昔から本番というものにてんで弱い。
 劇の舞台で台詞は噛むし、一人だけマラソンコース外れるし、テスト中「能」と「態」の区別がつかなくなるしで、これまで数々踏み外してきた。練習では滞りなくすいすいと順調で、失敗の予兆など一切感じられないのに、ここ一番となると急に足元に落とし穴が現れて、間抜けにもまんまと飲み込まれてしまう。自分が思うよりずっと心臓が華奢なのかも知れない。単に度胸が足りないのかも知れない。いや、大事な場面に対して、無意識に気負いすぎているのかも知れない。人は私に向かって言う。緊張感なさそうだよね。
 馬鹿なことを。緊張しすぎて、緊張している風情のあるべき表情を失っているだけです。人より何倍も気構えてしまうのです。
 だからほら。ご覧なさい。このとおり知恵熱が出た。


 折しもインフルエンザ大流行のさなか、母は私を病院のかつぎ込んだが、検査は陰性。風邪による体力低下だろうと診断された。咳もなく、頭痛も腹痛も伴わず、ただただ熱が高い。友人から「インフル? だいじょぶ?」と気遣うメールが届いたので「NOインフル! YES風邪! 寝てれば治る」と即座に返した。正直なところ風邪かどうかすら怪しい。YES! と元気に言い切ってしまってもいいものか迷いはあるが、診断された以上それを看板として掲げるしかなかった。
 窓を閉め切った冬の日は、明るさが占拠する昼間といえどしんと静まり返る。寝具に身を沈めると枕のずっと下から、一階のテレビか何かだろう、笑いさざめくような声と物音がかすかに耳に触れた。それを聞きながら退屈に任せてうたた寝のような浅い眠りと目覚めを繰り返す。実際疲労らしきものは体内にあったし、横になればいくらでも寝られる気がしていた。けれどそれも夕方にさしかかったあたりまで。瞼にぶら下がっていた眠気はさすがに成仏し、熱の名残か気だるさだけが置き土産のごとく四肢に残るのみ。
 厚ぼったい毛布から手を伸ばして、枕元の携帯を引き寄せる。画面に示された時刻から、授業はとうに終わっている頃と想像できた。春も間近なこんな時期だ。三年生は部活もない。みんな校舎を後にしてばらばらと帰ってゆくだろう、帰ってしまうだろう。今日という日が、幕を閉じてゆくのだろう。私が輪に入れないまま。
 考える内に、いいようのない無念さに襲われ、寝返りと呼ぶにはあまりに激しい動きでベッドの上を転がり尽くした。微妙な線とはいえ、一応病の身の上。すぐにぜえぜえと息が上がってベッドに突っ伏した。
 その時だ。扉の奥から母のものと、そうではない声がしたのは。
 息を整える間もなく、母の手によってドアは開けられた。
、熱下がった? ほら、お友達来てくれたのよ。わざわざ心配して寄ってくれたんですって。上がってもらってもいいわよね?」 
 そういうことは、普通、お友達を部屋に入れる前に確認するのでは、ないでしょうか。
、具合はどうだ」
 顔を見るまでもない。枕に顔面を預けたままでも、その声だけでお友達とやらが一体誰なのか、薄々ではなくはっきりと私は察することができた。
 いまお茶でも淹れるから。お構いなく、長居はしませんので。母と客の二名による、半ば当事者である私を無視したやりとりの後、一人分の足音が遠のいて、部屋に残されたのはもう一人の気配だけ。無論、母でないことは明らかである。
 いつまでもうつ伏せでおもてなしするわけにもいかず、観念して顔を持ち上げると、予想と寸分違わぬ静かな面差しが私を見下ろしていた。
「いらっしゃいませ……」
「ああ。お邪魔しています」
 丁寧な物言いとは対照的に、柳はからかうように口角を持ち上げた。
「起きても平気なのか」
「ずっと寝てたから」
 ベッドの上に正座の私と、少しへたれた座布団の上に正座の柳。私も絨毯に腰を下ろして目線を合わせても良いのだが、見舞いに来てもらっている以上、それなりに病人らしくしておこうと変な気遣いが働いて、つい布団にとどまってしまうのだ。突然あれよあれよと思わぬ状況に放り出されて、内心戸惑っているせいもある。
 柳とはこうして頻繁に互いの家を訪ねるような間柄ではない。三年間変わらず同じクラスという縁によって、友達としてあり続けただけだ。下らない雑談もするし、本やDVDの貸し借りもする。勉強も教えてもらう。柳が穏便に接してくれるせいもあるだろうが、私たちはずっと友好的な関係を保っていて、逆に言えば友好からはみ出さない程度の仲で、それ以上に踏み込んだことはなかった。
 今更風邪で病欠なんて、珍しくもないことなのにどうして、わざわざこんな日に。
 私は柳の鞄に寄り添うように置かれた白い紙袋から視線を逸らした。袋の中身がなんなのか、今日に限っては実に想像するにたやすい。壁にかけられたカレンダー、それもご丁寧に印をつけた日付がすべてを知らせてくれる。 
「昨日は体調を崩したようには見えなかったが」
「今朝、急にね……疲れだろうってさ」
 疲れていたのは間違いない。
 今日2月14日は私にとっていわゆる本番だった。
 柳とクラスメイトとなってから、これまで二度、恋の祭典だの告白の日だのと恥ずかしいキャッチコピーに煽られたバレンタインという日は巡ってきた。
 柳蓮二は賢く大人でおおよそ欠点らしい欠点が見つからない男だ。気合の入った本命のみならずノリや勢い、淡い憧れなどの女子の分も含めるとその数は膨大で、彼のもとにチョコレートが集まらない年はない。毎年、私のチョコレートもその中にある。「日頃のお礼」という体のいい口実を包装紙にくるんで、群れに潜ませるようにして贈っていた。義理か本命か区別のつかない曖昧な好意は、相手に選択を迫らない。意味を持たない。つまり一年目二年目の、イベントに乗じた上辺のやりとりは私にとって肩慣らしの投球で、勇気と覚悟が整うまでの予行練習にほかならなかった。
 今年は違う。今年は練習じゃない。
 友人の枠からはみ出さない、ほどほどの見た目と価格に徹する必要はない。曖昧さなんか欠片もない、一目で思いの丈が知れてしまうような真っ向勝負なチョコレートを買った。ショーケースを覗いて覗いて一週間悩んで選んだ、これまでとは比べ物にならない高級なブランドにメッセージカードまで添えて、リボンなんてビロードだ。準備は万端、整った。
 だけれども、蓄積した三年分の意識は思いのほか手ごわく、更に私は本番に弱い。
 一日一日と近づくごとにうまく眠れなくなって、思い出したように弱気が顔を出して、その度に懐に優しくない金額のチョコレートを抱えて奮い立たせて、でもやっぱり夜ふと目を覚ましたり、しなくてもいい悪い想像をめぐらしてみたりして。それは散々に平常心を食い尽くすだけ食い尽くして、当日、私に高熱を与えた。
「勉強のしすぎか?」
 そう柳は言いつつも、とても本気で思っている風情ではない。私が体を壊すほど学生の本分に熱心ではないことを知っているからだろう。
「そんな台詞一度くらい言ってみたいね」
 適当に答えると柳もまともに受け取らず、机の上の積まれたままの辞書や教科書を見た。
「高等部への進学準備も控えている。この時期は油断しないほうがいい」
「それは勉学? それとも体調のほう?」
「両方だ」
 どちらも落ち度が目立つ私は黙って肩をすくめた。
はよく理解している割に重要な一点を見落とすからな。回復したらもう一度テキストをやり直すといい。自習室もいいが図書室もなかなか捗るぞ。今日は少し騒がしかったので寄らなかったが」
 柳の声は凪いでいて、空気に溶けてしまう滑らかさで流れていったが、最後の文言だけが私の中に溶け残った。騒がしかったのは、図書室か、校舎全体か、それとも柳の周辺か。きっと全部だろうと去年までの光景を思い出す。次々と差し出される重さも色合いも雑多な好意の海。それだけたくさん受け取っているのにも関わらず、柳は次の月、必ずお返しをしてくれた。桜色のキャンディや抹茶のクッキー。もちろん他の子達にも平等に分け与えられていて、意味は込められていないのだろうけど、私の好きなものばかりなのが少し嬉しかった。

―― 今年で最後にするつもりだ。
―― 来年のお返しは一つだけ用意しようと思う。

 去年のホワイトデーの日、私に沢山の包みの内のひとつを手渡しながら柳は呟いた。私が贈ったような、勘違いや深読みをさせる余地のない挨拶みたいなラッピングだった。

 ベッドと床の高低差をもってしても、誰かによる柳への好意が、その紙袋におさまっているのかはここからはうかがい知れない。
 チョコもらった? いくつ? 誰から? 柳にとってお返しをしたい相手から?
 口にしたい問いの数々は喉まで至らず、腹の中でぐるぐると回る。引いていった知恵熱がぶり返してきそうな気がした。そもそも柳がここに訪れた時点で、正直なところ「?」と「!」が隊列を組んで街を練り歩くほどにうろたえていたのだ。本当に何を思って柳は見舞いになんて来たのだろう。
 柳はそれをすくい取るように私に短く眼差しを向けた。閉じられた瞳は洞察力の塊だ。私なんぞの心の内に触れるのはたやすかろう。
「顔が赤いな」
「熱出してたからね」
「そうだったな。すまない」
 細い目もとがすっと横の方へと逸れる。その視線の方向に、私は一瞬身を固くした。
が来ないとは思ってなかったから、貸すつもりで持って来ていたんだ。体を休めてるところ申し訳ないと思いつつも、様子見ついでに寄らせてもらった」
 言いながら柳は紙袋から薄いプラスチックのケースを何枚か取り出した。
「これならストーリーもないから横になったまま見られる。暇つぶしにもなるだろう」
 差し出されるまま、手に取った。私が以前、話題に出したことのある海洋生物の生態をまとめた映像集だ。ダイオウイカ、等と書かれたDVDの表面に目を落としたまま、いささか呆然と言葉を発した。
「それ、これ入ってたの……」
「ああ。何かがっかりさせたか?」
 頭をゆっくりと振って応える。この拍子抜けの感覚は、たぶんがっかりではなくて。同じカタカナ表記でも、もっと違う甘いものが入っているものとばかり。ダイオウイカ……

 明日の登校はまだ判断できないな? 
 そう尋ねられ自分で額に手を当ててみるものの、やはりなんとも言えず、私は曖昧に頷いた。柳はゆっくり頷き返す。
「もし何か託すものがあれば引き取るが」
「あ、じゃあ図書室で借りた本を」
 柳の一言で返却期限が迫っていることを思い出し、立ち上がってベッドから降りる。そのまま机の引き出しに手をかけて、はっと息を飲んだ。いま、私は柳に背を向ける形になっている。だから柳の目にこの引き出しの中身は見えないだろう。図書室のバーコードが貼られた書籍と並んで、ひっそりと出番を待つ高級で上等で特別な箱菓子。私を試すように、リボンの光沢が瞬いている。
 予行演習は終わった。柳の平等さも期限切れだ。逃したはずのチャンスは、弱気のたてがみを追い立てて、目の前でぶら下がっている。鼓動に合わせて瞬きをしたとき、背中に声がした。
「今日は全国的に特別な日だそうだ」
 特に、思うところのある女性にとっては切実な行事と聞く。が、実を言うと、もらう側にとってもそれは同じことでな。
「……まさか欠席とは、考えに入れていなかった」
 空気をとんとんと叩くように柳は語る。この部屋に入ってからずっと、柳はなんでもないような顔をしていた。少しの動揺も感情の波もなく一定の温度を保って。けれど、いま投げられる声には、上擦った息遣いが時折混じっていた。
「病人の家にまで押しかけて、あきらめが悪いと笑うか?」
 振り向かずにいる背中を、体温ではない熱がじりじりと炙る。見てもいないのに柳がどんな眼差しをしているのか、わかるような気がした。もう一度、聞かせてくれ、と覚悟を飲み込む呼吸が響く。
、俺に、託すものはないか?」
 練習が終わったのは私だけじゃない。勇気を必要としたのも私だけじゃない。本番を迎えたのは私だけじゃない。本番は、まだ終わっていない。
 心の中で振りかぶるように、私は思い切ってビロードの結び目に手を伸ばした。