた。が、勿論怒りが解けるわけもなく、ぎらぎら殺気みなぎる眼で睨みつけられたは心で般若心経を唱えた。
しかし同じく刃のような視線に晒されているはずの慈郎の態度は至って変わらず、それどころか跡部の存在にも気付いていなかったようで、空気を察した忍足に肘をつつかれてようやく初めて突っ立っている跡部を見た。そして、あれ跡部いつ来たのと実にのんきに言った。
跡部は火を噴いた。
「あれ、じゃねえー!!このボケローが!」
「いってー!!」
「痛くねえ!」
「いったいよ!跡部のバカ!!闘牛!!つうかボケローって誰!」
これまで跡部による制裁といえばせいぜい手刀や蹴りくらいだったというのに、今回に限って頭突きという新技を炸裂させたあたり、憤りの深さが伺える。
まともに食らった慈郎も痛かろうが、仕掛けた跡部側もそれなりにダメージを受けているらしく、おぐしが無残に乱れていた。
跡部が育ちのいいチンピラであるのは言うに及ばずだが、慈郎も見た目ほど平和な気性ではない。やられたらやり返すくらいの野蛮さは持ち合わせている。目には目を、頭突きには頭突きを。
上目遣いで見据えたまま徐々に腰を引き始めた慈郎に対して、跡部もかかって来いと言わんばかりに構えた。中腰の二人がじわじわと距離を縮め、今にも第一回頭突き合戦はじまりはじまりかと思われたその時、
「ストーップ!」
両者の間に眼鏡が投げられた。
エッ?となんの脈絡もなく降ってきた眼鏡に面食らった一同が金縛りに合う中、忍足はさっと歩み寄ってそれを拾い上げ、「まあ落ち着き」と何事もなかったようにかけ直した。今の奇行に対する説明は特にない。
「そうカッカせんとまず二人の言い分聞いたれや。喧嘩はその後やろ」
「言い分だあ?」
勢いを削がれた跡部は、座ったまま困惑した顔をしているに目をやった。
「お前らなにしてた」
言いながら、さっきの不愉快極まりない映像が跡部の脳裏に蘇る。苦々しい顔がますます歪んだ。
「なにって、なにも」
「隠すとろくなことにならねえぞ」
聞くものを悪い想像(東京湾に沈められる等)へとかきたてる跡部の声色に、ひいッとは身を縮ませた。力の限り首を振る。
「隠してません隠してません、ほんとに全然なにひとつ!ただハンドクリーム塗ってたってだけで」
潔白を訴えるように、は両手を前へと差し出した。よく見ろと言わんばかりに掌は大きく開かれ、皮膚の表面がてらてらと光っている。
だけやないぞ。俺も岳人もや」
そう言って横から伸びてきた手も同じように輝きを放っていた。が、男の手だとつややかさもひたすら気持ちが悪い。
「ジローが加減せんと思いっきり出しよってん」
ほい、と忍足が緑色のチューブを跡部に投げて寄越す。蓋を開けるといかにも薬用という匂いが鼻を突いた。跡部もハンドクリームを塗らないわけではないが、好ましい香りのものしか使わない。無論、跡部が愛して止まない(と同時に宍戸あたりが気色悪いと眉をしかめる)ローズのフレーバーである。
「余った分、もったいねえから俺らで塗ったんだよ。な、ジロー」
「薬局行ったらくれたんだー。タダだからいーやと思ってもらってきた」
でもなんかこれベタベタすんね。
頭突きのことなどもう忘れてしまったのか、慈郎は大きなあくびをした。

「お疲れさまでーす!」
事件が片付くのを見計らっていたようなタイミングで、長太郎が元気に扉を開いた。
渦巻いていた揉め事の気配に気付く様子もなく、颯爽と跡部達の前を通り過ぎてゆく。鼻歌混じりにロッカーに手をかけ、どこまでも上機嫌で準備を始めたがふと思い出したように振り返った。
さん、監督が探してたみたいだよ」
「え?あ、うん、そうだったそうだった、職員室に寄るんだった忘れてた忘れてた」
どうも一件落着したのはしたらしいが、なんとなく居づらいような微妙な空気が残っている。
言い訳のような台詞を一息に吐いて、は良い逃げ道が出来たとばかりにそそくさと出て行った。その消え行く後姿を跡部は面白くなさそうに見送った。
事情を知っても尚、そう簡単に跡部の苛立ちは治まらない。
余ったんならそのへんの野郎のジャージにでも拭いときゃいいだろうと思う。1本丸々出したわけでもないだろうに、たかが何グラムでもったいないもクソもあるかと思う。手と手で触れる必要なんかあるかと思う。勝手に握ってんじゃねえと思う。
皺が寄ったまま戻らない跡部に、忍足は呆れとも笑いともとれる溜息を漏らした。
「手ぐらいでそない目三角にせんでもええやろ」
「そーそー。手繋ぐくらいどってことねえじゃん、普通だろ」
「…うるせえ」
手くらい、という軽々しい扱いが腹立たしくて思わず唇を噛む。
その存外大人しい反応に一瞬顔を見合わせた後、二人は身を乗り出した。
「まさか自分、まだ手握ってないなんて言わんやろな」
「マジで?マジで手も握ってねーの?小学生以下かよ!!」
と、そこに着替えながら話を聞いていたらしい長太郎がぬっと現れて。
「なにいってるんですか、いくら部長だってそれくらいは。そうですよね部長」
無意識の凶器がさくりと跡部を刺した。
悪気がないだけに傷は深い。致命傷確定。
もう、否定の言葉は吐けなくなった。
「あ、あったり前だろうが。大体手ぐらいで騒ぎすぎなんだよどいつもこいつも」
騒いでたのはお前一人だという冷静な視線を一身に集め、跡部はクククハハハと乾いた高笑いを部内に木霊させた。



一日晴天を押し通した空もさすがにこの時間とあって徐々に青々とした色を失いつつある。それでも夕暮れはまだ遠い。
涼しさのないぬくまった風が背を撫でてゆくのを感じつつ、跡部はゆっくりとした足取りで校門までの長い道を進んだ。
正面を向いていながら、意識が目の端に吸い付いて仕方がない。
盗み見るように視線だけ動かすと、気配に気付いてか横顔が動いた。
咄嗟に顔を逸らしたものの、勢いがつきすぎて首があらぬ方向へ曲がった。ゲキョと聞いたことのないような音がした上に筋も何本かいかれた気がするが、素知らぬ顔を決め込んだ。
余裕のなさを悟られたくない。
たかが手を握る握らないの話で。

これまで指1本触れなかったかと問われれば、答えはおそらくノーになる。
健康で正常で年頃の男子たるもの好きな相手に触れたいと思うのは自然なことで、もちろん跡部もそういった願望は一揃い持っているし、実際まったくコミュニケーションを取らなかったわけではない。
けれどその大半は、耳をつねり上げたり頭を小突いたり首根っこ掴んだり、「ふれあい」というよりも「お仕置き」に分類されるものであり、言ってみれば某磯野家のこらカツオー!痛いよ姉さん、の関係性となんら変わりがない。当たり前だがそこにロマンスが生まれる予感は皆無である。
忍足たちにうまく乗せられたような気がしてそのへんは面白くないが、手を握るくらいの心躍る接触は正直欲しい。
なんてことはない。
強引にでも一方的にでも掴んで引き寄せればお終いだ。
幸い鞄を持っているのはもう一方で、こっちの手は無防備に空いている。まっすぐ前を向いたまま、跡部は気付かれない程度に隣に体を近づけた。目標まであと5cmもない。
瞬間、ドッと音がした。
飛行機でも落ちたかと思ったが、自分の心臓の音だった。
鼓膜すべてを揺すってドッドッドッと脈打っている。その激しさに、粋でいなせな若い衆が暴れ太鼓に興じている様が浮かんだ。なに人んちで勝手に打ち鳴らしてんだ、よそで打てよそで!しかし暴れ太鼓は一向に治まる気配はない。
まさか、緊張しているのか。俺が。
掌にじっとりと汗が広がるのを感じながら、跡部は信じられない思いがした。
その衝撃に割り込むように、向こうから朗らかな歓声が上がった。
中等部に兄姉でもいるのか、初等部の男女二人が仲良く手を繋いでまっすぐ駆けてくる。どちらが男かわからないような小さな手が、それでもしっかりと女の子の手を握っていた。
「負けた」と感じると同時に、小学生以下じゃん!とあざ笑う声が跡部の耳に聞こえてきた。
ふざけんな、手くらい。
頭でそう思っても体は動かない。
キスしようというわけでもない(いずれは、と思っている)外泊を迫るわけでもない(いずれは、と思っている)婚姻届に判を押させるわけでもない(いずれは、と思っている)、ただ手を取るだけだ。それだけだ。己にそう強く言い聞かせても、汗はひかず、頭のてっぺんは焦げるように熱い。
これまで幾度も繰り返してきたありふれた行為に過ぎないのに、なぜ相手が違うだけでこうも特別な意味を持つのだろう。
静まるどころか鼓動は加速し、ドッドッドくらいだったものがいまやドドドドと地鳴りのようなビートを刻んでいる。太鼓はもういい!止めろ!
隣を歩く男が胸の内で暴走横転衝突わっしょいのだんじり祭りとも知らず、晩御飯巻き寿司なんですなど至極どうでもいいことばかり語っていたの足が、その時突然ぴたりと止まった。
「先輩どうしたんですか」
「な、なんだ」
「顔が土気色です」
フランス文学を原書で楽しみ、多忙な会長職を難なくこなし、その若さにして株を転がす跡部の明晰なる頭脳はこの時、とうに使い物にならなくなっていた。

たっぷり20秒。
沈黙が支配するには長すぎるであろう時間が二人の間を静かに流れ、風が二度ほど木々を揺らしていった。
自分から言葉を切り出してはならないような気がして、はただ銅像のように黙している跡部が動くのを待っていた。やがて硬直がとけ、安定した顔色をも取り戻した跡部は、なにやら決意すら感じる面立ちでまっすぐを見た。双眸に迷いはない。
……手出せ」
「え、」と仰ぎ見るからまなざしを逸らすことなく、跡部は告げた。

「指相撲だ」

は再び「え、」を口に出すことになった。

ゆびずもう?

「ゆ、指相撲ですか?」
「そうだ」
「今?」
「今だ」
「ここで?」
「ここでだ」
さっきの死相といい、今の発言といい、この人はどこか患っているのではないだろうかは本気で思った。
何の説明も前置きもなく、道の往来でいきなり指相撲を要求されれば誰もがそう疑わざる得ない。
普通に考えれば「この場ではちょっと…」とやんわりお断りコース間違いなしだが、跡部が発するただならぬ迫力
――それもいつもとは種類の違う、あの枯葉が落ちたら俺も死ぬ、というような後がない感じ――が安易な拒絶を許さない。
こうして戸惑っている間にも、早くも跡部の右手は対戦相手を出迎える態勢に入っていた。
一人だけ先に指相撲スタンバイという姿を初めて目の当たりにしたが、言葉に出来ない寂しさである。
下手に顔がド美形である上に、死合いかと問いたくなるほどド真面目であるのが尚切ない。胸をつかれる。
これを放置して帰れるのはよほど心が強くあるか、もしくは心を持たぬ者だろう。
無論、ここまできて拒めるほどは気丈でも冷酷でもなかった。
「……何回勝負ですか」
3回、と言いかけた跡部は、そろそろと伸びてきた指を噛み締めるように握って、
「気が済むまで」
と真顔のまま呟いた。
風に押された街路樹が囁くように身を寄せ合ってざわざわと震えていた。

その後ねじ伏せたりねじ伏せられたりと両者とも引けを取らず、片方が乗り気でなかった割に勝負は案外白熱したが、その後方から幾度もシャリーンと写メの音が響いていたことを二人は知らない。





考えすぎて跡部の頭のネジ飛びました