バタンと閉じるのがまるで合図だったかのように、とんでもない勢いで雨粒が落ちてきた。屋根を叩くなんて生やさしいものじゃない、例えるなら大地を揺るがすドラムロール。呆れるほどの土砂降りだ。
 その強烈さに私が慄いたのと、閉じたばかりのドアが再び音を立てるのは同時だった。
「…………おかえり」
「…………どうも」
 出て行ったばかりの日吉は早くもずぶ濡れで、苦々しそうに舞い戻ってきた。

 部室の鍵は当番制で、週ごとに責任者が変わる。以前までマネージャーである自分が管理していたが、施錠を任されるということは最後まで居残らねばならないということだ。暇そうに見えるかも知れないし実際そう多忙ではないものの、私とて早く帰りたい日もあるし、部活に出られない時もある。そこで跡部に談判して、平等に義務を課すことにした。向日らはぶうたれたが、鳳や滝が、そもそも率先して女子を残らせていたこれまでがおかしいのだと女性から喝采を浴びること請け合いのジェントルメンな意見でこれを黙らせた。さすがもてる男はここぞという時にきらりと光る。
 長きに渡る守衛さん的任務から解かれる代わりとして、私には当番の都合がつかない時の代理を命じられたが、日々拘束されていた負担を思えば苦にもならない。たまにこうして鍵を預かるくらいならば安いものだ。
 本日の当番はその大きな体を小さくして、済まなそうに鍵を預けてきた。もてる男の一人、鳳は女子の居残りに対して異を唱えた手前、私に代わりを務めさせることに気が引けたのだろう。かといって無関係な日吉にそれを託そうとするのはどうかと思う。記録の整理をするつもりだからいいよと、私は二人に割って入る形で、日吉の手に押し付けられていた鍵を奪った。
「だから早く帰れって言ったのに」
「この時間じゃどっちにしろ帰る途中であたってますよ」
 水を吸い込んで肩口の変色したブレザーを、日吉はいささか乱暴に脱いだ。
 ただのとばっちりに過ぎないとはいえ一度引き受けた責任からか、ばらばらと部員が帰っていく中、最後まで日吉は残っていた。無駄口も叩かず、用が済んだらさっさと引き上げるのが彼の常だというのに。とうに支度を終えていた背中に、気にせず帰りなと声をかけると、日吉は別に気にして残ってたわけじゃないんだからねっ、とでも言いたげな態度を見せてから「先輩も帰った方がいいんじゃないですか。雨の予報らしいですよ」と言い残して部室をあとにした。
 そして退場五秒での帰還。コントのようなタイミングで自らその予言を証明したわけである。
 日吉も、自分の行動が壮大な前フリみたいな事になってしまった間抜けさを自覚しているのだろう。雨粒を払い落としている横顔がどうにも不機嫌に満ちている。私としては神がかった間合いが非常に面白かったので、いやあキレの良いギャグでしたねくらい言ってつつき回したかったのだが、日頃のノリの悪さと今のご面相を合わせて考えると、お怒りは目に見えていたし、密室で険悪なムードに包まれるのは避けたかったので、喉の奥で笑いを噛み殺すだけにした。

 物音とともに衣類がハンガーにかけられる。タオルでちまちまと拭くより、日吉は潔く着替える方を選んだらしく、Tシャツをかぶろうとする背中が顕になった。後輩の肌が視界に入ったところで、今更頬を赤らめたりどきまぎしたりはしない。裸体といえど目の前で三年近く繰り広げられればいい加減慣れる。れっきとした更衣室は奥にあり、さすがに下着などの着替えはそちらで済ませてくれるが、面倒なのかシャツやズボン程度の脱衣はすぐそこで行われる。私がいようがいまいがお構いなし。連中にとって私は床や壁と同一くらいの、気を回す必要のない存在に違いない。銭湯かというくらい潔く脱ぎ散らかし、俺の靴下しらね? と問いかけられるなど、知るかよとしか言いようのない状況に置かれ続ければ、いちいち照れてもいられないのだった。
 せめてもの救いは、二年生にはまだ若干の恥じらいがあるということか。少なくとも、彼らにはこちらの視線を気にするような素振りが見られる。それが正常なのだ。どうかそのままでいて欲しい。ユニフォームにトランクスでうろうろするような先輩になってはいけない。
 ただ、テニス部のおかげで乙女の部分は摩耗し、上半身裸の宍戸がそのまま帰ろうとしたのを見過ごしてしまった前科を持っている私でも、女子としての興味まで死んでいるわけではない。初々しさは目減りしたとはいえ、つい見とれるような情操はまだ残っている。他のメンツにはそんな感覚は起こらないが、目の端に入るたびそれだけは美しいと思う。少年らしく細く引き締まった中に、いくつかの傷や痣の名残が見える、その日吉の背だけは。
「ここにかけた方がいいよ。そこ乾きづらいし」
 ロッカーの扉にハンガーを引っ掛けようとしていた日吉は、顔だけで振り向いた。私は自分の斜め上、つまりは窓際のでっぱりを指差して見せる。ああ、と存外素直に応じたので、代わりにかけてやろうと手を出して立ち上がりかけたら、「自分でやるんで結構です」とすげなくあしらわれた。知ってはいるが可愛くない。しかしその可愛くないところが、可愛いのだという矛盾した気持ちがあるのも事実。
 健気で一途で宍戸に千切れんばかり尻尾を振る鳳は向日あたりに忠犬と呼ばれているが、日吉ならば猫だろう。気位が高く、呼べば振り向くくらいはするものの、気安く撫でようものならそれは許さぬとばかりにそっぽを向いて去っていく。ふれあいのさじ加減がまことに難しい。時に主人に腹まで見せて忠誠心を示す犬とは違い、慇懃無礼なこの猫は気高いその毛並みの裏側にほとんど隠してしまうのだ。
「それ、どこまですすめるつもりだったんですか」
 息を吐きつつファイルを両手で閉じると、ジャージに袖を通した日吉がファスナーを締めながらこちらを見た。
 とりあえず、と引っ張り出して重ねたファイルは計三冊。いずれも急ぐ仕事でもなく、時間つぶしのために手をつけただけで、今日片付ける必要はない。
「これ一個終わったらさっさと帰るつもりだったんだけど」
 豪雨の威勢は未だ衰えず、屋根と言わず外壁を叩き続けている。更には穏やかでない雷鳴さえ聞こえ始め、いよいよ表に出られる状況ではなくなってきた。
「……大人しく待つしかなさそうですね」
「だね」
 ボールペンを指で回しながら、神の怒りにふれたごとく激しく滴るガラス窓を眺めた。やらずの雨、という文言が浮かぶ。
 窓枠には日吉の制服が項垂れるようにしてぶら下がっている。上着の隙間からネクタイがだらりと顔を出しているのが見えた。
 あれは、日吉のネクタイではない。いや日吉のものに間違いはないが、実のところ元の持ち主は彼ではなかった。今でこそ日吉の私物としてハンガーで揺られているけれど、ほんの少し前まで、それは他でもないこの私の襟元を飾っていた。

 相手と自分のネクタイを交換すると、恋が叶うんだってさ。

 つい先日、甘ったるいと評判のいちご牛乳を飲みながら朗らかに語ったのは、昼寝から目覚めたばかりの芥川慈郎だ。彼はだらしなく緩んだネクタイをやる気なさそうに締め直しながら、俺もやろーネクタイ押し付けて交換してもらえばいいよねと平和な顔をしてなかなか暴君めいた事を口走っていた。
 その時居合わせたのは私と日吉の二人だけだったが、双方実に淡白かつ味気ない反応で、特に興味も示すこともなく、その話題はさらりと流れて終わった。
 終わってくれて良かった。
 私は表面こそ涼しげに取り繕ってはいたが、内心冷や汗をかく思いだった。先に件のおまじないについて小耳に挟んでいた私は、日吉が練習に精を出している間にこっそりとネクタイをすり替えていたのである。
 幸い私も日吉もネクタイに名前や目印をほどこしてはいなかったので、誰にも悟られることはなかった。全学年同じ色と柄で統一されているネクタイを見分けるのは本人でも難しい。だからこそ出来た芸当ではあるが、万が一紛失した場合のことを考えて、私は手に入れてすぐ、ネクタイの裏に自分のイニシャルを一文字、小さく刺繍した。
 恋が叶うとか、想いが通じるとか。そんな子供だまし本気で信じているわけじゃない。ただ、ほんの小粒程度の望みにすがってみたかっただけのことだ。
 人知れずすり替えられたネクタイは、素知らぬ顔をしてお互いの首元に巻きついている。

 がたりと音がして視線を持ち上げれば、ひとつ向こうの椅子に後輩が腰を下ろそうとしていた。この一席分の遠慮と距離がいかにも日吉らしい。
 それを笑う暇もなく、座るやいなや向こうから伸びてきた腕が一番上のファイルを奪うように持っていった。目を瞬かせている私からふいっと顔を逸らせて、どうせやることもないんで、とぶっきらぼうに一言。
「うむ、じゃあ遠慮なく。よろしく頼もう」
「遠慮がないのは今に始まったことじゃないでしょう」
「これでも結構遠慮しながら生きてるつもりなんだけど」
「譲歩してそれとは驚きです」
 開いたファイルに目を落としたまま抑揚なく言葉は返る。声音が淡々としている分だけぐさぐさと痛いところに突き刺さった。色々と容赦がないのはいつもの事とはいえ。
「日吉もね、見習って少し譲歩を覚えた方がいいね」
「あんたの10倍は努力してます」
「いや一体どのへんが、」
「ペン」
「えっ」
「貸してもらえますか」
「……はい」
 敵の切り替えの速さにいくばくかの置いてきぼり感を滲ませながら、それでも渋々と握っていたボールペンを渡す。おや、という気配を見せたが日吉は何も口に出すことなく、すみやかに紙面に視線を落とした。ペンと交換に、持て余した余暇を引き取るようにして頬杖をつく。使いかけのそれを譲った時点で明らかなように、すでに私に仕事をする気はない。切れた集中力の隙間に雑念と怠惰の妖精が舞い降りて、あぐらをかいている。ちょうど作業に一区切りついたところであったし、そもそも自分に課したノルマ以上の成果を求めるほど私は働き者ではないのだ。
 ペン先が滑る生真面目な音。不規則な雨音に混じって、心地よく私の鼓膜を鳴らす。それに合わせて、弾ませまいと宥めていた心を躍らせるように雑念の妖精が、くすくすと囁く。土砂降りが続けばいいのにねえ、居残りは幸いだったねえ。ああやかましいと妖精の首根っこをつかんで投げた。
 喉の乾きとは無関係に飲み残していたペットボトルに口をつけて、すぐに離す。ただぬるい。
「ふた」
 ふいに飛んだ簡潔な声に頬杖から顔を持ち上げて振り返ると、じとりとした目線が私を咎めている。なに、と言いかけて、空いたままのキャップに目が止まった。なるほどと納得が半分、言葉が足りないという不満半分。
「またこぼしますよ」
「はいはいすいません」
 つい一昨日、私が盛大にスポーツドリンクを被った件について揶揄しているらしい。誰がしめ忘れたのか、蓋が空いたままのボトルがひっくり返って罪のない私が被害を被ったのだ。全くひどい目にあった。上着はたまたま脱いでいたから良かったものの、ブラウスとその上に羽織っていたジャージはさっきの日吉のように水もしたたる何とやらになってしまった。しかし下ばかり見ていたくせに、よくまあ蓋をしめたかしめないかまで細かく気づくものだ。その目ざとさに思わず私は肩をすくめた。
 いっときは話し声すら遮断していた雷雨はわずかであるが、和らぎつつある。木々の枝を折らんばかりの勢いが一晩と続くわけもなく、からりと晴れるまでは期待できずとも、いずれ雨具が耐えられる程度には収まるだろう。傘があればなんとか帰れるかなと考えて、ロッカーに置きっぱなしの傘の数を数えようとしたが、浮かんだのはぽつんと一本。数えるまでもない。
「日吉、傘もってきた?」
「いえ」
「じゃあやっぱり一本だけか」
 もう少し雨足が弱まったら、別の部室から調達しようかと思案していると、日吉の目がかすかに動き、素っ気なく呟いた。
「俺は俺でなんとかしますんで」
 気にせず使えと、なるほど日吉が言いそうなことだが、やったねラッキーとその申し出に飛びつくほど私も図々しい生き物ではない。ましてや相手は一度ずぶ濡れでUターンの憂き目に遭っているのだ。
「制服に続いてジャージまで濡らして帰るの?」
「ある程度乾いたら制服で帰ります」
「制服濡れるじゃん」
「もう濡れてるし大差ないでしょう」
 そういう問題でもないだろう。私はそう大きくもない傘を頭の中で広げながら、少し冗談めかして言った。
「仕方ないなあ。二度も濡れて風邪でもひかれたらかなわないし、二人で相合傘で帰ろうか」
「愚にもつかない冗談はやめてください」
 途端に鞭のように声はしなり、門番さながらの厳粛さでぴしゃりと扉を閉じられた。
 愚にもつかないって。初めて言われたわそんなの。
 ただその言葉尻は極めて強く、戸惑いもろとも私はおめおめと引き下がるしかない。以前も一度、こうして日吉に軽口を叩いて、私は釘を刺されている。
 人懐っこいその気性で年上から妙に人気のある鳳に、彼女ができたできないの噂が聞こえた時のことだ。結局それは宍戸の早とちりで、ガセネタに過ぎなかったのだが、束の間とはいえ部員のほとんどが鵜呑みにしていた時期があった。てっきり日吉は女なんかにうつつを抜かしやがって等と毒づくかと思えば、別にいいんじゃないですかと至って寛容に受け入れている雰囲気だったので、私は少しの驚きついでに、今考えると軽はずみにもほどがあるが、ぽろっと言ってしまったのだ。
『じゃあ日吉も彼女つくったらいいよ、私とか』
 マーガリン並みに口当たりソフトに、そしてライトに、それこそ愚にもつかないジョークのつもりで。だから日吉も同じ調子で返してくれるだろうと読んでいたのだが。
『それ、本気で言ってるんじゃないでしょうね』
 サイボークが喋っているのかと思うほどの恐るべき重低音だった。目が全く笑っていない。恐れをなした私がその分笑うしかなかった。あははと瀕死のカラスのような引きつった声色に、日吉はふんと視線を尖らせた。悪ふざけを心底厭う、あの拒絶感は近年稀に見る迫力で、先輩だから敬語で応じてやるけど、ほざいてんじゃねえぞ貴様という感情がそこにはあった。
 つまり、直球ではないものの、私の恋は一度そこで散っているのである。脈はない。死人のごときに脈打たず。
 無意識の内に私の手は襟に伸びて、結び目に触れていた。わかっている。だからこれは、なんの効果ももたらさない、気休めにしてもすかすかの願掛けだ。

 はっくしゅん。
 控えめながらも隠しきれないボリュームのくしゃみが響いた。私に身に覚えがないので、出処はひとつしかない。目を遣ると、日吉はばつ悪そうに鼻をすすりながら顔を背ける。
 凍えるような季節ではないが、わずかでも体を冷やしたのがいけなかったのだろうか。
「暖房、いれる?」
「平気です」
「ブランケット出そうか?」
「いりません」
 提案をことごとく蹴る傍ら、箱ティッシュをたぐりよせて鼻をかんでいるのだから説得力に欠ける。弱みを見せたくないのだろうが、そんなものまで裏に隠さなくたっていいのにと思う。せめて温かい飲み物でも用意しようと立ち上がりかけた時、大人しくしていたはずの雨雲が唐突に吠えた。大気を貫くような閃光。中途半端に腰を浮かせたせいで、私は大きく背後の壁へと体勢を崩した。
「うわっ」 
 稲妻は耳を塞ぎたくなるような凄まじさで音を裂き、最後にドオンと割れんばかりに地へ落ちた。窓枠にかけられていたハンガーも、私が椅子ごとぶつかった衝撃によって、落雷に合わせるようにドオンと床に落ちた。 
「あ、ごめん!」
 目の前に落下してきたそれを、私が拾い上げるのはごく自然なことだったろう。壊れ物ならいざしらず、たかだか萎れかけた制服一式だ。
 離れた場所に陣取って、更にスコアの整理に勤しんでる途中の人間がペンを放って椅子を蹴ってまで、拾いに走る必要などどこにもない。なのにどうして日吉は、それほど必死の形相で駆けつけて、私の手から取り上げていったのか。
 その理由は、手荒にひったくられる寸前に目に入った、見覚えのある小さな頭文字。翻ったネクタイの裏側にはその縫い目がしっかり踊っていた。
「……え?」
 もう一度確かめようと手を伸ばすも、日吉は威嚇するように睨みつけながらネクタイを後ろ手に隠してしまった。ただ、見間違いでなければ、表情とはあべこべに顔色がほのかに、いやかなり、べらぼうに、赤かかった。怒りで茹で上がるのとは種類が違って見えた。
 耳が大きく、遅れた落雷のようにドオンと脈打つ。私は、動転しながら首からぶら下がっているネクタイの裏側を見た。裏はまっさらで、入れたはずの刺繍はどこにもなかった。
「え? え? どういうこと? いつ?」
 矢継ぎ早にまくしたてても、むっつり押し黙った後輩からの返事はない。
 一体いつの間に私のネクタイは入れ替わってしまったのか。今朝は寝ぼけ眼でネクタイを締めたから、裏側なんて見なかった。そういえば昨日も遅刻寸前で慌てながら着替えたから確かめもしていない。一昨日は――
「あっ、あの、ドリンクこぼした時!」
 閃いたように見上げると、日吉は目元を一層赤くして、への字にした口を手で覆った。
 ドリンクをかぶった時、私はとにかくブラウスを洗濯室に持っていくことばかり考えていて、外したネクタイを部室に置き去りにしたことすら今の今まで忘れていた。部員たちと違って、私はジャージを羽織るくらいのことはあっても、しょっちゅう着替えることはしない。ネクタイを取り替える機会なんて、そうそうあるものではない。
 日吉は恐らくその時に、ネクタイを。すでに私の手によってすり替えられていたとも知らず。
「……なんで?」
 喉の最前列でうずくまっていた感想がわれ知らず滑り出る。
 馴れ合いを切って捨てた言動とネクタイをすり替えるような健気さが腑に落ちなくて、私は呆然としていた。
 決して私と目を合わすまいとしていた日吉は、あさっての方角を見たまま、睫毛を一度震わせた。顔中を覆っていた赤みはもう消えていたが、険しさは去らず、鋭利な気配がはりついている。引き結ばれていたようやく唇が動いた頃、日吉の顔は切っ先を当てるように真正面を向いた。
「……だから、冗談かどうか聞いたでしょう」
――本気で言ってるんじゃないでしょうね。
 長らくその背に隠されていた裏側が、目の前で反転しようとしている。
 後ずさろうにも、一歩下がったところで雷雨に震える窓ガラスがそれきり阻んだ。微塵も笑わない目はあの日と同じ色をしていた。ああ、あれは私の好意を撥ね付けたのではなくて。
「こっちばっかり本気なんじゃ、割に合わない」
 恨めしそうな声音が近づき、私はネクタイを命綱のように両手で握り締めた。